閑話 月夜の計画、紅髪に触れて

閑話.月夜の計画、紅髪に触れて


 えい秀礼しゅうれいにとって紅妍こうけんは不思議なのである。

 華仙の里で出会った時から紅妍は他の者と違っていた。むろに隠れ潜んでいたかと思えば臆さず堂々と出てきて、そのくせ死期を悟ったような目をしている。薄汚れた姿は大都にいる貧しい者よりもひどい。木箱の裏に隠れている女はわかりやすいほど震えていたが、その女の方がよほど良いものを着ている。


(なるほど。この女はそういう暮らしをしていたのか)


 紅妍のことを華仙の里にいる奴婢ぬひだと思ったのだ。これで華仙術が使えないのであれば紅妍を殺し、再び華仙の里に乗りこむつもりだった。宮城に対する偽証は大罪であるから、それを理由に、本物の華仙術師を引っ張り出そうと考えていたのである。

 これまでに様々な自称仙術師を呼んだが一人として祓うことはできなかった。だから今回もそこまで期待はしていなかった。しかし紅妍は見事に鬼霊を祓ったのである。花を用いた仙術は何とも不思議で、美しいもののように見えた。紅妍が、宝剣で鬼霊を祓うやり方をむごいと非難したことさえ忘れてしまうほどに。

 華紅妍は間違いなく華仙術師だ。身なりはどうであれ、その力は本物である。


 そのことを考えながら月を見上げる。清益しんえきに勧められ、今宵は震礼しんれいきゅうの庭で酒を飲んでいた。良い夜だ。杯に月が映り込み、揺らいでいる。これほど良い月ならばずっと浮かんでいればいいのにとさえ思う。


「物憂げですね」


 月を見上げていた秀礼の元に現れたのは清益だった。隣に腰掛けるよう清益に合図を送る。

 幼い頃より秀礼のそばにいたのは清益だった。一緒に月を見上げたことは何度もある。いやというほど空を拝んだ時があった。あの時はかび臭い冷えた空気がしていたが、いまは庭に咲く花の香りが漂っている。


「……生まれというのは選べないものだなと考えていた」


 秀礼が呟いた言葉は、自身とそして紅妍にも向けられている。清益はそれをくみ取ったようで静かにうなずく。腹が黒いくせ微笑みを絶やさぬ男は、今日も柔らかな表情をしているようだ。


「華妃のことですね」

「そうだ。あれは間違いなく華仙術師であるのに、ひどい扱いを受けていたんだろう」


 骨に皮を張り付けたような痩身は、良いものを食べてこなかったのだろう。まだ熟れていない蜜瓜でも瞳を輝かせるほどだ。


(まさか。あれで美味しいとは)


 南郡の蜜瓜は美味しいと聞くから、あれもそうだろうと秀礼は信じ切っていた。それが蓋を開けば追熟が足りていないのである。あと数日ほど寝かせていたら違ったのかもしれない。だが、まだ青いそれを、紅妍は美味しいと喜んでいたのである。


(甘いものが好きなのだろうか。だとしたら団子や饅頭はどうだろう。花雫飴もあったはずだな)


 華仙の里だけでは知り得ないだろう世を、紅妍に見せたいと思った。食はその一端である。くりやに立って何かを作ることはできないので、できることは甘味や果物を届けることぐらいだ。

 そういったことを考えていると、くつくつと清益が笑った。気を抜いていたらしく、腹の黒さがにじみ出る笑い方をしている。秀礼の前でしか見せない清益の一面だった。


「急に笑いだして、どうした」

「いえ。どうも最近の秀礼様がおかしくて」

「おかしい? いつもと変わらないだろう」


 清益はいまだ笑みを浮かべ、首を横に振る。


「先の、秋芳しゅうほうきゅうでの一件も随分と面白かったですよ。まさか秀礼様が華妃の手に触れるなんて」

「あれは――」


 それについては秀礼も複雑な思いを抱いている。説明したところで清益は信じてくれないのだろうが、あれは無意識のうちに取った行動だった。

 楊妃の魂を連れ、細い煙となって空に消えていく花。それを見上げる紅妍の横顔が切なくてたまらなかった。鬼霊を厭わず、その心に寄り添う。放っておけば、紅妍も浄土に消えてしまうのではないかと不安になった。


 華紅妍は優しすぎる。自らがひどい扱いを受けていても耐え、人どころか鬼霊にまで手を伸ばそうとする。あの優しさはいずれ仇となって紅妍を襲うだろう。それが脳裏に浮かんで、いてもたってもいられなかった。楊妃のため美しい涙をこぼす紅妍を、掴んでいた。

 触れてしまえば紅妍の手は震えていて、そして自らの手も震えていた。一度掴んでしまえばそれは脆く、今にも壊れてしまいそうに細いのである。この柔らかな者が鬼霊の魂を祓うなんて重荷を背負っていたのだと知って、怖くてたまらなかった。


「あれは私にもわからない。気づいたらそうしていただけだ」


 この感情をどう言葉にすればいいのかわからない。秀礼は杯に視線を落とす。


(たぶん、同情、だろう)


 紅妍が冬花とうかきゅうで過ごすに連れ、肌艶はよくなっていく。藍玉らんぎょくが良く世話をしているのだろう。その変化を眺めるのは悪くない。だから紅妍に構ってしまうのだろうと秀礼は答えを出す。


「ですが、お気を付けください」


 清益が言った。秀礼は顔をあげて清益を見やる。


「華妃は帝の妃ですから。皇子であるあなたが不用意に近づいては悪評も立ちましょう。いまは大事な時期ですから特に」

「……わかっている」

「華妃の場合は帝の渡りがない、純潔の妃と言えましょう。それでも秀礼様を貶めたい者がどのように話すかわかりません。矛先が秀礼様ではなく、華妃に向くことだってあります」


 そのようなこと、秀礼だってわかっている。この後宮がどういった場所なのか、嫌というほど学んでいる。


(宝剣に選ばれなければ、私だって紅妍と変わらなかったのにな)


 腰に提げた宝剣は重たい。これがなかったら、秀礼だって紅妍と変わらなかっただろう。


「清益。頼んだことはどこまで調べ終わっている?」


 杯の酒を飲み干した後、秀礼が聞く。清益は酒をつぎながら答えた。


「疫病の件でしたらある程度は。ほとんどは大都の南と西に出ているようです」

「ほう。範囲がわかれば原因の特定も進みそうだな」


 明日は清益が震礼宮を開けると言っていた。面倒なお目付役がいないのである。


(よし。いい機会だ)


 秀礼はにたりと笑みを浮かべた。よき案が思いついたのである。部屋に戻れば早々に文をしたため、明日早朝にでも届けてもらえばいい。晴れやかな月夜と同じぐらいに、秀礼の心もからりと晴れている。


(早く、朝になればいい)


 あれほど月を望んでいた心は変わって、朝を待ち望む秀礼がいた。


***


 翌日。昼餉ひるげの刻よりも早く、紅妍がやってきた。ここからは事前に用意した手立てを行うのみである。

 震礼宮の宮女らも滅多に立ち入らぬ房室へやに紅妍を通し、そこで着替えをさせる。大都の民が着るような、布接ぎのある襦裙じゅくんが用意してある。後宮にはそぐわないものだが、それがよい。かんざしなどの装飾品も外すように命じた。

 藍玉にも話を通している。呆れている様子だったが何とか折れてくれたようだ。何度も「伯父上に気づかれませんよう。わたしまで怒られたくはありませんから」とぼやいていたが聞かなかったふりをする。清益のことは、まあ何とかなるだろう。


「それで、どうしてこの格好を?」


 支度を終えた紅妍は訳がわからないといった様子で待っていた。文にもどこへ行くかは書いていない。急に襤褸びた衣を着せられ、戸惑っていることだろう。


「お前はこれから私と共に城を出る」

「え…」


 秀礼の言葉に、紅妍の目が丸くなった。それからうつむき、何かを考えている。どうやらよくないことを勝手に考えているのだろう。例えば、宮城を出て行けと命じられるような。

 紅妍はあまり笑わないが、杞憂や悲嘆ははっきりと表に出す。その表情をつぶさに見ていれば、何を考えているのかわかるのが面白い。紅妍の動揺に満足した秀礼はにたにたと笑って紅妍に布をかぶせた。


「気分転換に外へ出るだけだ。お前に大都教えてやろう」

「大都は疫病が流行っていると聞きました。そんなところに行っていいのでしょうか」

「行く先は大都の北部だから問題ない」


 宮城を追われるのではないとわかって安堵したようだが、まだ憂いは残っているのだろう。本当にいいのだろうかと戸惑っている。


「よいのでしょうか。見つかったら怒られるんじゃ……」

「平気だ。慣れている」

「な、慣れ……?」

「小さい頃から隠れて抜け出すことが好きでな――私がいるのだから安心しろ。行くぞ」


 いまだ悩んでいる節のある紅妍を急かし、震礼宮を出る。

 今回は宮城と大都を行き来する荷車に紛れ込む。荷車の主には協力を願っている。彼には何度もお世話になっているので「またですか」と呆れていたが、金子きんすを多めに渡すと渋々ながらも乗せてくれた。



 大都には人が多い。通りには饅頭などの甘味や、簪といった装飾品を扱う露店が並んでいる。行き交う人々の声で騒がしく、商人のかけ声などが飛び交っていた。


「どうだ。気になるものはあるか」

「人がたくさんでめまいがしそうです」


 紅妍はというと、流れゆく人々や店を目で追ったりと忙しそうである。往来で人とぶつかることは度々あるが、紅妍はこれに慣れていないようで、肩がぶつかるたびによろめいている。子供らに声をかけられてもどう返事をすればいいかわからず、固まることが度々あった。


(初めての大都に緊張しているのだろうな)


 華仙の里がどれだけ侘しかったかを思い出す。あの里に育ったのでは大都など慣れないことだろう。気を和らげるものはないかとあたりを見渡した。


「よし。あの団子屋にしよう」

「え?」

「これも大都の醍醐味だ。団子を食べるぞ」


 秀礼は紅妍を連れて団子屋の前に行く。慣れた様子で店主に声をかけた。


「よう親父、久しぶりだな」

「お。てめえ、顔だけ綺麗な兄ちゃんじゃねえか。しばらく見かけなかったが元気にしてたか?」

「それなりにな。今日は団子を二つくれ」

「毎度!」


 宮城を抜け出して大都に来た時は必ず訪れる団子屋だ。糯米を引いた粉を練って焼き上げたもので、中や上に餡が入っていたりひしおが塗られていたりと店によって様々である。この店のは上に餡がかかっていた。

 店主は竹皮を取り出し団子を二つのせる。竹皮をくるりとまいて麻紐で縛る間に秀礼が再び声をかけた。


「ここらでおすすめの店はないか? できれば甘い物が食べたい」

「そうなれば少し先にある桃饅頭がいいですよ。蒸したては絶品です」

「いいな――よし、次は桃饅頭だ」


 秀礼は振り返って紅妍に言う。紅妍はというと顔を引きつらせていた。


「……秀礼様、わたしは手持ちがないので払えません」


 どうやら持ち合わせがないことを心配していたようだ。当然、そんなことはお見通しである。


「私が買い、お前に食べさせるだけだ。気にしなくていい。それよりも『秀礼』と呼ぶのはやめろ」

「では何と呼べば……」

「外にいる間は秀礼でいい。ほら、団子を受け取れ」


 団子はまだ温かく、竹皮にも熱が伝わっている。ほのかに甘い香りが漂って、紅妍の瞳がきらきらと輝いた。


(やはり甘い物が好きなのだろうな。美味しいと喜んでもらえるだろうか)


 紅妍の様子を眺めるのは楽しいが、同時に不安も生じる。彼女が喜ばなかった時は、という想像が頭に浮かんでしまって、その唇が団子を食むまで気は抜けなかった。


「お、美味しいです……!」


 ふわり、と紅妍が表情を緩める。無表情だった頃から比べればじゅうぶん微笑んでいるように見える。もっと彼女の笑顔を引き出す方法はあるのかもしれないが。


「秀礼、ありがとうございます」

「……」

「秀礼?」

「あ……ああ、気にするな。喜んでもらえて何よりだ」


 胸の奥がずくりと痛む。嬉しいような切ないような、何とも言えない感情が体を駆け抜けた。


(気のせいだと、思っておこう)


 秀礼はそう考え、自分の分として買っていた団子も紅妍に渡す。実のところ秀礼は甘味がそこまで得意ではない。この甘いにおいだけで鼻や喉が焼けてしまいそうだ。


***


 通りにある店で気になるものがあれば秀礼は次々に声をかけていく。


「ほう。ではここらには疫病が広まっていないのか」

「大都でも西と南がひどいそうですよ。ここらにはまだ来ていませんねえ」

「それはよかった。でも用心するに越したことはないからな」

「そうですねえ……はい、出来ましたよ。花月餅です」


 礼を告げてそれを秀礼が受け取る。すかさずそれを後ろに控える紅妍に渡し、道端に避けてそれを食べるのがこれまでの流れとなっていた。


「あ、あの……わたしばかり食べていいのでしょうか」


 ここまで何軒も回っている。すべて秀礼が支払っている。それに対して申し訳ない気持ちが強くなったのだろう。紅妍は申し訳なさそうにこちらを見上げていた。


「気にしなくても良い。私が連れ出したのだから」

「それに、食べるたびそうやって見られていると複雑です」

「私が見ていては食べられないというのか。その痩身は少しぐらい食べた方がいい」


 これまで、一つ甘味が手に入るたびにまじまじと観察していた。秀礼としては紅妍の反応が気になっているのだが、紅妍はというと複雑そうである。


「い、頂きます……」


 紅妍は諦めて、焼きたての花月餅を食べた。麦粉で作った柔皮にびっしりと餡を詰めて焼き上げたものである。名の通り、花の形をしていた。この餡には刻んだ胡桃の実が入っていて、甘味好きにはたまらない味のようだ。


「ここには色々な食べ物がありますね」

「大都は髙の中心だからな。遠くの村からも果物や甘味が届く。髙にある全ての品がここに集うと言っても過言ではない」


 通りには大人だけでなく、襤褸を着た子供たちも駆け回っていた。それらをじいと、舐めるように観察する。秀礼のその動きを疑問に思ったらしい紅妍が訊いた。


「何を見ているのですか?」

「人だ」


 秀礼は短く答えた後、往来を行き交う人々を指で示す。


「報告を聞くだけじゃわからないこともある。大都に出て、自分の目で見ることが必要だ。例えば疫病の話、報告は受けているが実際に見ないとわからないこともある。疫病による影響がどこまで出ているのかは肌で感じるしかない」

「なるほど。抜け出して町にやってくるのは情報収集が理由ですね」


 秀礼は城を抜け出すことが好きだった。人々と言葉を交わすことはよい刺激になる。震礼宮にいただけではわからないことも、見える気がしていた。もちろん気分転換もある。この広く、自由な場所にいれば宮城の息苦しさを忘れる気がした。


「お。兄ちゃん、久しぶりだなあ」


 通りがかった一人が秀礼に声をかけた。男は秀礼の隣にいる紅妍を見て、揶揄うように笑った。


「今日は彼女連れかい」

「なんだ、店じまいしたのか? よい簪が入っていないか、見に行こうと思っていたのだが」


 男は装飾品を取り扱う店を出しているようだ。だが今日は水桶を担いでいる。男は切なそうにうつむいた。


「娘が大都の西に住んでてな。子供の具合が悪いから水を届けてほしいって頼まれてんだ」

「水を? 西にも井戸はあるだろう」


 だが男は首を横に振った。


「あるけど、あれはだめだな」

「どういうことだ?」

「西と南の水が汚れているんだとよ。井戸の水が濁ってて臭い。ありゃだめだな。巷じゃ水のせいで疫病が広まったんじゃねえかって話だ」

「……水……となると、丁鶴山ていかくさんからくる川か」


 水という話は聞いていない。大都に住む民は疫病の近くにいるため最も情報を持つ者である。宮城では入らない情報がここで転がってくるとは思わなかった。

 男は「ただの噂だからわからないけどな」と付け足した後、水桶を抱え直して去っていった。


「なるほど。水か……」

「どうしました?」


 しばし思案に耽った後、秀礼が顔をあげる。疫病の原因が見えた気がしたのだ。となれば清益に動いてもらうしかない。


「いや。良い情報を得たと思ってな」


 小さく笑って、こちらを見上げる紅妍の頭をそっと撫でた。無意識のうちの動きである。幼子の頭を撫でるような気楽さであった。


「……っ、」


 その動きに、紅妍が身を強ばらせている。怯えるというよりも恥じらいに近いのかもしれない。頬が赤く染まっているように見えた。


「あ、あのっ、頭……その……」

「どうした?」

「いえ、何でも……」


 何かを言いかけていた紅妍だったがついに耳まで赤く染め、顔の赤さが見えないようにと俯いてしまった。こちらとしてはその方が頭を撫でやすいのだが、表情が覗えないのはつまらないものがある。

 そして、それ以上に。


(……落ち着く気がする)


 触れていると心が凪ぐ気がした。脆く、壊れそうであった何かが、温かなもので包まれて支えられる。温かな茶を飲む時よりも落ち着いている。

 いままでに秀礼が知る女人とは騒がしい者が多かった。名家の娘だからと会ってみれば、浅慮であったり騒々しかったりと、女人を相手にする時はどうも落ち着かない。後宮もそうだ。女同士仲良くしているふりをして簡単に人を貶める。だからか、女人を相手にする時はいつも気を張っていた。わずかな素振りも見逃さないようにし、相手の腹のうちにあるものを探る。

 それが、いまはどうも違う。胸の奥が温かい。


(……違う)


 振り払うように目を閉じる。紅髪の柔らかな感触は、まだ掌に残っている。


(これも、紅妍への同情が原因だろう)


 言い聞かせるように心のうちで唱え、秀礼は瞳を開く。それから紅妍に微笑んだ。


***


 日が沈む。そろそろ宮城へ戻る頃だろう。

 簪の一つでも買おうと思っていたのだが、紅妍が装飾品に興味を示す素振りはなかったことや、馴染みの店が閉まっていたことも影響し、結局買うことはできなかった。

 二人は、ここへ来るときと同じく荷車で宮城に戻る予定だった。その場所に向けて歩く。


「今日はどうだった?」


 秀礼が聞くと、隣を歩く紅妍が顔をあげた。


「とても楽しかったです。初めて見るものや食べるものばかりでした」

「よかった。お前はどの食べ物が好みだった?」


 好みを知れば、今度はそれに似たものを持っていこうと考えていたのだ。紅妍は顎に手を添えてしばし考えこむ。それから呟いた。


「団子、ですかね」


 随分と質素な好みだ、と内心で驚く。しかしすぐに理由が語られることとなった。紅妍は遠くに見える山を眺めながら話す。


「あれに似たものを里で食べたことがありました。幼い頃に、たった一度だけですが。あの味はその時のことを思い出しました。団子の形も味も、ぜんぶ似ていましたから」


 横顔がひどく切ないことから良い思い出とは言い難いのだろう。察して、秀礼は黙りこむ。

 すこしの間を置いた後、紅妍が言った。


「でも今日の方が美味しかったです」


 足を止めて微笑む。夕日が紅妍の頬を朱に照らした。それは妙に可愛らしく見える。


「秀礼と一緒に食べたから、美味しかったです」

「……そうか」

「今日はありがとうございました」


 紅妍が頭を下げる。紅髪は夕日がさしても変わらず紅い。光に艶めく髪に触れればまた心は凪ぐのだろう。背丈は自らより小さく、見下ろす形になるほど小さい紅妍の頭を撫でたかった。無意識のうちであればできたのかもしれないが、ひとたび考えてしまうとうまく行かない。むずむずと頬が熱くなる。平常を保ったまま手を伸ばそうのは難しそうだった。


(やはり簪を買えばよかった)


 簪を買っていれば、ここで紅妍の髪に触れる口実になっただろう。近くにいても触れることができず、その理由となるものがあればよかったと思う。


(花を挿しても似合うのだろうな)


 どこかに良き花はないかとあたりを見渡して――その時である。荷車がある方からやってきた人物は、いま最も会いたくない者だった。


「おや。こんなところでお会いするなんて、奇遇ですねえ」


 微笑んでいるが声は嫌味を込めて粘ついている。その顔を確認せずともわかる。清益だ。そして怒っている。


「……まったく。昨晩の秀礼様が随分と上の空だったのでそんな予感がしていました」


 清益は紅妍と秀礼の姿を確かめた後、わざとらしくため息をついた。清益に知られてしまったとなって紅妍は慌てたのだろう。秀礼を守るように一歩前に立つ。


「あ、あのわたしが……」


 紅妍が言い出して大都にきたのだと嘘をつくつもりだったのだろう。だがそれは、清益が被せるようにして防いだ。


「そう庇わなくてもわかっています。あなたを連れ出したのは秀礼様でしょう。今朝方出した文でしょうね――となれば藍玉が噛んでいる可能性もある」

「藍玉は巻き込まれただけです。お咎めはわたしに」

「ええ、もちろん」


 にっこりと清益は微笑んだ。


(しばらく嫌味を聞かせられるのだろうな)


 こうなった清益は朝から晩まで粘っこく嫌味を語る。腹のうちの黒さが次々と溢れでてくるのだろう。秀礼は頭を抱える。清益のこともだが、急に寂しさがこみあげている。身を裂かれるような、落ち着かない心持ちである。


(どうして寂しいと思ってしまうのか)


 花が咲いていたら、と思う。

 簪を買っていたのなら、と思う。

 宮城に戻ってもその憂いは消えてくれなかった。




「……昨日も申し上げたと思いますが、」


 空はとっぷりと暗くなり、濃紺の時間になる。昨日よりも少し欠けた月が輝いている。宮城を抜け出した罰だと叱られ、月見酒の提案は却下された。清益は顔を合わせるたびにねちねちとうるさい。


「わかってる。不用意に親しくするなと言いたいのだろう」

「これは華妃の立場も、秀礼様の立場も悪くすることですから」


 しかし散々叱り続けて清益も疲れたのかも知れない。声音を和らげ「しかし、」と続ける。


「今日の判断は正しいのでしょう。宮城より大都の方が変な噂を立てる者はおりません」


 後宮内であのように連れたって歩けばすぐに噂が広まる。ならば大都の方がよい。後宮の噂は風のように駆け抜けては広まるものだ。それを秀礼もよくわかっている。それを行いそうな者の顔を思い浮かべると同時に、清益が呟いた。


「特にあの方などは、華妃を嫌うでしょうね」

「……ああ」


 名を出さずとも、二人は同じ者を思い浮かべているのだろう。皇后の姪である彼女はなかなか扱いが難しい。


(あれが紅妍に関わらなければいいが)


 手を打っておきたいところだが、下手すれば紅妍と秀礼について騒ぎたてられることだろう。何事もなく過ぎるのを願うしかない。


「ところで秀礼様、」

「なんだ」


 この話はどこまで続くのだろうとうんざりしながら聞く。だが出てきた言葉は秀礼の予想を超えるものだった。


「あのような場面では女人に贈り物をしたらいかかでしょうか。簪だとか花だとか、そういったものを贈るのは大事だと思いますよ。どうせ食べ物ばかりでしょう、色気を欠いた贈り物は嫌われますよ」


 事もなげに清益が言う。荷車へ向かう時のやりとりをしっかりと見ていたのだろう。だからといって改めて言わなくてもいい。そんなことは秀礼自身わかっている。

 どう返事したらいいものか悩み、額を押さえる。苛立ちは眉間の皺となってあらわれていた。

 清益にとってはこれでじゅうぶんなのだろう。秀礼を少しほど懲らしめてやりたかったのだ。意地の悪い笑みを浮かべながら頭を下げ、部屋を出て行った。


(今度は簪を買おう。花の紋様がついたものが良い)


 別に清益の言葉を鵜呑みにするわけではない。秀礼だって買えばよかったと考えていた。

 秀礼は顔をしかめて扉から顔をそむけた。腹立たしい。やはり買えばよかった。いや大都でなくてもいい、とにかくあの紅髪に簪を贈りたい。

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