2.永貴妃の依頼
「華妃は不気味な術を使うと噂が広まっている」
永貴妃が切り出す。
「おぬしを鬼霊の妃と呼ぶ者もいるほどだ」
「鬼霊の妃……残念ながらわたしは鬼霊ではありません」
否定すると永貴妃がわずかばかり頬を緩め、冷笑した。
「知らぬ者にとって理解しがたい術を使う華妃は鬼霊と同等に見えるのだろう。今日も冬花宮に向かうと話せば、我の宮女長が悲鳴をあげて制止にくるほどだ。おぬしはよほど怖がられているのだな」
不気味だと思われてしまうのは致し方ないことだと紅妍は思っている。大都や宮勤めをした仙術師たちは迫害されたのは随分と昔のことだと聞いている。特に人を呪う呪術の類いは身を隠す。光と影があるのならば、術師らは影に属するだろう。仙術に明るくない者たちがそれを気味悪いと感じることは当然だ。
「なに。ただの噂はいずれ薄れる。どこぞの若娘が言いふらしているのだろう。嫉妬に駆られてよく口が回るようだから」
「若娘……ああ、なるほど」
思い当たる顔が浮かぶ。
対峙する永貴妃はそれを見抜いているようだった。そのため紅妍を前にしても怯える素振りはない。
「おぬしが華妃となった理由は聞いている。帝を苦しめる災禍を解くためだろう」
鬼霊を祓うなと命じられたことは隠し、紅妍は頷く。
「帝の災禍に関し、我が知っていることがひとつある。おそらくはおぬしの役に立つはずだ」
「ありがとうございます。では――」
早速それを教えてほしい。目を輝かせた紅妍だったが、永貴妃の鋭い眼光がそれを制した。
「条件がある」
どうやら手放しで情報を与える気はないらしい。後宮を取り仕切る貴妃の立場にいる人だ、一筋縄ではいかない。
「おぬし、鬼霊を祓えるのだろう? 我の頼みを聞いてくれるのなら、知っていることを教えてやってもよい」
「……内容によります」
「ほう。慎重だな。よいことだ」
くく、と喉奥でこもったような笑い声をあげる。永貴妃が扇を勢いよく閉じる音が部屋に響いた。
空気が張り詰める。それだけ永貴妃はこの件の解決を願っているのだろう。紅妍は身を強ばらせて、言葉の続きを待った。
「我の息子――第二皇子、
現在、内廷に住まう皇子は二人いる。
その融勒の宮に鬼霊が出ているというのは穏やかではない話だ。紅妍に依頼するのだから鬼霊や呪いに関することかと推測していたが、やはり血のにおいから離れられそうにない。
「宝剣の力を借りて祓うことも考えたが融勒はそれを好まない。宝剣なしで鬼霊を祓うとすればおぬしの力が必要であろう。どうだ、ひとつ融勒を助けてはくれぬか」
この依頼に、しばし紅妍は口を閉ざした。
というのも紅妍は、華妃になるために秀礼の口添えを得ている。よく冬花宮に来ていることも広まっているだろう。つまり紅妍は、融勒と敵対の位置にある第四皇子の秀礼と親しい側にいるのだ。秀礼に断りなしで第二皇子の件を引き受けていいものか悩ましい。
(だけど、鬼霊が絡んでいる)
鬼霊が絡むとなれば、宮城内でそれを解決できる人は少ない。普通の者が鬼霊を祓うことはできないのだ。第二皇子だからと見捨ててしまえば、その鬼霊は延々と宮城を彷徨うことになる。鬼霊は永く、苦しみを味わうことになる。
逡巡の末、紅妍は顔をあげた。
永貴妃が去った後、入れ直した茶を持ってきたのは
「あの話、引き受けてよろしかったんでしょうか」
藍玉が言いたいことはよくわかる。第四皇子と親しくしておきながら第二皇子の依頼を受けるのはいかがなものかと考えているのだろう。紅妍は几を睨みつけたまま言った。逡巡の末に出した結論だと示すように硬い面持ちである。
「鬼霊が絡んでいるならわたしが出るしかないと思う」
「確かに、鬼霊を祓えるのは華妃様と秀礼様だけですが」
「秀礼様に頼みたくないというのなら、わたししかいない」
それは自らに言い聞かせるようなひと言だった。紅妍自身もいまだ悩んでいる。
藍玉は物憂げに息をつく。
「華妃様はご存じないかもしれませんが、永貴妃様と秀礼様はよい仲と言い難いのです。特に永貴妃様は秀礼様を快く思っていないと聞きます」
永貴妃は融勒の生母である。融勒が次期皇帝になれば永貴妃は太后になるのだ。彼女にとって秀礼は目の敵だろう。
「まして秀礼様は宝剣に選ばれていますから」
藍玉が言った。宝剣は永貴妃も語っていた。紅妍はそれを鬼霊を斬り捨てる剣だと思っていたが、永貴妃や藍玉の語りを聞くとどうもそれだけとは思えない。
(宝剣には、わたしの知らないものがたくさんあるのかもしれない)
第二皇子の融勒が鬼霊を祓えないことから彼は宝剣を所持していないのだろう。それによる鬼霊祓いも好まないと永貴妃が話していた。
「それにしても、鬼霊の妃というのは随分失礼な物言いですね」
呆れたように藍玉が言う。これには紅妍も苦笑した。
「痩せぎすで血色も悪い華妃様といえ鬼霊は失礼でしょう」
「藍玉も随分な語りようをしているけれど」
「あら。これは本当ですよ。華妃様はもっと食べて、体に力を蓄えるべきです」
そうは言われても。こう見えて冬花宮にきてからの紅妍は良く食べている。里にいた頃と比べて食事は美味しく、量も多い。たびたび甘味や果物が出てくるので甘い物を好むようになったほどだ。
目の前で華仙術を使っても藍玉の態度はいままでと変わらない。むしろ日に日に親しさが増していく気がしている。紅妍は藍玉の様子を伺った。永貴妃に告げられた悪評はいまも頭に残っていた。
「……藍玉も、わたしが不気味だと思う?」
紅妍が訊いた。
これに藍玉は驚いた様子で紅妍を見る。しばし目を瞬かせた後、からからと笑いだした。
「まさか! どこが不気味でしょう。花を用いる術なんて美しいじゃあないですか。それに鬼霊を祓ってくださるなんてありがたいことです」
それに、と藍玉が続ける。視線は窓の先にある庭の方へ向けられていた。
「冬花宮の者はみな華妃様を慕っていますよ。特に
庭には霹児の姿があった。霹児は
いまや霹児は冬花宮に勤めている。庭手入れや
「霹児は、楊妃様を救ってくださった華妃様に感謝していますよ。毎日楽しそうに華妃様の話をするのでこちらが参るほどです」
視線に気づいたらしい霹児がこちらを見た。礼をした後、微笑んでいる。
藍玉の話を聞く限り、冬花宮の者たちは紅妍を疎んじていないようだ。それは藍玉がうまく立ち回っていることもあるのだろう。ここは華妃を気味悪がっていないのだと知れば、胸のうちに救っていたもやが晴れたような気がした。疎んじられるのは仕方の無いことだと諦めていたくせに、安堵してしまう。荒んだ心が凪いだ。
「この後はどうされます?」
「さっそく最禮宮に行ってみようと思う。
最禮宮は第二皇子の融勒が住まう宮である。近くまで寄って鬼霊の気配を確かめておきたい。
それとは別に瓊花のことも気にかけていた。秋芳宮の宮女長は協力者は鬼霊だと話し、瓊花を吐いて死んだ。本来は考えられない死に方である。こういった不自然な死に方をするのは呪術や鬼霊と考えて間違いはないだろう。
(どこかに瓊花の鬼霊がいるはずだ)
瓊花が咲き誇る季は終わろうとしている。だが花はなくとも木は残る。周辺に花があればそれの記憶を詠めばいい。
「わかりました。では支度をしますね」
「それから震礼宮に文を出す――この件は秀礼様の耳に入れておいた方がいいと思う」
「ええ。そのように」
藍玉は文の用意をするため部屋を出て行く。文を出した後は後宮の散策だ。支度しなければと考えながら紅妍は深く息を吐いた。
***
まずは最禮宮の近くに向かう。最禮宮は南東の奥まった位置にある。道中は見渡して瓊花の植えられている宮がないかと確かめた。これは冬花宮や秋芳宮の庭にもない花である。花が落ちても葉を見ればわかるものだが、いまのところ見当たらない。
(鬼霊と聞いたけれど、詳細はわからない。直接会えればいいけれど)
鬼霊を知るには視ることから、である。その姿から判別できることは多い。
永貴妃が住む
(これは……鬼霊だ)
供についてきた藍玉を見やるが、素知らぬ顔をしていることから気づいていない。紅妍はあたりに満ちる重たい気と独特の血のにおいを感じ取っていた。
(こちらに襲いかかってくる鬼霊であれば、藍玉を守らないと)
おのずと、身が強ばる。血のにおいはだんだんと近づいてくる。まるで最禮宮からこちらへと向かってくるかのように。
じっと待っていると、それは通路の角を曲がってこちらにやってきた。
女人の鬼霊である。だが妃や宮女ではないだろう。襦裙に布接ぎの跡がある。後宮にはそぐわない、貧しい身なりをしていた。
その鬼霊は若い女だった。だが体に紅花が咲いている様子はない。外傷を与えられて死んだ鬼霊ではないのだろう。生前に体を病んで死んだのだとしたら、ここからは見えない、腹のうちなどに紅花が咲いているはず。
女の鬼霊は紅妍らを見つけるなり、ぴたりと足を止めた。そしてがぱりと口を大きく開く。
(まずい!)
鬼霊が駆けだした。こちらに襲いかかってくるのだろう。土色をした手から爪が長く伸びる。噛みつかれても、長い爪で切り裂かれてもたまったものではない。
「きゃあああ! 鬼霊!」
藍玉が叫んだ。こちらに襲いかかってくる鬼霊に怯えている。紅妍は藍玉の前に立った。懐に忍ばせていた花を手に取る。ここで花渡しをしても、鬼霊の想いは解けていないので不完全なものになる。浄土へは渡れず、一時しのぎ程度の足止めにしかならないだろう。
(でもいまは、これしかない)
藍玉を守るため花に意識を傾ける。
うめき声のようなものが聞こえた。方角からして鬼霊が発したのだろう。
(この鬼霊は苦しんでいる)
ならば余計に人を襲わせてはならない。鬼霊が人を襲ったところで苦しみから逃れられない。浄土へ渡る以外に救われる術はないのである。
この場を凌ぐため花渡しをしようとした、その時であった。
「待ってくれ!」
鬼霊を追いかけるようにして通路の角から現れた者が叫んだ。男の声である。花渡しに集中していた紅妍は、それを中断して男を見やる。
不思議なことに鬼霊の動きもぴたりと止まっていた。振り返って、男の方を見ている。
こちらにやってきた男は、まず鬼霊の方を向いた。そして鬼霊に告げる。
「宮に戻ってくれ。ここはよくない」
鬼霊は何も語らない。しかし男の言葉を聞き入れたらしく、紅妍らに背を向けた。長く伸びた爪はみるみる縮んでいく。鬼霊は最禮宮の方へと歩いていった。
その姿が遠ざかった後、男は紅妍らの方へと寄る。男の身なりはよい。宦官らが着るような
「華妃ですね。お噂は聞いております」
男は手を前に組んで頭を深く下げた。
「私は
これが話に聞く第二皇子である。異母兄弟といえ秀礼と似た面影をしている。どちらも端正な顔つきをしているが、こちらの方がやや線が細い。秀礼が動であるなら融勒は静という言葉が似合う。利発な印象がある青年だった。
融勒は顔をあげてこちらを見やる。
「華妃がこのような場所まで来るとは、何かありましたか」
「先ほどの女人の鬼霊を祓いにきました」
「なるほど。そういえば、華妃は不思議な術で鬼霊を祓うと聞きましたね」
どうやら華妃の噂はここまで広まっているようだ。ある意味では話が早くて助かる。
「最禮宮に鬼霊が出ると聞きました。それは、先ほどの女人の鬼霊でしょうか?」
「最禮宮に……もしやどなたかに頼まれましたか」
「永貴妃に頼まれました」
融勒の母である永貴妃の名を出せば祓わせてくれるのではないかと、紅妍は考えていた。事態を甘く考えていたのである。
しかし融勒は柔らかく微笑んだ。
「それは必要ありません。あの鬼霊は祓わなくてもいいのです」
確かに鬼霊は、融勒の言葉を聞き入れていた。だからといって野放しにすれば鬼霊の苦しみが続くだけだ。見えぬ場所に咲いたとしても紅花は確実に鬼霊を苦しめる。
「鬼霊を祓わずに放っておくと、苦しみが増すだけ。いまは言うことを聞いていても、苦しみに自我を欠いて、人を襲うようになります」
「ご心配には及びません。私には仙術や宝剣による鬼霊祓いなんて必要ないのです」
まるで融勒は鬼霊を庇っているようである。理解できず、紅妍は眉根を寄せた。
「祓いたくないのはどうしてです」
「華妃に関係のないことですよ――それよりも私と話していいのでしょうか。あなたが思っているより周りは見ていますよ。第四皇子が困るのでは?」
「わたしは一方に肩入れをするつもりはありません。鬼霊を救いたいだけ」
「立派な考えですね。でもそれを周りは信じてくれるのでしょうか」
そう言って融勒はこちらに背を向ける。これ以上話す気はないのだろう。
悩みながらも、紅妍は遠ざかっていく融勒に告げた。
「……あの鬼霊はつらそうにしていました」
ぽつりと、呟く。おそらく融勒には聞こえただろう。紅妍の言葉に、その歩みが止まりかけたものの、振り払うようにそのまま去って行く。
(最禮宮の鬼霊も、一筋縄では解決しないのだろう)
鬼霊の気配は遠くに去り、融勒もいない。この件の難しさは紅妍の体にずしりとのし掛かっていた。
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