2.光乾殿の禍
内廷の中心に
だが紅妍は少し違った。足を踏み入れた時から、どんよりと腹の底が重たくなるような、いやな気を感じている。体はじっとりと汗ばみ、淀んで粘ついた水の中に飛びこんだように重たい。
(秀礼様が言っていた『鬼霊か
他者に強い恨みを抱き、他人を貶めるために行うものが
人を強く恨み、害を与えれば、いずれ自らに返ってくる。呪詛に良いことはひとつもないのである。
秀礼は鬼霊と呪いの二択を提示したが、光乾殿を包む空気の重たさから呪いの可能性が高い。だが――。
(血のにおいが混じっている。呪詛だけとは思えない)
鬼霊独特のにおいがする。このにおいは鬼霊がいる場所から強く放たれるので辿れば鬼霊に着くのだが、光乾殿の気がひどく重たいので、これでは辿ることも難しいだろう。
これほど淀んだ場所に住んでいるのだから体調を崩すのも仕方の無いことだ。なるべくなら長く滞在したくないと紅妍は考えた。
光乾殿を前にしたところで、中から青藍の盤領袍を着た宦官がやってきた。彼は秀礼と紅妍の前で揖する。
「秀礼様、お待ちしておりました」
「おお、
青藍の宦官は韓辰と言うらしい。韓辰は顔をしかめる。どうやら具合は芳しくないようだ。
「本日はまだ目覚めになっておりません。昨晩は咳き込んでいたようですので寝付きも悪かったのかと」
「では謁見は厳しいか」
「はい」
韓辰は紅妍をちらりと見る。どうやら彼にも話が通っているようだが、華仙術を信じてはいないのだろう。探るような鋭い目の奥に、本当に祓えるのかと疑念を抱いているのが感じ取れた。
「では日を改めよう」
これは秀礼が言った。おそらくは秀礼も、韓辰の疑念に気づいたのだ。
「あとは頼むぞ。何かあればすぐに連絡せよ」
韓辰は恭しく頭を下げたが、それは秀礼に向けてであり、華妃である紅妍には冷ややかであった。
目的であった謁見は成らず、冬花宮へと引き返す。早々に戻ってきたことで冬花宮の宮女たちは急ぎ部屋の支度を整えた。部屋に秀礼と紅妍が入ったことで藍玉が慌てて香花茶を持ってきた。その湯気が消える前に、秀礼が口を開く。
「光乾殿に行って、わかったことはあるか?」
「光乾殿の気はあまりよくないかと」
「私もそう思う。理由はわからんが、あの場所に長くいればめまいがする。韓辰や清益はまったくわからないと話しているがな」
秀礼は部屋の隅に控える清益へ視線を送った。清益は普段通り微笑むばかりだ。
「私は鬼霊か呪いだと考えている。お前はどう思った?」
「身震いするような気の重たさからして呪詛――だと思いますが、わかりません。鬼霊のにおいが混じっていたと思います」
これに秀礼は首を傾げた。鬼霊か呪いのどちらかだと考えていたのだ。それを紅妍はどちらもだと答えている。
「鬼霊だけであれば空気はあれほど淀まないでしょう。それに息苦しいほどの邪気は光乾殿に限られていました。鬼霊ならば、鬼霊がいる場所を中心として血臭が漂います」
「ふむ。確かに光乾門をくぐった時からと、はっきり場所は決まっている。呪詛は間違いないということか」
「はい。ですが、血のにおいがかすかにしていました。呪詛ならば血のにおいはしません。となると――」
紅妍は香花茶を睨みながら答えを出す。
「帝の身を苦しめるのは、鬼霊と呪詛のふたつだと考えます」
あの場所が鬼霊と呪詛の二つに苦しめられているのならば禍々しい気が満ちているのも納得できる。陰の気が幾重にも絡まっているのだから、帝の御身は悪くなる一方だろう。
「華仙術で鬼霊を祓うことも、呪詛を祓うこともできます。どちらも花渡しするだけですから――ただ、鬼霊を祓うにはその鬼霊を理解しなければなりません。呪詛も、呪詛の媒介となった道具や人、もしくは恨みの根本に触れなければ祓えないでしょう」
魂や恨みを花に渡すためには、華仙術を使う者がそれを理解しなければならない。深く知らずに祓えば、魂は浄土に渡れず彷徨うことになり、恨みも解せずに宙を漂うため呪詛を行った者に返してしまう可能性がある。
もっと調べなければならないということだ。ここで茶を飲みながら解決する話ではない。その答えに秀礼も至ったのか、香花茶を啜った後に落胆の息を吐いた。
「華仙術は難儀だな。こうも時間がかかるのなら、私が鬼霊を斬り捨てた方が早いのではないか」
この発言に、紅妍の眉間は深い皺を寄せた。
「あれは残酷すぎる祓い方です。その場しのぎあって、根本的な解決ではありません」
「鬼霊は死んだ者だろう。どうして死者にまで優しくしなければならない?」
秀礼の言う通り、鬼霊は死んだ魂である。慈悲をかける必要はないといえばそれまでだが――どうして、と問われれば答えがでない。紅妍の胸をしめるものを言葉にするのが難しい。
うつむき考える紅妍に、秀礼がにたりと笑みを浮かべる。
「お前は面白いな。里では枯れ枝になるようなひどい扱いを受けていたくせ、鬼霊に優しくあろうとする」
「……鬼霊だから、ではないと思います」
「それはどうだろう。私が鬼霊を祓うのを見て叱るようなやつだ。少なくとも私には優しくないだろう」
「しかし華仙術は見事だった。連翹の鬼霊はたびたび報告され、あれに怪我を負わされた者もいた。お前が祓った後、あの場所からそういった報告は出ていない」
「安心しました。あの宦官も浄土に辿り着けたのでしょうね」
宦官の鬼霊は秀礼に斬られていたため、浄土に辿り着けたかが不安だった。報告がきていないとなれば、あの場所はもう大丈夫だ。宮女の鬼霊が浄土に渡ったことで彼も安心したのだろう。
(どうか浄土で心穏やかに過ごせますよう)
紅妍は目を閉じ、心の中で彼らのために祈った。
「ところで紅妍、」
どうやら光乾殿に関する話は終わったらしく、秀礼が別の話を切り出す。
「清益から聞いたが、
「
その返答を得た秀礼は何やら考えこんでしまった。
髙の後宮では、新たな妃を迎えると、既に後宮にいる妃たちが挨拶にやってくるのがしきたりである。皇后や貴妃といった者から伺うという順番もある。紅妍のところへ最初に来たのは永貴妃だった。その後甄妃が来たが、楊妃はまだ来ていない。
「……おかしいな。さすがに今回は、出不精の楊妃も動くと思ったが」
「あまり外へ出たがらないのでしょうか」
「最近は特にその節があると報告を受けている。だが新しい妃が来ても挨拶に来ないというのは少しおかしい」
ここで、部屋の隅で待機していた清益が動いた。
「その件について内密に調べておりました」
清益も楊妃のことを気にかけていたらしい。光乾殿に向かう前に藍玉が言っていた、気になることがあるというのはこのことかもしれない。
「最近のご様子について秋芳宮の宮女長に確かめましたが、いわくはご健勝のようです。ただ外に出たがらないだけだと」
「ふむ。それにしては随分と長く籠もっているな」
「楊妃が外に出なくなったのは初冬ですから長いですね。それから――」
ここで清益は声量を絞った。秀礼の耳元に顔を寄せて何やら話している。どうやら紅妍には聞かせたくない話らしい。それを察して紅妍は外を見やる。
「……なるほど」
話が終わったらしく秀礼が呟く。顔色はあまりよくない。どうやら良くない話だったようだ。何やら考えこんだ後、紅妍に視線を移す。
「光乾殿に向かう前に鬼霊を見たと言っていたな。それはどんな鬼霊だった?」
話は光乾殿に向かう前へと戻り、紅妍はあの時に見た鬼霊を思い出す。
「銀の歩揺をつけた女性の鬼霊でした。歩揺をつけていたのでおそらく妃かと」
「妃の鬼霊など宮城では珍しくないな。過去には毒殺された妃や処刑された妃などたくさんいる」
紅妍が得た情報から絞り込むには難しいのだろう。そこで清益が口を開いた。
「これは別件の調査を頼んだ方がいいかもしれませんね」
「そうだな。いやな予感がする」
秀礼も頷き、再び紅妍をまっすぐ見つめる。
「紅妍、秋芳宮の様子を見てきてもらいたい」
「わたしが秋芳宮にですか?」
「お前を妃にしておいて正解だった。こういう時に動かしやすい。向かう名目としては、楊妃が挨拶に来ないので自ら出向いたということで良いだろう」
そう告げた後、秀礼はうつむいて「これが杞憂であればいいが」と呟いた。そのひとりごとは誰に向けたものでもなく、嘆きが満ちている。
(妃の鬼霊はどこに向かっていたのだろう)
できることならば、妃の鬼霊を祓いたい。宮城を彷徨うのは苦しいだろう。もう一度会えればいいけれどと願いながら、紅妍は庭に目をやる。木蓮が咲いている。その向こうにあるのは西に位置する秋芳宮だ。
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