3章 宝剣の重み
1.光乾殿に通う鬼霊
「
やってきたのはからりとした女人だった。皇后を輩出した名門、辛家の令嬢に相応しく、妃に負けじと美しい身なりをしている。胸部が目立つように帯を締め、露出した首や胸元を目立たせるように
「華妃様って不思議な術を使うんでしょう? 何でも楊妃の鬼霊を祓ったとか」
「え、ええ……」
「いやだわあ。なんだか不気味。ねえ本当に華妃様が祓ったの? 本当は他の人が祓ったのではなくて?」
声は大きく、表情はころころと変わる。無邪気といえばそれまでだが、図々しいとも言える。こういった娘の扱いは苦手である。紅妍の表情は知らぬうちに強ばっていた。
紅妍に訊いておきながら返答を待たずに次々と琳琳は語る。どうやら鬼霊を祓った紅妍のことを気味悪がっているようだ。冬花宮に来ておきながら本人を前にして率直に心境を語る図太い精神があるらしい。
「わたし、真相を確かめたくて参りましたの」
琳琳が言う。にたりと嫌な笑みを浮かべていた。
「だってその場に秀礼様がいたのでしょう。秀礼様ならば宝剣を扱えるから鬼霊を祓うことだってできるのに。本当は華妃様ではなく、秀礼様が祓ったのではなくて?」
「それは違う」
紅妍はすぐに答えた。しかし琳琳は訝しむ様子を崩さない。
「わたし聞いたのよ。秀礼様はあなたの手を取っていた、って。帝の妃であるあなたに触れるなんて一体どうして。おかしな話でしょう、だってわたしがいるのに。だから考えたの、きっとあなたの手に触れたんじゃなくて、あなたの功績にするため近くにいただけじゃないかって」
次々と語る琳琳に絶句した紅妍は、助けを求めるように部屋の隅へと視線を送る。そこには藍玉が控えていたが、助け船は出せないと告げるように曖昧な笑みを浮かべていた。
「楊妃の鬼霊を祓ったのは間違いなくわたしです」
「あら。本当に? でもあなたの痩身では鬼霊祓いというよりも鬼霊そのものみたいよ。もしかして
紅妍はついに額を押さえた。どれだけ説明しても琳琳は聞き入れようとしない。それどころか勝手な想像で話を進めていく。
(頭が痛い。これは苦手だ)
おそらく琳琳は、紅妍が鬼霊を祓ったということを認めたくないのだろう。どれだけ語ろうともわかり合えない人がいることは仕方がない。小さくため息をついた後、紅妍は話題をずらすことに専念する。
「あなたはわたしよりも宮城のことに詳しいようで」
「ええ。どこの家からきたのかもわからない怪しい華妃様よりは詳しいと思いますわ」
「ならば光乾殿の鬼霊についても知っているのでしょうか。わたしはあまり詳しく知らないのです」
秀礼から頼まれた件もある。光乾殿についての情報は得ておきたかった。うまく乗せて聞き出すのが得策だろうと考えたのである。琳琳は「華妃様はそんなこともしらないのね」と嫌味を混ぜながらも紅妍の思惑通りに口を開いた。
「光乾殿には毎夜鬼霊が出るそうよ。帝の寝所に入っていくそうなの。百合の香りを纏う女の鬼霊だそうよ」
相づちを打ちながら紅妍は考える。やはり光乾殿に鬼霊がいるのだ。呪詛と鬼霊の二つが帝を苦しめているという仮説は当たっているのかもしれない。
女人の鬼霊が出るから痩身の華妃だと考えた琳琳の短慮には唖然としてしまうが、良い情報を得た。次に光乾殿に向かった時は鬼霊の気配を探ってみても良いだろう。
「ねえ、華妃様」
物思いに耽っていた紅妍は、琳琳の声で我に返る。顔をあげると、愛らしい顔つきは急に冷えて、紅妍を鋭く睨めつけていた。
「聞いていらっしゃると思いますが、わたし、秀礼様の妃になる予定なの。いずれ秀礼様は宝座につくお方。わたしは彼を支えて生きていく覚悟があるわ。彼に相応しい自信もある」
なぜここで秀礼の名前が出る。理解できず、ぽかんと口を開けて琳琳の話を聞くしかなかった。
「その秀礼様が冬花宮に通っていることも聞いているわ。秋芳宮へ共に向かったことも。そしてあなたを華妃に推したのが秀礼様。いつもあなたに絡んでいるの――正直に申し上げて、わたし、華妃様がきらいよ」
わざわざ冬花宮にやってきた理由は華妃を品定めするためであって、嫌味を混ぜた会話は遠回しに華妃を傷つけようとしていたのだろう。
(このいやなやり口は、
白嬢とは、華仙の里で育った紅妍の姉である。相手を傷つけているとわかっていて嫌味を告げるのは白嬢がしていたものと似ている。顔を合わせるたびに華仙術は嫌いだの、花痣持ちが疎ましいだのと話していた。あれは不満を紅妍にぶつけていたのだろう。となればこの琳琳も、何かしらの不満を紅妍にぶつけているのかもしれない。
まともに相手をするのも面倒になってきた頃に琳琳は去っていった。見送った後、藍玉が戻ってきて紅妍を労う。
「お疲れ様です。琳琳様はどうでした?」
「あれは厄介かもしれない。鬼霊の方がまだいい」
琳琳と鬼霊を並べて話すと考えていなかったのだろう。藍玉は苦笑していた。
「嫉妬に駆られているんでしょうね。琳琳様は秀礼様を追いかけているので」
「いずれ妃になると言っていたけれど」
「ええ。琳琳様は秀礼様の許嫁ですよ。辛皇后が生きていた頃に話をまとめたとか――といっても秀礼様は乗り気ではないようですからまだ先のことでしょうね」
となれば琳琳が一方的に秀礼を追いかけているのだろう。あれは面倒な性格をしているから、秀礼も困りそうだ。それを想像して紅妍はくすりと微笑む。
「あら。華妃様が笑ってる」
「いや、これは」 慌てて首を横に振るが、藍玉はしっかりとその様を見ていたらしい。
「良いことですよ。華妃様の笑顔が見られて、わたしは嬉しゅうございます」
困惑する秀礼を想像して笑っていたなど明かせなば、いずれ秀礼の耳に届いてしまいそうだ。紅妍は視線を外して逃げるしかなかった。
(それにしても)
琳琳とのやりとりはひどく疲れるものであったが、あの性格はうまく扱えば良き情報を得ることができるのかもしれない。実際に今日は収穫があった。
(女の鬼霊が帝の寝所に入っていく、か)
調べるためには光乾殿に向かうのが一番だが、いつになるだる。
紅妍は
***
案外その日は早く来るものだと紅妍は学んだ。琳琳がきて数日後、紅妍の姿は光乾殿にあった。帝への目通りが叶ったのである。秀礼と共に光乾殿に向かえば、到着を待っていたらしい
「秀礼様、華妃様。帝がお待ちしております」
朱に塗られた殿を通る。渡り廊下、廊下、どれも鮮やかな朱色に塗られ、壁や柱には惜しみになく宝飾が埋め込まれている。秋芳宮や冬花宮とは比べものにならない美しい場所だった。
通された部屋でしばし待つ。すると韓辰に支えられるようにして、帝がやってきた。秀礼と紅妍は立ち上がり、その場に膝をついて揖する。
(帝――髙の象徴と呼ばれるお方)
謁見が叶ったといえ体調はよくない。肌艶は悪く、年齢にしては老いているような印象を受ける。
「華仙紅妍だな。話は聞いている」
名を呼ばれ、紅妍は顔をあげた。
「はい。華仙の隠れ里から参りました」
「華仙術を使うらしいな。それはどのようなものだ」
「花の記憶を詠み、鬼霊などを花にのせて祓う術でございます」
ここで秀礼が口を開く。
「紅妍は宮城に現れた鬼霊を二度ほど祓っております。先の、秋芳宮での一件も紅妍の功績によるものです。彼女が鬼霊と化した楊妃を祓いました」
だが帝の表情はあまりよくない。紅妍に対し、厳しい顔つきをしている。
過去に華仙術師は迫害を受けている。当時の帝が仙術や巫術の類いを畏れ、疎んじたためだ。それによって多くの術士の血が流れている。眼前におられる帝がそういったものに疑念を抱くのは仕方のないことだと紅妍は考えていた。
「紅妍。お前はこの光乾殿をどう思う」
帝が訊いた。それはここに満ちている気のことを指しているのだろうか。悩みながらも紅妍は答える。
「鬼霊が出ています。負の気が濃いことから、
「ほう。鬼霊か」
「ここの気は重たく、呪いの瘴気に満ちています。かすかにですが後殿から鬼霊が放つ血のにおいも混ざっていますので、二重の苦に掛けられていると見受けます」
光乾殿の中に入れば、外にいるよりも血のにおいが近づいた。だが呪詛の瘴気が濃いため細かな場所までは特定できない。光乾殿のどこかに鬼霊が潜んでいるのだろう。
願わくば細部まで調べたいところだが。紅妍の話を耳に入れても、帝の険しい顔つきは変わらない。
「それで、お前は光乾殿の鬼霊を祓いたいと」
「はい。御身を苦しめているのは鬼霊と呪詛の二つでしょう。それを祓えば快復すると考えております」
「……だろうな」
ぼそりと、帝が呟いた。紅妍や秀礼から視線を外し、どこか別の場所を眺めながらの言葉である。
(すんなりと聞き入れている。まさか帝自身も鬼霊や呪詛が原因であることを知っている?)
様子をつぶさに観察しながら考える。眼前の者に動揺はまったく見られなかった。易々と紅妍の話を受入れている。
帝の視線は秀礼へと向けられた。
「秀礼。お前は宝剣を託されているな」
これに秀礼が小さく返事をする。彼の腰には鞘に収まった宝剣が提げてある。
「宝剣は鬼霊を斬り捨てるもの――鬼霊への手段を持つ二人に命じよう」
帝はそこで言葉を打ち切り、数度ほど咳き込んだ。痰が絡んだような咳で、血が混ざっていてもおかしくない音をしている。ひとつ息を吸うだけで全身の力を使わなければならないようだ。韓辰がそばにかけより、背をさする。それが落ち着き、呼吸を整えた後、改めて帝が告げる。その声は枯れていた。
「光乾殿の鬼霊は祓ってはならぬ」
「は――そ、れは」
「肝に銘じよ」
そう告げると帝は手をあげた。苦しそうに胸元を押さえている。再び韓辰が帝の体を支える。どうやら謁見はここで終わるらしい。帝を見送るため紅妍は立ち上がる。秀礼は呆然としているようで反応が遅れていた。このような命が下るなど、想像もしていなかったのだろう。
(光乾殿に鬼霊がいることは間違いないというのに。なぜ帝は、鬼霊を祓うなと命じたのだろう)
ちらりと見やる帝の背は、苦しそうに丸まっている。
「……こうなるとはな」
冬花宮まで戻り、秀礼と共に部屋に入る。腰掛けるなり秀礼は深く息を吐いた。その疲労は光乾殿でのことが原因だろう。
「鬼霊を祓うなと命じられるとは思わなかった。あれでは天命尽きる時を待てと言っているようなものじゃないか」
彼としては帝を救いたいのである。そのために仙術について調べ、山奥に隠れ住む華仙一族を見つけ出しているのだ。帝のためにと動いてきたものが無に帰したのだから荒むのも仕方の無いことである。
しかし引っかかるものがあった。紅妍は考えこむ。
(帝は光乾殿が二つの禍に蝕まれていることを知っているかのようだった。鬼霊は見えるものだからよいとして、呪詛は気づきにくいはず)
紅妍などの華仙術師や、呪術に対する感覚が敏感なものは気づく。だがそれ以外は、どれだけ負の気に包まれていてもわからない。光乾殿を包む禍々しい気に、清益や韓辰が気づかないというのはそれである。
帝は鬼霊や呪詛の存在を否定していない。となれば、帝は何かを知っていて口を閉ざしているのかもしれない。
そこで藍玉が戻ってきた。藍玉には光乾殿までの供を頼んだが別件も依頼してある。彼女は籠を持って部屋に入る。
「お待たせしました。こちらがご所望の花ですよ」
几に籠が置かれる。中には光乾殿の庭にあった
その花に秀礼が眉根を寄せる。紅妍が花を手にする時の意味を彼もよくわかってきたのだ。
「紅妍。何をする気だ」
「花詠みですよ」
「鬼霊を祓うなと、帝が言っていただろう。余計なことをするな」
秀礼は慌てているようだったが、紅妍は素知らぬふりをして花を手に取る。確かに帝に命じられているが、それは『鬼霊を祓うこと』だけである。
「帝は花詠みを禁ずると言いませんでした。それに、鬼霊祓いがよくないだけで呪詛を祓うことについては触れていません」
もしも呪詛祓いも禁止にするのならばそう命じるだろう。けれど帝は二つの禍を否定せず、言及したのも鬼霊祓いだけである。
紅妍の言葉に秀礼は目を見開いていた。おそらく、その考えは頭になかったのだろう。しばしの間を置いたのち、呆れ気味に吐いた。
「……お前は鬼霊のことになると心が図太くなるのだな」
何とでもいえばいい。紅妍は秀礼を無視して、木香茨を手に乗せる。瞳を閉じ、花詠みに専念した。
木香茨の記憶を辿るのは骨が折れそうだ。二つの禍に苛まれる土地で咲いていたからか花自体が弱っている。いつもの花詠みは、花が持つ記憶は絹糸のように細く、それを優しくたぐり寄せるのに似ている。だがこの木香茨は絹糸自体がいまにも千切れそうになっている。記憶を探ろうとしても脆く、鮮明に見るほどの力を欠いている。
紅妍の額に玉のような汗が浮かぶ。意識は花に向けているため、部屋にいた秀礼や藍玉、清益らのことはわからなくなっている。花の中に溶け込んで記憶の海を泳ぐ。花の衰弱を示すように意識は途切れそうになり、身がひりひりと痛んだ。
(あなたが視てきたものを、教えてほしい)
そしてついに、掴む。木香茨が見せたかったのだろう記憶が映し出された。
◇◇◇
『これが成れば――ず、禍が……返りますよ』
誰かの話し声がする。だがそれはかすれていてはっきりと聞こえない。
光乾殿の庭で誰かが花を摘もうとしている。渡り廊下にいる者がそれを眺めているようだった。
『よい。成し遂げろ』
その声音は先ほど聞いたので覚えている。帝だ。渡り廊下にいるのは帝だろう。庭にいる男は木香茨を摘んだ後、手にしていた木製の箱にそれを収める。底には割れた黒鏡が入ってて、それを隠すように木香茨が置かれた。
『……まさか……が……を呪うなんて』
男がぼやきながら、懐から人型に切り抜いた木板を取り出す。そこには何かが書かれていたが花詠みの映像は鮮明ではなく細部まで読めなかった。
小箱の蓋を閉める。それと同時に木香茨の記憶は終わった。
◇◇◇
紅妍は瞳を開く。体中がびっしりと汗をかいていた。息が荒い。
「どうした。何が見えた」
「……あ、あれは、」
部屋にいる者は異変に気づいていた。秀礼は慌てているのか立ち上がって紅妍のそばに寄っている。知らぬうちに震えていた紅妍の肩を
この花詠みは不完全だ。木香茨の力が足りなかった。けれどわかったことがある。
「呪詛は間違いなくあります」
割れた黒鏡、媒介の花。そして呪いを込めた木板。人型に切り抜いていたことから、確実に誰かを呪ったのだろう。
(帝は……呪詛のことも把握している?)
その疑念を口にする勇気は、まだなかった。
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