3.花は語り手を待つ
ことわりなく伺うことは失礼にあたるのではないかと考えた
(冬花宮から一番近い宮が秋芳宮だけど)
冬花門を出て歩きながら考える。内廷の中心には
宮を出ると塀に挟まれた通路を歩く。ここは塀と塀に囲まれているので日当たり少なく鬱屈とした印象がある。通路の中央部には石が敷かれているが端は敷かれていない。季を終えた
紅妍が向かう方角は、いつぞや妃の
(山でも何度か鬼霊を見たけれど、宮城の鬼霊とは違うな)
鬼霊は生きていた頃の姿をして彷徨う。
鬼霊として彷徨うのは苦しみを伴う。死の契機となった傷に咲く紅花は、鬼霊に痛みを与えるのだそうだ。山中で会った民兵の鬼霊がそれを教えてくれた。鬼霊となってすぐは自我が残っているのだという。だが紅花による痛みや生死の狭間に存在する葛藤で己を忘れ、人を襲う鬼霊となるのだそうだ。その鬼霊は故郷に残した家族への心残りがあり、死する前にしたためた文を守るという強い想いで自我を保っていた。洞穴に潜みながら文を託せる者を待っていたのである。
(妃の鬼霊も苦しんでいるはず。できることなら祓ってあげたい。鬼霊は悲しい存在だから)
鬼霊を苦しめる紅花の痛みがどれほどであるのか、生者である紅妍には知る術がない。だが理解はできずとも、歩み寄りたいと思う。
秋芳宮は閑散としていた。冬花宮も他宮に比べれば宮女が少ない。これは紅妍の希望であり、他者が多いと煩わしいからと秀礼らに伝えている。秋芳宮はその冬花宮よりも活気がなく、ひどく冷えた場所のように感じた。
秋芳門をくぐると紅妍らの来訪に気づいた宮女が慌てて駆けてきた。幼い顔をし、深衣を着ていることから下級宮女だろう。
「何用でしょうか」
下級宮女の問いに答えるため、藍玉が紅妍の前に立つ。
「冬花宮から参りました。楊妃にお会いしたいと遣いを出したのですが返答がなかったので伺いましたの」
「冬花宮……華妃様……」
ぼそぼそと下級宮女が呟く。どうやらこの宮女は、冬花宮に新しい妃が入ったことを知らなかったらしい。思案の後、「少々お待ちください」と告げて秋芳宮に戻っていった。
少し待つと、下級宮女と共に宮女長がやってきた。
「冬花宮の華妃様ですね」
秋芳宮の宮女長が揖する。その表情は冷えていて、それをぴくりとも動かさずに告げた。
「楊妃様は体調を崩しておられます。本日はお会いになられません」
「まあ。体調を崩しているの? 随分と長く臥せっておられるのですね。最近楊妃様のお姿を見かけないものだから気にしていましたの」
ある程度は知っているだろうに、藍玉が知らぬふりをして問う。ちらりと見やれば清益に似た微笑みを浮かべていた。それから用意してきた果物を出す。早摘みの
だが宮女長はそれを受け取ろうとしなかった。秋芳宮に紅妍をあげる気はないらしい。枇杷の入った籠を睨み、そこから一歩も動こうとしない。
「楊妃様は誰ともお会いになられません」
頑なに繰り返す。どうやら宮女長を説得するのは厳しいようだ。
紅妍は一歩ほど前に出る。それに気づいた藍玉がさっと後ずさった。
「では日を改めましょう。こちらの枇杷と共に、快癒を願っておりますと楊妃に伝えてください」
「はい」
だがこれで折れるつもりはない。紅妍はまだ動こうとしなかった。
「庭を拝見してもいいでしょうか。帰る前にあの綺麗な花を見ていきたいのです」
宮女長はすぐには答えようとしなかった。品定めをするように紅妍をじいと見た後、庭の方も確かめる。秋芳門をくぐった時から庭に咲く
「構いませんよ。せっかくここまでいらしたのですから、どうぞご覧になってください」
それから従えてきた下級宮女に何やら耳打ちをする。どうやら庭の案内を命じているらしい。
(案内にしては緊張している。見張りを命じられたのかもしれない)
下級宮女の張り詰めた表情からそう考える。秋芳宮にとって紅妍らは歓迎されていないらしい。楊妃はそこまで他者を疎うのか、それとも人と会いたくない理由があるのか。これについては考えてもわからない。紅妍らは下級宮女の後について秋芳宮の庭へと向かった。
庭は桂花が植えられている。花は咲かせていないものの
そして目立つのは
その近くを紅妍が通った時である。
「あら……芍薬が」
そのうち一輪の芍薬がぼたりと地に落ち、これに気づいた藍玉が声をあげた。落ちた芍薬は弱っても咲き頃を終えてもいない。花弁は瑞々しさを保っている。
「綺麗なのに勿体ないですね。花の形だって崩れてやいないのに」
地に視線を落として藍玉が嘆く。その隣で、紅妍はじっと芍薬を見つめていた。
(もしかすると――)
花が不自然に崩れる時、音を立てる時。それは花の報せと呼ばれている。そこに華仙術師がいることに気づいた花が、何かを伝えようとしているのだ。
紅妍は芍薬を拾い上げた。ここには秋芳宮の宮女もいるため長く花詠みをしていれば不審がられてしまう。落ちた芍薬を愛でるふりをしながら、目を伏せる。意識は両の手のひらにのせた芍薬に向ける。
花に満ちる水に合わせて、溶けるように。自らを絹糸のように細めて花の中に流れ込んでいくのを想像しながら語りかけた。
(あなたが視てきたものを、教えてほしい)
おそらくこの芍薬は紅妍に伝えたいことがあったのだろう。花の記憶は探さずとも容易に流れ込んでくる。紅妍の意識が、それを捉えた。
◇◇◇
鮮やかに映る。そこには庭を眺める女人がいた。女人が見つめる先には庭手入れをする宮女がいて、咲き終えた菊を摘んでいた。菊が終わる頃ならば晩秋か初冬だろうか。空気は冷えているように見える。
『わたくし、春が好きなのよ』
物腰柔らかな声である。女人は、上級宮女よりも良い
『どのお花が好きなんです?』
庭の手入れをしていた宮女が振り返って聞いた。妃であろう女人は庭の、芍薬が咲いていた場所を指で示す。
『芍薬よ。あれは美しい花を咲かすでしょう。みなは牡丹と芍薬の見分けがつかないと言うけれど、わたくしは見分けるのが得意なの。好きだから違いがわかるのよ』
『なるほど』
『雪が溶けたら、芍薬は咲くかしら』
そう言って妃は庭を見渡した。その時である。
(あの歩揺は――)
しゃり、と音を立てて揺れる。結い上げられた妃の髪で銀歩揺が揺れていた。それは間違いなく、先日見た鬼霊がつけていたのと同じもの。
息を呑む紅妍を知らず、宮女は妃に向けて微笑む。
『もちろん咲きますとも。楊妃様のために咲かせてみせましょう。楊妃様の部屋から見える場所に、紅の芍薬を植えましょう』
その妃は、楊妃と呼ばれていた。
◇◇◇
意識が戻る。身の奥に寒の杭を打つような空気は一変し、晩春の香りに満ちる。紅妍が瞳を開くと、手中にあった芍薬は枯れていた。
「華妃様? どうされました?」
芍薬を持ったまま動かぬ紅妍を案じた藍玉が声をかけている。紅妍は「大丈夫」と答えて顔をあげた。
「あら……その芍薬、急に枯れてしまったんですね。可哀想に。だから落ちたのね」
紅妍の手中にある芍薬を確認した藍玉は残念そうに言った。花詠みしたとは言えず、紅妍はその枯れ花を空に流しながら頷く。
花はつぼみでも、咲かぬ前でも人の世を見ている。芍薬は、この記憶を紅妍に見せたかったのだ。楊妃が春の訪れを待つ記憶を。
(あの銀歩揺が楊妃の物だとするならば……)
紅妍は庭の奥を見やる。花詠みにいた宮女は、楊妃の部屋から見える場所に紅芍薬を植えると話していた。となれば紅芍薬が植わっている近くに部屋があるはず。
「あの紅芍薬を見たい」
紅妍が囁くと、藍玉が声をひそめて耳打ちする。
「何かわかりました?」
「たぶん。確証を得られるかもしれないから、紅の芍薬が欲しい。もしも近づけないようならば一輪持ち帰るだけでもいい」
「任せてください」
藍玉は頷いた後、秋芳宮宮女の元へと向かう。
予想通り、宮女は紅芍薬の近くに紅妍たちを案内しようとしなかった。手入れが済んでいないだのと言い訳をつけている。藍玉は「一輪分けて頂けます? 華妃様が気に入ったので」と早々に交渉を切り替えている。
下級宮女は顔をしかめていたが、案内するよりは一輪摘んだ方がよいと考えたのだろう。少し待っていると手折られた紅芍薬が紅妍の元にやってきた。
(紅芍薬を花詠みすれば、わかるかもしれない。急いで冬花宮に戻らないと)
紅妍らは下級宮女に礼を伝え、秋芳宮を後にした。
***
数日ほど経って、冬花宮の門をくぐったのは
部屋に通した後は人払いをする。清益はもちろんのこと藍玉にも同席してもらうつもりだったが、部屋に入るなり清益が藍玉に籠を手渡した。
「あら。これは」
「南方の村から贈られた蜜瓜です。秀礼様が
籠には網模様がついた薄緑のこぶりな瓜が二つほど入っている。瓜を手に取り眺めた後、藍玉は笑った。
「良い香りがします。華妃様は蜜瓜はお好きかしら」
蜜瓜は聞いたことがある。実物だって見たことがある。けれど食べたことは一度もなかった。華仙の里で蜜瓜は貴重である。麓の村に下りた者が年に一度手に入れてくるぐらいで、手に入ったとしても長や婆、白嬢らが食べてしまうので、紅妍がそれを食したことはない。
芳しい甘い香りは何度も嗅いだ。どんな味がするのだろうと想像していたものだ。
「紅妍は食べたことがないだろう?」
心のうちを見透かすように、秀礼が言った。
「きっとこれの味も知らないだろうから、食べさせてみたいと思って持ってきた。運良く手に入ったからな」
不遜な態度は気に食わないが、憧れていた蜜瓜が目の前にあることはありがたい。
紅妍は何も言わなかったが、その瞳がきらめいている。それに気づいた藍玉が「用意してまいります」と籠を手に、出て行った。
藍玉が去った後、秀礼は緩んだ顔つきをぴしりと引き締める。そして本題に触れた。
「それで。こうして呼んだということは、秋芳宮で何かわかったのか?」
紅妍は頷く。持ち帰った紅芍薬はとうに役目を終えて、枯れていた。まだ土に還していないので水盤に枯れ花が置いてある。
「秋芳宮に行くも楊妃には会えず、庭を見て帰りました」
「ほう。だが、ただ庭を見ただけではないのだろう」
「花詠みを行いました」
花詠みの単語が出てきたことで秀礼が息を呑む。清益も冷静に紅妍を見つめていた。
「先日、わたしが見た妃の鬼霊は楊妃でしょう。花詠みで楊妃の姿が見えましたが、わたしが見た鬼霊と同じ銀歩揺を挿していました」
「……鬼霊ということは、楊妃は死んでいるのだな」
これに紅妍は頷く。それについては紅の芍薬が見せてくれている。
「秋芳宮の庭奥に紅芍薬が咲いていました。それは楊妃が好んだ花で、彼女の部屋から見える位置に植えたようです。わたしたちは近づくことが許されなかったので一輪摘んでもらいました」
「それが、あの枯れ花か」
冬花宮に戻ってきてから、紅芍薬を花詠みした。そこで見えたのは冬であった。宮女の一人が庭で泣いている。
『どうしてこんなことになってしまったのだろう』『楊妃は芍薬を楽しみにしていたのに、まさかその下に』『きっと紅芍薬を見たかったことだろう』と呟きながら宮女は泣いていて、行き場のない後悔をぶつけているようであった。この記憶に楊妃の姿は出てこなかったことから、この頃には死んでいたのだろう。
紅芍薬の記憶を語ると、秀礼は表情を曇らせた。そこまでの驚きがないことからこの結末は予想していたのかもしれない。
「楊妃は自ら死んだのか、それとも殺されたのか。それがわかればいいんだが」
「花詠みでも死の理由は出てきませんでした。ですが――」
紅妍はうつむく。花が語らずとも、これまでの秋芳宮の動きを思えば見えてくることがある。
「秋芳宮は楊妃の死を隠しています。他妃の来訪を拒否し、茶会も断るほど」
「楊妃の名誉を守るために自害を隠しているのかもしれないぞ」
「自害の可能性は低いと思われます。楊妃は春の訪れを待ち望み、命を絶つほどの憂いは感じられませんでした」
「ふむ……これは秋芳宮に聞いた方がいいか」
そうなると、思い当たる人はいる。だが、花詠みで名前は出てこなかった。
どうしたものかと紅妍が思案していると扉が開いた。割った蜜瓜を持ってきた藍玉が戻ってきたのである。
「あら。みなさま、考えこんでどうしたんです。せっかく蜜瓜を持ってきましたのに」
そこで紅妍は顔をあげた。藍玉は下級宮女の頃から
「藍玉。秋芳宮で庭の手入れを任されていた宮女に心当たりは?」
すると藍玉は「ええ」とあっさり頷いた。
「知っていますよ。
これに清益が動いた。藍玉ににっこりと微笑む。
「さすがですよ、藍玉」
「どういうことかしら。これが伯父上の役にたちまして?」
「もちろんです。さっそく遣いをだして霹児を探しましょう」
となれば、あとは霹児を見つけ出して話を聞くまでである。話が落ち着いたところで秀礼が蜜瓜を見やる。それから紅妍へ視線をやり、にたりと笑った。
「食べぬのか?」
「……う」
「瞳は嘘をつかぬ。お前、蜜瓜が運ばれてからというもの、ずっとこれを気にかけているじゃないか。我慢せず食べてみればよい」
確かにその通りではあるが、秀礼も蜜瓜を食べさせたくて仕方ないのだろう。何度も急かされては敵わないので蜜瓜に手を伸ばす。割った蜜瓜には食べやすくするための切り目が入っている。熟して蜜が滴る実をひとつ摘まんで、口に含んだ。
(……なんだこの甘さは)
口に含んですぐ、濃厚な香りが口中に広がる。柔らかな実は舌先の上で蕩けるようで、歯を立てればさくりと柔らかに吸いこまれていく。何よりもたまらなく甘いのだ。
あれほど焦がれた蜜瓜が、想像を超える美味しさをしている。これには誤魔化しきれず、紅妍の頬が緩んだ。
けれど秀礼の前で、美味しいと素直に語るのも気恥ずかしい。迷いながら次の実に手を伸ばす。
言葉には出さずとも表情や仕草で伝わるのだろう。秀礼は満足そうに眺めていた。
「美味しいだろう?」
紅妍は恨めしげに秀礼を眺めた。ただ蜜瓜を持ってきただけならば素直にお礼が言えたのだが、小馬鹿にするような態度には逆らいたくなる。くつくつと秀礼が笑った。
「そんな風に睨まずとも、美味しいと素直に笑った方が似合うぞ。ほら言ってみろ」
「……お、おいしいです……」
「どうもお前は笑うのが苦手らしい。表情が硬い。お前の前にいるのは鬼霊ではないのだから、もう少し緩めればいいだろうに」
そうは言われても難しい。戸惑いながら次の実に手を伸ばす。次々と食べる様子から興味を引かれたようで、秀礼も自らの蜜瓜に視線を移す。
「どれ。私も食べてみよう」
次いで藍玉、清益も食べる。それぞれが口に含んで――瞬間、みなの表情が強ばった。
「これは……追熟が足りていませんね」
苦笑いと共に告げたのは清益である。これに藍玉も頷く。
「少し早かったのでしょうね。香りはじゅうぶんですけれど」
「もっと甘い蜜瓜もありますからね」
美味しい蜜瓜を知っている二人は苦笑いをし、次の実に手を伸ばそうとはしなかった。秀礼も手を止めている。彼も美味しい蜜瓜をよく知っているのだ。
そんな中で、一人食べ進めているのが紅妍だった。なぜみんな食べないのかと不思議がっている。
「お前……本当に蜜瓜を食べたことがなかったのか」
秀礼が呟く。追熟の足りていない蜜瓜だというのにおいしいおいしいと食べ進めている紅妍が哀れに見えてしまった。
それが、面白かったのである。秀礼は微笑みながら紅妍に告げた。
「今度はもっと美味しいものを持ってきてやろう。その時までにお前も笑えるようになれ」
「……善処します」
「藍玉も頼むぞ。毎日、紅妍の頬を揉んでやれ」
「ええ。お任せください」
頬を揉まれたところで綺麗に笑えるのだろうか。疑問を抱きながら、次の蜜瓜に手を伸ばす。紅妍にとって、それは幸福の甘味だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます