2章 いつわりの妃

1.銀歩揺の鬼霊

 紅妍こうけんにとって冬花宮とうかきゅうに遷るまでの日々はひどく疲れるものだった。入宮までわずかな日しかなかったため、連日寝る間を惜しんで清益しんえきらから宮廷作法の指導を受けていた。歩き方から始まり、礼儀作法や後宮のしきたり、どれも良家の娘であれば自然と身につくものを紅妍は何も知らない。刺繍の施された襦裙じゅくんに穴や布接ぎがないと驚くような生活を送っていたのである。華仙の里での扱いに比べれば可愛いものだが、里の生活しか知らない紅妍にとっては新しいものばかりで覚えるのも大変だった。

 その裏でえい秀礼しゅうれいらが入宮の手はずを整える。紅妍の支度に比べればこちらの方が楽であると、表情変えず微笑みながら清益が語るほどだ。柔和な表情ばかりする男と思いきや、案外腹の底は淀んでいるのかもしれない。


 ともかく。冬花宮は妃を迎えた。帝にとって最後の妃となるが入宮したのだ。



「華妃様、おはようございます」


 冬花宮にて三度目の朝を迎えたものの、この挨拶は慣れそうにない。朝は陽が昇るよりも早くに冬花宮の宮女長がやってきて紅妍を起こす。宮女長の藍玉らんぎょくがやってくるまでに目は覚めていたものの、支度を終えていない姿を他人の目に晒すのは抵抗があった。


「それでは支度させていただきますね」

「それぐらい自分で……」


 このやりとりも三度目である。そもそも紅妍が身支度を人に手伝ってもらったことはない。後宮の妃であれば当たり前だと清益には言われているがやはり落ち着かない。渋る紅妍だったが、藍玉はずいと顔を寄せた。


「まあ! 華妃様それはいけませんわ。わたくしたちの仕事が減ってしまいます」

「で、でも……」

「華妃様はわたくしたちの仕事を奪い、里に帰れと仰るのかしら。わたくし、冬花宮の宮女として勤めることを光栄に思っておりますのにひどいですわ」


 有無を言わせぬ気迫で藍玉が迫る。微笑んではいるが瞳の奥は笑っていない。身支度の拒否をする紅妍を楽しんでいるようなふしもあった。


(これは慣れるまで時間がかかりそうだ)


 齢はさほど変わらないが、押しの強さは藍玉のが上である。下級宮女の頃から夏泉宮かせんきゅうに勤めていたらしく後宮の事情にも明るい。何よりも大きいのは、伯父が蘇清益ということだ。華紅妍という人物がどのような事情を持ち何のために妃となったのかまで、藍玉には話が通っている。

 この二日ほど観察していたが、藍玉は紅妍を相手にしてもいやがるそぶりはまったく見せず、むしろ楽しそうである。竹を割ったような性格をし、意を通す時は妃である紅妍を相手にしても怖じ気づくことがない。現に、いまも押し切られている。


 髪を結い上げながら藍玉が言った。


「華妃様の髪はもったいないと思います。美しい紅色をしているなんて珍しいのに、手触りがよろしくありません。きちんとお食事を取り、毎日手入れをすれば艶めく紅玉のようになりましょう」


 そこで紅妍は黙りこむ。紅の髪は華仙一族の印である。この髪色は珍しいらしく、海の果てまで行かなければ同じ髪色を持つ者と出会えないのだと聞いた。迫害を受けたばかりの頃は、髪色で華仙一族だと気づかれたらしい。

 思えば、姉の白嬢はくじょうも紅の髪だった。紅妍と異なり、良いものを食べて育った白嬢の髪は確かに美しかった。それが風に巻き上げられた時は、宙を漂う紅の絹糸にも見えたほど。


 藍玉は慣れた手つきで髪を梳く。山茶つばきなどの種子から絞った油を手に取り、髪に塗りこみながらまとめていく。自らの髪に誰かが触れる、結い上げるという行いをされるのは居たたまれない心地がする。じっと座っているというのも苦であると学んだ。

 かんざし歩揺ほようを選ぶのは藍玉に任せていた。今日は落ち着いた簪を選んだらしい。牙黄の玉が埋めこまれたものだ。


「今日はけん様がご挨拶にいらっしゃるそうです」

「甄妃は確か……夏泉宮に住まう妃だったような」

「その通りです」


 そこらへんは冬花宮に入る前に清益から叩きこまれている。

 現在、内廷に住まう妃は四人。しん皇后は逝去したため、いまの後宮を取り仕切るは春燕しゅんえんきゅうに住まうえい貴妃きひだ。そして夏泉かせんきゅうけんに、秋芳しゅうほうきゅうよう、最後に冬花宮の華妃――つまり紅妍である。過去には他にも妃がいたので使われていない宮がいくつか残っている。この冬花宮も以前は妃が使用していたそうで、調度品のいくつかは当時使われていたものをそのまま使用している。それを嫌がる妃もいると聞いたが、紅妍は気にしていなかった。


(こんな立派なところで朝を迎えるなんて、それだけでありがたい)


 外が明るくなっていく。差し込む陽光に、紅妍は目を細めた。


***




 甄妃がやってきたのは陽が高く昇った頃だった。妃用の輿から下りてきたのは、紅妍よりも年を重ね、母と呼んでもおかしくない年頃の女性だった。葱緑色の襦裙じゅくんに翠緑色のさんを重ね、牙黄色の被帛をふわりと首にかけている。傍に控える宮女たちは上級、下級で差はあれど襦裙や深衣しんいはどれも碧色を基調としていた。それぞれの妃には色が付くと紅妍は聞いている。おそらく夏泉宮は碧色を与えられているのだろうと考えた。


 冬花宮へと案内し、二人の前に芳しい香花茶が出された後である。甄妃は人払いをし、改めて紅妍に向き直る。


「あなたのことは秀礼から聞いておりましたよ」


 開いていた扇を閉じ、にこりと微笑む。

 紅妍の入宮は、この甄妃も一役買っている。甄妃は秀礼の後見人でもあるらしく、秀礼も信を置いていた。その話は聞いていたがこうして面と向かうのは初めてのことである。


「華仙術を使える不思議な子と聞いていましたが……」


 甄妃の目は紅妍を捉えたまま、するりと細まった。


「随分と痩せ細っていてこちらまで苦しくなりそうですね。ちゃんとお食事を取っています?」

「……は、はい」

「その痩身では鬼霊祓いどころではないでしょう。足りないものや食べたいものがあれば遠慮せず仰ってくださいね」


 何を言われるだろうかと構えていたので拍子抜けした。そんな紅妍に、甄妃は微笑む。皆して紅妍に厳しく当たるものだと思っていたが甄妃はその想像を覆していた。


「永貴妃はいらしたの?」

「昨日、こちらに来ていただきました」

「そう。それはよかった。あの方は、現在の後宮を取り仕切る方だから」


 冬花宮に永貴妃が来たのは昨日のことだった。永貴妃は桃色を賜っているらしく、永貴妃や宮女たちが揃えば、冬花宮の庭に桃の花が咲き誇ったのかと見まごうほどだった。甄妃と異なり、威圧感を持った人である。対峙するだけで疲れてしまい、おかげで昨晩はよく眠れた。

 永貴妃といえば。冬花宮に入る前、清益から聞いたことを思い出す。


「第二皇子をお産みになったのが永貴妃……ですよね」

「ええ、そうね」


 現在、後宮に残る皇子は二人。第二皇子の融勒ゆうろくと、第四皇子の秀礼だ。融勒についてはまだ会ったことがないのでわからない。後宮にいればいずれ顔を合わせるのだろう。

 そう考えながら香花茶に口をつける。紅妍の痩身を案ずる藍玉が入れたらしく蜜糖はちみつの甘さが舌に残った。里では味わえぬ甘味に口元が綻びそうになる。甄妃の前であるからと強ばらせていると、彼女が笑った。


「華妃。あなたのことは秀礼から伺っているの。きっと辛い環境にあったのでしょうね。姉のように――と呼ぶには年が離れすぎているから、わたくしのことを第二の母だと思ってちょうだい」

「母……ですか」

「ええ」


 甄妃は頷き、扇を開く。


「秀礼の後見人になる時も同じように話したのよ。わたくしは子供ができなかったから、その分を他の方に捧げようと思って」


 にこりと微笑むと共に引っ張られた目元の皺は紅妍を温かな気持ちにさせる。


(母、なんていつ以来だろう)


 紅妍の母は、物心ついた時にはいなくなっていた。忌み痣を持つ子を産んだとして長や婆から何らかの罰を受けたのかもしれない。父はいたが、子に興味を持つ人ではなく、白嬢のことでさえ蔑ろないがしろにするような人だった。


「だから、わたくしはあなたのことが気がかりなのよ。鬼霊祓いもいいけれどまずはきちんと食べること。美味しい果物や甘味が手に入ったら冬花宮にも持ってくるから好きなものを教えてちょうだいね」


 甄妃は紅妍のことを『華仙術の娘』ではなく、『一人の娘』として扱っているようだった。痩身を気遣う言葉は心のうちを温かくさせる。これは香花茶を飲んだだけの温かさでないだろう。


「そういえば……楊妃は来ていないのよね?」


 ぽつりと甄妃が呟いた。


「まだお会いしていません。わたしからご挨拶に伺った方がいいのでしょうか」

「わたくしも、最近楊妃にお会いしてないのよ。華妃がくる前にお茶会を催したのだけれど、その時も体調がよろしくないといって欠席していてね。帝も臥せっておられるし、なんだか寂しいわ」


 どう返答したらいいのか迷い、紅妍はうつむいた。


(楊妃……秋芳宮に住む妃か)


 いずれ会う時があるのだろうと思いながらも、何か予感がした。それは紅妍だけでなく甄妃も感じていたのだろう。無言で啜る香花茶は先ほどよりも冷えていた。


***



 数日ほどが経ったところで清益がやってきた。


「後ほど秀礼様がやってきますので、共に光乾殿の方へ参りましょう」


 紅妍に会うなり彼は告げた。頼まれごとが帝に関わるためいずれ来るとは思っていたが、いざ国の象徴である帝にお会いすると思うと身が強ばる。

 口を一文字に引き結んでうつむく紅妍を見やり、清益は柔らかに微笑んだ。


「体調次第ではお目通りは難しいかもしれません。しかし近くまで行くことで何かわかることがあるかもしれないと秀礼様のご提案です」

「わかりました。支度をします」

「はい。よろしくお願いしますね――それから藍玉、」


 清益は部屋の隅にいる藍玉へと顔を向ける。伯父と姪、二人揃うとなかなか似ている。どちらも笑みを浮かべているのがまた。


「かわりはありませんか?」

「ええ、大丈夫です」

「引き続き、華妃の補佐をよろしくお願いしますね」

「わかっております。お任せください」


 用件を伝え終えると清益は早々に冬花宮を出て行った。それを見送った後、藍玉が深く息を吐く。


「伯父上ったら、いつもあの顔をしているんですよ」

「あの顔……ああ、笑っているということ?」

「そうです。良いことを考えている時も悪い企みも、いつだって同じ顔を貼り付けているから、伯父上はよくわかりません。紅妍様もそう思うでしょう?」


 確かに同じ微笑みではあるが。藍玉ほど清益のことを深く知らないので、曖昧に首を傾げるしかない。


「気にかかることがあるのなら直接聞けばいいのに」


 もう、と呆れ気味に呟いて藍玉は部屋を出て行く。その背を見送りながら、紅妍は清益と藍玉のやりとりを思い返した。


(清益から藍玉への問答はそういう意味があったのか)


 微笑みながら『かわりはありませんか?』と聞きながら、腹の中で何かを気に掛けていたのだろう。藍玉がぼやかなければ紅妍は知る由もなかっただろう。


(清益の意図を読み取るのは難しそうだ)


 それは藍玉も近いところがある。藍玉の方がまだわかりやすいのは、彼女の年齢が理由かもしれない。年を重ねれば清益のようになるのかと想像し、紅妍は少しばかり口元を緩めた。



 身支度は早々に終えたが秀礼が来ない。天候もよく、春の日差しが心地よいので紅妍は庭に出た。冬花宮の庭は様々な草花が植えられている。冬花宮の名前から庭には冬にちなんだ花も植えられているが、それ以外の時季に咲く花も育てられている。庭の蝋梅ろうばいは季を終えていた。この蝋梅は良く手入れがされているので、来冬に咲けば甘い香りを放つことだろう。いまは牡丹ぼたん海棠かいどうといった春の花が支配し、木蓮もくれんの香りがする。特に牡丹は良い。春を支配するように大きく開いた花弁は華やかである。

 花は心地よい。眺めいても触れても、心にたまった澱が溶けていくようである。これから光乾殿へ向かう緊張を、この牡丹が和らげてくれる気がした。


(何かあった時のために、一輪持って行こう)


 華仙術は花がなければ何もできない。内廷には様々な草花があるといえ、花のない場所で鬼霊に襲われたことを考え、持ち歩くことを決めた。


 そうして摘み取ろうとして――紅妍は手を止めた。


(――空気が、変わった)


 陽は変わらず空にあるというのに、雨雲に覆い隠されたかのように冷えていく。周りの景色は変わらないが紅妍だけはその変化を感じ取っていた。空気がぴりと張り詰め、重たくなる。かすかに流れた風が血のにおいを運んだ。


(鬼霊だ。どこか近くにいる)


 慌てて牡丹を摘み取り、辺りを見渡した。

 双眸は庭から、その先へとあちこちを探る。近くにはいない。血のにおいはそこまで濃くないので遠くにいるだろう。空気の重たさは北方から西方へと移動しているようだった。

 冬花宮は高塀に囲まれている。鬼霊は塀の中にはいないようだった。となれば、塀を越えた近くを歩いているのだろう。門扉は開いている。鬼霊が冬花宮に入るとすればそこからだ。

 紅妍は息を呑み、門の方をじいと睨みつけた。身が強ばっていて、額を冷や汗が伝う。

 ゆっくりと重圧を放つそれは移動し、ついに――血のにおいが開け放たれた門からこちらに濃く香った。


(いた。鬼霊だ)


 ぐっと手に力を込める。だがここで襲われても簡単には祓えない。鬼霊の想いをほどかずに花渡しをしても浄土には送れない。しばらくの足止めが関の山である。だが、鬼霊の特徴や行動を知るのは良いことだ。万が一、冬花宮が襲われた時を考えながら鬼霊の動きを待った。

 鬼霊が姿を見せる。結い上げた髪に銀の飾りが見えた。


(女人だ。銀歩揺が挿してある)


 襦裙を着ていることから上級宮女もしくは妃だろう。上級宮女が歩揺を挿すことはあまりないので、あれは妃だろうと紅妍は結論付けた。


(妃は宮色を賜るから、せめて色がわかれば――)


 けれど襦裙も衫も紅色に染まっていた。左胸に紅芍薬しゃくやくが咲き、紅色はそこから広がって襦裙や衫を染めている。つまりあの鬼霊は左胸に傷を受けて生を終えたのだろう。

 息を潜めて鬼霊を観察する。しかし鬼霊が紅妍に気づくことはなかった。鬼霊はまっすぐ前を見つめている。ところどころが破れて肩から外れた被帛をひきずり、西へと歩を進めた。

 そうしているうちに鬼霊の姿は塀に阻まれて見えなくなった。門扉に近寄り、鬼霊の行き先を確かめようとしたが、目をこらせども姿はなく、あの重い空気も和らいでいった。


(消えたわけじゃない。まだ後宮のどこかに残ってるはず)


 ここで見えなくなったからと鬼霊が浄土に渡ることはない。浄化しない限りまた現れるだろう。

 門扉から身を乗り出して消えた先をじいと眺める。すると、背後から声がかけられた。


「そこで何をしている」


 振り返ると、共の武官や清益を連れた秀礼がいた。慌てぬ様子からここを通り過ぎた鬼霊と入れ違いになったのだろう。紅妍は身を正し、揖した。


「まさか私を待っていたのか」

「違います」


 揶揄からかい気味に問われたので紅妍はすかさず返した。即刻否定されたことが気に食わなかったらしく、秀礼は眉を寄せ「じゃあ何があった」と苛立たしげに聞いた。


「先ほど鬼霊を見ました」

「ほう。気になることがあったか?」


 そこで紅妍は口を閉ざした。はっきりと答えられるような違和感はない。ただ、どうにも引っかかる。


(胸に咲いていた紅芍薬は水に濡れたようだった。まだ乾いていない。きっと最近鬼霊になっている)


 妃の鬼霊など宮城では珍しくないのだろう。だが、雨あがりの、花弁に雨粒を留まらせているようなあの滴り。鬼霊が咲かす紅花の艶は鬼霊が死んだ時期を示している。紅妍が見た鬼霊の紅花は、水分を含んで艶々と輝くようだった。

 思案する紅妍に秀礼はしびれを切らしたようで、呆れ息を吐いた。


「特に気になることがないのならよいだろう。それよりも光乾殿に行くぞ」


 紅妍も顔をあげた。あの鬼霊については後ほど考えるとして、まずは宮城にきた理由でもある帝のまじないについて調べなければ。摘み取った牡丹はそのまま、紅妍も冬花宮へと戻った。

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