三月、「好き」で終わる陳腐な小説

 その扉は固く閉ざされている。開こうとしない限り、開けるぞという確固たる覚悟がない限り開くことはない。そして開いてみないと、その中身はまるで分からない。当たり前のことだ。

 そういうものが人間誰しも一つくらい持っているだろう。無邪気に子供が自分のお宝箱を作って、鍵をかけるようなもの。


 私ももちろん持っている。いつからだろう。とりあえずもうずっとだ。それは「好き」という言葉。これを心を込めて言った日にはどうなるか、私にはまるで想像がつかない。

 そしてそれはもう一つ。目の前に、今できた。図書館司書室の扉。手を掛ける。もしかしたらパンドラの箱かもしれないのに、気持ちだけは不思議と落ち着いていた。檜木ひのきくんのおかげで間違いない。あと雛乃ひなのと食事の予定も、気持ちの安定に大きく働いている。


 そういうことで本来なら、いや先ほどまでなら、開かずの扉だったそれを、案外楽に開けることができた。開放した瞬間、暖かな風が肌を優しく撫でる。自然な春風だった。

 受験期の冬は散々私たちの身をぶるぶると震わせたのに、なんという手のひら返し具合。それすらも私の合格を祝っているのか? 現金なやつだ、まったくもう。


 目線の先には憧れの宇治川先生がいる。仕事に集中しているようで、扉が開いてもこちらを見はしない。先生はパソコンとにらめっこしていた。だからせっかくだと思って、先生の横顔をしばらく堪能していた。


 懐かしい。その思いが意識の表面上に、ぷかりと浮かんでくる。不思議だ、そう思った。受験勉強中はあまり会わなかったけど、全く顔を合わせなかった訳でもない。

 なのに懐かしさ、長旅の末に地元に帰還した、あの清々しさを感じるのはどうしてだろう。


 端正な顔を見続けて、合点がいった。そうだ、初めて会った時、精巧で美しい顔に目を、心を奪われたのだ。私に気づかない、今となっては異質となった空間で、私だけが彼女を認めている。私たちの出会いと同じだったんだ。

 でもあの時とはもう何もかも違う。場所を、季節を、感情を、巡り巡らせて、ここにいるのだ。今ならその横顔に言葉を伝えられる。


「あの」


 交わらなかった視線がやっとぶつかる。先生はおや、という顔をしている。


「岸辺さんじゃありませんか。いつからそこに」

「ちょうど今です」


 息を吐くように嘘をつく。それにももう慣れてしまった。私の呼吸とは嘘をつくことなのだろうとか思ってしまう。

 だから今日もと無意識に口を衝いて飛び出たが、今日だからこそ言ってはいけないことに気づいた。


「……すみません、嘘です。なんだか話しかけづらくて、少し待ってました」


 これで嘘は言っていない。真実は隠したけれど。これもいつも通りかもしれないが。


「どうせ暇なので、すぐに話しかけてくれてよかったのに。さあさあここに」


 司書室の大部分を占拠している来客用ソファを指差している。


「暇だったんですか?」


 制服のスカート裾を気にしながら、ありがたく座らせてもらう。その間、意外という風に反応する。

 その割には忙しそうに見えたけど。綺麗に平積みされたファイルに、色とりどりのメモを張り付けたパソコン。先生らしく整頓されたデスクだが、やることがたくさんあるんだろうなとか勘繰ることもできる。


「暇ですよ。夏休みとおんなじです。いつかそんなことを言いませんでしたっけ?」

「そういえば……本屋で言ってた気も」

「本屋。夏休みにばったり会ったことですか。懐かしいですね」

「ですね……」


 吐息が漏れる。思いを馳せずにはいられなかった。あれももう一年半ほど前か。あの時は先生に本を選んでもらって、その後併設のカフェで確か……。

 更に記憶を辿る旅を始めそうになったところで、先生は言葉を付け足す。


「少し補足するなら今回は春休みでもちょっと忙しいのですが」

「へぇ、なんでですか」

「これです」


 パソコンのスクリーンを少し私の方に向けてくる。それを覗き込む。そこには味があるフォントで「図書館報」との文字が。


「あー、図書館報ですか」


 それ以上の言葉が出てこない。トラウマと言えるほど悪い思い出がある訳でもないが、上手くできたとか評判が良かったとかいい思い出もない。それはきっと。


「岸辺さんはかなり苦労してましたね」


 そういうことなのだ。図書館報の記事執筆、特に編集後記には骨が折れた。できれば二度とあって欲しくないし、そもそも経験すらしたくなかったなんて思ってしまう。

 ただ不思議と後悔はしていない。その思いは徐々に大きくなるばかりだ。それは今も永遠に変わらず、そしてなんでそんなことを思ってしまったのか、自分の中で言葉になりつつあった。全てはこの日の通過儀礼だったんだ。


「大変でしたよ、ほぼ一人で四ページは。色々助けてはもらいましたけど」


 ちらりと先生の顔を見る。少しばかり私から目線を外している。それから先生は予想通りの一言を口にする。



「私は何もしてませんよ」

「認めないんですね。本当に助かったのに」

「それだけ大変だった館報を一年に二回刊行したいなんて言う檜木くんには驚きましたけどね」

「あ、すり替えた」


 それも露骨に。指摘しても先生は話題を変えるつもりらしい。無意味に指を立てて、話を続けている。


「本来の目的は減ページと分かって、それが狙いかと合点がいきましたが」

「それが彼ですから」

「あなたは全肯定できるんですね」


 やっぱり先生もそこは引っかかるんだなあ。そこですんなり納得いってしまうのも同じだ。

 何か言いたげな目でこちらを見ている。あ、納得はしてないんだ。理解できているだけなのだ。それでも何も言わないのは大人として、教師として弁えているのだけなのだ。


「寂しいですか。館報が変わってしまうのは」

「それなりには」


 私がきっとこれが言いたかったのだろうと予想したことを口にすると、先生は顔を伏せた。その口許は長い髪の下で見えてしまったけど。弱々しく笑っていた。


「私は先生がそう思ってる方が驚きますけど……」

「別に伝統を重視しろとか、昔の方が良かったとか言うつもりもありませんよ。生徒の自主性によって委員会が変わるならそれはとてもいいことなんでしょう」

「じゃあどうして……」


 言葉を切る。先生がそんなことを思うとは、ね。それ以上もそれ以下も、怒りや失望もない淡々とした感情が、疑問となって表象してくる。


「岸辺さんや今までの委員長の努力が消えてしまうような気がして、ちょっと抵抗感が出てきちゃいました」


 ……それは思わなかったなあ。そもそも私には思えないか。図書委員会の地層を見てこなかった一介の生徒に過ぎないから。きっと改革を進めんとする彼も同じだろう。

 しかし先生はこの図書館と委員会をずっと見てきて、思い出を積み上げていった。この改革はそれを地中に埋め、化石として眠らせてしまうに等しいことなのかもしれない。さすがにそれにはどんな人でも……。

 いや、彼女が「宇治川憂那」だから思うところがあるのか。それが彼女の代えがたい優しさであり、らしさなんだ。


「いけないですね。こんなことを愚痴ってしまうなんて」


 教師として生徒の意志に文句をつけるのは、あまりよろしくないと私でも思う。


「いいじゃないですか。ここには私たち以外、誰もいません」


 二人の秘密ということで。私はむしろ先生が汚い本心すらさらけ出してくれる関係になったことを、先生はよき理解者を得たことを、諸手を挙げて喜ぶべきなのだ。

 先生は曖昧な苦笑いを浮かべている。


 それに完璧な人間なんていない。先生のせいで錯覚しかけた時期もあったが、その完璧な顔の裏には陰がある。そんな当たり前のことをはっきりと把促した、そんな三年間だった。

 先生は再び話を変えようと、その表情のまま小さく手を叩く。


「そうそう。そのことでさっきまで檜木くんと打ち合わせしてましたよ」

「知ってます。たまたま彼と会いましたから」

「ほうほう。どうでしたか」

「いや別に、図書委員会の話とかしましたよ」


 先生は嬉しそうな笑顔でこくこくと頷いている。何が嬉しいのか私には分からないが、そう思っているならそんなに悪いことではない。

 それよりもまた隠し事をしてしまったと、ばつの悪い気持ちになる。やましいことなんてないはずだけど。ただあれは二人だけの秘密でありたい。そっちの方が脳が蕩けるくらいに甘美だから。これもあのカフェで思ったこと。


「それで今日は何の用で?」


 先生は不思議そうな顔をして、問いかけてくる。「卒業式は終わったし」と小さな声で呟いている。あ、これ分かってないパターンだな。卒業してもなお、高校に来る理由なんてそんなない。勘づいてもいいのだが。まあ、ここでそうならないのが先生か。


「実は先生に大学の合否報告をしに来ました」


 久しぶりにゆっくり会話ができて、いつもの夕日差し込む図書室に戻ったように、穏やかな気持ちで過ごせていた。なのに急に緊張が張り詰めてしまった。先生の息を呑む音が聞こえる。


「無事第一志望に合格しました」


 雛乃の時は勿体もったいぶったのに、先生にはさらりと報告する形になってしまう。だって先生が不安そうな目で私を見てくるから。


「それはおめでとうございます」


 先生もどこかあっさりとした口調だ。いつもの落ち着いた態度を崩さない。それでこそ先生だ。だから私は心惹かれていったに違いない。けれど今日だけは、先生の心を揺らがして、歓声を上げさせたかったなんて思うは高望みなのだろうか。


「本当に、おめでとうございます……」


 先生は言葉を繰り返したと思うと、静かに涙を流していた。


「えっ、えっ? 先生?」


 喜んで欲しいなんて淡い期待を寄せていたけど、泣くとまでは夢にも思わなかった。


「……すみません、嬉しくて。それにこうやって私に合格報告してくれる人も初めて、でしたから……」


 とめどなく流れるそれを先生は何度も、何度も拭いている。それでも簡単には止まらなかった。

 数分経ってやっと止まったかと思えば、目許にほんのり赤い跡が残っているのだ。まともに話せるようになったようで、震える声で語りかけてくる。


「どこに進むか聞いてもよくて?」

「〇〇大学の人文学部です」

「人文学部……」


 ぽつりと呟いている。普通気になるのは大学の方だと思うのだが。檜木くんも大学の方に反応していた。学部を気にしているのは、先生ならではだろう。その理由は分かりきっていたので、それに沿う言葉を返す。


「教育学部も考えたんですけど、やっぱり人文がいいなと思いまして」


 また懐かしいな、本当に。これも本屋のカフェで相談したことだった。自分がどういう進路を選ぶか何も決まってない、未来がまだまっさらだった時期。


「これもカフェで話しましたね」

「私もそう思ってました」


 ただ結局教育学部ではなく、人文学部を選んだ理由は伝えず仕舞じまいだ。理由が理由なだけに、あえて言わないのかも。

 先生に憧れてるし、尊敬もしている。ただ自分の進路、ひいては未来となった時に教育学部に入って、教師になって、人に教えるのは自分がやりたいことなのだろうかと、ふと疑問に思ったことがあった。


 そこで考えてみたんだ。今ここにあるもので何がしたいか。その時に思い至ったのは本だった。先生と関わるための媒体ばいたいでしかなかったそれ。どうしてその時、そこに辿り着いたかは謎だ。でも本を突き詰めてみるのも悪くないと、そう思えたんだ。

 そして関わっていく内に、手段なんかじゃなく、目的として「好き」になっていければと思う。これは人生の夏休みの課題だ。


「最適解だと思います」


 全肯定してくれる。先生に認められたくて、この学部を選んだ訳ではないが、そう言ってくれると安心するというものだ。

 先生は穏やかな表情をしていた。喜びというよりは、今の私のような安堵が感じられる。穿った見方をするなら、まるで教育学部じゃなくて良かったとでも言いたげな。


「どうしてかも何かも分からなかったですが、岸辺さんのことが不安だったので」


 先生でも分からない漠然とした感情。人生経験において比べられない程、差がある私たち。先生でも知らないじゃ、私では見当もつかない……ばずだった。

 その答えを私はたまたま知っていた。


「それが愛ですよ、先生」


 愛。これは酸すいも甘いも知り尽くした「大人」が辿り着く高尚な愛なんかではない。もっと陳腐なもの。なんて子供じみた言葉を恥ずかしげもなく披露ひろうしているんだ、私。

 思わずといったところか、先生はクスクスと笑ってしまっている。それにつられて私も目を細めて笑っていた。


「なるほど。確かにここにあった不安は、岸辺さんを思ってのことだったかもしれないですね」


 先生はすんなりと私の返答を受け入れていた。こんなことは珍しい。正しいにしろ、誤っているにしろ、更なる知見を引き出すため、反論するのがいつもの先生なのに。


「きっとそうですよ。愛がなきゃ自分のことのように不安がれません。私を知り尽くしているからこそ不安なんですよ」


 言いながらあながちこれも間違いではないと思った。相手のことを知れば知るほど長所が見えてくるが、同時に短所も自然と見えるようになる。

 そこで長所ばかり見れないのが人間なのだ。それに愛が加われば、長所より短所が先立つ。人はいつだって自分のことより他人のことの方を大きく捉えるんだよ。

 きっと不安だったのはそういうことだろうと納得していた。それに私は人に不安を与えなくてもいいほど優秀な人間じゃないしな。


「知り尽くしているからこそ不安……。まあ、色々ありましたもんね」


 手を当てながら、ずずっと鼻を啜る先生。さっきの涙が残っている訳ではないだろうが、この三年間を思うと自分もそうなりそうだ。


 四月に先生と出会い、十月に先生と雑誌整理をして、十二月に雛乃とテスト勉強をして先生にアドバイスを貰って、一月に先生と凍える書庫で本返却をした。

 五月に先生といつも通り駄弁りながら当番をして、七月に先生とばったり本屋で会い本を紹介してもらって、八月に先生や檜木くんと書庫整理をして、十一月には文化祭があった。

 六月に檜木くんをマンツーマンで指導して、九月に苦労しながら図書館報を完成させ、二月には先生の昔話を聴いて、三月にはこうして様々な人に合格報告ができている。


 ここでは語りきれないほどに本当に色んなことがあった。多分忘れてることもたくさんある。それを含めて巡り巡ったこの三年間は濃密な時間で、感慨深いものに思えてくる。


「なんか……ありがとうございました」


 先生は急にぺこりと頭を下げる。流れからすれば唐突だったかもしれないが、私同様に思い出に浸っていたのだろう。だから同じ気持ちだった。


「先生も。この三年間本当にありがとうございました」


 流れる沈黙。明らかにこの良質な雰囲気を壊したくないとの思いがこの空間に充満していた。それは優しさともとれる。

 だからどちらもその心地よい沈黙をひたすらに堪能していた。先生とは幾度となく言葉を紡ぎ、積み上げていくことで、居心地のいい空間を作り上げてきた。でもこの静寂すら心地いいなんて、最後まで気づかなかったなあ。

 どのくらい時間が経ったか分からないが、なんとなく頃合いかと感じ始めた時、同時に先生が口を開いていた。


「今日はこれで?」

「ええ、まあ……」


 と言いかけたけど腰は上がらない。身体が別れを拒絶していた。その言葉を口に出さず、この場所を永遠に去ることを拒絶していた。

 天啓なのかもしれない。本能なのかもしれない。少なくともこの保留は私に有効に働いた。


 代わりに心臓がバクバクしてきた。おかげで全身が熱く火照っている。受験本番でも合格発表でも、こんなにはならなかったのに。

 胸が痛い。それが緊張からか、叶わぬ想いからか、私にはもう分からない。けどこの胸の痛さはきっとその想いが出たがっているからだ。


 陳腐だ。実に陳腐だ。その言葉をまさか私が言う羽目になるとは。

 でもこの三年間、巡り巡って分かったことがある。「好き」というのはたくさんあるということ。恋とか親愛とか性愛とか。人限定じゃなくても物にも言える。これは予想通り。中学生の無知な私でもとっくに知っていた。

 でもたくさんありすぎるんだ。ありすぎて、ありすぎて先生と関わるほどそれは際限なく膨らんでいく。


 そうやってできた複合物の中身は何なのか、何でできているのか。それは誰も知らない。だけど名前だけは誰でも知っているんだ。


「宇治川先生」


 先生のくりりとした目が大きく揺らぐ。胸に軽く手を当て、私の次なる言葉を待っていた。先生はそれが分かってたりするのだろうか。

 春の麗らかで、暖かい陽光が差し込んできて、部屋中がキラキラとした光で溢れていた。直視できずに、私は目を細める。これはなんだか……告白みたいだ。


 最後にその名前を呼んで、ついに堰は切れた。口から出るのは真っ白な純粋。

 ああ。きっとその言葉で終わる陳腐な小説の主人公はこの言葉を言いたかったんじゃない。見つけ出した答えの末に、これしか言えなかったんだ。やっと分かってあげれたよ。


「貴女が好きです」

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【連作短編集】乙女ノ好キ巡リ 明日野ともしび @tomoshibi420

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