第一話 ディスコミュニケーションマン(下)
「きれいな世界?」
俺が訊ねると、ハチは頷いて、
「そうだ。すごくきれいな――真っ青な空に、鮮やかな緑の山々があって、色とりどりの鳥が飛んでて、なんていうかすごく――すごくすごく――きれいな世界だ。まるで、山水画みたいな」と、そう説明した。
俺も匂いに集中してみる。ナマケモノの嗅覚がどれくらいのものなのか、正直よく分からないが、人間のときのそれより随分と鋭敏だ。ハチが言うほどハッキリした知覚ではないが、なにか――ホームレスからするとは思えない、いい匂いがした。
その日はそこまでしか分からなかった。次の日、道場で師匠にそれを話した。
「なるほど。嗅覚というのは言語化のできない知覚だから、そういう大きなイメージを伝えることができるんだな」と、師匠はハチの言葉にうむうむと頷く。
「きょうも行ってくるといい。ディスコミュニケーションマンの世界を体験して、人生を変えるチャンスをものにしろ」
というわけでまたディスコミュニケーションマンのところにきた。ディスコミュニケーションマンはベジタリアン食の店の裏から拾ってきたらしい、レタスの芯をかじっていた。
嗅覚だけでこのレタスの芯を見つけたのか。ディスコミュニケーションマンは、すごい人だ。俺たちは視覚と聴覚に頼りすぎているのだな、と思った。
俺とハチは、ディスコミュニケーションマンの知覚にリンクするべく、深い集中に入った。それは稽古の瞑想より深い集中を必要とした。目を閉じて視覚を遮断し、耳から入る音には取り合わない。ディスコミュニケーションマンの世界を知るために、嗅覚に集中する。
頭が痺れる感覚があった。
(きみたちは シズカの 弟子たち だね)
(――?!)その声は、明らかにディスコミュニケーションマンの言葉だった。
(嬉しいよ シズカの 弟子たちが 会いに 来て くれて)
その言葉と同時に、すさまじいイメージの奔流が迫ってきた。眩しい。そしてその世界は、きのうハチの言っていた、まさに山水画の景色だった。湖から岩が突き出て、その岩は苔むし、遠くに山があり、鳥が飛んでいて――こんなにきれいな景色、初めて観る。それくらい美しい景色で、その空中に俺とハチとディスコミュニケーションマンの三人が浮かんでいた。
「きみたちが私に会いに来てくれて、とても嬉しい。私はリクという。正味のところ、ディスコミュニケーションマンという名前は嫌いなんだ。こうしてコミュニケーションはとれているわけだし」
こんな超次元コミュニケーションで返されたらそりゃディスコミュニケーションマンとは呼べない。リクさんはしわだらけの顔を笑顔にして、
「感じ取れるものが世界のすべてではない」と、真面目に言った。
「感じ取れるものが……世界の、すべてではない」ハチの言葉にリクさんは頷く。
「人間の体では知覚できないものこそ、世界を組み立てるもの。どうぶつの力を極めたとき、きみたちは全く新しい感覚と出会う。私がそうだったようにね」
「では、レタスの芯を見つけたのは、その超知覚によるものなのですか?」
「ハハハ。そうだね、私だって食べねば死んでしまうわけだし。わたしはね、哀れまれたり蔑まれたりするけれど、この暮らしを気に入っている。そもそも哀れむ声も蔑む声も聞こえないしね」リクさんはそう言い、ふうと息をついた。
「きみたちは、シズカにここに来るよう言われたのかな?」
「はい。師匠は、あなたとコミュニケーションをとれれば、新しい力への理解が進むと言いました」俺はそう答えた。リクさんは笑顔になった。
「そうか。シズカもよく分かっているようだ。安心したよ」
リクさんはそう言うと、空を見上げた。
「きみたちはまだ若いから遠いかもしれないが、どうぶつの力を極めたとき、感覚はもっと豊かになる。人間では知覚できないものを見、そして人間では理解できないものを知る。だから私は聴覚も視覚も触覚も手放した。それでもこうして、生きていくことができる」
「なぜ、そこまで極めたリクさんが、こういう暮らしをなさっているんですか?」
「もちろん望めばもっと裕福に暮らせたろう。もっといい服を着てもっといいものを食べたろう。しかしそれは、いっときのものだ。すぐ失ってしまうものだ。失ってしまうなら、そもそもそんなものはいらないのだよ。旧世界には、キリスト教という宗教があった」
「宗教……ですか」と、俺。ハチと目を合わせるがハチも分からないらしい。
「詳しい教義は知らないが、その宗教の言葉に『空の鳥、野の百合』というものがある。空の鳥は種まきをしないで食べている。野の百合はなにを着るか悩まず美しく咲いている」
リクさんは、皮膚病の痕でごわごわしている手をじっと見て、
「そういう、世俗的な悩みを持っているうちは、人間は完成しない。この世界の『理』にただ従って、生かしてもらえるように生きる。悩むことはないんだよ、生きているだけで、生きていられる」
と、おだやかにそう語った。
「――そろそろ集中力の限界なんじゃないかい?」
リクさんはそう言ってきた。俺はハチを見る。だんだんとぼやけている。きっと俺もそうだ。
「最後にひとつだけ。シズカに、面倒を押し付けるなと言っておいてくれないか」
リクさんがそう言った瞬間、俺とハチは現実に戻ってきた。
「何だったんだ」と、ハチ。
「白日夢って感じだったな」と俺。
そのまま道場に向かったが、もう師匠は酒場にいるらしい。
酒場「十斗」に向かうと、師匠がホルモンを味噌でぐつぐつ煮ていた。
「おー、なんか悟った顔してんね。どうだった? ディスコミュニケーションマン」
「リクさんは、師匠に『もう面倒を押し付けるな』って言ってくれ、って言ってました」
俺が率直にそう言うと、師匠は名前に似合わないけたたましい笑い声を上げた。
「ひっでぇなあリク兄さんは……てことは、お前らリク兄さんの知覚を見たんだな?」
「いちおう……あの山水画みたいな景色のところはどこですか?」
「知らんよ。リク兄さんの出身地とかなんじゃない?」師匠は雑な口調でそう言うと、ホルモン煮込みの汁を味見して、コンロの火を弱めた。
「兄さんってことは、師匠の兄弟子なんですか?」
「そういうことになるな。リク兄さんにはなにかと面倒押し付けたからなー。御師様のこともそうだし……」師匠は長い睫毛を伏せる。やはり師匠と、その師匠の間に、なにかあったのだ。
「まあ気にすんなって。とりまメシ食ってけ。腹減ったろ?」
師匠は目を上げて、明るい表情になってそう言った。
「俺はもうホルモン見た瞬間ヨダレベロベロなんですけど、レイジはどうだか」
「え? 俺? ……うん、ここ三日ばかしなんも食べてなかったな」
「おどろきの低燃費だ。よーしシズカ師匠のホルモン煮込み、腹いっぱい食ってけ」
師匠はホルモン煮込みをでんでんと俺とハチの前に置いた。割りばしでそれを食べる。内臓がホカホカしてくるような味だ。
「うまいっすね」俺がそう言ってからハチのほうを見ると、ハチは完全に夢中でガツガツやっていた。お前は犬か。まあいぬいぬ拳法の使い手だから仕方がない。
俺はホルモン煮込みを平らげて、そろそろお客さんがくるかなと適当なところで帰ることにした。ハチも適当なところであきらめて、帰る支度をしている。
「気を付けて帰れよー」と、師匠はそう言ってにかりと笑った。
帰り道を歩きながら、ふと空を見上げる。星がびっしりと輝いている。
人類がいまのような生き方を始める前は、街の灯りで星の光は見えなかったという。
人間は野生に帰っていく。それが正しいのだ、きっと。俺はそう思いながら、きょう感じた「新しい知覚」の世界をしみじみと思いだしていた。どうぶつの力は、ああいう高度な精神世界を作ることもできるのか。すごいことだ。家への道を適当に歩いて、ふと「あの世界にいられるなら、現実の世界なんてどうでもいいなあ」と思う。
現実を超越した世界を、どうぶつの力は作ることができる。
それは俺の前に示された新しい可能性だった。家に着いて、そのまま寝た。次の日目を覚ますとすっかり昼で、俺は慌てて道場に向かった。
俺はリクさんの見せてくれたような現実を超越した世界を、いつか手に入れるのだろうか。そして、俺はこのナマケモノの力を、極めることができるのだろうか。
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