五月、「好き」の安息地にて

「岸辺さんは読書がお好きなのですね」


 凛とした宇治川先生の声が学校図書館の静謐な空間に溶け込んでいく。「図書館では静粛に」はマナーではある。しかし全国有数の図書館敷地面積の広さという誇っていいのか、よく分からない魅力を持つこの高校の図書館で、多少の会話は誰も気にしないし、聞こえたりもしない。

 むしろ先生の細々とした優しい声はたいへん心地よく、これでマナーと咎めるのは、風鈴の音をノイズと捉える野暮さがある。


「いえ、そうでもないですよ」

「あら、一年以上図書館に入り浸びたっているから、てっきり『本の虫』なのかと思っていました」


 ぺこりと勘違いしていたことを謝るように頭を下げる先生。別に謝ることでもないと思うが。これだからバカな男子生徒は先生の言うことを聞かないのだ。

 一年以上入り浸っているのは、毎週の図書委員の当番があるからだ。今日も実は貸し出し用パソコンの目の前に置きながら図書当番中である。忙しくないのでこうして雑談に興じているが。しかし私はこの時間は嫌いではなく、むしろ至福の時である。


「読書はあくまで自分の知識のためです。好きだからじゃないですよ」

「へえ、偉いですね」

「話、聞いてました? 図書委員なのに読書を好きじゃないとか」

「もちろん聞いてましたよ。その上で、です。最近は多いですからね、楽したいがために図書委員になる人とか」

「まあ、確かに」


 隣に座る先生は少し肩を落としながら、愚痴のようなことを口にする。その気持ちは図書委員として分からなくもない。

 うちの高校ではクラスのホームルームで委員会に所属する人を振り分けるが、図書委員会というと基本的には週に一度、図書当番があるだけなので、楽な委員会として非常に人気が高い。……しかしそれはあくまで表面上で、実際は書庫整理や新聞作りなどやることは多く、「楽したい」からの激務という落差でサボる人も非常に多い。そのため常時、人手不足な委員会でもある。

 その分の仕事は他の図書委員にも行くが、図書館司書である宇治川先生にももちろん行く。そのため心労が絶えない様子だ。


「だから岸辺さんにはいつも助かっています。書庫整理とかも積極的に助けてくれますし」

「はは、どういたしまして」


 思わず乾いた笑いが漏れる。確かに手伝いをよくするのは事実だが、別にお人好しだからやっているのではない。「楽したい」と同じくらい低俗な理由からお手伝い、ひいては一年以上も図書委員まで務めているのだ。

 告白すると宇治川先生にこう……、もっとお近づきになりたいのだ。図書館に入り浸っているのはそれが理由だ。その正体が何かは分からない。少なくとも「好き」という言葉で片付けたくはない。


 こう思ったきっかけは直感的なものだった。一年前、つまり入学直後、初めて彼女を見た時にその一切、無駄な手入れをしていないさらさらの黒髪と丸ぶち眼鏡から覗く憂いを帯びた目、そしてどこか浮世離れし、周りの時間と隔絶したような彼女の雰囲気に一目惚れしてしまったのだ。


「それより宇治川先生は読書を好きでやってるんですか?」

「藪から棒ですね」

「そう……ですかね? 自分が知識のために読書してるから、先生は何のために読書しているのかと思っただけです」


 宇治川先生のおっとりとした疑問にギクリとしてしまう。実際はただの話題変えで思い付いた質問だったから。けど宇治川先生を上手く誘導できたようで、「うーん」と考えている様子。やがて彼女は口を開く。


「最近というか、私が貴方くらいの年の時には好きで本を読んでましたが、子供の時はそうじゃなかった気もしますね」

「子供の頃は読書は好きじゃなかったと?」

「いえ、そういうことではなく。父も母も読書家でしてね。私は高ーい本棚に囲まれて育って、なんというか読書が生活の一部に組み込まれてるような家庭でしたから。なんというか読書がご飯を食べるくらい重要な生活サイクルだと思ってたのですよ」

「一般家庭生まれには分からない感覚ですね」


 自分の家族を思い浮かべても父はマンガ、母はゴシップ誌を少し嗜む程度だ。なんなら個人の蔵書数で考えたら、自分が一番多いだろう。しかもそれはこの一年で買い揃えた本たちである。


「そうですかね? 私は本に囲まれた家庭が一般的な家庭だと思っていたので、ピンと来ませんね」


 きょとんとしながら、上品そうに口許を押さえ、「ふふ」と小さく笑う。この図書館の静寂がなければ、聞き逃しそうな程、小さく。ああ、様になるなあ。

 それにつられて、先生と同じようにジョークを言う。


「先生の方が『本の虫』じゃないですか」

「『本の虫』ですか。そうかもしれませんね。両親も『本の虫』なので、うちは虫一家かもしれません」

「あはは、虫一家ってなんですか」


 これは驚いた。ジョークにジョークを返してくるとは。珍しさも相まって、思わず笑い声を上げてしまう。しかしすぐにハッとする。ここは図書館だ。ぺこりと先生に謝るつもりで礼をする。

 こそこそ話をするように小さく


「すみませんっ」


 と付け加える。すると先生は瞑目して、うんうんと頷いている。


「いえ、大丈夫ですよ。分かっているなら」


 にこりと笑う姿に見惚れてしまう。ダメだダメだ、相手は同性の女性でしかも禁断の恋の常習である教師。少女マンガでもテーマを詰め込みすぎだ。私の中で生まれた邪な気持ちを振り払うように首を振る。

 宇治川先生は手の平を見せる。しかしその先は私の方ではない。


「あっ、貸し出しですか?」


 見惚れている間に図書館の利用者が本を携え、机を挟んで目の前で待っていた。


「はい、お願いします」


 本を渡してくる。それを受け取り、素早く貸し出し作業をする。一年も図書委員をしているので、この程度はお手のものだ。他のことを考える余裕だってある。

 そういう時はだいたい利用者の本の書名と作者を見る。これから本を買ったり、借りたりする時の参考にするためだ。小説に関していえば、トレンドや作者の人気が分かったりするので、割と役に立っている。

 書名をちらと見る。『1980年代のパンク・ロック』。見たことがない本だが驚きはしない。所蔵数が多いので、本を全部把握できる訳もないし、学生の要望でどんどく増えているので、本のテーマがマニアックでも不思議ではない。

 一番の衝撃はこれを借りる人だ。男子生徒で学ランを着崩さずきちっと着て、紀章きしょうを見る限り一年生。小動物然とした雰囲気があり、そんな名もなき彼がハードそうな本を借りることは少し驚いた。

 そのため手続きが終わり、彼が去ろうとする後ろ姿を無意識に眺めていた。それを不可解に思ったのか、宇治川先生が話しかけてくる。


「どうしたのですか?」

「いや、意外だなあと」

「ああ、『1980年代のパンク・ロック』ですか。確かに見かけによらずかもしれませんね」


 説明足らずだったはずなのに、先生は私の言いたいことが分かったらしい。心をよめるのか! と思ったが、彼女も見ていたところは同じだったのだろう。つまり本の書名。そのことに形容しがたい嬉しさを覚える。

 返しにも嬉しさが滲み出て、饒舌になる。


「たまにいますよね。イメージと趣味が噛み合わない人。あっ、先生の読書はイメージ通りですよ」

「そうですね。その乖離がある人ほど意外で、話をしていると楽しかったりしますね。そういう意味では私はイメージ通りすぎて、微妙かもしれませんが」


 はあ、とため息をついている。言葉もなんだか自虐的だ。私は褒めたつもりだったのだが。


「なんでそんなに落ち込んでいるんですか?」

「……学校は割と飲み会が多くて、よく参加させられるのですが」

「へぇ、意外」

「当然、色々と話をしないといけないと駄目で、そういう時に読書しか趣味がないと話が盛り上がらなかったりして、困ることが少々。しかも図書館司書で読書が趣味というのも意外性に欠けますし」

「うわあ、教師って大変ですね」


 宇治川先生の陰鬱な空気を読み取って、あえて空気が読めないことを言ってみる。話の主軸は趣味の乏しさの悩みだが、学校の大変さという風に主軸を置き換えてみた。


「……岸辺さんは何か趣味がありますか?」

「えっ、なんでそんなこと訊くんですか?」


 作戦失敗。趣味の話のままで行くみたいだ。


「今後の参考にするために、です」


 丸ぶち眼鏡から覗く先生の目がいつもと違う。熱意のようなものが感じられる。

 それにしても、あまり他の人の趣味を自分の趣味の参考にする話は聞いたことがない。趣味はアルバイトなどとは違い、自分が好きでやるものだからだ。そこには他の人は関係ない。それでもこうやって訊いてくるのは、先生が藁にもすがる思いであり、また趣味の乏しさを表しているようにも思う。


「えぇー、趣味かあ。読書もそうですけど、なにがあるかな……。写真を撮ったりとかチェスとかですかねぇ」

「へぇ、多趣味ですね」

「多趣味……?」


 思わず疑問符がつく。趣味を三つ並べただけで多趣味。私はそう思わない。なんというか先生の趣味音痴さが出た気がする。


「写真を撮るのは上手いんですか?」

「え、全然。使ってるカメラは一眼レフですけど、こだわりなんてないですし」

「何かそういう系の賞を取ったりしたことは?」

「応募したことすらありませんよ」

「あの……、失礼にも思われるかもしれませんが、それで楽しいのですか?」


 宇治川先生の目はあくまで純粋に私を見つめてくる。その様子を見ると、失礼とはまるで思わなかった。むしろその純粋な目には不気味な程の不可解さを表すものがあった。


「普通に、楽しいですけど……」


 どうしてか訊かれている私の方が、おずおずと答えることになる。何かがおかしい。会話は噛み合っているのに、その奥で噛み合っていない感じがする。そこでピンと来る。噛み合わない正体、それと先生が趣味をあまり持たない理由。


「先生、ひょっとしてその趣味への造詣が深くないと、趣味って言っちゃいけないと思ってます?」

「ち、違うんですか?」

「違いますよ! 趣味っていうのは、好きならそれでいいんです!」


 バッと回転椅子から立ち上がる。右拳を強く握りながら。その姿はさながら選挙演説する政治家のよう。


「図書館では静粛に」


 これは先ほどとうって変わって、本気で注意されたパターンだ。諫められたので渋々座るが、熱はまだ冷めてない。声は絞りながら早口で喋る。


「なぜかプロフィール欄で特技と趣味って分かれてるじゃないですか。話のネタになるって意味では区別する必要はないのに。でもそうじゃないのは根本的に二つが違うものだからですよ」

「つまり?」

「簡単に言うなら特技は出来ること、趣味は好きなことっていう区分けになりません?」

「そう、ですね」

「なので得意だったり、出来ることは特技と言えばいいのであって、そうじゃなくても好きと言えるのが趣味なんじゃないかと」


 へぇ、と感嘆の声を上げる宇治川先生。年は10歳も離れ、読書で培った知識があり、しかもながりなりにも教師(学校司書という立場ではあるが)である先生に何か教えることができたのは、なんというか……快感があった。

 丸眼鏡をくいと上げているが、眼光は鋭いように見える。これはもしや先生のいつものアレか。


「なるほど。ただ好きなことを趣味というのは、よく分かりました。けれど古人たちはこうも言っています。『好きこそ物の上手なれ』。つまり好きであるなら、必然的に上手でないといけないのでは?」


 出たよ、先生のめんどくさい所が。至って真面目な表情をしている先生だが、それは表情を無理やり張り付けているに過ぎない。その証拠に口許の笑みは隠しきれていない。

 つまり楽しんでいる。じゃあ何を。もちろんこの状況を。詳しく言うなら、このディベートをしているような状況を楽しんでいる。


「……それって答えないといけないですか?」


 早々に白旗を上げる私。こういう言い争いみたいなのは強くないので、先生に勝てた試しがない。それに何度もこういう状況に陥っているので、分かりきっているというのもある。


「別にどちらでも。これは私の興味です」


 先生はこと無げに答えるが、心の中が見え透いてしまう。……多分、答えなかったら、先生が悲しむだろうなあ。先生の知識欲は半端ではない。学べるなら私みたいなガキからでも学ぼうとする。

 そんな姿が愛しくて、私は結局答えを探してしまうのだ。


 ちょうどカウンターに本の返却をする利用者が来た。見たことある顔だ。名前は知らない。おそらく同じクラスだが、クラス替えして間もないから仕方ないよね。その人の手続きをテキパキとこなしながら考える。本の書名も作者名もこの時は一切見ていなかった。

 利用者がまた一人、この図書館から去っていく。業務から一息入れたところで、訥々と喋り出す。


「……確かに上手に越したことはないと思いますよ。けど人間、そうも上手くいかないじゃないですか」

「…………」


 先生は無言だ。頷きもしない。よく相槌をしてくれる人なので、こういうのは珍しい。


「好きで何かになれるなら、この世界は勝ち組だらけです。野球のドラフト会議で全員一位です。でも実際は序列があって、溢れ落ちていく人がいる。それって辛いことだと思うんですよ。好きなのにどうにもならないのは」


 自分で何を言ってるか、よく分からない。こんなに哲学的なことを言う必要があった? 後で思い出して恥ずかしさで、ベットの上をのたうち回るパターンだ。


「まあ、その、だから、別に得意でも何でもない『好き』が認められる安息地が必要なんじゃないですかね。その分かりやすい名前が趣味なんじゃないかと」

「なんだか哲学的ですねえ」

「うっ……、かもしれないです」


 見事に思っていたことを言い当てられてしまった。あまりの恥ずかしさにむずむずする。


「例でドラフト会議を挙げてましたけど、分かりやすいですね。高校球児が全員プロになりたくて、野球をしてませんものね」


 先生は自分の言葉を噛み締めるように頷いている。私の説明はあまり要領を得ていないように思うが、勝手に自己完結して、納得してもらえるならありがたい。

 勝手に論破したような気分になって、吐息が漏れる。


「ふぅ」

「ふふ、疲れましたか?」

「考えるのは疲れます」

「考えるのはいいことです。実際にこうやって素晴らしい答えが出て来ましたし」


 パチパチと小さく拍手するようなポーズを取る先生。図書室の中ということで、一切音は出していない。私とは違うな。


「しかしさっき読書は好きではないと言ってましたよね。それでは好きを前提している趣味には当てはまらないのでは?」


 うぎゃっ、と心の中で声が漏れる。もしかしたら口から出てしまっていたかもしれない。痛いところを突かれた自覚があった。どうやら先生とのディベートはまだ終わっていなかったみたいだ。


「まあ……、そこは本当の哲学じゃないので、諦めてください……」

「ふふふ」


 どこかのお姫様のように手で口許を押さえ、ただ小さく笑っている。これ以上、追及はしないようだ。大人だ。けどこっちを論破するまで、意見を言い続けたのは子供っぽい。このギャップがずるいよなあ。


 そんなことを密かに思いながら話にも一段落つき、気分転換がてらに窓の外を見る。五月という夏の入り口のせいか、まだ陽は完全に暮れていない。真っ赤な夕陽と真っ黒な夜空がせめぎ合いを始めている。ここで昼が負ければ、何もかも見えない夜が始まる。

 特別なことは何もない風景だ。この時期であれば、日本のどこでだって見れる光景。けどその光景を見て、何か思わずにいられないのは日本でも私だけだろう。

 なんとなくせめて陽が沈む前に、と昼に感情移入してしまう。


「もうそろそろ閉めますかね」


 壁掛け時計に目を遣やると、六時を過ぎていた。まあ外を眺めていてそのぐらいの時間だろうとは思っていたが。

 正式な閉館時間は六時半である。しかし広い図書館なので、この時間くらいからそろそろ閉館することを利用者に伝えなければ、出遅れた利用者を鍵でこちらが閉じ込めてしまう場合がある。なのでこの時間帯から利用者にお触れを出しておく。飲食店のラストオーダーみたいなものだ。


「そうですねえ」


 パソコン回りの書類を先生はパタパタと片付け始める。私は室内にいる生徒を驚かさない程度に、図書室がもう少しで閉まる旨を言って回る。やがて元の場所に戻ってくる。

 そろそろ先生ともお別れだ。まあ当然、今生の別れなどではなく、頑張れば明日にも会えるのだが。けど一抹の寂しさを覚える。

 そこで一つ思いついたことがあるので口にする。断じて別れが惜しくて、帰る時間を遅めようとした訳ではない。


「あの、先生。一つだけ付け足しを」

「うん?」

「確かに私は読書は好きじゃないかもしれません。けど絶対に嫌いってことはありえないですから」


 先生に相対し、真っ直ぐ目を見つめる。これは言い訳ではない、本心だと伝えるために。

 悪く思われたくない不安から発した私の言葉に対し、先生はただにこりと笑う。私にはそれが聖女の笑顔に見えた。


「知ってますよ。これだけ本を借りているのですから」


 優しい言葉と共に、指差した先は図書館貸し出し用のパソコン。自分の所属する四組の名簿がスクリーンに写し出されている。クラスごとのリストから貸し出し作業をするシステムになっているので、さっきの利用者はやはり同じクラスだったようだ。

 同時に今までの本の貸し出し数も見れるようになっている。53。隣には「岸辺涼」の名前。これが私の数字だ。一般的な学生の貸し出し数が分からないので、この数字が大きいか小さいかは分からない。しかしクラスの中では一番大きい数字だ。裏を返せばそれだけ図書室に通いつめ、関わっているという証拠だ。その理由はお察しで。


 六時半になり、私は図書室を出る。先生が鍵を閉めたところをしっかりと見届ける。既に何度も経験している。しかし名残惜しい。何がって? 宇治川先生はもちろん、この学校図書館という空間も。

 先生に帰りの挨拶し、やがて学校という空間からも私は離れていく。その道すがら、少し思索にふける。


 私は宇治川先生を好ましく思っている。もっとお近づきになりたいとも。でもそれは「好き」で表せないからいいのだ。

 もし好きだったら……。考えたくもない。そこに行きたいのに、絶対に届かないのはどれだけ辛いことか。おそらく彼女がいる学校図書館からも足が遠のくだろう。

 そうして気づく。あの図書室という場は私にとっても安息地なのだと。宇治川先生には届かない、けどなんとか近くにはいられる居場所。趣味と似たようなものだ。得意ではない、それでも好きと語れる場。


 出来ることなら、いつまでもその空間にいたいものだ。

 燦然と輝く夜空をふと眺める。夜が始まってしまった。


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