第6話 宿題
「だめだ、全然わからん」
真っ白なルーズリーフの真ん中に書かれた短い文章。
それをなぞるように何度も往復させていたボールペンを机の上に放り投げて、座っている椅子の背もたれに全体重を預ける。
「はぁ・・・」
キシキシと悲鳴をあげる椅子と、僕のため息が重なった。
クラスのいじめられっ子で、最近少し仲良くなった女の子。
そんな彼女から出された宿題は過去最大の難問だった。
『君を守るためだよ』
机の上に置かれたルーズリーフに書かれたこの文章は、一体何を意味しているのか。
皮肉の意味を込めた冗談にも聞こえるが、この言葉を口にした彼女の表情は真剣そのもので、ただのジョークとは思えなかった。
本当ならば、すぐにでも意味を聞き出したかったのだが、タイミング悪く登校してきたクラスメイトによって、その願いは叶わなかった。
授業の合間に声をかける勇気が僕にあるはずもなく、授業に身が入らなかったのは言うまでもないだろう。
さらに今日は金曜日。彼女と話せる唯一の機会である始業前の時間が訪れるのは、三日後というわけだ。
「お腹空いたな・・・・」
時刻は午後七時。家に帰るなり、彼女に出された宿題に頭を悩ませていたため、今まで空腹に気づかなかった。
台所に行けば何かしらあるだろう、という安易な発想のもと。段の高さから数まで、完全に体にインプットされた階段を下っていく。
時に、漫画やアニメで得た知識がテストで問われるように。何気ない行動が、思いがけない形でプラスに働くことがある。
この台所に向かうという行為が、正にこれに当たるとは。今の僕には知る由もなかった。
「どっちかだな」
僕の前に置かれた二つのカップ麺。
片方は未確認生命体を連想させる名前の焼きそばで、もう片方は豚骨味のラーメンである。
どちらも捨てがたいが、自分の胃袋と議論を重ねた結果、焼きそばを食べることにした。
電気ケトルに水を入れ、沸騰させる。
文明の利器に感謝しながら、慣れた手つきで下準備を済ませていく。
男二人暮しとなれば、自炊をする機会が減ってくるのは必然的だと言えるだろう。
下準備を終え、沸騰待ちとなった僕は、飲み物を物色するために冷蔵庫を開ける。
相変わらず、親父のメモが書かれた付箋が無数に貼られた冷蔵庫。
その内の一つの付箋が、冷蔵庫を開けた拍子に剥がれ。ひらひらと宙を舞って、床に落ちた。
「・・・・・ん?」
それを拾った僕は、そこに書かれていた内容に疑問を覚えた。
極端に記憶力がない親父が、予定や出来事を忘れないように残した数々のメモ。
それらが書かれた無数の付箋の内、偶然剥がれて手に取ったひとつに。
そこに、『小川結衣』の名前があったのだ。
次の日の朝
「いってきます」
「ガチャ」と、ドアが閉まる音を確認して、自室の窓から外を覗くと、スーツ姿の親父が仕事場に向かっていた。
「・・・よし」
決意を新たにした僕の右手には、昨日の付箋が握られていた。
親父が書いたであろうメモに記された、いじめられっ子のクラスメイトの名前。
それが何を意味するのか。
全く見当もつかないが、これこそが宿題を解くために必要な鍵であるような、そんな気がしてならないのだ。
付箋という一つのアイテムと、まだ見ぬアイテム。それらが合わさって、ひとつの鍵となる。
さながら脱出ゲームのような展開を夢見て、僕が目指したのは親父の部屋だった。
リビングの向かいにある部屋。ここに入るのはいつぶりだろうか。
ふと蘇る幼い記憶。
平日の真昼間。父は仕事に出かけ、家には母と自分の二人きり。
「もういいかーい」
「まーだだよー」
リビングから聞こえてくる母の声に、無邪気な少年が元気に応える。
あちらこちらを行ったり来たりして、最終的に少年が身を隠す場所として選んだのは、父の部屋だった。
部屋の三方。入り口以外の全ての壁には、自分よりもはるかに大きい本棚が設置されており、分厚くて難しそうな本が無操作に並べられている。
その中心にいる少年は、さながらライオンに囲まれたシマウマの子供のようで。子ども独特の想像力からくる不安により、涙目になる。
「もういいかーい」
そんな中聞こえてきた母の声は、少年の不安を一瞬にして消し去り。その顔には笑顔が戻っていた。
「懐かしいな・・・」
母とのかくれんぼで、少年が避難訓練のように身を隠した大きい机。
それに見合った、背もたれの角度を自由に変えられる、校長室にあるような椅子に座りながら、ぼそっと呟く。
あれほど大きく感じられた本棚も、今となっては何も感じなかった。
ウィーーーーーーン
机の横に置かれた古いモデルのPCが、唸り声をあげる。
パスワードを入力すると、皮肉にもモニターには歓迎の言葉が表示された。
しばらくしてデスクトップに切り替わると、画面の左側にはいくつかのフォルダが表示されていた。
『会社の資料』や『写真』などの名前が付けられたフォルダ。
その一番下には、危機感がないのか信頼感の現れか、『マル秘』とだけ書かれたフォルダがあった。
疑惑のフォルダにカーソルを合わせて、自分自身に問いかける。
このマウスをクリックすることで得られるアイテムは、謎解きに必要な鍵となりうるのか。
職場の機密事項や親父の趣味である可能性も十分にある。
そこに足を踏み入れようとする行為は、本来自分が嫌がるそれと同じであった。
しかし、この世は結果論で回っている。
過程を重んじるのは小学生までで、結果が出せない凡人は蹴落とされるのが世の常というものだ。
16年生きてきて、嫌という程思い知らされた、変えることのできない現実。
シュレディンガーの猫にもあるように、フォルダの中身は開けてみないとわからない。
覚悟を決めた僕は、人差し指を振り上げて、下ろした。
鼻血がでるほどの迫力は全くなかったが、心の中の感情の起伏はそれと近しいものがあった。
画面に表示されたのは、テキストファイル。
どうやら、親父の日記のようだった。
親父の性癖を知ることにならなかったことに、安堵したのもつかの間。スクロールした先に出てきた人名に、僕の心臓は止まりそうになる。
画面をスクロールする指は止まらず。極めて冷静な脳が、パズルを組み立てるように情報を紐付けていく。
「つながった・・・・」
ついに完成した、宿題を解くために必要な鍵。
『マル秘』と書かれたフォルダは、パンドラの箱そのものだった。
土曜日の夜。親父は仕事から帰ってくると、まずシャワーを浴びて、ビールを片手にリビングに向かう。
それは僕が物心ついた時から見てきた光景で、親父の習慣のようなものだった。
そして、それは今日も例外ではなく、リビングからは今人気のお笑い番組と、親父の笑い声が聞こえてくる。
その憩いの時間を遮るのにためらいを覚え。僕はそれらが止むのを待ってから、親父の待つリビングに向かうことにした。
午後九時
お笑い番組が終わったのか、リビングから笑い声が聞こえる事はなくなった。
「親父、話があるんだけど・・・・」
面接に挑む就活生のような心持ちで、リビングのドアを開き、親父に声をかける。
テーブルの上には、枝豆の残骸が山積みになっていた。
「どうした、改まって」
「これ、見て欲しんだけど・・・」
そう言って、僕は机の上に数枚の紙を並べる。
それを見た親父は、表情を真剣なものにして、僕に尋ねた。
「・・・全部見たのか?」
僕が首を縦に振ると、「そうか・・・」と呟き、なにやら考えるそぶりを見せた。
それから、おもむろに立ち上がると。母さんの笑顔を収めた写真が飾られている、仏壇の前で正座をし、静かに手を合わせた。
それが終わると再びソファに座り、少しだけ残っていたビールを飲み干すと、適度な間を置いて語り出した。
「あれは、母さんが死ぬ少し前のことだ・・・」
机の上には、マル秘フォルダの内容をコピーした紙が散らばっており。
テレビの中では七三分けの真面目そうな男が、淡々とニュースを読み上げていた。
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