第3話 幼き日
「ただいまー!!」
全身泥だらけの少年が、勢いよくドアを開け、元気に叫ぶ。
香ばしいスパイスの匂いが家中に広がっていて、少年の腹の虫も元気に叫んだ。
「おかえりー」
優しい声が台所から聞こえてきて、少年は一気に笑顔になる。
急いでマジックテープを外し、靴を乱暴に脱ぎ捨てる。台所に通じるドアが開き、エプロン姿の母が姿を現した。
それを見た少年は、新しくおもちゃを買ってもらった子どものような、とびっきりの笑顔をみせる。
そんな少年につられてか、母も優しく微笑んだ。
「またこんなに汚して、なにしてたの?」
「友達とサッカーしてたんだけど、昨日の雨でグランドが濡れてたんだよ」
母が持ってきたタオルで、顔を拭きながら少年が答える。
「また洗濯が大変だ」と、ちょっとした文句を言う母は、どこか嬉しそうだった。
「あー、また揃ってないじゃん」
少年の後ろでバラバラに置かれた靴を見て、母が口を尖らせる。
「しまった」と、落書きをしたのが見つかった時のように、少年は舌をだした。
「靴は二人でひとつだから、どちらか片方だけだとものすごく寂しいんだよ。凌太も家族の誰かがいなくなったら寂しいでしょ。」
少年は小さい頭で考えた。家族の誰かがいなくなる。
少年は、お父さんもお母さんも大好きだったので、考えるだけで胸が苦しくなった。
「だから、毎回きっちりと揃えるんだよ」
そう言うと、母は少年の小さな靴をこちら側に向け、かかとを揃えて並べた。
「それに、この方が出かける時に履きやすいでしょ」
母の言葉の半分くらいを小さな頭で理解して、少年は頷いてみせた。
「凌太はいい子だね」
少年の頭を撫でながら、優しい声で褒める母。
それがとても心地よくて、少年は目を細める。
「それじゃあ、シャワーを浴びたらご飯にしようか。今日は凌太の大好きなカレーだよ。」
「やったー!僕カレー大好き!!」
母の言葉に喜びを隠せない少年が、スキップをしながら浴室に向かう。
そのスキップは少しぎこちなかったが、少年の心情を表すには完璧であった。
「・・・・・・・あれ?」
気がつくと教室にいた。
真っ黒な学ランに身を包み、窓側の一番後ろの席に座っていた。
廊下側ではなく、窓際の席だ。
国語の授業だろうか、先生がお世辞にも綺麗とは言えない字で板書を書き進めていく。
その隙を伺って、数人の生徒が紙に何かを書いては次の生徒へと回し始めた。
その紙が僕に回ってくることはなく、僕を飛ばして次の生徒へと渡される。
僕はなんとも言えない感情を外に逃がすように、窓からグラウンドを眺めた。
すると、グラウンドの真ん中に一匹のカラスが見えた。
カラスは僕の視線に気づいたのか、振り返るとこちらをじっと見つめてくる。
その光景は、何か嫌なことが起きることの予兆のようで、形のない不安に押しつぶされるような感覚に陥る。
先生が板書を書き終え、こちらを振り返る。
丁度、紙が回ってきた生徒が、慌ててそれを机の中に隠した。その時。
「授業中すみません」
慌てた様子で教室に入ってきたのは、髪の寂しさを隠しきれていない、年配の先生らしき人だった。
「鈴木凌太くんいるかな」
その名前が僕を指すものだと認識し、右手をあげる。
「お母さんの容態が・・・」
年配の先生の話が、右の耳から左の耳へと流れていく。
頭が考えることを放棄し、思考がまとまらない。
文字通り真っ白になっていた。
年配の先生に促され、席を立ち上がる。
そんな僕を見るクラスの目は、どこか冷たく感じた。
さきほど紙が回ってきた生徒に関しては、なにやら続きを書いている。
よっぽど大切な内容なのだろうか。
グラウンドのカラスは、いつ間にかいなくなっていた。
気がつくと、とある病室にいた。
ベットの上には母が寝ている。
その横にはスーツ姿の父。母を心配そうに見つめ、手を握っている。
僕はベッドに近寄り、父が握るのとは逆の母の手を握った。
「凌太、心配かけてごめんね。お母さんは全然大丈夫だよ」
そう言って笑ってみせる母だったが、握る手は弱々しく、それが強がりだと語っていた。
「大丈夫そうで安心したよ」
精一杯の明るいトーンで言ったつもりだが、母にはどう伝わっただろうか。
本当に言いたいことも、セリフと合わないこの涙の意味も、きっと母にはお見通しなのだろう。
「・・・・・・・ごめんね」
とても小さい声で発せられたその言葉を、僕は聞こえていないふりをした。
どれくらいの時間が経っただろうか、母の手を握る手が汗ばんできた頃。
「・・・お母さんは幸せ者だ」
さっきよりも小さな声で、母はつぶやいた。
その声は弱々しいのに、やけに力強くて。僕の耳にしっかりと届いた。
きっと父の耳にも届いたのだろう。両の目からは、涙が溢れていた。
父が泣いているのを見たのは、これが最初で最後だったような気がする。
それから程なくして。
母は帰らぬ人となった。
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