3.深き蒼緑の宮にて

 秋芳しゅうほうきゅう宮女を呪い殺し、紅妍こうけんに襲いかかった瓊花たまばなの鬼霊。櫻春おうしゅんきゅうに咲いていた黒百合の虚ろ花。光乾こうけん殿でんに通う、百合の鬼霊。

 考えることはたくさんある。紅妍が物憂げに息を吐くと、茶を運んできた藍玉がそれに気づいた。


「体調が優れませんか?」

「それは大丈夫。考えることが多すぎるだけだから」


 昨晩の鬼霊が残した白百合は何を伝えたかったのか。その疑問が紅妍の頭で渦巻いている。


 どこかの宮で行われた呪詛。誰を呪ったのかまではわからなかった。そこで用いられたのは百合だった。櫻春宮に咲いていた黒百合だとするのならつじつまが合う。


 しかし気になるのは光乾殿で木香茨もっこうばらから花詠みをした時のことだ。あれは木香茨を用いて呪詛を仕掛けようとしていた。百合とは異なる呪詛である。

 木香茨の花詠みでは、呪詛を仕掛ける場面に帝がいた。木香茨を摘んでいたのが呪術師だとするなら、帝は呪詛に関与しているかもしれない。


(帝を苦しめている呪詛はどちらだろう。そして、黒百合が櫻春宮に咲いていた理由も……)


 櫻春宮はえい秀礼しゅうれいを産んだしょう貴妃きひに与えられていた宮である。その璋貴妃が呪詛を仕掛けたと噂されているらしい。確かに櫻春宮に黒百合が咲いていたのでそれは考えられる。


 そこまでを考え終え、紅妍は額を押さえた。様々な謎が複雑に絡み合っている。どこから手をつけていいのか悩ましい。


(まずは、あの宮を探してみるか)


 それは白百合の花詠みで出てきた森のように濃く深い蒼緑の宮である。妃らしき人物が呪術師に依頼して呪詛を仕掛けていた。百合の呪詛はそこから始まっている。

 藍玉に訊いてみるかと顔をあげた時、扉が開いた。霹児は紅妍に向けて揖した後、藍玉に告げる。


「あの……しん琳琳りんりん様がいらしております」


 その名に、珍しく藍玉が顔を歪めた。清益ほどではないが藍玉も常に微笑みを浮かべている。どちらも腹の黒さを表にださないのである。それが今回は、これほどはっきりと嫌悪を示している。


「華妃様? どうしました、わたしの顔を覗きこんで」

「いや……珍しい顔をするものだと思って」

「まあ。わたしは伯父上とは違いますもの。いつも微笑んでいるわけではございません」


 それはどうだろう、と心のうちで呟く。それを声に出せば藍玉にやんわりと叱られてしまいそうだ。


「琳琳様はどうなさいます? 昨日のこともありますから断っても構いませんよ」


 藍玉に問われ、考える。琳琳は厄介な相手であって、紅妍が苦手としていることを藍玉や霹児も察しているようだ。逃げ道を用意したのは紅妍を慮ってのことだろう。

 だが、紅妍は違った。今日に関しては好都合かもしれない。


「通してほしい。琳琳と少し話をしたい」


 藍玉はわずかに顔をしかめた後、普段の穏やかな微笑みを浮かべる。そういった切り替えのうまさは清益にそっくりだった。



 まもなくして琳琳がやってきた。


「華妃様、お加減はいかがです?」

「大丈夫です。よく、その話を知っていますね」

「噂されていましたのよ。鬼霊の妃様が鬼霊に襲われて倒れるなんて面白いでしょう? 秀礼様が近くにいなかったらいまごろ大変なことになっていましたわね」


 誇張されている気もするが大筋は当たっている。昨日のことだというのに詳しいものだと紅妍は舌を巻いた。


「黒百合を祓い、鬼霊に襲われるなんて。華妃様の行くところにはいつも鬼霊が出ますのね。まるで華妃様が鬼霊を呼んでいるみたい」


 まるで細部まで見ていたかのような語りである。人の噂にしては些か詳しすぎる気もするが、あえて触れず、紅妍は自らの目的へと話を誘導していく。


「さすが後宮の事情にはわたしよりも詳しいようで」

「ええ。これから妃になるのですから、詳しくならなければ」

「ではきっと、わたしにはわからないものも知っているのでしょう――森のように深く濃い蒼緑の宮も、あなたならすぐに思い当たるのでしょうね」

「あら、そんなの簡単よ。坤母こんぼきゅうですわ」


 琳琳を持ち上げながら聞けば、あっさりとその唇が答える。


「坤母宮ならわたしの叔母、辛皇后が使っていた宮ですの。何度も通ったから覚えていますわ。そんなことも知らないなんて華妃様は本当に疎いのね。でも坤母宮を探すなんて何かありましたの?」


 嫌味はともかく一歩前進したことはありがたい。


(坤母宮に行ってみよう)


 琳琳が去ったらすぐにでも支度をして向かおうと考え、以降は琳琳の対応に苦慮した。



 嵐が去った後、紅妍は動いた。藍玉に行き先を伝える。


「坤母宮に行く」

「辛皇后が使っていた宮ですね。辛皇后が亡くなった後は使われていないと聞いています。そこに何の用が?」

「呪詛に関する手がかりがあるかもしれない。それを調べたい」


 藍玉は「わかりました」と頷いた。しかしまだ動こうとしない。何事かと待っていると藍玉が告げた。


「秀礼様にもご連絡を入れた方がよいのでは? 先のこともありますから心配されるでしょう」

「……それは、」


 確かに倒れて翌日に出歩いたとなれば心配をかけるだろう。昨日の礼もある。


「文を出す。それが届く頃には坤母宮での事も終わっているはずだ」


 昨日の礼と、夜半に現れた鬼霊。あと白百合の花詠みについてを知らせておこうと考えた。他の者からの目もある。秀礼に坤母宮の動向を頼めばまた目立つことだろう。特に琳琳と会った後であるから気が重たい。


***


 その色は、木々が鬱蒼と茂った山を思い出す。森林の奥にいるような心地になる深い蒼緑だ。


(これが、坤母宮)


 門の前に立って見上げれば、花詠みで見たものと同じ場所である。人がいないからか庭は手入れをされず、閑散としている。陰鬱とした気が流れていた。


「……華妃様、あの」


 藍玉がおずおずと歩み出て耳打ちをした。視線は少し離れた、通路の角に向けられている。

 その気配については紅妍も察していた。誰かがつけてきている。しかし血のにおいはしていないので鬼霊ではない。おそらく生者だ。


「放っておこう」


 紅妍はそう告げて、坤母宮の門をくぐる。


 一歩踏み出せば、そこに漂ういやな気が足に絡みついた。どんよりと重たく、粘ついた気だ。聡い者でなければ気づかないのだろう。藍玉や宮女たちは特に気にしていない様子である。

 その気は光乾殿のものと似ていた。身が重たくなり、胸を潰すような悪気。長く留まっていれば患ってしまいそうなほどである。


(藍玉たちに影響がでる前に、早く事を終わらせなければ)


 紅妍は庭に向かう。伸びた草を避けながら歩くと、白百合の茂みが見えた。そばには花詠みで見た渡り廊下も見えている。百合の鬼霊が持ってきた白百合はここで摘んだものだろう。


(だとするなら、ここで呪詛を施したはず)


 あの妃が誰であったのかはわからない。もう一度ここにある花を詠めばわかるかもしれない。

 紅妍は白百合の茂みに寄る。昨晩花詠みをした百合とは違う位置で、呪術師が摘んだ百合と同じ茂みである。ここの記憶を詠めば、妃の顔がわかるかもしれない。


「華妃様……」


 後ろに控える藍玉が不安げな声をあげた。紅妍は百合を一輪摘んだ後、藍玉に微笑む。


「心配しなくていい。わたしは、この花詠みを聞くだけだから」

「どうか、無理されませんよう」


 紅妍は頷き、百合に向き直る。瞳を閉じ、手に乗せた白百合に意識を傾ける。

 昨日は百合の心がよく開いていた。しかしこの百合は違う。頑なで、何かを畏れているようにも感じる。


(あなたが視てきたものを、教えてほしい)


 少しずつ解いていくように。いやな汗がじわりと浮かんだ。それでも花詠みを止めない。


 花が持つ記憶の糸は数多で、そこから欲しいものを探す。感覚を研ぎ澄ませ、絹糸のように細く千切れそうなものから選び抜く。紅妍の手が、それを掴んだ。

 白百合は詠みあげる。広がるその景色を、華仙術師は聞くのみ。


◇◇◇


『ならば構わん。やれ』


 その言葉は妃らしき者が言った。呪術師が白百合を摘む。

 昨日見た花詠みと同じ場面だろう。しかし今回は別の位置に咲く白百合を詠んでいる。呪術師の面布に書かれた墨字も、妃の顔もよく見えた。

 呪術師は木箱に花を収めながら告げる。


『この呪詛は強いものです。必ずや願いを叶えてくれるでしょう』


 木箱に札を貼る。それは見ているだけで禍々しさの伝わる札だ。いずれそれは溶けて、木箱の中にある百合を黒く染め上げるのだろう。


『しかし代償として何かを失います。おそらくは指かと』

『十本もあるのだから一本ぐらい欠いたとて構わん』

『……であれば良いのですが』


 呪術師の語りから察するに、代償として失う指は一本だけではないのだろう。それを妃は気づいていないようだった。


『呪詛は黒花となり呪い殺します。呪詛返しも然り。願望成就の暁には、黒花がその指を覆うでしょう』

 呪術師は顔をあげた。妃を見上げている。妃もまた冷えた瞳で呪術師を見下ろしていた。

『このことは口外せぬようにな』

『わかっておりますとも――


 その名に、紅妍がたじろいだ。集中が乱れ、花詠みの景色も揺らいでいる。


 すると、辛皇后がこちらを向いた。百合ではなく、百合を通じてこちらを見ている紅妍に気づいているような素振りである。

 おかしい。花詠みで見るのは過去である。過去の存在がこちらに気づくことはない。だというのに辛皇后は茂みをかきわけてこちらに手を伸ばす。


(な、なぜ――)


 少しずつ辛皇后の姿が変わっていく。気づけば、辛皇后は瓊花を縫い付けた面布を付けていた。もうその顔は見えていない。指には小さな黒百合が無数に咲き、その隙間から爪が長く伸びる。肌は土気色をし、胸には黒く塗られた瓊花が咲いている。


 血のにおいがした。これは鬼霊だ。


「華妃よ」


 鬼霊と成った辛皇后が百合を摘む。これは花詠みではない。花詠みは妨げられ、瓊花の鬼霊に介入されているのだ。紅妍は百合と同化したままである。されるがまま持ち上げられ、鬼霊の眼前に晒された。


「じゃまをするな。このうらみは消えぬ」


 爪が食い込む。身が強く締め上げられ、内側からじりじりと焼き尽くされていくようだ。あまりの痛みに紅妍は悲鳴をあげていた。だが紅妍の視界には鬼霊しかいない。周囲は色あせている。誰も人の気配がしない。


「このうらみは、かえさなければ、きがすまぬ」


 その言葉と共に鬼霊が百合を握りつぶす。紅妍も激痛に襲われた。骨がきしんで、痛む。

 鬼霊が手から百合を落とし、地に落ちていく。花詠みを中断され、百合に溶けたままの紅妍も、身が落下していくのを感じた。


(鬼霊が介入するなんて知らなかった……それに、この鬼霊は自我がある)


 言葉を発するということは強い自我を持つ鬼霊。強い目的を持ってこの世にすがりついているのだ。瓊花の鬼霊――辛皇后はそれほどに何かを恨んでいるのか。


 この花詠みから抜け出さなければと思うも、うまく動けない。視界は黒に落ちていく。


 いまにも落ちそうな意識が最後に捉えるは百合の茂み。

 そして、その奥に、咲くもの。


(ここにも……黒い花がある)


 その不自然な場所に、どんよりと黒い色を放つ木香茨があった。木があるのではない。木香茨の小枝が急に土から伸びている。自然の理を曲げて存在しているのだと一目でわかった。

 虚ろ花だ。呪詛に使われた木香茨もっこうばらがここにある。それはつまり――考えようとした時、ついに紅妍の意識が落ちた。

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