第六話 デマゴーグ(上)

 イツキシティは不穏な空気に包まれていた。ここ数日、街はなんだか不穏な噂でざわついていたのである。それは、「ヴァルハリアン」という、異種知性体についての噂であった。


 鉱物文明圏からの使者フロゥリィトとの政治交渉、そしてエターナリアン文明との接近遭遇ののち、イツキシティを含むどうぶつ文明圏では、他の文明圏との融和を目指す方向で政策が進められていた。そんな中、唐突に週刊誌が掲載した記事が、市民を怯えさせていたのである。


「対話不能の異種知性体・ヴァルハリアン! それでも融和政策を支持しますか」


 週刊誌といっても、しょっちゅうとんでもないトバシ記事を載せるろくでもない雑誌である。ふだんはまことしやかに芸能人と反社団体の関係だとか、不倫問題だとか、楽して痩せられる方法だとか、六十を過ぎても男として現役でいられる方法だとか、そういうくだらないことを書いている雑誌なので、最初はだれもヴァルハリアンなんているわけがない、と思っていた。


 しかし、そういう「雰囲気」は、誰もが感じていること――他の文明圏との融和が、もしかしたら取り返しのつかない事態につながるのではないか、という恐れ――で、次第にエコーチェンバー効果というのか、目にしたから話し、ときおり耳にするから話題になり、話題になるから騒ぎになり――ということになってしまっていた。


 きょうも俺たちは師匠の居酒屋「十斗」にたまって師匠の煮たハイギョの梅煮をつついているわけだが、師匠はいつになくぐったりしていた。相変わらず師匠の手料理はびっくりするほどおいしいのだが、しかしここ最近、近所の飲み屋のママさんたちから、「シズカさんも融和政策反対運動に参加してよぉ」と言われて困っている、というかひっきりなしにご近所さんからポスターを貼れだのデモに参加しろだの言われて、いちいち対応してくたびれているらしい。


「なーんであんなカストリ雑誌のデマに踊らされるかねえ」


 師匠はすでに目が据わっているというのに、ビールを瓶からぐびぐびと飲んだ。そうやっているそばから、師匠の端末はずっと通知音を鳴らしている。


「師匠、なんか通知来てますけど見なくていいんです?」と、ハチ。


「知らんよ。どうせデマの拡散記事のおすすめじゃろ。見るだけ無駄じゃい。……お前らは、SNSとかでデマ見ないのか?」


「わたし写真をUPするSNSしか見てないです」と、マリー。


「俺はそもそもやってません。時間の無駄なんで」と、ハチ。


「やってることはやってるけど懸賞垢だけなんで」と、ナッツ。


「俺も、なんか……ナマケモノの力に目覚めてから、そういうのめんどいなーってアカウント消しちゃいました」と言うのは俺だ。


「お前ら仙人か……うぃっく。じゃあくっだらねークソみたいなことばしばし書き込んで遊んでるのはあたしだけか。うぎぎぎぎ……。とにかく、SNSやってるとすっげえ頻度でデマ見るんだわ。とりあえず『融和政策反対』っつってるBBAにはかかわるなよ。ろくなことがないからな」と言って、師匠はまたビールをぐびぐびーっと飲んだ。


「てゆかそもそもなにを根拠にヴァルハリアンなんてもんがいるってなったんです?」


 ハチが訊ねると、師匠はハイギョの骨をぼりぼりしながら、

「んなこと知るか。知りたいなら自分の足で調べろ。安楽椅子探偵になるな」

 と、すごく真っ当なことを言った。師匠は基本的に酔っ払いで面倒くさがりなくせに、こういうときすごく真っ当なことを呼吸するように言うのだ。


 というわけで、俺たちは師匠の店で昼飯を食べ終えて、さてどうするか、ということになった。俺は帰って寝たいのだが、しかしこのデマの出所が気になるのも確かだ。


「雑誌の出版社当たっても意味ないだろうしなあ」ナッツの意見にみな頷く。


「それって、イツキシティの上層部で機密文書として扱われたのが持ちだされた、ってていで雑誌に載ったのよね。なんで機密文書が持ちだされるわけ?」マリーのド正論。


「もともとなにか偏った思想のひとが原因なんじゃないか? 例えばそういうデマが流れると得する人がいるとか。得するから偏った思想に突っこんでいく、みたいな」と、ハチの推理。


 四人で街を歩きながら議論していると、役場の前にデモ隊が陣取っているのが目に入った。「融和政策反対」「どうぶつ文明の独立」などと書かれたプラカードをかかげている。


「――確かに、フロウリィトのことやエターナリアンの正体を知らなかったら、融和政策は怖いのかもしれないな」俺がぼそりと呟くと、一同顔を見合わせて、

「レイジ、お前いつからデマに踊らされるようになった」とハチにツッコまれた。


「いやデマを信じてるわけじゃない。あの人たちにも情状酌量の余地はある、って話だ」


「うーん……デマに踊らされて怖がらなくていいことを怖がってる可哀想なひと、ってこと?」


 マリーに訊ねられて、俺はそうだと答えた。マリーはキラキラの目でデモ隊を眺めて、

「本当に可哀想。デマなんか信じて」と呟いた。


 四人で、どこかでコーヒーでも飲むか、ということになった。


 ナッツのお気に入りの喫茶店「それいゆ」に入ったが、その店のなかはナッツの知っているものではなくなっていたようだった。いたるところに融和政策反対のポスターや、他の文明圏を野蛮と決めつけるポスターが貼られている。ナッツは悲しい顔をして、

「ついこの間まではこんなんじゃなかった」と弁解した。


 かわいいウェイトレスさん――おそらくナッツがここに通う理由――が注文をとりにきた。コーヒーを発注する。よく見るとウェイトレスさんの手にはやけどのような跡があって、ナッツが、

「マリスちゃん、その傷どうした」と鋭く訊ねた。


 マリス、と呼ばれたウェイトレスさんは、一瞬表情を曇らせたが、すぐに営業スマイルで、

「なんでもないです。ちょっとアツアツのヤカンにぶつけただけです」と答えた。


「ヤカンにぶつけただけでそんな深くまでえぐれたやけどはできない。どうしたんだ?」


 ナッツはすごく真面目な口調でそう訊ねた。ウェイトレスさんは困った顔。


 あらためてやけどを見る。確かに、ヤカンにぶつけたとかその程度でできる傷ではなかった。黒ずんで、皮膚がボロボロと剥がれ落ちた跡がある。爪までその傷は侵蝕しており、かわいいマニキュアでごまかしているが、爪も根本から黒くなってヒビが入っていた。


「これ、ちゃんとお医者様に行ったほうがいいわよ」マリーがおせっかいの口調で言う。


「あはは……大丈夫、ですから。ブレンドコーヒー四つですね。お会計は別で」ウェイトレスさんは逃げていった。一同、難しい顔をして、また話し合う。


「やっぱりなにか病気じゃないか?」と、ハチ。


「あんなひどいやけど、ヤカンにぶつけたくらいじゃならない。というか、やけどであそこまで侵蝕したら、痛くてたまらないはずだ。なんだか嫌な感じがする」ナッツがそう言う。


「はーいお待たせ」マスターがコーヒーを運んできた。


「マスター、マリスちゃんのやけど、どしたのあれ」と、常連のナッツが訊ねると、

「クラテス先生ってお医者様が治療してくださってるから大丈夫」

 と、マスターは答えて、カウンターに戻っていった。


 あらためて貼られているポスターを見ると、隅っこに「クラテス医院」の文字がある。どういうやぶ医者なんだろうか。嫌な予感がする。


 コーヒーを飲み終えて、喫茶店の裏に回ると、ウェイトレスのマリスさんがしくしく泣いていた。軟膏をチューブから絞り出して傷口にすり込んでいて、塗るたびに「ぃぃッ」と小さく悲鳴を上げている。


「マリスちゃん、その傷ちょっと見せて。薬も」


「……ナッツさん。大丈夫ですから」


「泣くぐらいしみるんだ、なにか悪い薬かもしれない」


 ナッツが軟膏のチューブをとりあげる。チューブを見ただけでは、俺やハチやマリーにはなんの薬か分からないが、しかし知識のあるナッツの目に、怒りが浮かんだ。


「これ、ふつうのやけどや皮膚病につける薬じゃない。肉が生きたまま腐るような、ものすごい難病の治療に、副作用覚悟の諸刃の剣として使う薬だ。これは誰に処方されたんだい?」


「クラテス先生に、です」マリスさんは傷口を反対の手で押さえている。空気に触れると痛むらしい。


「クラテス先生……やぶ医者って印象はないんだが。そういや店の中に貼ってたポスターにも、クラテス医院、って書いてあったな……」ナッツが首をかしげた。


「殴り込みをかけるしかないわね」マリーが言う。こういうとき意外とマリーがいちばん武闘派だったりする。そういうわけで、みんなでクラテス医院に向かった。


 看板には白衣を着たカバが描かれ、壁にはべたべたと融和政策反対のポスターが貼られている。なにやらのぼり旗も立っていて、そこには「ヴァルハリアンの猛毒に対抗する薬があります」というようなことが書かれていた。

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