4.選ばれる者と選ばれぬ者
昨晩の雨は嘘のように晴れている。夏は先だというのに地面を焦がすような陽が大都を照らしていた。
「今回は
気にしているのならば抜け出さないのが一番だろうに、秀礼はからからと笑っている。紅妍はというと、清益に気づかれぬことを願って身を縮ませるばかりだった。
前回と同じように露店を覗くのではなく、行き先が決まっている。西部の外れに行くと聞いた。
「大都の西側は疫病が流行っているのでは?」
「そうだ。西と南がひどい」
ならば余計に言ってはならない気がする。疫病に罹ることはもちろん、それを宮城に持ち込むこともよくないだろう。
「そう案ずるな。原因はだいたい見えている――水に触れたり、飲まなければよい」
「水、ですか」
以前大都に来た時もその話を聞いた。確か男が北の井戸から水を運んでいたはずだ。それがどうして疫病に繋がるのかと首を傾げれば、秀礼が答えた。
「大都の西と南は、
「なるほど。水に原因があるから、発症地域が限られているということですか」
「ああ。探ったところ、西や南の水は濁っているらしい。飲まずとも触れただけで患う者がいるそうだ」
そうなれば水に良くないものが混ざっているのだろう。しかし向かうのは井戸ではなく、ある家らしい。それは西のはずれにあるそうだ。
通りから外れた道は人の気配が少ない。自然も次第に増えていく。道端には
「まだ遠いからな、少し休むか」
秀礼が言った。指が示す場所には小高い丘があり落葉松と木製の
ほどよい、爽やかな風が吹いた。木の葉が揺れて、柔らかな音を奏でている。
「すまなかった」
秀礼が切り出す。何に対しての謝罪かわからず、紅妍は呆然とするだけであった。
「伺うと言っていたからな。待ちくたびれたことだろう。厄介な者が来ていて、その対応に終われてしまった」
「ああ、昨日のことでしたら、大丈夫です」
どうやら昨日は、紅妍が想像するよりも大変だったらしい。そのことを思い返していたらしい秀礼が深くため息を吐いた。
「良くない噂が流れていると聞いた。紅妍は大事ないか?」
「はい、今のところは。後宮での振る舞いは難しいのだなと日々痛感しています」
「……そうか」
秀礼は再びうつむく。何かを懐から取り出そうとしていたが、しばらく考え、手を止める。どうやら大事なものが入っているらしい。
「秀礼、どうなさいました?」
ここは大都であるから『様』は付けない方がいいだろう。そう判断して名を呼ぶ。しかし秀礼は目を伏せた後「い、いや何でもない」と告げた。懐に伸ばした手は何も掴めず戻ってくる。
逡巡しているような、しばしの無言が続く。紅妍から見て、秀礼は落ち着かない様子だ。
これは何か話をした方がいいだろう。そう考え、紅妍が切り出す。
「先日、
その名が出た瞬間、秀礼の体がびくりと震えた。
「……既に行っていたのか」
「はい。冬花宮にいらしたのと、北庭園で会ったのと二度ですね」
秀礼は額を押さえた。どうやら秀礼にとって琳琳はあまり好ましくないらしい。扱いに手を焼いているというのが表情から伝わってくる。
「お前にも迷惑をかけたな。昨日、琳琳が言っていたことが、まさか本当だとは」
「ということは、昨日秀礼も琳琳様にお会いになったんですね」
「実は、あれの対応に追われて、出かけられなかった」
来客とは琳琳のことだったと判明し、けれど疑問が解けても心が晴れることはない。琳琳のことだ、紅妍についてのよくない話を吹聴して回っているのだろう。秀礼の参った様子からもそれが伝わってくる。昨日琳琳からどのような話を聞かされたのか察するのは容易だった。
「琳琳はわたしの許嫁だ」
秀礼が告げた。その言葉に、知らぬうちに紅妍の顔が強ばる。
「いまは亡き
現在、秀礼の妃はいない。だが年齢からして妃を迎える時期だろう。縁談が決まっていたところで何らおかしくはないのだが。
(どうしてだろう)
爽やかに吹き抜ける風が疎ましくなるぐらい、身がずしりと重たい。紅妍の周りだけ雨が降っているような沈んだ心持ちである。
(どうして、苦しいのだろう)
秀礼の姿に胸が痛む。苦しくて溺れているような錯覚だ。けれどちゃんと息は出来ている。気が沈んでいるだけだ。
秀礼もまた、紅妍の方を見ようとはしていない。彼の視線は地面に向けられている。どこか暗い表情をしていた。
「その琳琳が昨日言っていた。お前が融勒と親しい、と」
やはり、琳琳は北庭園で融勒と紅妍が会っていたことを話していたのだ。わかってはいたが秀礼から告げられると苦しくてたまらない。
「私としては、紅妍が派閥争いに巻き込まれることは好ましくない。お前はお前で、そのままでいいと思っている。だが周囲はそう見ないのだろう――いや、違う。それは表向きだ。本当はあの話を聞いて……」
そこで秀礼は言葉を止めた。何かを悩んでいるようである。
意を決するのには時間がかかったようだった。深く息を吸いこみ、紅妍の方を見るまでしばらく無言が続いていた。
「……私は、なぜかわからぬが、焦った」
秀礼が呟く。その言葉には、秀礼自身もわからない戸惑いが滲んでいる。
「お前が融勒と会ったところで関係はないとわかっている。けれど焦った。お前が融勒にどんな表情を向けているのか想像するだけで苛立って、筆を折りそうになるほどだ。お前宛の文を書くのも心を鎮めるまで随分と時間を要した」
「焦り……ですか?」
「なぜ焦ったのかはわからぬ。このような話をしたところで、お前も困るのかもしれないがな」
秀礼自身も答えが出ていない。しかし紅妍に伝えねば気は収まらなかったのだろう。
(融勒様と親しく話していたわけではないけれど)
ただ依頼されただけである。だというのに秀礼はひどい慌てようだ。紅妍よりも体格は大きい、だというのに怯える小さな子供のように見えてしまった。
(この人も、こんな風に慌てることがあるんだ)
新たな一面を垣間見た気がした。それが妙にくすぐったくて、紅妍はくすりと微笑む。
「……お前、」
その微笑みを秀礼はしっかりと眺めていた。驚きに目を見開いている。
「笑った、のか?」
「あ、すみません」
「いや、いい――違う、よくはない。お前が笑うのは好ましいが、この場面で笑われるのは違う。だが……お前、なぜいま笑った?」
秀礼にしては珍しくまごついている。その姿も面白く、紅妍は笑みをこぼしながら答える。
「秀礼が幼子のように見えてしまって」
「な……」
「悪い意味ではなく、です。いつも凜々しい秀礼もそのような顔をすることがあるのだなと考えて、わたしは笑ってしまったようです」
紅妍の微笑みは嬉しいのだろうが、場面を思えば複雑のようだ。秀礼は拗ねたように横を向いてしまった。
「……笑わずともよいだろう」
「すみません。でも可笑しくて」
「私は心配したのだ。融勒がお前に近づいたのは何の意味があったのか、しばらく考えていたぞ」
「それについてもお話しようと思っていました」
秀礼が表情を変えてこちらを向く。真剣な面持ちへと切り替わっていた。
「融勒様に頼まれたのです。もう一度、宝剣に触れる機会が欲しいと、わたしから秀礼にお願いしてほしいと」
どうやら秀礼が想像していたものとは異なっていたらしい。紅妍が微笑んでいたことで和んだ空気は一変して重たいものになる。
「融勒が宝剣を?」
疑うように秀礼が呟いたので、紅妍は永貴妃に頼まれたことや
永貴妃に依頼された後は文を出しているが直接顔を合わせることはなかった。そのため話し終えるまでには時間がかかったが、秀礼が口を挟むことはなく、終わりまで黙々と聞いているようだった。
「……なるほど。最禮宮と春燕宮を行き来する鬼霊と、祓いを拒否する融勒か」
すべてを聞いたところで秀礼は再び考えこんでしまった。
丘に爽やかな風が吹いている。町の喧騒は届かない。ここは大都でもあまり人のこない場所なので、後宮とはまた違う心地よさがある。
飛んでいく鳥を追うため空を見上げる。落葉松はのびのびと光に照らされている。そこで秀礼が口を開いた。
「少し、長い話をする。宝剣が何であるのか、お前には聞いてもらった方がよいと思うからな」
鳥はどこかへ飛んでいった。紅妍はもう目で追うことをせず、秀礼の方を向く。
「いまの姿からは想像つかないかもしれないが、私は冷宮で育った子だ」
「冷宮……とは」
「震礼宮とはかけ離れた場所で、冷宮は狭く汚い。北庭園の外れ、誰も立ち寄らないようなところにある。風通しは悪く陽も当たらないので陰の気に満ちている。黴と埃だらけで、特に冬は隙間風で寒くてかなわん」
内廷の華やかな一面にしか触れていないので、そのような場所があることを知らなかった。北庭園の外れも行ったことがない。北庭園の奥はあまりよくないのです、と藍玉が言っていたのを覚えている。
「幼い頃からそこに閉じ込められていた。清益らはその頃から一緒だったが、他の者らはあの場所に気が触れ、病んでしまって、いまはいない。言いがかりをつけられて処された者もいる」
「秀礼は帝の子なのに、どうして閉じ込められるなんて……」
「いや、帝の子だからだ」
秀礼は虚しく一笑してうつむく。組んだ手には力がこめられていた。
「後にわかったが私を冷宮に送ったのは辛皇后だった。辛皇后にも子はいたが、その皇子は亡くなってしまってな。辛皇后は帝の身に万一が起きた時を考えたようだ。子は亡くなったため太后になれずとも、ある程度の地位を得たかったのだろう――当時妃であった永貴妃の子、融勒に目をつけ、その側に立つことを示すように私を冷宮に閉じ込めた」
「……ひどいですね」
「仕方のないことだ。誰も生まれる場所は選べないからな。皇子として生まれたことを、何度恨んだことかわからない。母は私を助けようと手を尽くしたようだが辛皇后には逆らえなかった。あの頃は、清益と共に冷宮を抜け出しては大都に行っていったりもしたな」
抜け出して大都に出ることを秀礼は慣れているようだったが、それはこの頃からだったのかと腑に落ちる。冷宮は食糧もままならぬ場所である。環境のひどさはもちろん、飢えて死ぬ者もいる。いまの秀礼からは考えられない姿だった。
想像し、うつむく紅妍を覗きこんだ秀礼が小さく笑う。
「お前も、似たようなものではなかったのか?」
問われて、考える。華仙の里での生活は、冷宮での生活と似ていたのかもしれない。
「……そう、かもしれません。わたしも、何度この花痣を呪ったかわかりません」
「その痣が花痣か?」
「この花痣を持つ者は華仙術に秀でます。わたしは生まれつき花痣があり、そのため一族の者たちから疎んじれてきました」
「なぜだ。華仙術が使える者の方がよいであろう」
「仙術師迫害の過去があったからです。一族は仙術を捨て『普通』として生きることを望みました。隠れ住むようなことになった華仙術を恨んだのです。その力が突出していたわたしは華仙一族にとって忌み嫌われても仕方ありません」
長や婆、血をわけた姉の
長から良き教育を受ける白嬢とは異なり、それも紅妍は許されなかった。山で会った自我を保った鬼霊や花が詠みあげる先祖の記憶から、様々なことを教わってきたのである。白嬢ほどではないが識字も、花詠みで先祖から学んだ。
秀礼にとっての良き支えが清益であるのなら、紅妍にとってのそれは鬼霊や花が詠みあげた先祖たちである。どちらもひどい環境にいたことは変わらない。
であるから、秀礼が語る『生まれは選べない』という意味が紅妍にもよくわかる。何度、天命を呪ったことだろう。
「お前もひどい扱いを受けてきたのだということはわかっていた。あの里とお前の姿は、私が知るものによく似ていたからな」
だから、と秀礼は言葉を続ける。まなざしは温かく、それは紅妍に向けられていた。
「私は、お前を救いたいと思った。宝剣が私を救ってくれたように、お前を助けるのは私でありたい」
境遇が似ているからこその同情かもしれない。それにしては声音に熱を孕んでいるのだが、紅妍も秀礼も、それに気づくことはない。互いに気づかぬまま、無意識のうちに熱は隠れて消える。
「秀礼を救ったのは宝剣、ですか」
人ではなく物に救われるというのが理解できず、紅妍は訝しむ。秀礼は今日も宝剣を提げていた。町に出るときもこれだけは手放せないようだ。
「この宝剣は鬼霊の才を持つ者にしか扱えない。帝に成るべくは鬼霊を断ち切ることのできる力強さが必要だと言われている」
帝もこの宝剣を振るうことができたが、現在は老いと共に力が薄れたため軽々と扱うことは難しいようだ。それを鞘から引き抜き、軽々と振るう。融勒が語った重さというものは感じず、宝剣に羽根がついているようにさえ見える。
「みなは融勒だと思っていたらしい。聡明な融勒こそ次の天子になるべくと――ところが宝剣は彼を選ばなかった。ならば第四皇子だと誰かが言ったのだろうな。冷宮に立派な輿がついた時は、ついに殺されるのかと覚悟したものだ」
その時のことを思い出したのか秀礼が笑う。皇后が秀礼を殺しにきたのだと勘違いをした清益が面白い反応をしていたようだ。だが蓋を開ければ処刑ではなく、宝剣の前に呼ばれただけであった。
「初めて私が宝剣を持ち上げた時の辛皇后はひどい顔をしていた。そうだろう、自ら疎んじた者が宝剣を扱ってしまったのだから。翌日には迎えがきてな、冷宮から震礼宮へと、ようやく光の元に出られたわけだ」
「よかったです。それは宝剣に助けられたようなものですね」
「ああ――すべて、とはいかないがな」
言葉の最後は、声量が絞られてしまったため紅妍にはうまく聞こえなかった。どうやら宝剣は秀礼を救っただけではないのかもしれない。そして秀礼もそれについてを語ろうとはしなかった。宝剣を鞘に収める。
「長い話になったが、宝剣というのは髙にとって大切なものだ。紅妍が来るまで鬼霊に立ち向かう術はこれしかなかったのだからな。これに選ばれた私は、次の帝になる可能性があるということだ」
必ず成る、と断言することはしなかった。以前藍玉も語っていたが、最終的な判断は帝に委ねられるのだろう。
「永貴妃は融勒を帝にしたいようで、融勒もまたその重圧を背負っている。宝剣に執着し、鬼霊の才を求めるのもそれが理由だろうな」
「……融勒様も可哀想ですね」
「融勒が宝剣に触れることは構わない。だが、結論はおそらく変わらぬ。鬼霊が住んだからとて才がつくわけでないことは紅妍もよくわかっているだろう」
問われて、紅妍は頷く。それについては紅妍も融勒に説得した。それでも融勒は今なら宝剣を持ち上げられると根拠のない自信を抱いているのだ。
(融勒様の自信は……どこから来たものだろう)
融勒の言を思い返す。
(あの鬼霊のことを融勒様自身に似ていると語っていた。だから思い込んでしまった?)
そう考えていた時、秀礼がこちらを見た。紅妍が何を考えていたのか彼に伝わっていたのだろう。「鬼霊のことか」と確かめた後に続ける。
「少し話は変わるが、永貴妃の件で気になることがある。お前の話を聞いて、それに関する鬼霊じゃないかと思ってな」
「それはどんな話でしょうか?」
「昔、春燕宮に勤めていた宮女がいなくなっている。
「姿を消すということは、何かあったのでしょうか」
「噂だが――永貴妃はひどい難産で、子の産声が二つだったという話がある。真相は私にもわからんがな」
紅妍は息を呑んだ。産声が二つとは不思議な話である。
「噂はともかく周寧明が姿を消したことは間違いない。周家はそこそこの家柄で永家とも関係があるのだが、なぜかお咎めはなかったようだ。それどころか永家は周家を優遇している――例えば、大都の西と南に水を流す丁鶴山の河川管理とかな」
「丁鶴山……確か大都の疫病は水に原因があるかもしれないと話していましたね。地域は西と南に限られ、その地域は丁鶴山から至る川から水を運んでいると」
「数年前から丁鶴山の河川管理は周家の娘になった。息子らは武官として宮勤めをしているから娘しかいなかったのだろう。その娘は宮勤めをさせてもよい年頃だと思うが、どういうわけか一度も宮城にきたことはない」
一気に話が繋がっていく。まさか鬼霊の件が大都の疫病や丁鶴山に繋がるとは思ってもいなかった。そしてその娘がどうもきな臭い。何かあると踏んでいるのは紅妍だけではなかった。秀礼が顔をあげる。
「娘はおそらく丁鶴山近くの小屋にいる。管理者は川の近くに住むことが定められているからな。だが大都の西外れには周寧明が住む家がある。まずは周寧明に話を聞きたいところだが――」
秀礼はそこで言葉を濁した。これから向かうのは西外れだと言っていたので、周寧明の元に向かうことは間違いないだろう。秀礼は清益に調査を頼んでいたと思われるが、それがうまく進まなかったに違いない。そうなれば、紅妍の出番というわけだ。
「……なるほど。わたしの花詠みで、わかることがあるかもしれないと」
「理解が早くて助かる。この件にはお前の力が役立つと思う」
「わかりました。お役に立てるよう頑張ります」
それを聞いて、紅妍は頷いた。この件にどのようにして鬼霊が絡むのかはわからない。けれど、考えるより早く、彼の願いを叶えたいと動いていた。
これが融勒や永貴妃ならば、しばし返答に迷ったのかもしれない。これが秀礼の頼みであるから、動きたいと考えてしまう。
(どうしてだろう。秀礼様の頼みは叶えてしまいたくなる)
秀礼は端正な顔立ちをしている。そのことに気づけば、横顔を眺めることさえ罪のように思えてしまう。紅妍はさっと目をそらした。
(境遇の近さや果物などの贈り物に絆されているだけ。きっと、そうだ)
胸中に、ふつふつとした感情がある。けれど、そういったものはよくないと無意識のうちに蓋をした。
「よし、では向かうか。周寧明の家はもう少し先にある」
秀礼がそう言ったので、紅妍は立ち上がる。
出発するのだろうと思っていたが、言い出した本人である秀礼はまだ動こうとしていない。懐から何かを取り出そうとし、悩んでいるようだった。
行かないのだろうか、と紅妍が小首を傾げる。秀礼は少しまごつきながら答えた。
「その……私は、お前に……」
「何でしょうか」
どうも歯切れが悪い。このような秀礼の姿はあまり見たことがない。何かあったのかと訝しんでその顔を覗きこむ。
「……融勒の件で、私はかなり心を乱された。おかげで寝付くのも遅くなってな」
紅妍と融勒が七星亭で会っていたと琳琳から聞いた時の話だろう。誤解は解けたと思っていたが、その様子を見るなり、秀礼の納得は得ていないようだ。
もう一度説明した方がよいかと、紅妍が切り出そうとした時。遮るように秀礼が言った。堪えていたものを叫ぶような思い切りのよさは、声量の大きさになって表れる。
「だからこれは、罰だ」
秀礼は立ち上がり、ようやく懐からそれを取り出す。百合の紋様が刻まれた、白玉の
「え……罰とは、この簪でしょうか」
「そ、そうだ」
これのどこが罰になるのか。理解できずにいる紅妍の元へ、秀礼が歩み寄る。それからふわりと影が落ちる。視界の端で、秀礼の袖が風に揺れていた。
紅髪に何かが触れている。確かめずともその動きでわかった。藍玉が紅妍の髪に簪を挿す時と同じ、それを秀礼がしている。頭を動かせずにいる紅妍に秀礼が告げた。
「これはお前への贈物だ。罰として今日はそれを挿していろ」
「宮城では、そういう罰が流行っているのでしょうか」
「……好きに解釈しろ」
髪を結い上げたところに簪が挿し込まれ、ぴんと張り詰めている気がする。だから簪は挿し終えていると思うのだが、それでも影は紅妍を覆ったまま。髪を梳くように撫でている。
「綺麗な髪になってきた。出会った頃と大違いだ」
「藍玉が手入れをしてくれていますから」
「良いことだ。今度、藍玉を褒めてやらねばな」
「……どうして秀礼が藍玉を褒めるのでしょうか?」
気になって訊いただけだったのだが、これに秀礼は答えてくれなかった。ちらりと見上げれば、本人も困惑し「なぜだろう」と呟いている。どうしてそう思ったのか、秀礼自身もよくわかっていないという顔をしていた。
(そういえば紅髪に白の簪は合うと、藍玉も言っていた)
この簪は美しい白色をしている。秀礼は紅の髪には合うものを選んでくれたのだろうか。
秀礼は先を歩きだしてしまったので確かめることはできない。紅妍は慌ててその後を追いかけた。
***
西外れのその家に着いて、紅妍は自らが呼ばれた理由を察した。その家には誰もいない。人の気配がないのである。
「この家に仕えていた人も見当たりませんね……人の気配がまったくない」
「ここに勤めていた者は疫病に罹って静養しているらしい。周家の息子は武官として宮城に勤め、家に帰ることは年に数度だと聞いている」
「……なんだか寂しい場所です」
委細を得ようにも人がいないのである。これは調査も暗礁に乗り上げるだろうと理解した。
家は静寂に包まれて寂しく、それは庭までも包む。雑草が茂っている。雨の日もあったからか家人のいない隙にと伸び伸びしていた。
庭は奥、家塀の近くに
人がいなくとも、花は語る。花は見てきたものを詠みあげる。それを聞き取るのが華仙術だ。
「……花詠みします」
一輪、摘み取る。この花は泣いている。悲しげに咲いている。記憶を詠みあげたくて仕方ないと泣いているのだ。手中に花をのせて、紅妍は瞳を閉じる。
(あなたが視てきたものを、教えてほしい)
意識を傾ける。杜鵑花の中に、溶けていく。そうして花の声を聞く。花が詠みあげる記憶を拾う。
◇◇◇
『
深衣を着た女中から話を聞いたらしい、老婆が顔を真っ青にしていた。庭の端には雪が残り、それは溶けかけていた。冬が終わり、春が訪れる前のことだろう。
『おかしいわ。あの子はこまめに文を寄越す子だったもの、何かがあったに違いない』
『では奥様、どうしましょう』
『誰か、人を向かわせましょう』
『ですがこの時期の丁鶴山はみな行きたがりません。春になれば良いかもしれませんが……』
『では……わたしが行きましょう』
その言葉に女中が叫ぶ。
『行けません。丁鶴山には穴持たずの大熊や大虎がいると聞きます。もしも小鈴様が……』
熊は冬になると栄養を蓄え、洞穴などにこもって春が訪れるのを待つ。だが、冬こもりによい場所を見つけられなかった熊や餌不足の熊は冬眠ができず、冬山を徘徊するそうだ。これを穴持たずと呼ぶ。
他にも丁鶴山には虎などの獣が多数確認されている。女中はそれを恐れたのだろう。
だが老婆は決意固く、廊下から庭を見やる。その視線は雪積もる杜鵑花の枝に向けられている。花は咲いていないというのに眺めていたということは、老婆にとって想いが詰まっていたのかもしれない。
『わたしは小鈴を丁鶴山になど行かせたくなかった』
『これは永貴妃様が小鈴様のためにと与えてくれた仕事ですもの。奥様の責任ではありません』
『それはわかっています。永貴妃様は小鈴のことを思ってくれたのでしょう。けれど、けれど』
おそらく周寧明だろう老婆は、がくりとその場に崩れ落ちる。瞳からは大粒の涙がこぼれていた。
『永貴妃様の罪滅ぼしが、こんなことになってしまうなんて』
そうしてしばし泣いた後、寧明は女中に告げる。涙混じりの声だった。
『息子たちには報せないでちょうだい。永貴妃様にまだ悟られてはなりません』
『……わかりました』
『小鈴が無事だったら……ここに連れてきて、杜鵑花が咲くのを待ちましょう。あの子はこの花が好きだったから』
持っていた記憶を詠み、それを紅妍に託した後、杜鵑花は枯れていった。ゆるゆると力を失っていく姿は涙を流すようでもあった。
◇◇◇
意識が少しずつ戻っていく。春の風、杜鵑花の香り。瞳を開くと秀礼が不安そうに紅妍を覗きこんでいた。
「……紅妍、大丈夫か」
花詠みの後は流れ込んできた記憶と現実の区別がつかず、頭が痛くなる。紅妍は額を押さえながらゆっくりと立ち上がる。
(ここに誰もいないということは)
周寧明はおそらく丁鶴山に向かった。そして――戻ってこなかったのだろう。だから杜鵑花は悲しそうに咲いていた。咲き誇る姿を誰も見てくれやしないのだから。
となれば事は急いだ方がいい。そして記憶に出てきた『小鈴』が紅妍の考える通りならば、最禮宮の鬼霊に会うべきである。
「宮城に戻りましょう。あの鬼霊は、祓ってほしくて現れています」
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