5.悲劇を詠む杜鵑花

 宮城に戻る時はやはり清益しんえきが迎えにきた。今回は紅妍こうけんの力が必要だと知っていたようで咎められることはなかった。しかし苦労はあったのだろう、冬花とうかきゅうに送り届けるまでの間、彼は粘っこくぼやいていた。



 その翌日である。紅妍は秀礼しゅうれいと共に最禮さいらいきゅうに向かった。

 最禮宮は近づけば、悪気に満ちていく。腹の底までずしりと響くような血のにおいがする。今日も鬼霊がいるのだろう。


「華妃、そして秀礼。今日は最禮宮までお越し頂きありがとうございます」


 昨晩に文は出していたので話は通っている。秀礼とも打ち合わせ、融勒ゆうろくに宝剣を貸すという名目で来ている。場所は最禮宮の庭を指定した。


「華妃より話は聞いた。もう一度宝剣に触れたいと話していたそうだな」

「はい。鬼霊がこの宮に現れたのはそのきざしだと考えています。いまこそ、わたしが宝剣を持てるはずだと」

「……なるほど」


 紅妍から聞いていた話は真実だと、秀礼は確認したのだろう。難しい顔をした後、庭の奥を見やる。小さな池のほとりに襤褸ぼろの襦裙を纏った女人の鬼霊がいる。傍目にみて後宮にいる者ではないとわかる姿だ。こちらを襲ってこないということは、融勒にそれを止められているのだろう。融勒の命を聞けるほど、まだ自我は残っているようだ。


「華妃からも聞いたと思うが、この鬼霊は吉事を告げるものではない。おそらく兄上では持てないはずだ」

「いえ。そうは思いません。試さなければわからない。この鬼霊が現れたことには意味があります」

「……ならば、もし宝剣を振るうことができなければ、この鬼霊を祓ってもよいか」

「もちろんです」

「ならば渡そう」


 そう言って秀礼は鞘ごと宝剣を渡した。それを融勒が受け取る。

 宝剣は鞘を引き抜いた後に重みが変わるらしい。才がない者が握れば容赦なく、宝剣は地に落ちるのだという。


 紅妍は黙ってそれを眺めていた。あたりに緊迫した空気が漂う。秀礼も息を潜めてそれを見守っていた。


「では、抜きます」


 融勒の言葉を合図にゆっくりと宝剣が抜かれる。刀身が全て鞘から出ようという時――がくりと融勒の肩が下がった。


「ぐ、うう……こ、れは」


 鞘から引き抜いた瞬間、地面が宝剣を呼び寄せているかのように地に落ちていく。融勒の手は必死に柄を握りしめていたので肩や体も引っ張られる。

 体を震わせそれを持ち上げようとするが、やはり出来ない。体が崩れ落ちてしまわぬよう、柄を引っ張るだけで精一杯だった。


 答えは出ている。融勒は宝剣に選ばれていないのだ。鬼霊が現れたとして宝剣を振るうことはできない。


「これで諦めがつきましたか」


 秀礼が一歩歩み寄り、声をかける。だが融勒は頑なな態度を崩そうとしなかった。


「ま、まだだ……私が、宝剣を持てなければ……何のためにここまで……」

「それ以上宝剣に触れていれば肩や体を壊す。諦めた方がいい」

「ちがう……私が帝になれぬのなら……母は、母がしてきたことは……」


 そこでついに、秀礼の体が屈した。引っ張り上げる力を欠いたらしく、手から柄が滑り落ちる。

 地面に宝剣が転がった。その横に息を荒くした融勒が膝をつく。


「……兄上、」


 切なく顔を歪めながら秀礼が宝剣を拾う。先ほどまで融勒が持ち上げられなかったそれは嘘のように、軽々と拾い上げられた。


「約束通り、あの鬼霊を祓います」

「……」


 融勒は答えなかった。ここからは紅妍の出番である。あの鬼霊を祓うため、ここに現れた正体を解かなければならない。

 紅妍は融勒の元に歩み寄る。立ち上がる力を欠いているらしい融勒に、手を差し伸べた。


「鬼霊の正体を、融勒様はご存知でしょうか」

「……いや、知らぬ」

「この鬼霊は不慮の死を遂げました。死してなおも魂を縛られて鬼霊となり、日々紅花の苦痛に耐えています。祓ってほしいがために現れたのでしょう」

「ではなぜ、私の元に現れた」

「助けを求めて、会いにきています。春燕しゅんえんきゅうと最禮宮を行き来していたのは、そこにいる者たちに強い想いを抱いているため」


 そこで融勒も気づいたようだ。絶望に占められていた瞳は見開かれる。この鬼霊が誰なのか、頭に思い浮かべたらしい。


「まさか……いやそんな、死んだなどと報告は……」


 この鬼霊を祓うには、想いが詰まった物が必要である。それはおそらくここにない。ゆるゆると立ち上がった融勒に紅妍は告げた。


「春燕宮に参りましょう」


 そして奥で立ち尽くす、悲哀に満ちた鬼霊にも声をかける。紅妍は柔らかに微笑んだ。


「あなたも。最期にお母様に会いましょう」


 鬼霊は答えず、けれど柔らかな表情をしていたと思う。少なくとも紅妍には、そう見えた。



 華妃、秀礼はともかくそこに融勒が混ざる。想像しがたい面々が集まって春燕宮を訪れたのである。宮女たちは慌てていた。騒がしさは瞬く間に春燕宮に広がり、ついにえい貴妃きひがやってきた。


「融勒、それに華妃も。ここに何用だ」


 永貴妃は顔をしかめていた。紅妍らだけではなく、その後ろには最禮宮から連れてきた鬼霊もいるのである。こちらに近づこうとせず、きざはしから動こうとしない。

 紅妍は手を組んで揖した後、ゆっくりと顔をあげた。


「鬼霊を祓うため、永貴妃の助力を得たく参りました」

「我は鬼霊祓いなどできぬぞ」

「そうではありません。鬼霊を祓うために必要なものを、永貴妃がお持ちでしょう。それを頂きたいのです」


 永貴妃は理解できないといった反応だったが、ここに連れてきた融勒が動く。


「……母上。この鬼霊は……おそらく……」


 くちごもっていたのは、鬼霊の名をここで紡ぐことができないからだ。その口ぶりから永貴妃も察したようだ。


「庭でよいか――人払いをする。しばし待っていろ」


 永貴妃は戻り、春燕宮の宮女らに何かを告げているようだった。その間、紅妍たちは春燕宮の庭にて待つ。


 春燕宮の庭は春の花がよく植えられている。それらを眺めていれば時間はあっという間に過ぎる。紅妍は庭を眺め――それに気づいた。


(これは――瓊花たまばな


 花の季は終えているが葉は残っている。その葉は瓊花のものだ。

 瓊花といえば秋芳宮での一件を思い出す。宮女長を呪い殺した鬼霊は、瓊花に深く関わる鬼霊だろう。

 だが瓊花が植えられているからといって、永貴妃が関わっているとは限らない。低木の前で固まる紅妍に秀礼が声をかけた。


「瓊花か」

「……はい。いやなことを思い出してしまいますね」


 そこで秀礼も、秋芳宮のことを思い出したらしい。低木をじいと睨めつける。


「瓊花を植えている宮は限られるからな」

「……他にもあるのでしょうか」

「庭の花など気にかけたことがなかったからな。今度、清益に探らせよう」


 瓊花は花を終えているといえ近くにある花の記憶を詠めば何かわかるのかもしれない。しかしここには融勒もいる。確認を取らずに永貴妃の庭で花詠みをすれば怪しまれることだろう。


 そうして待っていると永貴妃が現れた。供につけているのは宮女長らしき人物のみである。他の者たちは庭ではなく、宮の奥で控えているようだ。


「さて。鬼霊についてだったな」

「はい。この鬼霊の正体について、お伝えしにきました」


 永貴妃そして融勒が顔をこわばらせ、息を呑む。二人の顔を見渡した後、紅妍は口を開いた。


「この鬼霊は紅花が体のうちにある。病で死んだ鬼霊は紅花が外から見えません。本人も気づかぬうちに倒れ、死んだものと思われます」

「ほう。病で死んでも鬼霊となるのか」


 これは秀礼が言った。紅妍は頷いて話を続ける。


「生前に強い想いを抱いていた者。その死が誰にも気づかれぬ者。そして――遺体が荒された者などは、病で死を迎えたとしても鬼霊になることがあります」


 死に気づいて欲しくて、遺体を見つけてほしくて鬼霊となるのだろう。ここにいる鬼霊もそうだと紅妍は考えている。


「この鬼霊は、人知れず死を迎えてしまった。死に気づいてほしくて、遺体を見つけてほしくて、ここに現れているのです。吉事を報せるためではありません」

「ではなぜ、最禮宮に現れたのだ」


 永貴妃の問いに、紅妍は鬼霊を見る。鬼霊が春燕宮と最禮宮に現れた理由は一つ。そこに住む者に想いを馳せていたからだ。


しゅう小鈴しゃおりん。その名に、覚えはありませんか?」


 小鈴の名を出した途端、永貴妃が息を呑んだ。すぐさま鬼霊を見やる。鬼霊は物を語らず、悲しげに立ち尽くしていた。


「これは推測ですが、融勒様は双児だったのではありませんか。片方は男児で融勒様、もう一方は女児」


 髙では双児は凶事とされている。双児であった場合、片方が悲しい運命を辿るのはよくある話。それが後宮で、凶事の双児を産んだとなれば大変なことである。永貴妃は判断を迫られたのだろう。そして――。


「女児を宮女に託して、宮から出した。その宮女が周寧明で、女児が小鈴」


 ここまでは花詠みと秀礼の話から至った推測である。しかしこれは当たっていたのようだ。詰めていた息を吐き、諦念の面持ちで口を開いたのは永貴妃だった。


「……そうだ。小鈴は、我の子だ」


 そして双児であったこと。どこぞに生き別れの妹がいることは融勒も聞いていたらしい。ここまで言い当てられても融勒は表情を変えていない。ただじっと、悲しそうに鬼霊を見つめていた。


「華妃は我が思っていたよりも鋭い眼光をお持ちのようだ。おぬしの言う通り、我は双児を産み、小鈴を寧明に託した」

「やはり、そうでしたか」

「我は子を捨てた母だ。それを隠して生き続けてきたのだ、軽蔑されても仕方の無いこと」


 それに対し、紅妍は首を横に振る。

 永貴妃が小鈴を捨てたとは思っていない。むしろ、永貴妃なりに小鈴を思い、人知れず贖罪を続けてきた証拠がある。


「永貴妃は小鈴のことも想っていた。だからこそ周家を厚遇していた。宮勤めできない小鈴のためにと仕事を用意した――それが丁鶴山の河川管理」


 河川管理の任は誰でも出来るわけではない。宮城より任命された一部の者だけが行う。その山に住むだけで良い報酬がもらえる。大都の者ならば喜ぶような任である。それを小鈴に任せたのは永貴妃の贖罪だろう。河川管理ならば女人であれ財を成せる。


「華仙術というのは恐ろしいな」


 ふ、と小さく永貴妃が笑った。


「男児が生まれた時この子は帝になるのだとわかった。だが双児だと知られればそれは叶わぬ。だから、手放したのだ」

「母上……では、私のせいで小鈴が……」

「それは違うぞ、融勒。これは我が決めたこと。お前ではなく、すべて我が背負うことだ」


 永貴妃の答えを聞いた融勒は呆然としていた。それを横目に、永貴妃がこちらを向く。


「小鈴が鬼霊となって現れたということは、死んだのか」

「……はい。残念ながら」


 永貴妃は凜として鬼霊を見上げている。だがその瞳は悲しげに揺れていた。


「こんなに可愛らしくなっていたのか。我は何もしてやれなかったな……」


 永貴妃はしばしの間、鬼霊と向き合っていた。鬼霊に対する畏れは感じられない。そこにあるのは悲哀だった。

 その後、永貴妃は宮女長に何かを命じた。宮女長が宮に戻っていく。


 また融勒も、鬼霊のそばに立つ。鬼霊が融勒の言を素直に聞き入れたのは、彼が双児の兄であるとわかっていたのだろう。紅花の苦しみがあっても、母や兄に襲いかかろうとしなかったのは想いの強さである。


(小鈴は、母や兄に会いたかったのかもしれない)


 だから宮城に現れた。そして母と兄に助けを求めたのだ。


「私の妹はこのような顔をしていたのか」

「融勒様もお会いしたことがなかったんですね」

「ああ。話を聞いたことはある。だが、一度も会えぬままだった。わたしは吉事を報せるものだと思い込んでいたが、鬼霊は助けを求めていたのだな……」


 融勒もまた小鈴の話は聞いていても会ったことがなかったのだろう。鬼霊と成り果てた姿といえ、じいと眺める様は、それを記憶に焼き付けようとしているかに見えた。


(きっと小鈴も、二人の姿を見ているはず)


 鬼霊は悲しげで、しかしかすかに微笑んでいるように見えた。二人にようやく気づいてもらえたのだ。


 春燕宮に近づく足音に、みなが振り返る。その姿を確かめた後、秀礼が言った。


「遅いぞ、清益」

「まったく人使いの荒いことです。こう見えても急いできたんですよ。とりあえずは間に合ったようですね」


 息を切らせてやってきた清益は秀礼の前に膝をつく。


「丁鶴山に向かわせた者からの報告がありました」


 その言にみなの視線が集う。


「小屋にいくつもの死体がありました。獣に食い荒らされたようで目も当てられぬ惨状でした。周寧明、それから小鈴らしき遺体も確認されています」

「なるほど。小鈴は人知れず病で倒れた後、遺体を荒されたのかもしれぬな」

「ええ。それらの死体が川に引っかかっておりました。腐敗したものもありましたので、それが原因で水が汚れたのかもしれません」


 清益が語るには、それらの遺体は小屋の外や水車に引っかかっていたそうだ。獣に襲われて死んだのか、死した後に獣に襲われたのか。何にせよ、それによって汚れた川の水が大都に運ばれたのである。水を口にした者だけでなく、触れた者も発症したのは、水の汚れが些細な傷口から入ったのだろう。


「その遺体は、どうなった」


 永貴妃は清益に問う。


「秀礼様には、遺体を見つけたら丁重に弔うよう命じられております。そのようにさせていただきました」

「……よい。助かる」


 これで遺体のありかも片付いたのだ。人知れず倒れて死んだ小鈴と、それを探しにいった寧明たちの死。水も清浄になれば大都に流行る病もおさまることだろう。


 そこへ宮女長が戻ってきた。手には塗箱がある。蓋を開くと、中には綺麗に畳まれた布が入っていた。


「華妃。これを渡そう。抱被おくるみだ。小鈴が生まれた時にこれで包んだ」


 年月経っているだろうに色あせていないのは、それだけ永貴妃が大切にしてきたということだ。それほどの想いがこもっているのならば花渡しが出来る。

 花は紅妍が持ってきている。彼女が住んでいた庭の杜鵑花を手折ってきた。花詠みで小鈴が好いた花だと聞いた。好いた花と母の想いがこもった品であれば、小鈴も喜んで浄土に渡るだろう。


 みなの表情を見渡した後、秀礼が紅妍の肩を優しく叩いた。


「華妃、小鈴を祓ってほしい」


 紅妍は頷く。片手に抱被、もう一方の手には杜鵑花を乗せた。

 花渡しを行う。瞳を閉じ、花と鬼霊に語りかける。


(小鈴。あなたを浄土に送りたい)


 母と兄に会え、遺体は弔われ、もう未練はないだろう。紅花の苦しみから解き放つ時だ。

 小鈴の体は煙になって、少しずつ溶けていく。その煙は杜鵑花の中に吸いこまれていった。


「小鈴……」


 永貴妃の声がした。堪えきれずに泣いているのだろう。煙となって消えゆく小鈴は微笑んでいるようだったが、その涙が落ちる音は確かに聞こえた。

 鬼霊となってでも会いにきた。その小鈴が願いを遂げ、消えていく。


「花と共に、渡れ」


 瞳を開いた紅妍が両の手を宙に掲げる。小鈴の魂と想いのこもった抱被は煙となって杜鵑花に溶けている。その杜鵑花もまた、煙となって風に舞った。


 風が吹き抜けていく。ここにいた鬼霊は、もういない。満ちていた鬼霊の悪気も消えている。

 紅妍は振り返り「終わりました」と告げる。永貴妃は手で眼を押さえていたが、手をおろした時にはいつもと変わらぬ淡々とした表情に戻っていた。


「華妃。あれを祓ってくれて助かった」

「いえ。わたしにできることをしたまでです」

「褒美については、いずれ冬花宮に参ろう。その時に話す」


 そう告げて、永貴妃は宮に戻っていった。

 褒美というのは帝を苦しめているものについての情報だろう。ひとつ片が付いたことに安堵し、紅妍は長く息を吐く。


 次いで、口を開いたのは融勒である。


「妹を救ってくださってありがとうございました。華妃がいなければ鬼霊が救いを求めていたことに気づかなかった」


 それから、と融勒は秀礼の方を見やる。


「私は宝剣のことばかり考えていた。大事なものが見えていなかったのだな」

「……宝剣は鬼霊の才がある者を選ぶだけ。天子を選ぶのは宝剣じゃない」

「ああ、そうかもしれぬな」


 小鈴の鬼霊は、融勒の頭を冷やしてくれたのだろう。七星亭で話した時のように妄執に駆られてはいない。憑き物が落ちたような、すっきりとした顔をしている。


「では華妃。我々も戻ろう。冬花宮まで送っていく」

「わかりました」


 鬼霊が消えた春燕宮は優しい香りがする。永貴妃はああ見えて温かな人だろう。きっとこの庭に杜鵑花が植わるはずだ。彼女ならばきっと、そうする。

 この庭に杜鵑花が咲いた時はまた訪れたいと、紅妍は思った。




 冬花宮までの道のりを秀礼と共に歩く。清益は二人の少し前を歩いている。後ろには秀礼が連れてきた武官がいるが、二人に気遣ったのか距離を開けていた。


「花渡しというのは、何度見ても優しすぎる術だな」


 秀礼がそう呟いた。紅妍は顔をあげて秀礼の方を見やる。


「あれを用いて、お前には何の負荷もないのか?」

「はい。特には――現世への念が強いものだったら苦労しますが、今回のように心を開いた鬼霊であれば苦になりません」

「……そうか。これとは違うのだな」


 秀礼はうつむき、宝剣の柄に触れる。


「宝剣で鬼霊を斬り祓う時、手に血のかおりが染みつく。他の者には聞こえないそうだが、私には鬼霊の悲鳴が聞こえる」


 悲鳴をあげるということは痛んでいるということ。紅妍は宝剣のことを快く思っていない。あれは二度殺すようなものである。これを用いた祓いは鬼霊を苦しめる。


「歴代の帝は宝剣を振るったが、振るえば振るうほど、斬り祓った鬼霊に悩まされていくらしい。確かにあの悲鳴を何度も聞いては、気が触れるかもしれないな」


 秀礼は苦笑する。その表情からはわからないが、彼自身もあの悲鳴に悩まされたのだろう。


「もしもお前があの悲鳴を聞くのなら――止めようと思った」


 ぽつりと、こぼれ落ちる。秀礼は宝剣の柄から手を離し、まっすぐ前を見つめていた。

 紅妍も同じく前を向く。秀礼が見ているものと同じものを、見たいと思った。


「わたしは華仙術で悲鳴を聞いたことがありません。だから大丈夫です」


 むしろ、いまは違う感情がある。


「秀礼様が宝剣を用いて苦しむことがないよう、わたしが鬼霊を祓います。秀礼様が悲鳴を聞くことのないよう、わたしがそばにいます」


 どうしてか、理由はわからない。けれどそうしたいと、強く思った。


(胸の奥が温かい。凪いでいる)


 秀礼と話していると、荒れた気も凪いでいく。花渡しを行ったことで疲労はあるはずなのに感じられない。感覚が麻痺しているかのように。

 その感情の名を探ろうとして、けれどやめた。


(秀礼様は皇子。わたしは帝の妃)


 飾りの妃だとしても、立場が違いすぎる。その感情に名をつけたところで苦しむだけだろう。

 紅妍はぐっと唇を引き結んだ。秀礼も同じく口を閉ざしている。冬花宮に着くまで互いに何も語らなかった。

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