2.その華は枯れず、永久に愛でられる
里近くの山が、これほど陰鬱とした場所だとは思っていなかった。ここに住んでいた頃はこの場所しか知らなかったのである。華やかな大都に宮城を知れば、この山の何と侘しいことか。
道中はひとりだった。不安はあったが、大都を外れて様々な村や景色を覗くのは楽しかった。麓の村まで着いた時には、予定よりも日が経っていた。麓の村に長く滞在する理由もないので早々に山を登る。
(華仙の里はどうなっているだろう)
季は少しずつ暑く傾き、山の木々は緑を濃くして陽を遮る。虫や獣たちも多いが山の中は慣れている。懐かしい道を辿っていった。
そうして華仙の里に着けば、紅妍が想像するよりも大騒ぎとなった。ひとりが紅妍に気づけば、脱兎のごとく駆けだして屋敷の中に入る。しばらく外で待っていると長と婆が出てきた。
「……なぜ戻ってきた」
紅妍の姿を見るなり、長は険しい顔をより鋭くさせる。屋敷の窓や庭からは、紅妍の姿を見るべく華仙の者たちが覗きこんでいる。
(華仙の里では、わたしが死んだ者と扱われていたのだろう)
予想はついていた。紅妍は膝をつき、礼をする。
「大都での勤めを終え、戻ってまいりました」
「……戻らずとも処されればよかったものを」
それは婆の呟きである。本音は易々と声に出て漏れている。
長は紅妍の前に立ち、冷ややかに言った。
「お前には大都にある負の気がこびりついている――紅妍を捕らえよ」
命じると共に屋敷にいた男たちがやってくる。抵抗した時のことを考え刀や弓を提げていたが、彼らが思っているよりも紅妍は抗わなかった。
諦めていたのである。里に戻ると決めた時から、行く末に待っているのは死だと気づいていた。
手と脚は縛り上げられ、そのまま暗い倉庫の中に転がされた。
持ってきた荷物はすべて奪い取られ、長と婆はそれを倉庫の中で確かめる。路銀として与えられた金子を確かめていた婆は一驚の声をあげた。
「この子がこんなに金子を持っているなんて」
「身なりも随分とよくなっているからな。大都の邪気に当てられた生活をしていたのだろう。華仙の者と思えぬ、嘆かわしいことだ」
婆と長が語りあっている。手足を縛り上げられている紅妍は身を起こすこともできず床に転がったままその会話を聞いていた。
「紅妍はどうする。里の者によからぬ影響を与えるかもしれないぞ」
「処した方がよい――いや、これほどに金子を稼いできているのだ。売った方がよいのやもしれぬな」
長が提案する。それに婆も頷いているようだった。金子に目が眩んだのか声がうわずっている。
「よい案だ。この忌み痣を持つ凶児を見なくとも済む」
「そうとなれば手はずを整えよう。麓の村に人売りがいたはずだ。そこに声をかけよう」
どうやら紅妍の処遇は決まったらしい。
(殺されるよりは、まだよいか)
どこぞに売られてしまうのだろう。紅妍はため息をつく。
そういえばこの山を登る頃から表情を欠いていた。笑おうとしてもうまくできない。山が持つ空気が紅妍の顔を凍らせてしまったかのように。
手足に食い込む縄の痛みは耐えられる。心のうちに、宮城で知った様々な思いがある。藍玉や清益、妃たちとの出会い。そして秀礼とのこと。
秀礼のことを思い出せば心が温かくなる。その記憶さえあれば、どのような辛い目にあっても生きていけるだろう。
(今頃は、何をしているのだろう)
考えたところでこれほどに距離が離れてしまえば難しい。あの夜が最後だったと紅妍もわかっている。けれど、ふとした時に秀礼のことを考えてしまう。もう一度、彼の手に触れたいと叶わぬ願いを抱いてしまう。
***
気づくと誰かが倉庫にやってきた。手燭を持っている。その灯りに照らされて見えるは懐かしき姿だった。
「……
「あんた、相変わらず汚いのね」
紅妍を見下ろし、白嬢は疎ましそうに言う。
血をわけた姉であるが、白嬢は紅妍のことをそのように思っていないのだろう。床に転がされた紅妍に顔をしかめた後、遠くに置かれていた紅妍の荷に近寄る。
金子などは婆が持って行ったはずだ。残るは文や簪しかないはず。何をするのかと目で追っていれば、荷の袋をかきわけながら白嬢が言う。
「大都に行ったんでしょう? 何かよいものを持っているのではなくて」
紅妍の所持品は白嬢のものだと言わんばかりの行動である。そしてついに、百合の紋様が刻まれた簪を手に取った。
「まあ。なんて美しいの。珍しい白玉を使ってる」
「それは――!」
「どうしてこれをあんたが持っているのかしら。簪なんてつける必要がないでしょうに」
紅妍は奥歯を噛みしめる。その簪だけはだめだ。それは秀礼からもらった大切なものである。
「それだけは取らないで」
「あら。どうしてあんたがわたしに命令できるのよ」
「お願いします。それだけは、どうか」
しかし紅妍の懇願虚しく、白嬢はそれを気に入ったらしい。慣れた手つきで髪に挿す。
「あんたには勿体ないから、わたしが使ってあげる」
「だめ、それだけはだめ!」
「うるさいわね」
黙らぬ紅妍に苛立ったらしい白嬢がこちらに寄る。そして抵抗できぬ紅妍の腹部を蹴り上げた。
「ぐ……」
「あんたに簪なんて似合わないわよ。忌み子のくせに」
白嬢はその場に身を屈める。苦しそうに顔を歪めながら地を這う紅妍が面白かったようだ。わざわざ手燭を近づけて確認している。
「わたしね、大都に行きたいのよ。何でも新しい帝が即位されたんですって。若くて素敵な帝と噂になっているのよ」
「……っ」
「これから妃を集めるのでしょうね。ねえ紅妍、この簪美しいと思わない? きっとわたしによく似合う。これならわたしが大都に行っても、帝に見初められるに違いない。わたしは華仙一族で一番の美しさだって祖母様が言うぐらいだもの。わたしが大都に行っていれば、あんたよりもたくさんの金子を手に入れたことでしょうね。こうやって捨てられて、里に戻ってくることもなかった」
紅妍は白嬢を見上げて睨む。姉にそのような態度をとったのはこれが初めてだった。
それが気に入らなかったのだろう。白嬢は紅妍の髪を掴みあげた後、床に押しつける。
「汚い。本当に汚い。あんたなんて、さっさと売られてしまえばいい」
「……簪を返して」
「しつこいわねえ。ああ、さっさと殺さなかったのかしら。売って金子にするよりも、早く殺してしまえばよいのに」
手が動くのなら、簪へと伸ばしている。けれどそれができない。
去って行く白嬢の背を忌々しく見つめる。紅妍はもう一度叫んだが、白嬢は振り返らず、そして扉が閉まった。
眠りについていたのだと思う。目が覚めると陽がのぼっていた。真っ暗な倉庫も陽が入りこんでかすかに明るい。
宮城や道中で健康的な生活を送ってしまったからか腹が減った。昔は空腹など慣れていたのに、宮城での生活は紅妍を変えてしまった。
(……戻りたい)
許されるのならば、あの時間に戻りたい。冬花宮に住み、秀礼らと共にいた時間に戻りたい。できないことを示すように、頬についた床は冷えている。
そこで、外が騒がしいことに気づいた。騒ぎに気づき、紅妍は耳を澄ませる。
「使者だ。大都の使者がやってきた」
里の男が騒いでいる。ばたばたと駆け回る音が聞こえたので、長や婆を呼びに行ったのだろう。
(なぜ大都からの使者が)
疑問に思うも確かめる術はない。
どうにかして縄を解けないかと考えていた時、扉が開いた。光が差し込み、その姿を映す。白嬢だ。頭にはあの簪を挿している。
「ねえ、聞いたかしら。大都から使者がくるらしいわよ」
白嬢は嫌味たっぷりにそう告げる。いちはやく使者の到着を聞いて支度していたのだろう。いつもより良い襦裙を着ている。
「きっと帝が妃を探しにきたのよ。ねえ、この簪、似合うかしら」
「……返して」
同じことしか繰り返さない紅妍に、白嬢は苛立って木箱を蹴り上げた。がた、と大きな音が響く。
「うるさいわねえ! とにかくあんたはそこにいなさい。今度はわたしが、大都の使者に会うのよ。今度はわたしを連れて行ってもらうの。たくさんの金子に簪、素敵な衣も与えられるのでしょう!」
どうやら白嬢は、里に戻ってきた紅妍の姿から大都がよいところであると思い込んでいるようだ。仮に彼女が大都に行ったところで、華仙の力が弱いため鬼霊を祓うことはできない。紅妍が大都に連れて行かれた理由を知らないので、都合のよい夢を抱いているのだ。
白嬢は紅妍を倉庫の奥へと引きずり、その後に出て行った。扉が閉まる。
紅妍は息をひそめて喧騒に耳を傾けていた。
しばらく経って、使者たちが里についたらしい。長と婆が出迎えている声がする。その後は屋敷の中に入ったのか声が聞こえなくなった。
陽が沈んでいく。昨日から食事を与えられていないので腹が減った。喉も渇いている。このまま夜になれば倉庫の中は冷えるだろう。
紅妍は膝を曲げて少しでも身を丸めようとし――外から声がした。
「どうして、わたしじゃだめなんです」
白嬢は何かを訴えているようで、その声は少しずつこちらに近づいてくる。
「お前ではだめだ。探している者がいる」
「里にそのような者はおりません。紅妍は死にました」
「ほう。では確認させてもらおう」
「この簪が証拠です。紅妍は死に、わたしがこの簪をもらったのです」
白嬢は慌てて何かを説明している。それよりも紅妍が気になったのは、白嬢と話す男の声だ。それは聞き覚えがある。いや、いま一番近くにいてほしい声。
(錯覚、かもしれない)
飢えがそう思わせているだけかもしれないと、期待しかけた心を鎮める。
しかしまだ騒ぎは続いていた。ついに倉庫の扉前に着いたのか、声がはっきりと聞こえてくる。
「お前にその簪は似合わぬな」
「な……紅妍が持つよりはわたしの方が相応しいのよ」
「どうであろう。ともかく、この扉を開けてもよいか」
白嬢だけでなく、長や婆もいるのだろう。扉を開けてはならないと口々に叫んでいる。
扉が揺れた。どうやら開けようとしているらしいが、扉は簡単に開かない。外で棒を差し込むなりしているのだろう。いつも倉庫にはそのようにして扉を閉めていた。
もう一度扉が揺れる。今度は外から誰かが叩いているらしい。数度強く叩いた後、男が言った。
「紅妍。そこにいるのだろう」
その声に、紅妍が顔をあげる。
(錯覚じゃない。秀礼様がいる!)
間違いない。その声は、聞き間違えることなどない。心が急いた。紅妍は床を張って扉の方へと近寄る。
「大切なものを見落とさぬようここへ来た。ここからお前を連れ去っても良いのなら、答えてくれ」
もう一度扉を叩く。
「私は、お前がいないと幸福を感じることができないようだ。お前もそうであるのなら、私の妃となる覚悟があるのなら、答えてくれ」
外は悲鳴があがっている。白嬢だ。おそらく秀礼にすがりついているのだろう。紅妍を妃にするぐらいならばわたしが、と泣き叫んでいるのがわかった。
紅妍は大きく息を吸いこむ。扉の先にいるだろう者に向けて、告げる。
「助けてください。わたしは、あなたのそばにいたいです」
感情が、秀礼への想いが、溢れていく。
扉一枚向こうの秀礼に会いたい。触れたい。その腕に抱きしめられたい。
その想いを込めて、もう一度叫んだ。
「わたしを、ここから連れ出してください!」
それはじゅうぶんに、彼の耳に届いたのだろう。
「わかった」
静かな声である。それが紅妍の鼓膜を揺らすと共に、倉庫全体が揺れた。床までもぐらぐらと揺れたような気がしたが、実際には秀礼が扉を蹴破っただけである。よほど力を込めていたらしい。破片は紅妍の近くまで飛んできた。
しかし扉の惨状など見向きもしなかった。陽が沈み、ゆっくりとのぼった月は低く、秀礼の背で薄い光を放っている。月を背負った彼はにたりと笑みを浮かべて、紅妍の元に駆け寄った。
「お前が出て行った後ひどく後悔してな。離れてこれほどに苦しむのならそばにおいた方がよいと考えたまでだ」
縄を解く。紅妍のひどい扱いを見た秀礼は苦笑し、髪についた埃を払う。
「戻ろう。私は、お前を手放せぬ」
「……はい」
「だから、これを返そう。二度と奪われぬようにな。そして私も、二度と手放さぬようにする」
秀礼はそう言って、紅妍の髪を撫でた。その感触を確かめた後、簪を挿す。白嬢に奪われていた百合の簪だ。秀礼が取り返してくれたのだろう。手元に戻ってきたことに喜び、目が潤んだ。
秀礼は弱った紅妍を軽々と抱き上げる。振り返り、里の者に告げた。
「華仙紅妍――いや華紅妍は私のものだ。この者を我の妃とする」
この男が髙の新たな象徴であることを、長や婆、白嬢たちは知っている。長年虐げてきた娘が、帝の妃として選ばれたのだ。白嬢を含む里の者たちは青ざめたり、頭を垂れたりと動揺している。
それを眺めながら秀礼はもう一度、紅妍を強く抱きしめる。紅妍もまた秀礼の胸元に顔を埋めて泣いていた。
華仙の里に住む不遇の娘。華仙術に秀でた仙女は再び華妃となった。
だが今度は飾りの妃ではない。その妃は愛でられ、後宮に咲き誇る華となる。
<了>
不遇の花詠み仙女は後宮の花となる 松藤かるり @karurin_fuji
ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?
ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます