九月、厭い残るもの 後編
そうだ、私は本当は。宇治川先生しか好きではなかったのだ。
その言葉が思い浮かんだ瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。苦しい。息ができなくなりそう。どうして自分でみぞおちをエルボーするような真似を。
それでもキーボードに載せた手はそのまま。館報の原稿を書かねばならない使命感からだ。精神が限界でも今日中には終わらせたい。というか終わらせなければ。明日には印刷所に原稿データを送るのだ。そのため校閲も含めるとデッドラインは明日の朝で、締め切りを延ばすことも不可能だ。
スクリーンの字がぼやける。あれ、どうして。気づくとぼやけて、ぼやけて、そして何も見えなくなった。
「……さん。岸……さん。んんっ、涼さん」
「うがっ。は、はい。何でしょう」
「大丈夫ですか」
宇治川先生の顔が目の前にある。えっ、どうして。口許に少しよだれが垂れている。どうやら眠ってしまったらしい。
「す、すみません! 寝てしまいました。じ、時間は……」
「七時ちょうどですね」
「あ、もう閉館……」
「図書室の施錠は私の役割なので閉じ込めはしませんが……、どうします?」
瞳をじっと覗かれる。私に全てを委ねるということだろう。
やはり寝ていたのが痛い。差し入れに来たのが六時前くらいだから、一時間は寝てしまっていたことになる。その一時間で終わったかは予想もつかないが、きっと少しは進んだに違いない。
帰って書こうか? それなら明日の朝までに間に合うかもしれない。けど何も思い付かない有り様じゃ……。
「すみません……。もう少しだけここでやっててもいいですか?」
「いいですよ。車で送るので、帰りは心配しないでください」
「あ、ありがとうございます」
夜道が危ないことまで気が回っていなかった。本当に余裕がなかったんだな、私。
キーボードに手を載せる。少し手が軽いかも。泣いて、眠って、すっきりしたのかもしれない。
「一つ訊いていいですか?」
「何です?」
「この白い箱は……」
「あ、それは檜木くんが差し入れてくれたケーキです。残り一つは先生分なのでどうぞ」
「そうですか。じゃあありがたく」
先生も戸棚からプラスチックのフォークを取り出し、もぐもぐケーキを食べている。私のように甘い物が苦手ということもないらしく、時々ほっぺたが落ちそうという風に頬を触ってみせる。
檜木くんにこの表情を見せたかったな。彼が喜んでくれるかはまた別問題だが、珍しいと思ってくれるに違いない。
そんなことを考えていると、やっとのことでカタカタと打ち出し始める。けれどしっくりとは来ない。デリート、デリート。自分の文章の何がダメなのだろう。文法? 形式? 文体? それとも私の知識自体? もう何がなんだか。
その状況を見かねた先生は口を出す。さっきまで残っていたチョコレートケーキは既に皿からなくなっている。
「中々に難産と見えます」
「全っ然上手くいかない。文章を書くってこんなに難しいんですね」
「分かります。本はいっぱい読んでも、いざ自分が書くとなると、上手くいかないものですよね」
その一言を聞いて、親近感に似た感情を覚える。先生はあっち側の人なのだと思っていた。つまり文章を書くのが苦ではない人間、もっと言えば文章を書くのが得意な人間。読書を趣味にしているので、勝手にそう思い込んでいた。
「まあ、本当に厳しくなったら私が書きますから」
「え?」
「その大変そうなので、このくらいはやってあげようと思ったのですが」
「あー……」
気持ちが揺らぐ。今日の夜が空いた所で何かできる訳でもないが、負担が減るのはそれだけでありがたい。もう言葉が出てこなくなった状況では尚更。
それにここまで多くの記事を書いてきたという自負もある。傲慢かもしれないが、この館報の半分は私の努力によって作り上げられたものだとすら思っている。先生に編集後記を頼むくらいならバチも当たらないだろう。
むしろその甘えた考えが思考を鈍らせる。それは次なる言葉も封殺するに至る。手はキーボードから離れ、思わず両腕を組んでいた。
「やっぱり今の言葉、撤回してもいいですか?」
「え?」
「岸辺さんの助けになればと思って言いましたが、そんなに悩ませるのは本意ではないので」
先生は私の考えあぐえている様子を見て、そう言い放つ。本当に何でもお見通しで。それにこのまま悩んでいたら、きっと先生に任せてしまっていただろう。しかし撤回してもらえたおかげで、悩むようなことはなくなる。
少しずつ手が動くようになる。やはり文章の違和感は拭えない。もう手を止めたり、文字を消したりするようなことはしない。結局どれだけいい文章を書こうとしても、自分が本当にそう思ってなければ、その通りに書けやしないのだ。
だったらせめてありのままを書こう。たとえそれが泥みたいに美しくなくても。どうせ編集後記なんて誰も見やしない。なら自由に、なんならエッセイのように散文調に書き連ねるのもアリかもしれない。その方が自分の心により近い。
夕闇が徐々に夜の真っ暗闇へと転じていく。まだまだ残暑の九月だが、この時分ともなれば暑さは鳴りを潜め、忘れ去られたように涼しさがそこに在る。
先生が心地良さそうに鼻歌を歌っている。たぶんクラシック。なんだか珍しい。優雅な鼻歌にはキータッチの機械的なリズムは本来、合わないのかもしれない。しかし今はその不協和音も胸がすくように気持ちがいい。
図書館司書室で繰り広げられる耽美なジオラマ。思えば今が一番幸福な時間だったかもしれない。
ふぅ、とため息を吐く。だいたい編集後記の半分程度が終わった所だろうか。時計は夜九時前を差している。しかしここらへんでタイムリミット。親には帰りが遅れる旨を連絡しているが、流石にこれ以上遅いのはまずいだろう。それは宇治川先生にとっても。
「すみません。残りは家で書いて、明日の朝に出すってことでいいですか? 絶対に書き上げるので」
「いいでしょう」
先生は快く許可してくれる。でも私の頭のどこかには不可能だろうと、ペシミスティックかつ冷静に判断しているヤツがいた。もしかしたら徹夜さえ現実的なものかもしれない。
短いやり取りを交わして、学校を出る。外は曇っているせいで月明かりも差さず、星も見えやしない。周りにも光はない。空と街の境界が消えたような夜。それは私にとっては幸運だった。何も見えない方が表情も分からず、そのままでいられる。
先生は車の前で立ち止まる。軽自動車かな? どうやらこれが先生の愛車らしい。間もなくしてそれに乗り込む。
「道案内お願いできますか?」
「もちろんです」
先生の車が少しずつ動き出す。それに合わせて私も道案内を始める。家との距離を考えると、おそらく十五分くらいのドライブになるだろう。
始めは先生に道順の指示を出していた。先生は時々相槌を打ちながら、その通りに車を進めていく。だいたい帰路の半分くらいまで来ただろうか。そこで先生はおもむろに口を開く。
「そういえば……、確かあれは六月の、あなたが檜木くんを熱血指導していた時でしたか。その時に言った私の言葉を覚えてますか」
「あ、次の交差点は右です。えー、……なんでしたっけ?」
道案内の片手間で考えていたが、頭を整理して考えてもその言葉は思いつかなかった。なんだったか、とにかく先生の言葉を忘れるなど一生の不覚。
「あなたが図書委員会に、そして私に何を残してくれるか。そう言いました」
そうだった。あの時の様子を克明に思い出す。それほど昔でないのが僥倖。
先生は優しく語りかけている。あの頃のようだ。けど響きはあの頃とまるで違う。新鮮な響きとなって、私の頭を直接グラグラと揺らす。
「迷っているようなら、もう一度問い直しましょう。岸辺涼さん。あなたは何を残してくれるのですか?」
やっと目が覚めた気がした。グラグラと揺れていた脳は雑念を全て破壊し、更地にしたかのようにすっきりしている。
差し入れの後の睡眠から、いや編集後記を書き始めてから、ずっとどっかに放り出されていた意識が戻ってきたような感覚。どうして忘れていられたのだろう。これさえ覚えていれば、私はこんなに迷うことはなかったかもしれないのに。方向性は固まった。
「ありがとうございます」
「え?」
「なんか今ならいい編集後記が書けそうです」
「は、はあ。良かったですね」
私の心からのお礼に、どこか他人事な口調。運転しながら、小さく首を傾かしげている。先生自身もアドバイスらしきことはしたものの、私にどれだけの効果があったかはよく分かっていないみたいだ。
今はそれでいい。いくら口から紡ぐ言葉で説明を試みても、届かないだろうから。先生に、本の虫である先生に、届くのは紙に書き記された文章だけだ。その先生が愛してやまない文章、私が苦手とする文章。
そのやり方で絶対に先生の心に何かを残したい。
*
「ふぅ、終わりかな」
深夜二時過ぎ。ようやく編集後記を書き終わる。とりあえず一息つき、眠気覚まし用に淹れたホットコーヒーの残りをぐいっと飲みほす。もうぬるくなっていたが、そんなことはどうでもいい。今は編集後記が書き終わったことを喜ぼう。
学校から帰るときは一瞬「徹夜」の二文字が浮かんだが、思ったよりさくさくと進んだ。これも先生の一言のおかげだ。
先生が校閲は引き受けてくれるそうなので、下読みだけ軽くしてみる。やっぱり悪くはない。でも悪くない止まりだ。足りないものは分かっている。文章能力とかだろう。今さらそこを直すのは難しい。
それよりも。まあ、別にこれでいいかな。そんな気持ちが心を占めている。言いたいことは伝えられる。それを宇治川先生がどう受け取ってくれるか。私にとってそれしか重要ではない。
*
図書館の扉をがらがらと開ける。ここが開いているということは、奥の図書館司書室も既に開いているということだ。そこには宇治川先生がいる。
本当は開いてないかと思ったのだ。あまりにも早い時間に学校に来すぎたから。結局私が優先したのは、編集後記を先生に早く見せたいというただ一心。
それに開いてなくても別にいいと思ったのだ。いなかったら心を落ち着けるだけだから。きっとその時間は無駄じゃない。
図書室には誰もいなかった。いつもは誰かしら勉強しているのだが。珍しいこともあるものだ。なんならこうして誰もいない図書室というのは初めてかもしれない。私が来る時はいつも当たり前のように先生がいた。
人一人いない図書室もいいもんだな。まず空気が澄んでいる。秋の少し肌寒い空気感と図書館にある本の独特な匂いが鼻の奥をつんとさせる。なんだかくすぐったい。
それに本の いつもそこにあるのに、いつも通っている状態では気づきもしない。それは一人だからなのか、昨日文章を書き上げたことで、外界への感覚が鋭敏になっているかは判断しかねるところだが。
そんなことを思いながら、やっと図書館司書室への扉に手をかける。知らぬ間に深呼吸していた。少し開けると、朝の光が仄かに入ってきた。電気の灯っていない薄暗い図書室に光の筋がすっーとできる。
「失礼します」
「おや、岸辺さん、おはようございます」
「おはようございます。……原稿仕上がったので、データを渡しに来ました。はい」
「お疲れ様です。……じゃあ確認しましょうか」
先生はいつもよりローテンションに見える。原稿データの入ったUSBを自分のパソコンに挿すのに若干手間取っている。
挿し終わると、早速私の編集後記を見始める。私にとっては手持ち無沙汰な時間。だが緊張はMAX。どうしたって何も変わらないのだが、おとなしくしていられない。司書室にあるソファ柔らかかったなあとか、プラスチックのフォークが減っちゃたけど言った方がいいかなとか、全く関係ないことを考えていた。
「ふぅ」
私が書き終えた時に似たため息を今度は先生が吐いている。一体何のため息なのだろう。
「これがあなたが残したかったものですか」
ポツリと一言。喜怒哀楽、如何なる感情がまるで籠っていない。言葉だけ聞くならネガティブな感情が混ざっているようにも聞こえてしまう。
「えっーと、ダメ、でした?」
「いや、駄目なんて一言も。どうして?」
「そもそもその文章がいいものか分からないし……」
「不安だったんですか」
「まあ、はい」
そこで初めて先生は笑う。少し不安は和らぐが、消え去ってはいない。核心にはいまだ触れていないのだから。
「いいものであるかは本来、自分にとって価値があるかで決めるものですよ」
「で、ですよね。でも……」
聞きたいことはそういうことじゃない。私が訊きたいのは、この文章が宇治川先生に刺さったかどうかだ。私を含めた有象無象の評価など、ここでは無意味だ。
その想いを察したのか、先生は私に向き直る。僅かに目許めもとが柔らかい気がした。
「あくまで私見ですが、この文章は好き、です」
「好き」。まさか先生からその一言が飛び出してくるとは思わなかった。先生は長い人生を生きて、本をたくさん読んできて、たくさんの言葉を知っているはずだ。だから感情を伝えるのは上手なんだと勝手に思っている。例えここで文章の出来が悪くても、オブラートに包むくらいなら難なくやってしまうだろう。
だからこそストレートな表現は心に刺さる。ずっと引き出したかった言葉。ちょっぴり形は違うけれど。それだけで全てが報われたような気持ちになる。
「ほ、本当、ですか……? 尖りすぎたかもと思ったんですが」
思わず声が上擦る。実の所、完成どころか「掲載は無理」と言われてもおかしくないと思っていた。出来云々ではなく、ベクトルの問題で。その文章が先生に受け入れられるかどうか。まずそれが私にとってのファーストステップに他ならなかった。
「ふふ。まあ問題作に近い感じはします。ここまでただの配布物にぶっちゃけるのは中々ありませんね」
「うっ、ですよねぇ……」
私が執筆中思っていたことを的確に突いてくる。途中から先生に伝えられるかもそうだが、これを一応オフィシャルな出版物として内容はふさわしいか、配布していいかという葛藤もあった。
結局深夜テンションで本格的に悩み始める前に勢いで書き上げてしまったが、今考えると恥ずかしい文章かもしれない。
「それで駄文と評するには早計すぎるでしょうがね。これはあなたにしか書けない世界ですから。委員長として、やるべきことをやり通したあなたにしか。その上でこれは好きですし、心に残りました。特に……」
先生は好きな点をいくらか挙げている。ちょっとだけ早口だ。
私の願いを分かってくれている。自分にしか書けないという所。もっと言えば私しか見えない暗闇を暴あばいた所。これはそういうのを追求した文章に仕上がっているはずだ。この様子なら掲載もちゃんとできそうだ。
やっと実感が湧き出てくる。一瞬涙が零れそうになるが、やめだ。昨日たくさん泣いたじゃないか。今は涙を流すより笑顔がふさわしい。
「……正直な話、新聞を全部書き上げるのは無理だと思ってました。だから記事を代わりに書いてあげようとも思ったのですが、一人でやってしまいましたね」
「本当に大変でしたけど。なんとか」
「頑張ったご褒美です。一つ裏話を教えてあげましょう」
裏話? なんだろう。先生は一度こほんと咳をする。次の言葉は明瞭めな声となって、私の耳に入ってくる。
「私がこの学校に来てもう六年目になりますが、実は今まで新聞を一人で書き上げた委員長はいません」
「そうだったんだ……。てっきり歴代委員長全員が辿たどった道かと」
少し拍子抜けした気分になる。もしそれを知らされていたら自分はサボっただろうか? いや、そんなことはないな。先生のためだ。誓ってない。針千本を賭けてもいい。
「まさか。でもそれを言ったら、あなたは意地でもやり遂げようとするでしょう?」
ぐうの音も出ない。正に今考えていたことだ。先生に言われたことなら、絶対にやり遂げる。たとえそれが本意ではなくとも。
同時にそのせいで自分には何も残らないのだ。なけなしの身で先生に、渡せるもの全てを捧げて、献身なんて大それたことをしてしまうのが私の性だから。
今は達成感と疲れとその原稿データが残っている。こんな感覚は初めてに近いが、悪くない。
「それに意味って全くないんですかね?」
「私はないと思いますが。それは先生が書いた文章を載せるのと何も違いません。自分の意志でやらねばならないのです、こればっかりは」
そう力強く言い切ると先生は再び私の原稿を眺めている。目は先程より少し細められている。まるでそれが愛おしいとでもいう風に。
自然と彼女は私の頭に手を伸ばし、軽く撫でてくれる。気恥ずかしさはあったが、先生の手は温かく、柔かかった。だからそのままでいた。動けなかっただけかもしれないが。天使の手というのはきっとこんな感触に違いない。
「よく頑張りましたね、岸辺さん。あなたは最高の生徒です」
最上級の労りの言葉は私の鼓膜こまくをつるりと揺らした。
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