三月、ふたりの距離
全然落ち着かなくて、特急電車の中でずっと小説を読んでいた。いつか中学時代の友人に紹介された小説を。電車に乗る前、駅の本屋でたまたま見つけて、まるで引き寄せられるかの如く買っていた。
あの時は借り物だった本が、今は自分の手の中に。過去を振り返っていると、更に色々思い出してきた。確か貸し付けられて、更にはメールで感想を求められたんだっけ。
結局どんな感想を送ったかは一切覚えていない。そもそもメールを送ったかどうかも思い出せない。タイトルもこの表紙を見るまで忘れていた。けれど抱いた感想だけは今でもはっきりと覚えている。
陳腐、だ。
この小説のラストシーン、満を持して主人公がヒロインに告白する。間違いなく最高に盛り上がる所。それを「好きです」の一言で済まし、エンドを迎える。その部分を最初に読んだ時は、思わず「は?」という怒りにも似た言葉が出ていた。
その感性は私にまるで合わない。「好き」だと言うのなら、何が「好き」なのかはっきりするべきだ。「好き」なんて何種類もあるだろう。それこそ十種類くらい。
その「好き」が何を表しているかも分かる。ちゃんと伝えることが無粋というのも分かるには分かる。
でも告白の言葉という大事なものだからこそ、考えて考え抜いた末に精錬された「好き」を見つけ、相手に送らないといけないのではないか。
と中学三年の私は思った。
今はその言葉の意味がはっきりと分かる。
分かった上で。まあまあ、悪くないかな。少なくとも前みたいに嫌な感情は生まれなかった。高まっていた緊張も和らいでいた。
落ち着かない、緊張。さっきから不安定な精神状態が続く。実は今日大学の合格発表があるのだ。しかも本命、ということで直接掲示板を見に行く。ちなみに県外。長い電車旅になる。
けれどこの小説のおかげでそれなりに落ち着いた時間を過ごせているのは言うまでもない。
*
電車から降りる。自動改札を抜け、ロータリーまでやって来る。ロータリーには意味の分からないモニュメント。有名アーティストに依頼して出来た作品らしいが、お役所の意図がまるで読めない。
それも含め、見慣れた光景だ。子供の時から何度見たことか。そしてそこには見慣れた親友。ぶんぶんと元気な彼女らしく手を振っている。
「やあ、雛乃。待った?」
「待った。こっちが緊張して、めっちゃ早く来ちゃった」
「だから合否出たら、すぐにメールするって言ったのに……」
「いいの! こういうのはムードが大事だから! ……それで?」
おほん、と勿体ぶるように咳込む。これは勿体ぶってもいいことでしょ。
「無事合格しました~」
「おお~! おめでと!」
ぱちぱち、と何回か手を叩いた後、ばっと腕を広げる。何の感情表現、それ? 不思議に思っていると、目の前が雛乃の顔一面で埋まる。そして体中に柔らかい感触。
ハグされていることに気づくまでにそう時間は要しなかった。三月、冬の寒さが残る屋外、微妙に冷えた体に仄暖かい彼女の身体が重なる。やっぱり人肌はあったかいなあ……。
肌が暖かい人は心まで温かい。これは経験に基づく私の持論である。きっと彼女もそういう人間に違いない。
……なんかだんだんと不思議な感覚になってきた。女子同士でのハグなら、コミュニケーションを込めたスキンシップ程度の意味のはず。だけど結構強くハグしてるな。ぎゅっ、という擬音が聞こえてきそうなくらいに。これはもうハグというより……。
私の中で別の言葉が浮かんで来た時、パッと雛乃の手によって離される。あまり強く抱きついておらず、急に離されたのもあって、バランスを崩してしまう。
「おおっと」
「わ、大丈夫? 転びそうだったけど」
「その言葉、合格発表前に言ってたら叩いてるな」
「さすがに発表前に言わない良心はあるわい」
ふふ、と笑い合う。どっちも本命に合格しているからこそ言えるジョークだ。
雛乃は青空に向かって腕を広げ、ぐぅーと伸びをしている。私もそれにつられて息を吐く。力を抜く。常に肩にあった重さが天まで昇っていくような気がする。
「これでやっと涼と自由に遊べるな~」
「そうは言っても雛乃はずっと遊んでるじゃん」
「そうだけどお」
決して勉強してないことへの嫌味という訳ではなく、雛乃は推薦で二月の頭には、本命である地元の国立から合格が出ていたのだ。つまりセンター後は自由登校で、特別補修にも出なくていい雛乃はこの一か月、暇していたことだろう。
「やっぱ親友と、涼と遊べないと意味ないじゃん」
私もそう思うよ。放課後教室で駄弁ったり、お洒落なカフェに寄ったり、海に行ったりもしたなあ。そうそう。クリスマスの日にお泊り会したのも一生忘れない。それくらい楽しかったし、隣に雛乃がいたからこそ、そう思えるのだ。
雛乃も同じ気持ちらしい。キラキラワクワクと目を輝かせている。こんな嬉しいことを言ってくれる親友がいて、この高校生活三年間、私は本当に幸せ者だったと思う。
あわよくばこれからもずっとその関係が続いていってほしいものだ。繋げるのは私にも委ねられているか。
「それは、うん。そうね」
「てことで、この後どっか食べに行こうか。卒業祝いアーンド合格祝いということで」
ちらりとここまで放置してしまっていたお母さんの方を見る。合格発表は一応県またぎの旅なので、同伴してもらっていたのだ。それに合格発表はお母さんも一緒に見たかっただろうし。
行ってもいいか、と無言でお伺いを立てる。お母さんは財布から五千円札を取り出して、「使いなさい」と言ってくれる。許可は出たということだろう。
「オッケー、行こう! でもその前に」
「その前に?」
「合格報告しに行かないと、学校に」
覚悟を決めたように強く言い切る。
「だねえ」と雛乃は納得した声を出している。これが今日の大一番と言っていい。雛乃との会食は本日最後のお楽しみとして大切に取っておこう。
*
「……失礼しまーす」
別に図書館は職員室みたいに、紋切り型の挨拶をして入れというルールもないのだが、小声でそう言って入っていく。
高校のカレンダー的には春休みなので、開いていない可能性もあったが、ドアは軽い力で開いた。それは同時に宇治川先生がいるということ……。あ、やばい、緊張してきた。ただ合格報告するだけなのに。
既に担任やら他にお世話になった先生への挨拶は済ませていた。その時は緊張など微塵もしなかったのになあ。むしろ談笑の手土産が私の合格なので、それはもう楽しかった。なのに今気分は急転直下。
そんなこともあって、図書館司書室までの道は分かっているし、何度もそこへ訪れたのに、今は迷える子羊のように、辺りをふらふらしている。この小説面白そうだなとか、つい現実逃避したくなってしまう。
「……せ、先輩?」
ぎくっ、と肩を揺らす。やましいことは何もないが、肩にパンチを入れられたくらいの驚きを覚える。
「って、なんだ。檜木くんじゃん」
「なんだってなんすか」
「君だから、安心したってことだよ」
思わず振り返るとそこには後輩・檜木爽太がいたので、気が抜けてしまった。なんとなく彼じゃないかとは思っていたが。そもそも『先輩』なんて言ってくれるのは彼しかいない。
「安心、の方がしますか」
「するねぇ。ま、私は安心感のある人の方がいいと思うよ」
「そ、そうすか」
顔を伏せる。何を考えているか、だいたい分かってしまう。概ね女性にとっては、男から少し危険を感じるくらいが丁度いいとか言うから、引っ張られているのだろう。
が、私はそうは思わないので、本心をさらけ出した次第。彼と同じように。
「それで今日は何の用でここに?」
「僕は宇治川先生との打ち合わせで。ほら、図書館報の」
「あー、年二回発行分するんだっけ」
「そうです」
実は宇治川先生情報で聞いていた。檜木くんにはどうやら図書館報を年二回発行する企てがあるらしいと。
正直私が悩みに悩んで、ギリギリで書き上げたアレを年二回とは初めて聞いた時、ついに図書館業務の激務にやられてしまったのだと真面目に思った。彼は執筆中、手伝いや差し入れとサポートをしてくれたから、私の苦労を知らぬわけでもあるまいし。
「大変そうだね」
「実質的にはページ減ってるんで楽っすよ。四ページあったのを、表だけの一ページにして年二回。これで年二ページです。それに作業量も分散できるし」
「……やっぱ要領良いわ、君」
あまりにもすらすらと負担軽減策を述べるもんだから、呆れてしまった。だが口許は不思議と綻んでいた。安心していたのかもしれない。
檜木くんはおずおずと口を開く。身長的には彼の方がずっと高いのに、下手から訊かれている感じがする。
「ダメ、っすか?」
「いいんじゃない、それが君の良いところでもあるし。あと前図書委員長のことは気にしなくていい。今は君が委員長なんだから」
そう優しく声をかける。図書委員、ひいては委員長の負担の大きさは前々から問題になっていた部分でもある。楽そうな委員会の割に仕事が多いと。
結局私はそこに着手しなかった。いや、言い訳はよそう。出来なかったのだ、他のことに手一杯で。
「そう言ってもらえるとありがたいっすね。実は結構不安だったんで」
「なんで?」
「自分はあんまり読書する人間じゃないし、作業が嫌いなんで、こういうの少なめにしたかったんですけど、それが好きな人もいるじゃないっすか」
「……誰のことかな」
「あえて言いますけど、宇治川先生と岸辺先輩のことっすよ。そういう人たちの反発もあるかな、と思ってたんですけど、意外となくてびっくりしてます」
言われてしまったな。確かに彼と図書委員長としては真逆なんだろう。だが真逆だからこそいいなんてのは世間に溢あふれている。刑事ドラマのコンビは熱血と冷静の二人がいいみたいに。
この委員会活動だってその程度だ。だから私は次期委員長を彼に任せて、本当に良かったなと思ってる。ふふん、お目が高いぞ、私。
「そういえば今日……」
「ん?」
「そういえば今日、先輩は何の用で?」
先程の、というかいつもの朗らかな表情から一転、彼はきつく口を結ぶ。訊いてきているものの、何があってここに来たかは分かっている様子だった。
「宇治川先生に大学の合否報告をと思って」
「そうですか……」
彼はそれっきり何も言わない。けれどここを動かないということは。
「合否どうだったか知りたい?」
「はい、是非」
食い気味で返事をしてくる。やはりね。緊張した面持ちから察するに、気を使って聞けなかったのだろう。まあ、その気持ちは十分理解できる。
「合格したよ」
すかした口調で言う。ともすれば聞き返されそうな言い方で。むずがゆかったのだ、後のことを想像すると更に。
思った通り彼はぱあ、と顔を明るくした。春の日差しが舞い込んで、とても眩しかった。私より輝いちゃってるじゃん。
「……! おめでとうございます!」
「ふふ、ありがと」
「おめでとう」の言葉が私の気持ちを高揚させる。本命合格というだけで、既に私のテンションは最高潮を迎えているのに、色んな人にこんなにはっきりと祝福されてはそりゃあ有頂天にもなる。
「ちなみにどこ大に合格したんですか」
「……大。人文学部ね」
「おおー、自分じゃ入れない大学だ……」
「そんなことないって。あと一年頑張れば、合格ラインなんて軽々超えちゃうよ」
「あと一年が長いんだよなあ」
なはは、と檜木くんは頭を掻きながら笑っている。確かにこの一年は凄い密度だった。感覚的にもそうだし、こまめにつけていた予定帳も学習目標やら模試の日程やらで真っ黒になっていた。
けれど彼ならいけるよ。要領が良ければ効率的に勉強できるし、実は努力家なのも私は知っている。私の励ましの言葉もあながち間違っていない。少なくともお世辞なんかではない。
「でも県外かあ……。遠くなりますね」
彼は珍しく、感傷的になっている。目線が向かう先は駅、もしくはその大学のある県の方だろうか。
「……そんなことないでしょ。今日私はここと大学を往復したよ」
「いや、意識しないと会えないってだけで遠いですよ。それは世の中便利になっても変わりません」
「そっか」
あんまり意識してなかったけど、一ヶ月後には宇治川先生とも雛乃とも檜木くんとも普通に会えなくなる。
寂しいとは思ってなかった。彼らはここに、私が生まれ育った地元に相も変わらずいる。私がふらっと帰省すれば、簡単に会える。身の上話に花を咲かせられる。そう信じていた。
けれど彼は違う気持ちなんだな。
「はい」
スマホを制服のポケットから取り出し、彼の方に見せる。彼は眉をひそめている。
「なんすか」
「メアド交換しよ」
「えっ、いいんすか」
「いいよ。そもそも学校じゃ会ったら話すのに、連絡先知らない方がおかしいでしょ」
それっぽい理由をつける。正直な話、私は男子とメアドを交換したことがない。だからこれが自然かどうかも分からない。
けれど今日の私は気分がいいのよ。それに隠しきれていない彼の笑顔を見たら、どうでもよくなった。
「はい、じゃあありがたく」
彼は私のメアドをスマホに打ち込み、やがてメアド交換用の空メールを送ってくる。それをアドレス帳に登録しておく。……これでいいよね。その思いは先に言われてしまったが。
「これで大丈夫ですか?」
「多分。これでいつでも連絡できるね。遠慮するなよ」
「いやー、しちゃいそうだなー」
「じゃあ私が頻繁に連絡する」
自信無さげな彼にそう言い放つ。そっちの方が彼も嬉しいだろうと私は思うから。
「そうだ、先輩。実は……」
「ん?」
まだあるのか。これから何が起こるか見当も付かない。そのくらいこのタイミングで彼からというのは珍しい。
「……ントを」
「うん?」
「プレゼントを用意してまして。卒業祝いに」
「えっ、ホント!?」
あまりの嬉しさに口を覆う。なんだろう、凄く気になる。
「なんか合格祝いも兼ねることになりましたけど……」
言いながら彼はリュックからがさごそとプレゼントを探っている。やっと探し当てたようで、ぐっと引っ張り出した。
「これです。受け取ってください」
「わあ!」
取り出されたのは、大きい直方体の物体。直方体と呼ぶにはいささか平べったいかもしれないが、それでも大きいのは良いことだ。大きい箱と小さい箱は小さいのを選んだ方が得みたいなお話があるが、そんな訳がない。大は小を兼ねるのだ。
そんな既に魅力たっぷりな物体は、綺麗にラッピングされている。チャームポイントでドライフラワーが付いていて可愛い。そのシークレット感が一層、私をわくわくさせた。
「ここで開けていい?」
「それはもう自由です。あげましたから」
なんか英文和訳したみたいに口調が変になっている。緊張してる?
ラッピングを丁寧に剥がしていく。こういうのをいずれ捨てるのは分かっているが、なるべく綺麗に外したいというのは本能として刷り込まれているのだろうか。
彼のプレゼントはその姿をお目見えする。
「……本?」
「はい、風景の写真集です」
「おお」と感嘆の声が漏れる。プレゼントに本というのは、私のことをよく分かっているじゃないか。
「先輩、写真撮るのが趣味だと言っていたので」
「……言ったっけ」
「ええ!? もしかして間違ってました?」
「ああそういう意味じゃなく。檜木くんに言ったことあったっけ」
写真撮影が趣味なのは間違いない。なんなら読書よりも長く続けているし、最近の忙しい時でも良いと感じた景色はスマホで撮るようにしている。
しかしそれを彼に言ったかというと疑問符がつく。
「多分一度だけ。かなり選ぶの困りましたよ。先輩、あんまり自分の好みとか言わないし」
「それは悪いねえ」
それこそが私の信条だったりするので。好きなものこそ大事に、大切に。それだけは譲れない。
「だからこそもしかしたら、同じの持ってるかもしれないって不安になったり」
「被ってないよ、大丈夫。というか写真集なんて買ったことなかったし」
「あ、そうなんすね」
私の本棚は文庫本ばっかりだからね、あとは僅かばかりの参考書と新書。ましてや写真集なんてね。
人からプレゼントを貰うのはこういうことがあるから面白いのだ。つまり今まで自分が触れてこなかったものに、知り合いという媒体を通して触れることができる。
ペラペラとページをめくっていく。その手は止まらない。ここで見尽くしてしまっては後の楽しみがなくなるのもよく分かっているが、それよりもワクワクが先行していた。
その過程において写真で一枚、目につくものがあった。
「あ。これ、うちの地元の写真だね」
「そうっすね。これが決め手です。少しでも地元を思い出して欲しいと思って」
「繋がったね」
小さく笑う。なるほど、彼はずっとそんなことを思いながら、プレゼントにこれを選んでくれたんだ。なんだかこの写真集を抱きしめたくなる。
再び地元の写真を見る。写真家の腕のおかげで、景色自体は別世界に飛び込んだように綺麗だ。地元だとすぐには気づけない。
けれどよく見てみれば、西日がきつくて大変ないつもの太陽に、豪雨の後には真っ茶色の泥水がうねりをあげるいつもの川に、秋には薄が生い茂るいつもの野原に、自転車で通ると吹き抜ける風が気持ちいいいつもの橋に、雛乃と遊びに行く時には絶対使ういつもの電車が在る。
年端もいかない子供が背伸びで、ママの化粧品を使って化粧したみたいだな。元を知ってしまっていると、多くの人に礼賛される風景にもそんな感想を抱く。まあ、むしろそのアンバランスさは嫌いではない。
独り暮らしで寂しくなった時とか、郷愁を抱いた時とかにはこれを見よう。そして愛おしき彼を思い出そう。
「先輩」
彼は改まって声を掛けてくる。その場の空気が大きく変わったのを、ひしひしと感じる。不思議なものだ、目には見えず、耳からは聞こえず、触ることもできないのに、分かる。
こんな感覚は……、去年の十一月以来だ。彼は満を持して、ある言葉を口にする。
「すみませんでした」
「なんで謝るのさ」
咄嗟に突っ込む。この雰囲気で言うことではないだろうと。しかも謝罪の言葉なんて。
ただなんとなくそんな気はしていた。というかここで告白の焼き直しをされていたら、私は困り果ててしまう。
「色々迷惑をかけたなあ、と」
彼は軽い口調で頭を掻く。口許は緩んでいるが、それが照れ隠しの笑みと受け取ってくださいと言っているようで、逆になんとも言えない痛々しさを感じていた。
だから私は言わずにはいれなかった。
「迷惑じゃないよ。君と話すのは楽しかったし、このプレゼントだってとても嬉しい。しかも私のためにわざわざ用意してくれたんでしょ」
「ま、まあ」
言っていて気づいたが、私にこの写真集を渡せる保証が、彼にはどこにもない。
卒業式と前期の受験が終わったら、学校には全く来なくなっていたし、今日だって合格報告のために来ているに過ぎない。時間など予測もつかないだろう。彼とは連絡手段も今までなかったから、示し合わして来ることもできない。
私なら絶対に諦めている。いや、本当は彼も諦めかけたのかもしれない。
それでも彼は現れた。運命とか宿命だとか大層なものではないだろうが、ある程度の運がないとここには来れない。彼はそれを引き当てたのだ。
「じゃあ君は言えばいいよ」
穏やかな、まるで宇治川先生みたいな声音で言葉を掛けれた。私ってこんな優しい声、出せたんだな。
覚悟を決めたように、彼は一瞬口をきつく結んだ。そして堰を切ったように大きく開かれる。
「岸辺先輩! 二年間、本当にありがとうございました!」
「うん。君もこれから頑張って」
直角九十度で腰を曲げ、最大限の感謝を伝える彼に軽く手を振る。それは「さよなら」を込めた手ではない、「またね」を込めた手だ。
彼とはそこで別れる。これから急ぎの用がある訳ではないが、なんとなく流れで二人の距離が遠のく。
彼と出会う前みたいに、当てもなくふらふらと少し歩いてみる。そこでようやく気づいた。
いつの間にか逡巡が消えている。今なら私には重き扉、図書館司書室の扉に手を掛けられる気がした。
これも彼のおかげかな? 不思議と心が弾んでいる。合格を祝ってくれたこと、プレゼントをくれたこと、最後に「ありがとう」と感謝を伝えてくれたこと、どれが私に奇妙な浮遊感を与えているか分からない。
いや、きっとどれもあって、どれもないんだ。それくらい彼と言葉を紡ぐことそのものが……。
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