第2話 現状


「すーはあ・・・」


教室のドアの前で、深呼吸とため息の間のようなものを繰り返す。


心を落ち着かせるための行為だが、僕が転校生というわけではない。


かといって、クラス替えがあったとか、誰かと喧嘩して気まずいだとか、そういったこともない。


僕が教室に入るのに躊躇している理由は、廊下側の一番後ろの席。つまりは僕の席に、数人の女子生徒が群がっているからだ。


僕はこれから教室に入り、女子生徒の皆さんに「そこをどいてくれ」と、伝えなければならない。


いつもならトイレの個室に向かい、ホームルームの時間まで時間を潰すところだが、今日は机の中に入れたままにしていた宿題を終われせなければいけないのだ。


「すーーーっ・・はぁ・・・・・」


最後に大きく、ため息交じりの深呼吸をし、教室のドアを開く。


平静を装い、ゆっくりと自分の席に向かっていると、女子生徒の一人が僕に気づき、なにやらコソコソと話し始めた。


会話はすぐに終わり、数人の女子生徒が違う席に移動を開始する。


「助かった」と胸を撫で下ろし、席に着く。

ほんのり残った椅子の温もりを少しだけ意識しつつ。僕は机の中からノートを取り出すと、早速宿題に取り掛かった。



順調に筆を走らせていると、クラスが騒がしくなり始めた。


「小川さん、またやられてるぞ」

「あいつらもよく飽きないな」

「今日は一段とひどくないか・・・」


みんなの視線は窓側の一番後ろの席、つまりは僕と反対側の席に向いていた。


その席には、長い前髪で顔を隠した女子生徒、小川結衣が座っていた。その周りを先ほどの数人の女子生徒が囲んでいる。


「ごめーん。手がすべったー」


女子生徒の一人が、バケツいっぱいに入った水を小川結衣の頭から一気にかける。


しかし、小川結衣は怒るどころか、眉ひとつ動かさずに本を読み続けていた。


その態度が気に食わなかったのか。女子生徒の一人が本を取り上げ、窓から校庭に向かって投げてしまった。


小川結衣は少し驚いていたが、鞄の中から予備の本を取り出すと、すぐに読み始めた。


女子生徒はその様子を見てけらけらと笑い、もう一度本を取り上げ、投げようとした。


だが、


「ホームルーム始めるぞ。席につけー」


担任が教室に入ってきたため、投げようとした本を乱暴に小川結衣の机に投げつける。

「ちっ」と舌打ちを残して、女子生徒たちはそれぞれの席に戻っていった。



折れ曲がった椅子に、落書きだらけの机。何よりびしょ濡れの彼女をみれば、そこで『なにか』があったことは明白だ。


しかし、


「じゃあ、ホームルームはじめるぞー」


生徒はおろか、教師さえもそのことについて触れようとしない。


まるで彼女がここにいないかのように。


小川結衣が存在しないかのように、今日も一日が始まった。



放課後を告げるチャイムが鳴り、大半の生徒が部活へ向かう。


グランドからは、野球部の一際大きな声と、ボールを打つ金属音が聞こえてくる。

体育館から聞こえるのは、バスケットボールをドリブルする音だろうか。

各教室では、残った人たちが雑談をしている。


『青春』というステージの上で、それぞれの楽器を奏でる若人たち。


そのステージに僕の姿はなく。観客席の最後列から、拍手をすることも、歓声をあげることもなく、ただただ見ていた。



「帰るか・・・」


机の中の教科書を乱暴に鞄に詰め込み、教室を後にする。


その時、視界の隅に映った小川結衣は、一人で本を読んでいた。



帰り道、僕はあることを考えていた。


小川結衣についてだ。


彼女はいわゆる『いじめ』を受けている。


そんなことは、みんなが知っていて、心配もしている。


それでも助けようとしないのは、自分が次の標的になることを恐れているからだ。


自分を犠牲にしてまで、誰かを助けようとする。そんなアニメの主人公みたいな人は、そういるものではない。


そういないからこそ、主人公になりうるのである。



もしも、彼女がいなかったら。いじめの矛先は、きっと僕に向いていただろう。


友達はいないし、これといった趣味や特技があるわけでもない。

外見もパッとせず、勉強も運動も中の下。


こんな僕が平穏な学校生活を送れているのは、ある意味彼女のおかげかもしれない。


こんなことを考えてしまう自分が、僕はたまらなく嫌いだった。



電車で揺られること一時間。

駅を出てすぐの交差点を右に曲がり、左手にある大きな坂を登ると、家が見えてくる。


「ただいま」


二人で暮らすには広すぎる立派な家。その中に、僕の独り言が響き渡る。


靴を脱ぎ、後から履きやすいように揃えてから、二階にある自室へと向かう。


開いた形跡のない参考書が並べられた机に、大きめのベッド。


殺風景という言葉がぴったりな部屋が、そこにはあった。


制服のブレザーをハンガーに掛け、ズボンからシャツを引っ張り出し、ネクタイを緩める。


そして思考を止め、ベッドに飛び込む。


まるで電源が切れたロボットのように、僕は深い眠りについた。

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