4章 呪詛、虚ろ花(前)

1.人は語る

 冬花とうかきゅうえい貴妃きひがやってきたのは、先の一件からしばらく経った頃だった。


「あの時は世話になったな」


 永貴妃の態度は変わらないが、以前に比べて柔らかくなったように思うのはその心の温かさを知ったからだろう。紅妍こうけんはそこまで緊張せず接することができた。藍玉が持ってきた香花茶に舌鼓を打ちながら話す。


「あれから変わりはありませんか」

「鬼霊が出ることもなくなった。最禮さいらいきゅうもそうだと聞いている。華妃の手柄だ」

「いえ。この件はわたし一人では難しかったでしょう。わたしは秀礼様に助力したまでです」


 そこで秀礼の名が出たことで、永貴妃はわずかに口元を強ばらせた。


「おぬしは随分と、第四皇子と親しいのだな」


 そのひと言に紅妍はうつむく。第二皇子の母である永貴妃の前で、秀礼の名を出したのはまずかったのかもしれない。帝の御身は芳しくない。それを知る者たちは、水面下で次の天子は第二皇子か第四皇子かと騒いでいる。


「その第四皇子だが……気をつけた方がよい」

「それはどういう意味でしょうか」

「我が融勒ゆうろくの母であるから、という意味ではない。今回の一件では華妃に随分と助けられたからな、おぬしの人柄を知っての忠告だ」


 ふ、と小さく笑った後、永貴妃がこちらを見る。その瞳は真剣なものだった。


「わたしが貴妃になる前の話だ。しょう貴妃きひという者がいた。当時はしん皇后こうごうもいたからな、後宮の采配を担うのは辛皇后だったが」


 璋貴妃の名は紅妍も聞いたことがある。どこで知った名かと考えていれば、いつぞや秀礼が語っていた。


(確か、秀礼様の母)


 その名がどうしてここに出てくるのか。険しい顔をして構える紅妍に、永貴妃は続ける。


「璋貴妃は病で死んだ。急に倒れ、その後は起き上がることもできずに亡くなったそうだ」

「……可哀想に」

「我もそう思った。だが、そのすぐ後だ。臥せっていた辛皇后は亡くなり、後を追うように帝も病によって倒れた」


 永貴妃はうつむく。その頃の宮城を思い出しているのだろう。後宮には皇后や貴妃のほか、永妃や甄妃、楊妃などが揃い、華やかだったことだろう。しばしの懐古が永貴妃の瞳を潤ませた。だがそれはすぐ、なかったことのように消える。紅妍の前で涙は見せないという彼女なりの矜持を感じた。


「帝が臥せる理由はまじないであると、話が広まっている」

「わたしも、そう思っています」

「ならば話が早い。その呪いは、璋貴妃がかけたものだと伝えられている。皇后や帝が倒れたのは璋貴妃が亡くなった後だからな」


 紅妍は言葉を欠いて、唖然としていた。

 帝の呪いが璋貴妃によるものならば、秀礼の母が帝を呪ったということだ。もしもそれが正しいとなれば秀礼にどうやって説明すればよいのだろう。秀礼は帝を救うべく紅妍を呼んだというのに。


「過去に璋貴妃に与えられていた宮、櫻春おうしゅんきゅうがある。ここの庭に呪詛の証拠が残っていると聞いた。どの季になっても黒百合が咲いているらしい」

「黒百合……いまなら百合が咲き頃ですが、黒は聞きませんね」


 それに黒は忌み色である。元々数が少ないのもあるが凶事や災禍の報せとして伝えられている。華仙の里でも、黒い花が咲けば人死があると婆が話していた。髙にとって黒い花は忌避されるものである。


 黒花でも季問わず咲き続けるのは呪詛に絡む可能性がある。自然に生じたものならば必然と枯れるが、人を呪うべく負の感情で作られたそれはことわりをねじ曲げて存在し続ける。


「我が知っているのはここまでだ。我が黒百合を見たところで何もわからぬからな。華仙術に秀でたおぬしならわかるのかもしれぬが」

「……櫻春宮に行ってみます」

「それがよい。場所はわかるな? 春の名を冠する宮だからな、我の春燕宮近くにある」


 まずはその黒百合を確かめてみるしかないだろう。実際に春燕宮に行くしかない。


 そしてもう一つ。紅妍は永貴妃に頼み事があった。話の切れ目を待って、紅妍が問う。


「永貴妃にひとつお願いがございます」

「なんだ」

「春燕宮の庭に咲く花を見せていただきたいのです。できれば瓊花たまばなの近くにある花を」


 これに永貴妃はするりと瞳を細めた。


「瓊花なら季を終えただろう」

「構いません。近くにある花で良いのです」


 どうして瓊花かという理由には触れずにおいた。永貴妃が瓊花の鬼霊に関与していなかったとしても、下手に明かして動揺してはならないと考えたのである。

 永貴妃は紅妍をじいと睨めつけて、返答に悩んでいる様子だった。


「どうかお願いします」

「……わかった。おぬしには恩があるからな。いまは石楠花しゃくなげが咲いているはずだ。櫻春宮にきたついでに、我が宮に寄るといい」


 永貴妃はそれ以上の理由を聞かず、了承してくれた。これならば瓊花近くで花詠みをしても大丈夫だろう。紅妍はほっと胸をなでおろした。




 永貴妃が去ってすぐである。一息つこうかと考えていた紅妍の耳にぱたぱたと駆け回る音が聞こえた。何事かとみていれば扉が開く。やってきたのは庭に出ていただろう霹児へきじだった。


「華妃様。来客が」


 訪問の知らせがきていたのは永貴妃だけである。誰だろうと首を傾げると霹児は口ごもりながら告げた。


「その……華妃様にお会いしたいと……しん琳琳りんりん様が……」


 まったく嫌な名前が出てきたものだ。紅妍は嫌気たっぷりに顔をしかめた。

 霹児がここに直接きたということは藍玉が見当たらなかったのだろう。予定にない琳琳がやってきたのだ、慌てようは想像がつく。どうしたらよいのかと戸惑う霹児に紅妍は渋々答えた。


「通してほしい。琳琳に会う」

「……はい」


 覚悟は決めたものの、気は重い。琳琳は特に苦手である。何せあの性格だ。口が軽く、勝手な想像をしては言いふらして回る。秀礼への思慕が強すぎるのだろう。


 うんざりしながらも待っていると琳琳がやってきた。辛家の令嬢ということもあり、今日も良い身なりをし、美しい簪を何本も挿している。その琳琳は相変わらず不敵な態度を取っていた。


「華妃様、ご機嫌麗しゅう」

「……突然の来訪でしたね」

「秀礼様にお会いしたくて震礼宮にお邪魔していましたの。秀礼様ったらわたしに会えて大変お喜びの様子でした」


 脳裏に浮かぶのは秀礼の様子である。琳琳の話になると困ったような表情を見せていた。はたして本当に喜んでいたのか怪しいところだが、ここで否定すれば面倒なことになる。紅妍は何も言わずにいた。


(琳琳がきた目的は何だろう)


 ここへわざわざやってきたということは意味があるはずだ。琳琳の様子を伺う。彼女は何かを探しているようだった。あたりを見渡した後、彼女の視線は紅妍の紅髪で止まる。

 今日は秀礼にもらった百合の白玉簪を挿していた。他にも数本挿しているが、藍玉はこれを気に入っているらしく一番目立つところにと挿してくれたのだ。


「その簪……珍しいものですね。紅髪によくお似合いで」

「ああ、これは頂き物ですよ」


 秀礼から、と名を出すことはしなかった。そういった素振りは何もしていなかったと思う。だというのに琳琳の表情がみるみる変わっていく。


「まさか……それは……」


 琳琳の肩がわなわなと震えていることから、彼女の胸中を占めるは怒りのようだ。その変わりように紅妍は言葉を失い、琳琳から数歩離れる。


「わたし、震礼宮の宮女に聞いたのです。秀礼様が美しい白玉簪を取り寄せていたと――だからわたし、今日秀礼様にお会いするのを楽しみにしていたのですよ。きっとその簪は、わたしへの贈り物だろうと思っていましたの。でも……」


 そこで琳琳はうつむく。秀礼が取り寄せた簪というのは紅妍が持っているこの簪だろう。それは琳琳ではなく、紅妍への贈物だった。


 琳琳は秀礼を好いている。秀礼に関わる物事はよく考え、よく見る。少しの変化にも気づけるほど感覚は磨かれている。だからこそ、悟ってしまったのだろう。その簪は、紅妍に贈るためだった、と。


「あなた、帝の妃でしょう? なのにどうして秀礼様と親しくなさるの」


 ふつふつと抱いた苛立ちを隠す術を琳琳は持ち合わせていない。この者は感情がよく表にでる。後ずさった紅妍に詰め寄りながら苛立った声をぶつけた。


「あなたが来てから秀礼様は変わってしまった。あの方が贈り物をするなんてなかったのよ。妃になるのはわたしなのに、どうしてあなたに!」

「お、落ち着いて……」

「落ち着いていられないわ! どうして、どうしてこんな痩せぎすの不気味な女に!」


 迫る琳琳から逃れるべく後退りをしていた紅妍だったが、背に壁の感触があたってようやく逃げ場がなくなったことを知る。


「どうしてあなたなの! わたしが成ると叔母上が言っていたのに。わたしが妃になれなければ、ああ、叔母上はきっと……」


 その時である。声を荒げた琳琳に気づいたらしい藍玉ら宮女たちが部屋にやってきた。


「華妃様! 如何なさいました」


 宮女らが紅妍と琳琳を見る。壁に追い詰められている紅妍の姿から察したのだろう。藍玉が静かに告げた。


「辛琳琳様。お控えください。そちらは帝の妃、華妃様でございます」


 その瞳は静かな怒りに燃えている。紅妍へ無礼を働く琳琳のことに苛立ちを抱いているらしい。

 藍玉や霹児、他冬花宮宮女らがやってきているのだ。さすがに琳琳もこの状況を把握したらしい。


 するりと身を引いたので、紅妍はそこから逃げ出す。しかしほっと息をつく間もなく、琳琳が振り返った。こちらを冷ややかに見下ろしながら告げる。


「わたし、あなたがきらいよ。これ以上秀礼様に近づくのであれば許さない」


 琳琳は紅妍のことを妃だと認めていないのだろう。帝が臥せってからやってきた飾りの妃であると気づいているのかもしれない。だから、これほどひどい態度を取るのだ。


 紅妍は何も言わなかった。そのうちに琳琳は背を向け、部屋を出て行く。


「華妃様、ご無事ですか」

「……大丈夫」

「申し訳ありません。わたしが永貴妃様を見送るために少しばかり宮を空けたものですから……」


 頭を下げる藍玉の隣では、霹児が青ざめていた。自分が琳琳を通したからだと自責しているのだろう。紅妍は柔らかく微笑み、霹児に声をかける。


「霹児。気にしなくていい」

「ですが華妃様……わたしがここに琳琳様を連れてきてしまったためにこのようなことに……」

「何事もなかったのだからいい。それよりも……」


 紅妍が懸念するのは霹児や藍玉のことではなく、秀礼のことだ。圧倒するほどの気迫で詰めてきた琳琳である。


(琳琳が暴走して、余計なことにならなければいいけれど)


 こちらだけでなく秀礼にまで迷惑がかからないかと。そのことが、気がかりだった。

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