第5話 約束
耳元で鳴り響く目覚まし時計を乱暴に止め、寝ぼけ眼で制服に着替えて階段を下る。
少し冷たく感じてきた水道水で顔を洗い、大人同士の低レベルな喧嘩を真剣に解説するニュースを眺めながら、インスタントのコーンスープで冷えた体を温める。
履き慣れた靴を器用に履いてドアを開けると、乾いた風が襲ってきた。
「いってきます」
誰もいない家に、再会の意味を込めた言葉を残して。今日も僕は学校に行く。
今まではなかった、僕然とした期待を胸に。
昨日と同じく人の気配を感じない学校。
相変わらず靴箱はどこも空で、小川結衣と書かれた場所も例外ではなかった。
ただ、昨日は気づかなかったが、校内用のスリッパもそこには置かれていなかった。
大方、靴の方はいじめっ子にでも隠されたのだろう。
彼女の境遇を不憫に思い、同情に似た感情を抱く。
教室の前まで来ると、その感情は緊張で上書きされていた。
そーっとドアを開くと、いつもと同じ『デスシート』に彼女は座っていた。
昨日とは違い、本を読んでいるようだ。
頭の中で会話をシュミレーションして、最適解を探し出す。
及第点は貰えそうな解を見出すと、僕は教室に入っていった。
「おはよう」
教室の端と端。五席離れたその距離は、僕らの心の距離を表しているようだった。
「・・・・おはよう」
本から目を離し、僕の方をちらりと見て挨拶すると、その視線はすぐに本の方に戻ってしまった。
僕は自分の席に鞄を置くと、彼女の方へ歩み寄ってこう言った。
「どんな本読んでるの?」
読書中に話しかけるのはどうかと思ったが、趣味は共有したくなるものだ。
それが、小川結衣にも通用するのかは定かでないが、試す価値は十分にあると判断した。
「・・・これ」
彼女は小説の表紙を見せてきた。
それは僕でも聞いたことのある有名な小説で、確か高校生の恋物語だったはずだ。
意外なチョイスに少し驚きつつ、さらに尋ねる。
「どんな話なの?」
彼女は指を口に当てて、少し考える素振りを見せてから、こう続けた。
「・・・主人公と幼馴染の女の子が、恋仲になるお話」
「へー、どんなきっかけで?」
「・・主人公がクラスの女の子に告白されてるのを、幼馴染が見つけちゃって」
「それで?」
「・幼馴染が自分の中に生まれた、ある感情に気づいてしまうの」
「なるほど。で、どうなるの?」
「今までの関係を崩す危険を冒してまでこの気持ちを伝えるか否か。葛藤の日々が始まって、それから・・・・」
学校での出来事をお母さんに喋る小学生のように、きらきらとした瞳で話してくれる。
そんな彼女の話を聞いていると、心が浄化されていくようで、とても心地よかった。
時間を忘れて話していると、時計の針はクラスメートが登校してくる時間を指していた。
「そろそろ時間だね」
「・・・そうだね」
名残惜しそうにする彼女に、僕はこう提案した。
「明日も来ていいかな?」
彼女は嬉しそうに、そして少し照れくさそうに。
「うん」と、答えた。
こうして、いじめられっ子の女の子と、気弱な男子高校生の間に、秘密の約束事が結ばれたのだった。
「おはよう」
「・・・おはよう」
挨拶が返って来る喜びを噛み締めながら、小川結衣が座る『デスシート』の一つ前の席の椅子を引く。
誰もいない学校、二人だけの教室。
すっかり日常になった風景がそこには広がっていた。
引いた椅子の背もたれを抱くような形で腰を下ろし、他愛もない話をする。
食事や睡眠のように、今では生活の一部となったこの時間が。僕にとっては、かけがえのない大切なものになっていた。
彼女にとってもそうなら、どれだけ素晴らしいことだろうか。
僕は淡い期待を抱きつつ、彼女の話に耳を傾ける。
最初の頃に比べると、数段高くなったように感じられる声のトーン。
どこか安らぎを覚えるその声で、次々に語られる小説のお話を、僕は相槌を打ちながら熱心に聞いていた。
話にひと段落つき、訪れた束の間の沈黙。
そこに初めのような不快感はなく、むしろ安心感のようなものが漂っていた。
「次は何を話そうか」と考えていると、ふと以前から疑問に思っていたことが脳裏に浮かんだ。
それは、捉え方によっては『攻撃』ともなる質問。
でも、いつかは聞かないといけない質問。
僕はそのタイミングを、今日、今、この時にすることにした。
「小川さんはどうして逃げないの?」
それは心からの疑問だった。
理不尽で悪質な数の暴力。その対策として『逃げる』という選択肢は、立派な手段の一つで、定石とさえ思えた。
けど、彼女はそれを選ばなかった。
それどころか、彼女はこれまで無遅刻・無欠席。頑なに学校に通い続けた。
その強さはどこから来るのか。
気弱な少年はそれが知りたかったのだ。
「それは・・・・」
珍しくもったいぶる彼女の答えを、僕はひたすらに待った。
その答えは、今後の人生を大きく変えるような予感があったからだ。
しかし、辛抱の先に得た答えは、期待していたそれとはかけ離れたものだった。
僕の脳では理解が追いつかず、思わず自分の耳を疑う。
しかし、子どもを見守る母親のような表情で。優しさと力強さが複雑に入り混じった声で。彼女は確かにこう言ったのだ。
「君を守るためだよ」
と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます