6章 次代の華

1.別れの日

 冬花とうかきゅうで過ごす最後の夜だった。几に置いた燭台の火がゆらめいている。あたりは暗く、空に昇った月が窓からも見える。少し前は新月だったと思えば、再びふくふくと満ちていく。この三日月は数日後に半月になるだろう。


「華妃様……」


 やってきたのは藍玉らんぎょくだった。その表情は寂しげである。紅妍こうけんも椅子から立ち上がり藍玉を出迎える。


「この数ヶ月、とても楽しかったです。わずかな期間であれど、冬花宮宮女長として華妃様のお世話ができたことを誇りにいます」


 それは最後の挨拶だ。紅妍もそれをよくわかっている。


 宮城は帝の崩御を悲しみ、ひっそりと鎮まりかえっていた。在世時の元号である『建碌けんろく』の名を冠した建碌帝は、最愛の者であるしょう貴妃きひを見送った後、あとを追うようにこの世を去った。

 そうなれば宮城は変わる。建碌帝の妃らは宮城を出て、喪に服すための宮に遷らなければならない。それは大都から少し離れた山の方にあるらしい。えい貴妃きひけんもその予定であると藍玉が話していた。

 である紅妍も本来ならばそうすべきだが、どういうわけかそのような話はない。しかし明日には冬花宮を出ることが決まっていた。


(……里に、帰るしかない)


 気乗りはしない。宮城での生活を知ったいまとなって里のことを考えると、あれは地獄に落とされるような心地である。それどころか大都を知って戻ってきた者だ、大都のことが里の者たちに広まることを恐れた長や婆がためらいなく紅妍の処分を下すかもしれない。

 しかし、それ以外に帰るべき場所はないのだ。改めて冬花宮の心地よさを実感する。この数ヶ月は辛くもあったが、よきこともたくさんあった。


 その後は藍玉以外にも冬花宮の宮女らが挨拶にきた。それぞれと挨拶を交わす。特に霹児へきじは紅妍の顔を見るなり泣き出してしまった。城を出た後の紅妍についていきたいと駄々をこねるほどだ。これには困ったが、霹児の気持ちを優しく受け止め、何とかなだめた。

 宮女らだけでなく妃たちからも挨拶の文は届いていた。永貴妃や甄妃。あと琳琳からの文もあった。相変わらず嫌味を連ねていたが、辛皇后のことがあったからか緩和された気もする。


(ここに来た時よりも去る時の方が荷が多いな)


 部屋に一人となったところで、隅にまとめた荷を見る。何も持たずに宮城に連れてこられた時を思うと、随分と物が増えた。装飾品の類いは興味がないのでほとんどを残していくが秀礼にもらった百合の簪、それからみなと交わした文などは持ち出すことを決めていた。これも大切なものである。


 それから――紅妍は几に置かれた花器を見る。あの花は枯れつつあるがまだ残っていた。坤母宮で鬼霊に襲われて意識を失った時にも飾っていた花である。あの時、紅妍は眠りについていたのでわからないが、秀礼が部屋に来ていたらしい。人払いをしていた、と藍玉は話していた。

 明日は早朝にここを発つ。それまでに秀礼と顔を合わせることはないだろう。先日訪れた清益から秀礼は忙しいのだと聞いていた。だから諦めている。


 花詠みはしない、と決めていたが。どうせ会えないのだからと決意が揺らいだ。紅妍は花器に活けた芍薬しゃくやくに手を伸ばす。


(ここを発つ前に少しだけ)


 花はしおれかけていたので茎が折りにくい。両手を添えて優しく手折り、両のてのひらで包む。それから瞳を閉じた。花詠みに集中する。


(あなたが視てきたものを、教えてほしい)


 この部屋に飾っていたからか、芍薬は紅妍に心を開いている。簡単に花の中に解け、その記憶をつかみ取ることが出来た。

 花は詠みあげる。それは紅妍が深き眠りについていた月夜、秀礼がきた日の話を。


◇◇◇


 ひどい表情をして部屋に入ってきたのは秀礼だった。臥せる紅妍のそばには宮医がいて、秀礼は慌てたように宮医に容態を聞いている。

 苦しそうに唇を噛みしめ、秀礼は紅妍を見つめていた。


『少し、席を外してくれ』


 秀礼が告げると宮医や藍玉、清益らが去って行く。扉が閉まり、人の気配がなくなってから秀礼は紅妍のそばに寄った。

 薄暗い部屋は手燭の灯りを頼りにしている。しかしじゅうぶんに、芍薬は見ていた。


「……」


 秀礼は何も言わず、紅妍の手を握る。指や爪のかたちを確かめるように撫でる。それは普段の秀礼と少し異なる、優しいものだった。

 眠りについた紅妍を見守り、今度は紅髪に触れる。それもまた柔らかな動きである。言葉は語らずとも、愛しんでいる動きのように見えた。芍薬に同化して見てしまった紅妍が恥じらいに目をそらそうとするほどである。


(わたしの知らないところで、こんなことになっていたなんて)


 紅妍を守り切れなかった悔しさと、こうして触れていることの喜び。その二つが秀礼の表情に表れている。最後に彼は紅妍の額から頬へと撫で、呟いた。


『目を覚ましてくれ。もう一度、お前と話したい』


 それは懇願だ。秀礼がすがりつくように願う姿を初めて見る。

 紅妍の胸がふつふつと温かくなっていく。どうしてだろう。彼の弱々しい背が、なぜか嬉しく思える。たとえ紅妍が眠っていたとして、このような一面を自分だけに見せていた事実が喜ばしい。


(ああ、そうか。わたしは――)


 彼と共に過ごした日が浮かぶ。振り返れば振り返るほど幸福に満ちている。それは藍玉や宮女らを愛で、愛でられるものとはまた違う幸福だ。

 花詠みは過去を詠むだけ。花と同一している紅妍は手を伸ばすことができない。それを初めて悔しいと思った。できることならば、この秀礼に手を差し伸べたい。その背に触れ、ここにいると伝えたい。

 胸中を占める、秀礼への想い。その名を確かめるのと同時に、花詠みで見る秀礼が口を開いた。


『私は、お前を好いてしまったのかもしれない』


◇◇◇


 ゆっくりと瞳を開く。手中にあった芍薬は役目を終えて枯れていた。

 頬が赤らんでいることは自覚している。顔が熱を持っていた。水盤で顔を洗うべく立ち上がろうとし、部屋の扉側を向いた時である。


「……随分と照れているようだが」


 扉が、開いていた。花詠みに手中していた紅妍はそのことに気づいていなかったのである。そこにいる人影を確かめれば羞恥心がこみあげ、目を合わせることはできなくなる。

 そこには秀礼がいた。後ろには清益、そしてくすくすと笑う藍玉がいる。

 清益はため息をついて去っていった。おそらく彼なりに気遣ったのだろう。藍玉は部屋に入らずその場で一揖した。


「華妃様。結局、花詠みをされたのですね」

「ち、ちが……これは……」

「わたしも、しばし席を外します。宮女らにも人払いを伝えておりますのでご安心ください」


 慌てふためく紅妍を楽しんで満足したらしく藍玉も去っていく。

 悠々と部屋に入ってきたのは秀礼だけだった。


 扉が閉まれば、薄暗い中に二人になる。先の花詠みもある。ここに二人きりということが急に恥ずかしく思えてきた。

 何を語ればいいか迷い、枯れた石楠花を手にのせたまま視線を泳がせる紅妍だったが、秀礼が口を開いた。彼もまた、藍玉と同じく楽しそうにしている。


「優秀な華仙術師は、花詠みをしたのだろう?」


 痛いところをつく。言い逃れはできない。扉が開いたことも気づかぬほど集中し、手には枯れた花があるのだ。これまで何度も花詠みや花渡しの場面に遭遇してきた秀礼を騙すことは難しい。


「まあいい。答えずともそのような表情をしていればわかる」


 くつくつと秀礼が笑う。彼は近くの椅子に腰掛けている。その近さがどうも気になって、紅妍は慌てて立ち上がった。


「……藍玉に茶をもらってきます」

「いらぬ」


 いま少し頭を冷やすための時間が欲しく、この場を逃げ出したかったのだが、先回りをするかのように秀礼がそれを遮る。

 そして紅妍の手を取った。


「話がしたい。ここにいてくれ」


 そのように手を掴まれては振りほどくなどできない。その手の大きさと温かさが、欲深い自分を呼び起こす。口を開けば、もう少しこの手を重ねていたいと甘えてしまいそうだ。

 おずおずと椅子に再び腰掛ける。それでもまだ秀礼は手を離そうとしなかった。


「……此度のことは、助かった。お前を連れてこなければ宮城に満ちる禍は続いていただろう」

「わたしだけではありません。秀礼様にもたくさん助けていただきました」

「どうだろうな。お前がきてから、私が宝剣を振るうことも随分と減った。おかげで鬼霊の悲鳴を聞くことはなく、よく眠れている」


 それはよかった、と紅妍は安堵する。宝剣は鬼霊にも、所持者にも苦痛を与えるのだろう。紅妍の華仙術は鬼霊だけでなく秀礼も救っていたのだ。


「私は宮城を離れることができない。私は大都の民も、髙の民も好きだ。より良い未来に導いていきたいと考えている」


 宮城を抜け出して大都に飛びだすような者だ。そうであろうと紅妍もよく知っている。この者が宝座に座した髙は幸福に進むだろう。いや、そのはずだ。


「私にはやらねばならないことがたくさんある。これから何人もの妃を後宮に呼ぶだろう。子を成すことも務めだと言われている。この身は天命に委ねるつもりだ。だが――」


 その言葉が途切れたと思いきや、紅妍の視界が揺れた。

 何かに引き寄せられている。いや、違う。秀礼に抱きしめられているのだ。彼の体の温かさが肌に触れる。背に回された手はたくましく、力強いようで、しかし震えていた。これから重責を背負うだろう秀礼の、脆さがいまだけは表れている。


「今宵は英秀礼として、お前に伝えたい――お前を好いている。愛してしまった」


 その腕から離れることなど、誰ができるだろう。紅妍の心のうちは歓喜に沸いている。

 紅妍は戸惑いながらもそっと彼の背に手を這わせる。骨ばった、広い背だ。


「……わたしも、お慕いしております」


 秀礼が今宵は重責を忘れるように、紅妍もまた己が華妃であることを忘れている。ひとりの女人として、彼の体を抱きしめる。

 けれどそれはこの月夜が終われば、すべてなくなるの。それがわかっているから秀礼の手は震えている。


「私はお前を幸福にしたい。お前を想えば想うほど、幸せにしてやりたいと欲深なことを思うのだ。けれどそれは、この後宮で与えられないことだろう。だから――」


 これから後宮に咲く華は一新される。新たな妃が集まり、そこには新たな諍いが起きるだろう。そこに紅妍を巻き込むわけにはいかないと秀礼は考えているに違いない。


「……わたしは、幸福でした」

 里から連れ出してもらえたことは奇跡のように。秀礼と共にいれば幸福が与えられていた。


「わたしは、明日発ちます。遠く離れてはしまいますが、秀礼様の幸福を願っています」


 この月夜が開けたら、離れなければならない。だからいまはもう少し、この人の腕に抱かれていたいと思う。

 紅妍は瞳を閉じた。しかし花の詠む声を聞くのではない。秀礼の声を拾うために。


「紅妍。私は……」


 躊躇うような秀礼の声が響く。好いた者の声は心地よい。身のうちに集う温かな感情は幸福と呼ぶのだろう。それは瞳に集った後、熱い涙となって頬を伝い落ちた。


***


 早朝。紅妍は冬花宮を出た。見送りの者はいない。藍玉らは、門まで向かうと最後まで訴えていたが、それは紅妍が拒否した。別れは静かな方がよい。

 大都は疫病騒ぎも終息して賑わっている。大通りを歩きながら喧騒を眺めた後、前を見やる。これよりも先、ずっと遠くの方に見える山。


(華仙の里、か)


 そこにあるは故郷。紅妍は故郷への遠い道のりを歩き出した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る