2.櫻春宮の黒百合

 翌日。紅妍こうけん春燕しゅんえんきゅうに向かった。えい貴妃きひに頼んだ瓊花たまばな近くの花を詠むためである。永貴妃に挨拶をした後、庭に出る。庭を任されているらしい宮女が紅妍を案内した。


杜鵑花つつじが植えてある」


 庭の奥に杜鵑花が植えてあった。先日祓ったしゅう小鈴しゃおりんが好んだ花である。すると宮女は言った。


「永貴妃様に命じられて持ってきたのです。大都の外れで侘しく咲いていましたから、それならばこの庭に植えた方がいいだろうと仰って」

「……良いと思う。この庭によく似合ってる」

「ありがとうございます」


 ここで杜鵑花が咲くのは来季だと思っていた。それがまさか、あの庭から移してくるとは。小鈴が愛でた杜鵑花をすぐにでもここに植えたかったのだろう。永貴妃は温かな心を持っているが豪胆な一面もあるようだ。


 ついで紅妍の瞳は瓊花を捉える。永貴妃が話していた通り花の季は終えている。


(瓊花の鬼霊に関するかもしれない。本当は瓊花を花詠みしたかったけれど)


 その近くに石楠花しゃくなげが咲いていた。桃紅色をした花が緑の葉によく映える。宮女にひと言告げて、一輪手折る。それを手に乗せ、花の記憶を見る。


 花は雄弁に語る。詠みたがっているのだ。けれど聞く力を持っていなければ花がどれだけ詠みあげようと聞こえない。手中に乗せた石楠花に意識を傾ける。この花はのびのびと穏やかに育っているようだ。


(あなたが視てきたものを、教えてほしい)


 ゆっくりとほぐれていく。意識は溶け、石楠花と混ざり合う。そこからは数多にある花の記憶から、探しているものをつかみ取らなければならない。花の記憶は膨大だ。ひとつひとつの記憶は絹糸のように細い。


(瓊花の鬼霊に関するもの。あなたは、瓊花の鬼霊を知らない?)


 花に問いかける。探している記憶がある時、花が心を開いていればそれは自ずと寄ってくる。紅妍はその記憶をつかみ取るだけだ。しかし、今回は何も来ない。探しているものがないというより、この石楠花が知らないようである。


 紅妍は瞳を開いた。


「……ここにある瓊花ではない」


 ぽつりと呟き、ゆっくりと枯れていく石楠花を木の根元に戻す。完全な花詠みとならなかったので枯れていくのに時間がかかる。


「ごめんね。違うのに、あなたを手に取ってしまった」


 石楠花が可哀想に見えたので詫びる。石楠花は微笑むように桃紅色を濃くした後、一瞬で褐色になる。風が吹けば枯花は朽ちて、土と混ざるのだろう。

 瓊花はここではない。内廷に植えられた瓊花はさほど多くないはずだ。秀礼が調べると言っていたので結果を待つしかないだろう。


(次は、黒百合があるという櫻春おうしゅんきゅう


 紅妍は宮女に礼を告げ、春燕宮を後にした。




 春燕宮から櫻春宮までは近い。どちらも春の名を冠しているので近くに建てられている。

 高塀に囲まれた通路を歩いていく。供に連れてきた藍玉や冬花宮宮女が数名。みなを引き連れて歩いていくのだが。


(誰かついてきている?)


 紅妍らの後から少し遅れて、何者かがついてきている気がする。何度か振り返って確かめたがその姿は確認できない。血のにおいはないので鬼霊の類いではないだろう。


(気のせいかもしれない。鬼霊じゃないなら放っておいた方がいいか)


 下手な面倒ごとに関わるまいと紅妍は前を向いた。




 そうして櫻春宮に着いた。璋貴妃が使っていたという宮である。現在は誰も使っていないので手入れはそこまでされていない。今回の目的は櫻春宮の庭にあった。


 見渡すと、黒百合は簡単に見つかった。庭の奥、雑草の茂みからひょこりと伸びた花がある。周りに百合は植えられていない。そこだけ不自然に黒百合が咲いていた。

 百合の季は合っている。だが黒というのがどうにもおかしい。そこは塀の近くで陽がささず湿度に満ちているというのに、黒百合は陽が当たっているかのように花を開いている。違和感があった。


(なるほど。これは、いやな花だ)


 しかし櫻春宮に、呪詛が持つ独特の気は流れていない。あれはその場所を身が重たくなるような陰鬱とした気に満たすものだが、ここはそれが感じられなかった。


 紅妍は藍玉たちに離れるよう命じた。もしも何か起きては困るからと遠ざけたのである。藍玉は華妃が見える位置の、少し離れた場所で見守ると決めたようだ。

 宮女を遠ざけたところでいよいよ黒百合に近づく。花の近くで身を屈め、まずはじいと黒百合を眺めた。


(生気がない花)


 あらためてそう感じた。花は生き物だ。同じ木から咲いたものであっても形や色など個性を持ち生きている。同じ種類の花だからといってすべて同じではない。それぞれが見る記憶は異なる。花や草に近づくとみずみずしい気を感じるのはそれらが生気を持っているからだ。

 しかしこの黒百合から生気をまったく感じない。紅妍は黒百合にそっと触れる。花詠みをする時のように意識を傾けて、花に語りかける。


 花に触れても反応はない。空っぽの場所に手を伸ばしているようだ。


うつろ花。これは空っぽで、何もない花だ)


 虚ろ花は、人の手によって作られたもの。自然のことわりに背いて存在するのだから生気は持たず、人の世を見ることもない。摘んで花詠みをしたところで得られるものは何もない。花の形をして、けれど花ではないものだ。

 ではなぜ、理に背いた花がここにあるのか。それも忌み色である黒の百合が。


(……呪詛じゅそ


 この花は呪詛があったことを証明している。櫻春宮のあたりに呪詛の気はないことから、この黒百合は既に役目を終えているのだろう。

 虚ろ花として存在する黒百合は摘んだとしても、数刻ほど経てばここに戻り、夜も花を閉じることはない。役目を終えた虚ろ花だとしても祓わなければ残り続ける。


 こういう時にも花渡しは使える。魂を乗せずとも花を覆う負の感情ごと浄土に渡すのである。この百合にとってもそれが救いになるはずだ。

 意を決して黒百合を摘む。茎は簡単にぽきりと折れた。みずみずしさは感じられない。


(可哀想だ……こんな風に使われてしまうなんて)


 元は美しい百合を咲かせていたのだろう。それが呪詛の元として使われ、ねじ曲げられてしまった。それを思うだけで胸が痛む。

 花は多くを語る。詠みたがっているのだ。人がそれを聞く術を持たないだけである。きっとこの花も語りたいことがあっただろう。それもできず、虚ろになってしまった花。


(わたしは、この花を救いたい)


 両の手に花を乗せて、瞳を閉じる。集中する。自分自身は細い糸のようになり、花の中に溶けていく。虚ろ花に語りかけるのだ。


(これからあなたを浄土に送る。もう誰かを呪わなくてもいい)


 空っぽの花は答えない。そしていつもの花渡しよりも難しい。花はゆっくりと煙となって溶けていき、それまでに聞こえるのはこれまで花が背負ってきた苦しみだ。込められていた負の感情が紅妍の身を襲う。鋭く、針のようなものが身に刺さっていくようである。


(百合が抱えていた痛み……これほど辛い思いをしてきた)


 理を捻じまげられ存在しているうちに蓄えた負の感情。それを受け止めながら少しずつ煙に溶かしていく。


「花よ、渡れ」


 額が汗が浮かんだ。いやな汗である。べったりと張り付くようなそれは紅妍の体が痛むことを示しているようでもあった。噛みしめた奥歯が鳴る。痛くてたまらない。花を乗せた手は痛みに震えているので花が煙と溶けていくそれが揺れている。


(虚ろ花を祓うのは……こんなにも苦しいなんて……)


 この花にどれほどの恨みが込められていたのだろう。ぐ、と唇を噛んで痛みに耐える。


(この花が背負った苦しみはこれ以上だった。鬼霊が背負う紅花の苦しみだって、わたしがいま味わっているものよりつらいはず)


 だから屈してはならないと自らを奮い立たせる。


 ようやくすべてが煙になった。黒百合は白煙になり、風に流され宙にのぼっていく。

 それを見上げた後、紅妍は長く息を吐いた。額は汗ばみ、体までべったりと汗をかいている。疲れ果て、その場に座りこんでしまいたいほどだ。


 その時である。


「華妃様! 鬼霊、鬼霊です!」


 後ろの方から悲鳴が聞こえた。藍玉のものだ。

 花渡しに集中していたので気づいていなかった。意識すれば確かに、ひどく濃い血のにおいが漂っている。


 紅妍は振り返った。鬼霊は藍玉たちを無視してこちらに歩き、紅妍のすぐそばまで迫っていた。


「藍玉! 逃げて!」

「ですが華妃様が――」

「わたしは大丈夫だから」


 鬼霊は紅妍を見ている。藍玉たちには目もくれていないが、その気がいつ変わるかはわからない。逃げるならば今のうちだ。

 宮女たちの一部は櫻春宮から逃げたようだが藍玉はまだ残っていた。もう一度、紅妍は叫ぶ。


「逃げて!」


 紅妍の剣幕に気圧されたのか、ついに藍玉も足を動かした。腰を抜かして座りこんでいる宮女の手を取って離れていく。


 それが去ったのを確かめた後、紅妍は鬼霊と対峙する。まだ少しばかり距離がある。その長い爪を振り上げたところでこちらには届かない。


(女人の鬼霊。そして――)


 面布で隠しているため顔はわからない。しかしその面布には瓊花が咲いていた。その瓊花は秋芳宮宮女の最期を思い出す。


(まさか、これが瓊花の鬼霊)


 面布の瓊花は白い。となれば別に紅花が咲いているはずだ。鬼霊は死の原因となった箇所に紅花を咲かせる。見れば鬼霊の左胸に黒い瓊花が咲いていた。


(鬼霊に黒花なんて聞いたことがない。どうして)


 それは不自然なほどに黒い。黒百合と同じ、重たく沈むような黒色だ。


 おかしなことはそれだけではなかった。鬼霊の指である。両の手指に黒い百合が咲いている。百合にしては小さすぎるのだが、形にまちがいはない。その百合もまた黒かった。いくつもの小さな黒百合が咲く隙間から、伸びた鋭い爪がある。


 これまでに紅妍が見たことのない鬼霊だった。

 その異様な姿に気を取られてしまったがため、鬼霊との距離が詰まっていることに気づいた時には遅かった。


(まずい。これではもう……)


 庭は塀に囲まれていて、紅妍がいるのは庭の奥である。これ以上の逃げ場はない。そして目の前には瓊花の鬼霊。花を摘む時間はない。もし花があったとしても、先ほどの黒百合を花渡しするのに体力を消耗しすぎてしまった。一時の難を逃れるための花渡しさえ、難しいだろう。


 絶体絶命という言葉があるのならこの時かもしれない。何とか時間を稼げればいいのだが――じり、と後退りをした瞬間、瓊花の鬼霊が手を振り上げた。


「紅妍!」


 終わりかと目を伏せようとした時、誰かが紅妍の名を呼んだ。その声に瓊花の鬼霊が動きを止める。

 おそるおそる瞳を開いて覗き見れば、こちらへと駆けてくる者がいた。光を浴びて光るは宝剣。鞘から抜かれて黄金色の刀が光っている。


「秀礼様!」


 こちらに駆け寄るその姿の名を呼ぶ。彼は鬼霊の後ろに立つと宝剣を構えた。


「……私の宝剣は鬼霊を斬り祓う。覚悟しろ」


 鬼霊は振り返り秀礼を見やる。先ほどまで紅妍を追い詰めていたのが形勢は逆転し、秀礼と紅妍に挟まれている。しかも秀礼が持つは鬼霊を斬り祓う宝剣だ。

 瓊花の鬼霊はしばし動きを止めていたが、足先からするすると黒煙があがる。少しずつ姿が薄くなっていく。


「待て! 逃げる気か!」


 秀礼が叫び、宝剣を振るった。

 しかしそれよりも瓊花の鬼霊が消える方が早かった。宝剣が切り裂くは消えた後の黒煙であり、鬼霊の姿は消えていた。


「……くそ、逃げ足の速い鬼霊だ」


 手応えから瓊花の鬼霊を斬れなかったとわかったのだろう。秀礼は眉間に皺を寄せて鬼霊がいた場所をめつけている。

 あたりから血のにおいが消えていく。瓊花の鬼霊は身を隠してしまった。どこかに潜んでいるのだろう。気配がないので追うこともできない。


 秀礼は宝剣を鞘に戻した後、紅妍に寄った。


「無事か?」

「……はい。助けていただきありがとうございます」


 秀礼の元へ一歩寄ろうとしたが、うまく足が動かない。花渡しの疲労だけでなく、瓊花の鬼霊と対峙して竦み上がっていたのだ。よたよたとした紅妍の動きから察したらしい秀礼が手を差し伸べる。紅妍はその手を借りてようやく、一歩を踏み出す。


「秀礼様はどうしてこちらへ?」

「近くを通りかかった時に、冬花宮の宮女と会ってな。櫻春宮で鬼霊に襲われ逃げてきたと聞いた。途中で藍玉ともすれ違った。あれも無事だから安心するといい」


 藍玉らも無事と聞いて安堵する。何事もなくてよかった。

 しかし秀礼はまだ納得ができていないらしい。ふらふらと歩く紅妍を訝しんでいる。


「何かあったのか? あの鬼霊も花渡しで立ち向かえばよかっただろう。ひどく疲れた顔をしている」

「先ほど、ここに咲いた虚ろ花を花渡ししていました」

「虚ろ花?」

「おそらく呪詛に使われた花だと思います。役目は終えていて空っぽでしたが祓わなければ理に背いて咲き続けます。それを祓うのに……少し、疲れました」


 足がもつれる。紅妍が転ぶ前に秀礼がそれを支えた。

 櫻春宮の門には人影がある。誰かがこちらを見ているらしい。藍玉らが戻ってきたのかと思ったが、その人影はすぐに消えたので藍玉ではないのだろう。


(また、誰かが見ている)


 確かめるにもそのような力がない。少し経つと藍玉や冬花宮宮女らが戻ってきた。鬼霊がいないことや秀礼の姿を確かめるなり、こちらに駆けてくる。


「華妃様!」


 青ざめた藍玉が駆けてくる。紅妍はすぐに声をかけた。


「わたしは無事だから安心してほしい。怪我もしていない」

「でも顔色よくありません。まさか先ほどの鬼霊に……」

「花渡しで少し疲れただけだから、大丈夫」


 声をあげるのも億劫だ。人の声を聞くことさえ頭の奥が痛い。


(虚ろ花を祓う代償は、こんなにも重いなんて)


 ため息を吐く。眠気がひどい。歩くのもままならずふらふらとしてしまう。

 その姿を見かねて秀礼が動いた。「静かにしていろ」と小さく告げたと思いきや身を屈める。何事かと思いきや、体がふわりと浮いた。紅妍の足は地から離れ、しかし足などに妙なぬくもりを感じる。視点も高い。見上げれば間近に秀礼の顔があった。


「こ、これは――」

「黙っていろ。その様子では冬花宮まで歩くのもままならぬだろう」


 軽々と、抱きかかえてしまったのである。あまりの近さに紅妍は唇を引き結ぶ。鬼霊と対峙した時とは異なる意味で顔が強ばった。頬が熱い、気がする。


「冬花宮へ行くぞ。華妃を休ませる」


 秀礼は藍玉らに告げた。どうやら紅妍の意志を無視して、このまま冬花宮まで向かうつもりらしい。

 秀礼が歩くたび、紅妍の体も揺れる。自ら歩かずに景色が進んでいく。それもいつもと違う視点の高さで。


(これは……少し恥ずかしいな)


 不安定さから逃れるために何かを掴みたいがうまくできず、手を泳がせていると秀礼が笑った。


「腕でも首でも好きなところを掴んでおけ」

「い、いや……それはさすがに……」

「では落ちても文句を言わぬことだ」


 少し迷って、秀礼の襟を軽く掴む。こうして紅妍を抱きかかえて歩くのだから、想像しているよりもたくましいのだろう。確かに時折触れる胸元は厚い。女人とは違うのだとあらためて認識した。


(熱が出そうだ)


 それは疲れからか、はたまた違うものか。ともかく紅妍は瞳を閉じた。いまは、この揺れが心地よい。


***


 目が覚めると薄暗かった。手燭の火も消えている。月明かりが差し込んでいなければ部屋は真っ暗だっただろう。


 あの後は冬花宮に着く前に眠りに落ちてしまった。秀礼がいつ帰ったのかもわからない。

 部屋を出れば宮女たちがいるのだろうが、まだ起き上がる気にはなれなかった。このままもう一度眠れそうである。


 しかし、出来なかった。眠気で朦朧としていた頭は部屋に満ちる香りで冴えていく。


(血のにおい――鬼霊)


 鬼霊が、部屋にいる。血のにおいの濃さからしてすぐ近くだろう。

 同時に血のにおいだけではない別の香がした。花の香りだ。

 紅妍は身を起こして部屋を見渡す。それと同時に、この香りが何の花だったかを思い出そうとした。


(いた。鬼霊だ)


 それは女人の鬼霊だった。だが瓊花の鬼霊ではない。顔もきちんと見えている。こちらをぼんやりと眺めている。紅妍から少し離れたところにいたがこちらに寄ってくる様子も、敵意も感じられなかった。

 鬼霊は見事な襦裙を着ていた。しかし胸に大きな百合が咲いている。その百合は淀んだ黒色をしていた。


(また、黒百合か)


 どうも黒花と縁がある日だ。几には花が飾ってあるのでもしもの時はその花を手に取ればいい。室内で鬼霊と遭遇した時のことを考えて、常に花を飾るようにしていた。


 鬼霊は襲いかかる気がなく、むしろ何かを伝えようとしているようだった。口をぱくぱくと動かしているのだが何も聞こえてこない。声はとうに失われているのだろう。


「……わたしに、伝えたいことがある?」


 落ち着いた声で、問う。

 鬼霊は答えなかった。唇を動かそうとし、けれど諦めたように目を伏せる。この鬼霊は自我を保っているようだ。だからこそ紅妍の声を聞き、何かを伝えようとしているのだろう。


 そして、鬼霊は膝を曲げた。その場に、何かを置いたのである。それを置き終えた後、するすると煙があがる。その煙は鬼霊の足先から生じ、あっという間に全身を包んでいく。


「待って。消えないで」


 声をかけるも間に合わず、鬼霊は煙となって消えていった。

 紅妍は立ち上がり、鬼霊がいたところに寄る。そこに置いてあったのは白百合だった。


 そこで気づく。血のにおいは消えている。けれど、花の残り香はまだ残っている。この花の名がいまになってわかったのだ。

 この香りは百合だ。そして、帝の寝所に通う鬼霊も百合の香りを纏っていると、琳琳が話していたことを思い出す。

 ふたつが繋がり、答えが出る。


(いまのが光乾こうけん殿でんの鬼霊?)


 光乾殿の鬼霊だとするなら、なぜ冬花宮に現れたのだろう。そして、ここに残された白百合。

 紅妍はそれを手に取る。いま摘んできたばかりのようにみずみずしい。


(わたしに、花詠みをしろと伝えたかったのかもしれない)


 声を持たぬ鬼霊と、詠みたがる花。それらの声を拾うために、手中の百合に意識を傾ける。昼間の疲労は消えていた。


 花に意識を溶かす。同一になる。自らの身は細く縮め、花と混ざり合う。そして探るのだ。この花、鬼霊が伝えたいことを。


(あなたが視てきたものを、教えてほしい)


 白百合は、詠みあげる。眼前にその景色が広がった。


◇◇◇


 庭、である。塀に囲まれていることからどこかの宮だろう。渡り廊下の柱は森よりも深く濃い緑色に塗られていた。

 渡り廊下を歩いてくる者は柱と等しく森のような蒼緑の襦裙と衫を着ていた。結い上げた髪には立派な簪が数本、金色の歩揺が揺れていた。後ろ姿しかわからないので顔までは見えない。しかし身なりのよさから宮女ではない。妃だろう。

 その後ろには黒布を被った者がいた。恰幅のよさから男だと思われる。二人は渡り廊下のきざはしを下りて庭に出る。


『では、良いのですね』


 男が問う。ここから見える位置に咲いた百合を手に取っている。


『これが返ってしまうこともございます。その場合は何かを失うことになるかと』

『命までは取られないのであろう』

『それは、何とか』

『ならば構わん。やれ』


 男は百合を一輪、摘み取る。懐から取り出した木箱にそれを収めた。

 黒布を被っているということは、この男は姿を隠す必要があるのだろう。忌み色である黒を好むのは限られている。


(呪術師だ)


 これは呪詛をかける瞬間の記憶だろう。問題は呪術師にそれを依頼した妃が誰であるか、そして呪いの矛先がどこにあるかだ。

 景色が揺らぐ。花の詠み終える頃が近づいている。ここに鬼霊が花を渡してまで伝えたかったことがあるに違いない。


(探さなきゃ。この場所を)


 少しずつ暗くなっていく。まもなく花詠みは終わった。


◇◇◇

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