2.黄金の剣と華仙女

 震礼しんれいきゅうを出て坤母こんぼきゅうへと向かう――はずだった。

 道中は中ほどまで進んだところである。後ろから誰かが駆けてきたと思えば、それは光乾殿付きの韓辰かんたつだった。


「秀礼様、申し上げます!」


 手を組んだり膝をついたりとする余裕はない。火急の案件らしい。宦官の焦りは秀礼や清益にも伝わる。


「なんだ。申せ」

「帝の容態が芳しくありません。急ぎ光乾殿までお越しください」

「なに――」


 帝の御身が急変した。秀礼そして清益が青ざめる。


「いまはわずかながら意識を取り戻しております。貴妃、そして皇子らを集めるよう申しつけられています」

「……っ」


 どうやら華妃は対象に含まれていないらしい。だが秀礼は光乾殿に向かわなければならない。秀礼は迷っているようだった。それを見かねた清益が言う。


「秀礼様、光乾殿に参りましょう」

「だが……」

「ここでもし第二皇子の融勒様が先に着いたとなれば、宝剣を持つ秀礼様であっても選ばれるかはわかりません」


 次の天子を定めるのは帝である。秀礼が宝剣に選ばれたからといって必ず帝になるとは限らない。もしも秀礼が間に合わなければ、最期に立ち会えなかったという不名誉が与えられてしまう。

 清益、そして韓辰は秀礼が動くのを待っている。


 しかし秀礼はというと――逡巡の後、答えを呟く。


「光乾殿は……行かぬ」


 その言葉に清益、韓辰が表情を変えた。


「華妃ひとりを坤母宮に行かせれば何が起きるかわからぬ」

「帝がこのような状況だというのにそれは!」

「わかっている! だが、坤母宮に行けば帝を苦しめる呪詛を祓えるかもしれんのだ。この機を見逃すわけにはいかない」

「しかし帝はいまにも……」

「私は、華妃と共に坤母宮に行く」


 秀礼が言っていることは確かだ。紅妍の予想が合っているのなら、坤母宮に行けば光乾殿の気を和らげるだろう。

 秀礼は清益らが引き止めるのも聞かずに歩き出す。そこで、さらなる人物が現れた。


「秀礼様!」


 清益や韓辰とは違う、甲高い女の声。振り返ればそこにいたのは辛琳琳だった。おそらく、紅妍の後をつけていたのだろう。


(後をつけていたのは琳琳か)


 これが武官の類いならば、上手に尾行をするはずだと思った。妃が誰かに依頼をするのだとしても密偵に向く者を選ぶだろう。ここ数日、後をつけてきた者は気を隠すのが下手だった。尾行していますと言わんばかりの動きから、そういった行動になれていない者だと判断していた。


(そして尾行してでも、わたしの不利益となる情報を得たい人物となれば、数は絞られる)


 だから辛琳琳だろうと思っていた。その琳琳は後をつけて、この話を聞いてしまったのだろう。彼女もまた青ざめていた。次の天子になるだろうと慕っている秀礼が、帝ではなく紅妍を選ぼうとしているのだ。紅妍のせいで宝座を逃すかもしれない。


「その者は帝の妃ですよ! どうして帝よりも華妃を優先するんです?」


 感情的な叫びが後宮に響く。秀礼は嫌気たっぷりに琳琳を眺めた後、わざとらしく息を吐いた。


「お前には関係ない。これは私の問題だ」

「秀礼様の妃になるべくはわたしです。目をおさましください秀礼様、その華妃は怪しげな術で秀礼様を惑わせているだけです! だからどうか華妃を捨て置いて光乾殿へ。あなたは帝になるべき方なのですから」


 とにかく琳琳は必死だった。紅妍が嫌いだからというより、秀礼のことをよく思って引き止めているのだろう。清益や韓辰よりもまっすぐに思いをぶつけている。


(清益、韓辰、琳琳――様々な人が秀礼様の即位を望んでいる)


 そして、大都の人も。ああして宮を抜け出し、民のふりをして大都を知ろうとする男だ。髙をよくするのは秀礼だろうと、紅妍も思う。


(宝座に座るのは、秀礼様がいい)


 紅妍は改めて秀礼を向く。


「秀礼様。坤母宮はわたし一人で参ります。わたしは華仙術師。この先に呪詛があろうが鬼霊があろうが、花さえあれば祓ってみせましょう」

「……また、鬼霊に襲われるかもしれないぞ」

「大丈夫です。わたしは帝をお救いするため宮城にやって参りました。ですからわたしは坤母宮で呪詛を祓いましょう。秀礼様はどうか光乾殿へ」


 それでもまだ秀礼は決めかねているようだった。もしかすると、先の一件で紅妍が寝込んだことを気にしているのかもしれない。思い違いかもしれないが、紅妍はにっこりと微笑んだ。いままででいちばん、上手く笑えたと思う。


「秀礼様が宝剣を振るう苦しみを背負うのなら、わたしが祓います。ここまで秀礼様にたくさん助けていただきましたから、今度はわたしが秀礼様を助けます」


 紅妍のためにと宝座を捨てるようなことはしてほしくない。力強く秀礼を見つめた。

 その瞳に晒され秀礼はしばし俯いていたが、紅妍に背を向けた。そして叫ぶ。


「光乾殿へ向かう!」


 清益や韓辰らが膝をついて揖する。琳琳もまた安堵しているようだった。

 みなの姿を眺めながらも、紅妍は歩き出す。見送るような暇はない。紅妍は急ぎ坤母宮に向かわなければ。


「華妃様。坤母宮に参りましょう」


 さも当然といった顔をして藍玉がついてくる。これにも紅妍は首を横にふった。


「藍玉。宮女たちを連れて、冬花宮で待っていてほしい」

「どうしてです。危険なところであればわたしたちも――」

「だからこそ安全な場所にいてほしい。もしも瓊花の鬼霊がでたら、わたしはみなのことを守り切れないかもしれないから」


 藍玉は目を潤ませ、じいと紅妍を見る。紅妍もまた強い意志を瞳に湛えていた。


「……わかりました」

「助かる。必ず戻るから待っていてほしい」

「ではそのように致します。華妃様のお戻りを……お待ちしております」


 紅妍は頷いた。そして坤母宮へと駆け出す。歩くような時間はなかった。


(帝の危機が迫っているいま、急いで呪詛を解かなければ)


 目指すは坤母宮。深く暗い蒼緑色をした、辛皇后の宮だ。


***


 禍々しい気が満ちている。前に来た時よりも、坤母宮は邪気に淀んでいた。

 紅妍は脇目もふらず、庭に向かう。呪詛の元となる虚ろ花の場所は見当がついていた。


(百合の茂みの奥に、木香茨もっこうばらがあるはず)


 百合の花詠みをして意識を失ったとき、黒の木香茨が咲いているのを見た。木香茨の木はないというのに、地面から小枝が伸びて花を咲かせていたのだ。間違いなく虚ろ花だろう。

 紅妍は庭奥にある百合の茂みを見やる。塀の影、日の当たらないじめついた場所――百合の花をかきわけると、やはりそこに黒の木香茨があった。季は終わっているというのに、咲き誇っている。


(ここに咲くということは、木香茨は坤母宮を呪った――つまり辛皇后が呪われた)


 辛皇后は呪詛をかけられて殺されたのだ。木香茨の呪詛は辛皇后を苦しめるものだったのである。

 だが櫻春宮で見つけた百合の虚ろ花と違って、この木香茨はいまだに鬱々とした負の気を放っている。周囲に満ちる草木の生気を吸っては、それに負の感情を混ぜてどこかへ送っているようである。


(この木香茨の呪詛は終わっていない)


 木香茨の呪いが辛皇后に向けられたもので、呪詛によって辛皇后が死んだのなら――呪詛は代償を求める。呪詛を行ったものを呪うのだ。その方角はおそらく、光乾殿。


 坤母宮に流れる邪気が変わる。禍々しいだけではなく、むせかえるような血のにおいが漂った。鬼霊だ。そしてその鬼霊がどこにいるかも、わかる。紅妍は振り返らずに告げた。


「瓊花の鬼霊、いえ、辛皇后」


 この鬼霊は声を聞くはずだ。だからこそ紅妍は声に出して告げる。


「あなたは帝に呪詛をかけられて死んだのね」


 木香茨の呪詛をかけたのは間違いない、帝だ。

 呪詛は成り、呪詛をかけられた辛皇后は死んだ。だからこそ呪詛は代償を求める。帝の身を襲ったのはそのためだろう。辛皇后は代償として指を失うだけで済んだが、帝の場合は代償として失うものが指よりも大きい。それほどまで辛皇后を恨み、確実に殺したかったのだと考えられる。


 紅妍は虚ろ花となった木香茨を摘み、振り返る。そこにいたのはやはり瓊花の鬼霊となった辛皇后だった。


「……華妃、疎ましい存在よ」

「鬼霊となり痛みに耐えてでも自我を保つ。あなたがそれほどにこの世に未練を残していることは知っている。でも、どうして」


 辛皇后は紅妍を指で示す。小さな黒百合が覆う指がしめしたのは、手中にある虚ろ花だ。


「我は、帝に呪われた。許すまじ、許すまじ」

「あなただって璋貴妃を呪ったのだから、呪われたとして仕方ないでしょう」

「そうだとも。帝は我を皇后にしておきながら、璋貴妃を選んだ。だから妬ましい、腹立たしい、憎くて憎くてたまらない」


 ぐう、と憎悪に満ちた呻きが漏れる。辛皇后の胸に咲いた黒塗りの瓊花が揺れた。そこから黒い液体がたれる。花びらではなく泥のようで粘ついたものだ。花では覆いきれないほど怨念を腹にため込んでいるのだろう。

 紅妍は後ろ手に花を摘む。白百合だ。ちょうど鬼霊が呻き声をあげていたので気づかれずに済んだ。


(花があれば、とりあえずは難を逃れられる)


 完全な花渡しとならず浄土に送れなくとも、一時の難は逃れられるだろう。手に花があるだけで安心する。


「秋芳宮の宮女長を殺したのも、あなたね。どうして楊妃を陥れようとしたの」

「帝に関わるすべての者が妬ましい。楊妃も甄妃も、そして鬼霊を祓う華妃も。できることなら直接帝を斬り殺してやりたい。それができぬのは――ああ、あやつが」


 これに紅妍は首を傾げた。これほど強く自我を保っている辛皇后なら帝を襲えただろうに、それができなかった理由がわからない。


(『あやつ』とは誰だろう)


 鬼霊に立ち向かえる者がいるとしたら紅妍か秀礼だ。その二人でないとするなら一体誰が。

 しかし逡巡の間は与えられなかった。辛皇后が手を振り上げる。ぼとぼとと黒の液体が地に落ち、血のにおいが濃くなった。


「――っ!」


 咄嗟に身を翻す。少しでも判断が遅れていたら腕もしくは脚が斬られていたかもしれない。

 辛皇后は紅妍を殺める気なのだ。紅妍は唇を噛み、じりと後ずさる。


「華妃、厄介な存在、消えてしまえ」


 その言葉と共にもう一度、辛皇后が動いた。今度は横に凪ぐような動きである。

 紅妍は斜め前方の地面へと飛びこんだ。間一髪、それも避けることができた。もしも逆の手でなぎ払われていたらどうなっていたかわからない。


(いまは少し、宝剣が羨ましい)


 宝剣であれば防戦一方にはならないだろう。あれならば斬り祓うとまでいかずとも厄介な長い爪は抑えられたはずだ。


(せめて黒百合が咲く指だけでも落とせれば)


 ぎり、と奥歯を噛む。華仙術にそのような術はない。あれは宝剣に比べると柔らかなものである。花は詠みたがりの優しい存在だ。華仙術はその力を借りるだけである。


 再び辛皇后がこちらを向く。これならば白百合で花渡りをして一時の難を逃れた方がいい。いずれ復活するだろうがこの状況よりは――覚悟を決め、白百合をてのひらに乗せた時である。


「……お、叔母上、ですの?」


 門の方から声がした。鬼霊の意識がそちらに向く。紅妍も門の方を見た。


「琳琳!」


 慌てて叫ぶ。そこにいるのは辛皇后の姪である、辛琳琳だった。

 秀礼と共に光乾殿に向かったと思い、尾行する者はいないと気を緩めていた。まさかここまでついてくるとは。

 琳琳にとって辛皇后は見知った人物だろう。瓊花を縫い付けた面布で顔を隠していてもわかってしまう。青ざめ、震えた声でもう一度名を紡いだ。


「叔母上、どうして、鬼霊なんて――」


 この声を辛皇后は聞いているだろう。しかしその程度で、憎悪が晴れることはない。むしろ格好の的である。辛皇后は紅妍から琳琳へと狙いを移した。


「だめ、逃げて!」

「お、叔母上……そんな……」


 迫りくる辛皇后に怯え、琳琳は座りこんでいる。これでは逃げるどころかあの爪を避けることさえ出来ない。

 そしてこれでは花渡しをする間もないだろう。紅妍は駆けた。


(間に合え!)


 幸いにも鬼霊の動きは遅い。胸から垂れる粘ついた液体が辛皇后の動きを鈍くしているのだろう。その隙に紅妍は琳琳の前に回り込む。両手を広げて、琳琳を庇うように立ち塞がった。


「か、華妃……様……」

「立って、逃げるの! あれはもう辛皇后じゃない。妄執に囚われた鬼霊だから!」


 それでも琳琳は動けない。腰を抜かしているのだろう。その身に触れていないのに琳琳ががたがたと震えていることが伝わってくる。


(だめだ。琳琳は動けない。こうなれば身を挺して守るしか――)


 紅妍の前に鬼霊が立つ。ついに辛皇后が手を振り上げた。


(――っ、秀礼様!)


 ぎゅっと固く目を閉じる。頭に浮かぶのはなぜか秀礼のことだった。

 今頃、光乾殿にいるだろう。紅妍のことを待っているかもしれない。


(もっとおそばにいたかった。お役に立ちたかった)


 別れる前、ひどく寂しそうな目をしていた。紅妍のことを案じ、このまま光乾殿に向かってよいのかと揺らいでいたことだろう。


(大都を歩いた時も、みなで蜜瓜を食べた時も、すべてが楽しかった。わたしの一生で最大の幸福があるとすれば秀礼様がいた時だ)


 笑顔が、浮かぶ。頭を撫でられた時の、あの大きな手が愛おしい。危機は目前まで迫っているというのに、どうかもう一度と欲深いことを願ってしまう。


(遠くからでもいい。あなたが宝座に座る瞬間を見たかった)


 たとえ妃になれぬとしても。愛されぬとしても。死期を前にして思うことは、そばにいたかったという純粋な願い。


 その紅妍に、風が吹く。鬼霊が手を振り下ろしたのだ。長い爪が紅妍に向かって落ちる。

 終わりの瞬間がきたのだと、思っていた。



 痛みが届くよりも先に、鼓膜が揺れる。何かを弾くような、金属の甲高い音が響いた。紅妍はそのようなものを身につけていない。体に痛みはなく、何かが触れたあともない。


 これはどういうことだろうかと、おそるおそる瞼を開く。

 そこにいたのは鬼霊ではない。影だ。大きな影が、紅妍の姿を覆っている。たくましいその背をゆっくりと見上げる。風に揺れる長い髪。その手が握りしめるは、光を浴びて黄金色に輝く宝剣だった。


「……間に合ったか」


 宝剣の主が呟く。そこにいるのは秀礼だった。幻ではなく本物の、英秀礼である。

 彼は宝剣で爪を受け止めていた。ぎりぎりと歯を噛みしめて耐えているようだったが、ついに爪を振り払う。そのはずみで辛皇后がたじろいだ。


「秀礼様、なぜここに――」

「話は後だ! 辛皇后を抑える。その間に琳琳を逃がせ」


 秀礼の怒声で紅妍も我にかえる。そうだ。辛皇后をどうにかしなければ。

 紅妍は琳琳の手を掴んで引きずるようにし、坤母宮を出る。門から少し離れたところならば大丈夫だろう。そこで琳琳の手を離そうとすると、涙で潤んだ瞳が紅妍を見上げた。


「わ、わたし……華妃様にひどいことばかりしてきたのに、どうして庇うなんて……」

「誰であろうと守るだけ」

「でもわたしは……華妃様に守ってもらう資格なんて……」


 琳琳としては忌み嫌ってきた華妃に守られたことに衝撃を受けているのだろう。彼女の矜持は崩れ去り、涙としてこぼれているような気がした。


「大丈夫だから。立ち上がって、ここから離れて」


 紅妍は琳琳の肩を優しく叩く。それからもう一度、坤母宮を見やる。

 再び駆け出す。琳琳の泣き声はしばらく聞こえていたが、紅妍が坤母宮に入るとそれも聞こえなくなった。



 坤母宮の門をくぐると秀礼が宝剣を構えて、辛皇后をめつけていた。

 宝剣の所持者である秀礼が来たことは心強い。これならば厄介な指を斬り落とすことができるだろう。それに指は黒百合で覆われている。百合の呪詛を仕掛けた反動として失った箇所だ。宝剣で切り落とせば、辛皇后を蝕む痛みは減るかもしれない。


「秀礼様、あの指を斬り落とせますか」

「わかった」


 頷くと同時に秀礼が駆ける。その勢いに気圧された辛皇后が後退りをしたが、秀礼の方が早い。

 すかさず懐へと入り込み、剣で斬り払う。うまく、片手の指を落とすことができた。ぼたぼたと地に落ちる。


 次いで、くるりと回転するように身を翻す。鬼霊は指を失ったことで動じているのか動きが鈍い。今度はあっさりと対の手も落とすことができた。指は黒い液体をこぼし、無数に咲いた小さな黒百合に覆われたまま落ちていく。


「よし。斬り落としたぞ」


 秀礼の合図と共に紅妍も辛皇后のそばに寄る。長い爪を失ったことで攻撃手段は防いだ。あとは浄土に送るだけである。


(想いが詰まった品はない。うまく浄土に送れるかはわからないけれど――)


 手中にのせた白百合に力を託す。そこで、辛皇后の面布が落ちた。はらりと地に落ち、その顔が顕わになる。


「……我は、」


 何かを言おうとしている。花渡しのために集中していた気は途切れ、紅妍は皇后を見上げた。


「呪詛など、かけなければよかった」


 その声は先ほどと違い、正気を感じるものだった。

 指に巣くった黒花が辛皇后を苦しめていたのだろう。しかしそれは宝剣によって斬り捨てられた。百合の呪詛の代償から解き放たれているのである。そのため一時でも我に返ったのかもしれない。


「璋貴妃が、宝剣を扱う子を産んだ璋貴妃が、妬ましかった」


 これに秀礼が険しい顔をして問う。


「母に呪詛を仕掛けたのは、辛皇后か?」

「そうだ。けれど、知らなかった。呪詛の痛みがこれほどにひどいことを」

「当たり前だ。人を殺すような道具だ。代償はあるに決まっている」


 皇后の悔恨はそれだけではない。璋貴妃を呪った代償として失ったのは指だけではないのだ。帝の信も、そのときに損なわれた。


「あれほどに、帝が璋貴妃を愛していると、知らなかった」

「じゃあ帝が辛皇后に呪詛をかけたのは、復讐のため?」


 紅妍が問う。辛皇后は答えなかった。胸に咲いた黒の瓊花は、帝が施した呪詛によるもの。ひとつの呪詛が、次なる呪いを生み出してしまったのだ。


「……我は、もう、よい。この苦しみを、解いてほしい」


 辛皇后が呟く。生気を欠いて濁った虚ろな瞳が紅妍を捉える。

 紅妍は頷き、辛皇后の前に立った。


「あなたを浄土に送ります」


 手には白百合。片手には媒介となるものを乗せるのが慣例だが、今回は何もない。しかし大丈夫と根拠のない自信があった。辛皇后が穏やかな顔をしている気がしたから、そう思っただけだ。

 瞳を閉じ、集中する。そして唇を使わず、意識で辛皇后に語りかける。


(わたしは、あなたを浄土に送る)


 媒介はない。だからか辛皇后の身が煙となって花の中に溶けていくのには時間がかかる。虚ろ花を祓う時と同じように、体が軋んだ。


(あなたを狂わせた妬みや痛みから、解き放たれますよう)


 白百合にも語りかける。力を貸してほしい。その身に辛皇后の魂を宿し、浄土まで連れて行ってほしい。

 額に汗が浮かぶ。やはり媒介なく、呪詛が絡んだ祓いは難航する。苦しみに顔を歪めた時、紅妍の肩に温かなものが触れた。


「私がいる。だから、頼む」


 秀礼だ。秀礼がそばにいる。

 そのことが紅妍に力を与えた。先ほどまで身を襲っていた呪詛の痛みもわからなくなっていく。


 辛皇后の体がするすると煙になり、白百合の中に吸いこまれていく。辛皇后は穏やかに微笑むのを最後に、完全な煙となって消えた。

 紅妍は瞳を開いた。力がわく。秀礼が共にいるから、この花渡しは成功する。


「花と共に、渡れ」


 白百合を天に掲げた。

 白百合は煙となって風に巻き上げられる。風は白百合を浄土まで運ぶのだろう。白百合も、辛皇后も苦しんでいない。穏やかな風だ。

 煙が完全に消え、その風が止んでも、紅妍は空を見上げていた。秀礼もまた空を見上げている。


「辛皇后は浄土に渡ったのか?」


 秀礼が言った。紅妍は頷く。


「はい。鬼霊の苦しみから解き放たれるでしょう」

「そうか……許すことは難しいが、解き放たれたのなら、それでよい」


 瓊花の鬼霊となった辛皇后の花渡しは終わった。だがまだもうひとつの呪詛が残っている。

 紅妍は黒の木香茨を取り出した。


「これが帝が施した呪詛か?」

「はい。帝が辛皇后にかけた呪詛でしょう。これを解き放てば、呪詛の代償として光乾殿を覆う邪気も消えるかと」


 だからもう一度、これを花渡ししなければならない。

 櫻春宮で虚ろ花を祓った時を思い出す。その時は役目を終えて空っぽになった黒百合だったが、それでさえ体力をひどく消耗したのだ。いまだ代償を求めて光乾殿を呪う木香茨を祓うのにどれだけの体力を労するだろう。

 てのひらに乗せた木香茨を見やる。覚悟を決めて瞳を閉じようとした時、紅妍の手を支えるように秀礼が手を重ねた。


「私も、共にいる。お前が倒れたとしても私が守る」


 優しい言葉に顔がほころぶ。紅妍は力強く頷いて、瞳を閉じた。


 煙が、のぼる。

 それを風が運んでいく。爽やかで、優しい風である。

 光乾殿を覆っていた禍々しい気は消えた。木香茨の呪詛から解き放たれたのだ。


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