4.芍薬に悔恨を

 事態が動いた。秋芳しゅうほうきゅうから報せがきたのである。


様、大変です」


 藍玉らんぎょくが、慌てて紅妍こうけんの元にやってきた。朝餉あさげを終え、これから庭の散歩でもしようかと考えていた時だった。


「何かあった?」

「秋芳宮から遣いがきました。よう様がご挨拶したいとのことです」


 それを聞いて、紅妍は眉間に皺を寄せた。


(楊妃は死んでいない? いや、そんなことは……)


 死んでいると考えていた楊妃から挨拶したいとなれば、生きているのだろうか。しかし花詠みは嘘をつかない。どういうことかと紅妍は思案に暮れた。


「楊妃様は体調が思わしくないため冬花とうかきゅうまで向かうのは難しいそうで、華妃様に秋芳宮まで来て欲しいとのことです」


 こうして遣いがきているのだから応えなければならないが、疑惑ある秋芳宮に向かうのは相手の懐に入りこむようで、どうにも恐ろしい。

 しばらく考えた後、紅妍は答えを出した。


「わかった。秋芳宮に向かおう」

「ではそのように手配します」

「あと震礼しんれいきゅうにも遣いを。事の次第を話し同席してほしい旨を伝えてほしい」


 藍玉は揖した。すぐに動いてくれることだろう。そうなれば紅妍も支度を調えなければならない。


(いやな予感がする)


 部屋から藍玉が出て行った後、紅妍は庭を眺めながら唇を噛む。急に秋芳宮から誘いがくるなど、想像もしていなかった。これが凶事に繋がらないよう、万全に準備をしなければと頭を巡らせた。




 紅妍は秀礼と共に秋芳宮へと向かった。秀礼については道中で会い、長く臥せっていた楊妃を案じていたので同行したと話すことにしている。清益はまだ戻っていないようで、秋芳宮からは腕の立つ武官がついてきた。冬花宮からは藍玉を供に選んでいる。

 秋芳宮に着くと、宮女長たちが出迎えた。


「華妃様、お待ちしておりました」


 相変わらず冷ややかな顔をしている。恭しく礼をしているが、その瞳はぴりと張り詰めていた。


「お呼びいただき光栄です。楊妃にお会いできるのを楽しみにしていました」


 用意してきた言葉を述べながらあたりを見渡す。

 先日、庭を案内してくれた下級宮女の姿がない。秋芳宮の廊下を歩きながら、先を歩く宮女長に訊いた。


「庭を案内してくれた子はどこへ? 先日、紅芍薬を頂いたのでお礼を言いたかったのですが」

「ああ、あの子ならお休みを頂いていますよ」


 振り返りもせず宮女長が答えた。淡々とした物言いだ。紅妍は警戒しながらその背をじいと睨みつける。


「楊妃様の部屋ですが体調が芳しくないため、陽を閉ざしております。何でも陽の光が当たると眩しさにめまいがするそうで」


 外はよく晴れている。空は雲一つ無い晴天だが、昨日は雨が降っていたので空気が湿っている。だが楊妃の部屋は窓に板を張り、光も風も防いだ部屋になるようだ。陽は高いというのに、宮女長は手燭を用意している。


「それでは、こちらへどうぞ」


 通されたのは確かに暗い部屋だった。その部屋の奥に人がいる。その人物は襦裙を着て、薄い衫を羽織っているようだ。手燭の灯りは頼りなく、細部までわからない。


「……冬花宮の華妃ですね」


 彼女はそう口火を切った。柔らかな声である。


「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。病に伏せっていたものですから」

「病とは大変でしたね。体調はどうです?」

「無理はしないようにと宮医に言われております。光も風もあたらぬ部屋がよいと……」


 ここで動いたのは秀礼である。彼は素知らぬふりをして、首を傾げた。


「それは初めて聞きますね。冬の頃から光も風も当たらぬ部屋に籠もるような病に罹ったんでしょうか」

「……え、ええ」

「それはぜひ詳細をお聞かせ願いたい。楊妃ならばご存知だと思いますが、いまの光乾殿はこういった話にうるさい。万が一、この病を帝が患えば大変ですからね」


 楊妃はそこで黙りこんだ。言葉を探しているのだろう。代わりに答えたのは部屋の隅に控えていた宮女長だ。


「申し訳ありません。楊妃様はこの病についてあまり知らないものですから」

「なるほど。ではいまは聞かない方がよさそうだ」


 宮女長に遮られたことで秀礼は引く。だが楊妃への疑念は晴れていない。今度は、紅妍が動く。


「秋芳宮の庭に花が咲いておりました」

「……咲いているのは芍薬でしょうね」

「ええ。楊妃も花が好きだと聞いたので、今日は冬花宮の庭に咲く花を持ってきました」


 そうして用意してきた花を渡す。大きく開いた白の花だ。楊妃に手渡す。宮女長に手燭で照らしてもらいながら花をとくと眺めていた。


「ありがとうございます。とても美しい芍薬ですね」


 その返答に紅妍の顔が凍りついた。


「楊妃は芍薬を好んでいて、牡丹と芍薬の違いがわかるのだとお聞きしました」

「……その通りです。わたし、芍薬が好きなので」


 楊妃は花を愛でている。けれど、紅妍は確信を持っていた。立ち上がり、楊妃に告げる。


「ですが――あなたは楊妃じゃない。偽物の妃です」


 この発言に場の空気がぴりと張り詰める。楊妃は驚いたような反応をしていたが、それよりも早く動いたのは宮女長だった。


「無礼ですよ! 楊妃様になんてことを言うのです」

「偽物をたてる方が無礼でしょう」

「何を根拠にそのような――」


 紅妍は笑った。それはその花が示してくれる。


「残念ながら冬花宮に芍薬はありません。植えられているのは牡丹――わたしが渡したのは、白牡丹です。芍薬を好む楊妃がこれを見抜けないとは驚きでした」


 牡丹と芍薬はよく似た花である。開いた花の状態で見分けるのは、花が好きな人でなければ難しいだろう。散り方や葉で見分ける者が多く、紅妍も葉の形を見て見分けるようにしている。

 楊妃に渡したのは牡丹だ。見分けられるようあえて葉も残している。


「あなたが偽物の楊妃なら、思い当たる人物がいます。わたしが『花が咲いていた』と話しただけで、あなたは『芍薬』と答えた。ここの庭には他にも花が咲いているけれど、あなたはすぐに芍薬だとわかったのでしょう。だってわたしに庭を案内したのはあなただから」


 庭の案内をしてくれた下級宮女は幼い顔をしていたが、背や髪は楊妃に似ている。顔つきや声は似ていないが、華妃と楊妃は初対面であるため部屋を暗くすれば誤魔化せると考えたのだろう。だが紅妍には花詠みがある。そこで楊妃の顔や声を聞いていた。花詠みで聞いた楊妃と、偽物の楊妃の声は異なっている。


「薄暗い中でも歩揺を挿していればわかります。あなたから歩揺が鳴る音は聞こえない。楊妃が好んで挿していたという銀歩揺はどうしたのでしょう」


 ここに異を唱えたのが宮女長である。怒気をはらんだ声で叫んだ。


「楊妃様に何てことを仰います。楊妃様は眼病を患っていますから花の見分けがつかないのは当然のこと。歩揺も決めつけでしょう。華妃様は楊妃様のことをご存知ないはずです」


 咄嗟の言い訳にしてはよく出来ている。眼病だと言われてしまえば言い返すのも難しい。

 どうしたら暴けるだろうかと紅妍が唇を噛んだ時である。


 空気が震えた。ずしりとのし掛かるように身が重たい。遠くの方から血のにおいがしている。


(間違いない。鬼霊が出た)


 血のにおいはそこまで濃くない。この部屋にはいないのだ。となれば、紅妍は顔をあげる。


「華妃!」


 この気配に気づいたのだろう秀礼が叫ぶ。紅妍も気づいていたのですぐに頷いた。宮女長や楊妃は素知らぬ顔をしていることから気づいていないのだろう。疎い者はどれだけ気が重たかろうがわからないのである。

 紅妍は慌てて扉を開いた。外の光が一気に差し込んできたことで目が眩む。宮女長が何かを言っていたが構わず外を見やる。血のにおいを辿り、探した。


(おそらく、庭――紅芍薬の近くだ)


 廊下は渡り廊下となっている。扉の横では藍玉が待っていた。血相を変えて突然部屋を出てきた紅妍に驚いている。


「藍玉、庭から離れて。鬼霊がいる」

「き、鬼霊!?」


 この会話は室内にいた宮女長らも聞いていたらしい。楊妃は部屋に残っていたが、秀礼と宮女長は部屋を飛び出す。そして庭を覗きこんだ。


「いた。妃の鬼霊だ」

「……っ、あ、あれは」


 宮女長の声が震えている。鬼霊を見たことよりも別のものに畏れているようだった。

 紅妍は襦裙の裾をまくり上げると、渡り廊下の手すりを飛び越える。そのまま庭に降り立った。

 鬼霊は人を襲う。秋芳宮の宮女たちを逃がすことも考えたが、妃の鬼霊は紅の芍薬が植わる場所で膝をついている。こちらを見ようともしない。生者への関心を持っていないようだった。


(妃の鬼霊は人を襲いにきたのではなさそう。何か目的があるのかもしれない)


 紅芍薬の場所に、妃の鬼霊が想う何かがあるのだ。紅妍は急ぎその場所へ向かい、鬼霊の隣に立つ。何かあれば逃げられるようにと注意を払って忍び寄ったが、鬼霊はやはり紅妍に見向きもしなかった。

 鬼霊との距離を詰める紅妍に目を剥いたのは秀礼である。彼は手柵から身を乗り出して叫んだ。


「華妃! 近づきすぎるな」

「大丈夫。この鬼霊は襲いません」

「襲わない? なぜわかる」


 紅妍は答えなかった。秀礼に背を向け、鬼霊を見やる。


「あなたは……楊妃」


 紅妍が問う。銀歩揺を挿した妃の鬼霊は答えない。ただじいと、紅芍薬の根元を眺めていた。


「まさかこの近くに、あなたの大切なものがある?」


 これにも鬼霊は答えなかった。その代わり、ぽたりと何かが落ちる。紅の花びらだ。妃の左胸に咲いた紅芍薬は血のにおいを放ちながら、花びらをこぼしている。

 紅妍は鬼霊のそばで膝をつき、その場所を掘る。そういえば宮城にきてすぐも土を掘り返していた。人はどうも、不都合なものがあると隠したがる。人様に見つからない場所と考えれば水や土の中が好都合なのだろう。掘ってばかりだと心の中で自嘲する。

 そしてすぐに、それは出てきた。


「……折れた銀の歩揺」


 鬼霊が髪に挿しているものとよく似ていた。柄には芍薬の柄が刻まれている。紅妍が折れた歩揺を手に取ると、鬼霊の視線がこちらを向いた。ようやく紅妍のことを認識したらしい。


「あなたはこれを探していた?」


 答えはない。けれど紅の花びらがゆるやかに風に舞った。張り詰めていた気が少しだけ和らぐ。誰かが、鬼霊が、泣いているような風の音がした。


 ちょうど、その時である。新たな来訪者が庭に足を踏み入れていた。


「これはどういう状況でしょうか」


 現れたのは清益だった。庭にいる紅妍と鬼霊、渡り廊下には宮女長に藍玉が揃い、秀礼は今にも庭に飛びださんと身を乗り出しているのである。駆けつけた清益が呆然とするのも仕方のないことである。

 清益よりも早く状況を理解したのは、彼が連れてきた者だった。薄汚れた襦裙を着た彼女は庭の鬼霊を視るなり、駆け出す。


「まさか、楊妃様!」


 その顔は花詠みで見た、秋芳宮の庭を手入れしていた宮女――霹児へきじである。楊妃に仕えていた霹児は、この鬼霊が妃であるとすぐにわかったらしい。鬼霊の元へ寄ると、その場に崩れて泣き出した。


「ああ楊妃様……可哀想に……まさか鬼霊になっていただなんて……」

「あなたが、秋芳宮の庭を任されていた霹児?」


 紅妍が問うと、霹児は「ええ、ええ」と泣きながら何度も頷いた。


「わたしが悪かったのです。やはり黙っていることは罪でございました。家族がいくら大事といえど、あれほどお慕いしていた楊妃様の恩を裏切り、楊妃様は鬼霊になってしまった。これはすべて、わたしが口を閉ざしたためです」


 これは一体どういうことだろう。訝しんだ紅妍が霹児に問おうとした時、渡り廊下にいた宮女長が声を張り上げた。


「やめなさい霹児。あなたは気が触れておかしくなっているのよ」


 どうやら宮女長は霹児に語ってほしくはないらしい。これに察した秀礼が手をあげる。従えてきた武官が宮女長を抑えた。

 そして清益がこちらに寄る。彼なりに事態を把握し、この鬼霊が楊妃であり、危害を加える気はないと察したようだ。


「話を伺ったところ、この霹児は秋芳宮で起きた『事』を目撃しているようです」

「ほう。では犯人も知っているのか」


 秀礼が訊いた。これに清益は笑みを浮かべて答える。


「はい。どうやらその者から、家族の命が惜しければ口を閉ざすようにと脅されていたようです。里で怯えておりました」

「それは話が早くて助かる――なに、犯人の見当はついているがな」


 そう言って秀礼は宮女長をちらりと見る。宮女長は武官に拘束されながら、顔を白くさせていた。紅妍も犯人が誰であるのかは察していた。答え合わせをするように泣き崩れていた霹児が語る。


「帝の寵愛を受けられず、子を成すこともできなかった楊妃様は秋芳宮の宮女より厳しい扱いを受けていました。宮女長や一部の宮女は春燕しゅんえんきゅうの者と親しく、春燕宮のえい貴妃きひ様は楊妃様を疎んじていましたから、色々な話をふきこまれていたようです。ついに楊妃様と宮女長が口論になったのは冬が訪れる前のことでした」


 はたはたと涙が地に落ちる。楊妃の鬼霊はまだ芍薬のそばから動こうとしなかった。表情が動かないため、その鼓膜が霹児の話を拾えているのかはわからない。


「その日わたしは庭に出ていました。そして楊妃様の悲鳴を聞いたのです。慌てて駆けつけるも既に楊妃様は倒れていました。胸から血を流し、襦裙や床に垂れている。そこにいた宮女長は駆けつけたわたしを見るなり口止めをしたのです――故郷に残した家族が惜しければ、このことは忘れるようにと」

「……それであなたは故郷に戻ったと」

「楊妃様に申し訳ない気持ちはありながらも、家族が大事だったのです。気が触れたと吹聴されても逆らえず口を閉ざしたのはわたしの意志が弱かったがため。楊妃様が鬼霊となったのはわたしの罪でございます」


 鬼霊の足に縋るようにして泣く霹児に胸が痛む。紅妍は彼女の肩を数度撫でた。


「大丈夫。楊妃のことは任せて」


 そう囁いて立ち上がる。紅妍の鋭い眼光は宮女長を捉えていた。


「あなたが侵した過ちは曝かれている。楊妃を殺した罪は重い」

「っ……わ、わたしは……」


 宮女長は何かを言いかけたが、そこで止めた。彼女なりに保っていた矜持は崩れてしまったのだろう。武官に腕を押さえられたまま、身を揺らしながら笑いだした。


「ふ、はは……あははは」

「……なぜ笑うの?」

「華妃。あなたはひとつだけ間違っていますよ」


 高笑いと共に、宮女長が告げる。


「霹児は永貴妃様の名を出したでしょう。それは大間違いですよ。わたしに協力したのは永貴妃様ではありません」

「では、誰が」

「鬼霊ですよ。楊妃様を殺すことも、あなたたちが霹児を探していることも、華妃を秋芳宮に呼びだして始末することもすべて鬼霊が……ぐ、う、う」


 すべてを諦めたように勢いよく語っていた唇からうめき声がこぼれる。宮女長の瞳が大きく見開かれ、肌は血色を欠いて土色に褪せていく。そしてごぼりと、水がこぼれるような嫌な音がした。


 ぼたぼたと、口から溢れて落ちていく。瓊花たまばなだ。宮女長は口から瓊花のかたまりを吐き出している。腹の中に瓊花の低木があるのかと思うほど、枝や葉、花が吐き出されていく。瓊花は薄黄がかった白色をしているはずが、どれも紅色だ。上から紅で染められたように不自然である。

 口から瓊花を吐き出し続けていた宮女長はついに事切れた。眼球はだらりと上を向き、体も力を欠いて崩れ落ちる。口から吐き出された瓊花やその枝は渡り廊下のあちこちまで至っていた。


「……なんだ、これは」


 異様な光景にあたりはしんと静まり、宮女長も動かなくなったところで秀礼が呟いた。だが誰も答えられない。花を吐き出して死ぬなどおかしなことである。

 紅妍は宮女長が吐き出した瓊花に近寄る。顔は平静を保っているが、心のうちは怯えていた。この状況は、紅妍にとっても理解しがたく恐ろしい。

 瓊花の一つを手に取ってみたが、その花は虚ろだった。


(この花は違う……生きてない。空っぽの花だ)


 生きていない花なのだ。だから人の世を眺めることをせず、記憶を持っていない。本来の草花は生きているのだが、これはそのことわりから外れた花のようである。花詠みをしても何も見えないだろう。

 紅妍は瓊花のことを諦め、楊妃の鬼霊へと戻る。霹児と約束しているのだ。楊妃を救わなければならない。


「これから、花渡しをします」

「華妃様、花渡しとは」


 霹児が訊いた。宮女長の騒動によって涙は止まったらしいが、瞼や目の周りが赤く腫れている。


「鬼霊となった楊妃の魂を祓う。楊妃を浄土へ送る」


 ちょうどよく、ここには楊妃が好んだ芍薬がある。春に咲くだろう紅芍薬を待ち望んだ楊妃は、その花によって浄土に渡るのだ。紅妍は紅芍薬を一輪摘み取り、右手に持つ。対の手には折れた銀歩揺がある。

 瞳を閉じ、鬼霊に心を向ける。楊妃の鬼霊はたやすく、その心を開いてくれた。歩揺を掘り出した紅妍に感謝していたのかもしれない。


(楊妃。あなたを浄土に送りたい)


 その胸に咲く、痛みを示す紅花。どれほど痛むのだろう。どれほど楊妃を苦しめただろう。鬼霊となってでも宮に、春に咲く芍薬を見に来ていたのだ。その思いに紅妍の胸が苦しむ。

 涙が、落ちていた。

 楊妃を思って、自然と涙がこぼれていく。それはぽたりと手中に落ちる。同時に、楊妃の体が細い煙となって芍薬に吸いこまれていった。彼女が好んだ銀歩揺も芍薬の中に消えている。

 紅妍は瞳を開いた。双眸は涙に濡れている。拭う間はない。宙を見上げて告げる。


「花と共に、渡れ」


 風が走る。芍薬は白煙となって風にのり、流れていく。紅妍の涙と共に、風に流されて浄土に向かうのだろう。

 楊妃を連れた煙が遠くの方へ流れていくのを紅妍はじっと見上げていた。花詠みをした時に見ただけの楊妃は柔らかな人だった。鬼霊となっても人を襲わず、花だけを見る優しさを持っていたのだ。


(どうか、安らかに)


 その想いが涙となって落ちる。紅妍が宙に意識を向けていた時、花渡しを終えた手に何かが触れた。それは温かい。


「……あ」


 確かめるように見れば、そこには秀礼がいた。渡り廊下から庭まで下りてきたらしい。そしてなぜか、紅妍の手を掴んでいる。


「あの、この手は」


 戸惑い訊く紅妍だったが、秀礼もなぜか戸惑っていた。自らの行動が理解できないといった表情でぽつぽつと呟く。


「いや、これは……うむ……わからん。お前の手が震えているように見えただけだ」


 紅妍は己の手へ視線を移す。震えていたのだろうか。自覚はなかった。改めて己の手を確認するも震えている様子はない。ただ、秀礼の温かな手に掴まれているだけだ。

 むしろ、秀礼の手こそ震えている。それは秀礼自身も気づいていたらしい。


「女人に触れるなど初めてではないのだが、おかしい」

「はあ……では離していただけますか」

「いやまて。それもよくない気がする」


 訳がわからない。露骨に顔をしかめる紅妍と、首を傾げる秀礼。払いのけた方がいいのだろうかと考えていれば、秀礼がぼそぼそと小さく言った。


「お前が優しいようで、でも掴まなければ壊れそうなほど、脆く見えたのだ」


 秀礼は、枯れ枝と呼んで揶揄からかうのとは違う、別の脆さを感じ取ったようだが、そこまでは紅妍に伝わらなかった。紅妍は己の腕の細さを見やる。


(枯れ枝だの痩身だの、わたしはそこまでひどい細さをしているのだろうか……)


 しんと静かな秋芳宮にぽたりと芍薬が落ちる。芍薬を愛でた主はもういない。けれど次の春も咲けばいい。

 紅妍は忘れて空を見上げる。どこか遠くの方で銀歩揺の音がしていた。

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