第三話 欠けた月を見上げて(下)

「俺の娘は、――なんの因果か、手足がないんだよ」

 と、ザドはそう答えた。ハチはすんすんと鼻を鳴らすと、

「――おそらく。一連の出来事の原因は、その赤ん坊だ」

 と、鋭く言った。


「どういうことだ?」と、俺が訊ねると、ハチはちょっと難しい顔をして、

「匂いで感じただけだが、その赤ん坊の中には、普通じゃないどうぶつの力がある」

 と、そう答えた。いぬいぬ拳法の嗅覚は精確だ。でも普通じゃないどうぶつの力ってなんだ。そこを訊ねると、ハチは唸るように、

「なにか、よくない力が巣食っている」と答えた。


「わるいどうぶつの力、ってことね」と、マリー。


 ……わるいどうぶつの力。そんなもの、あるんだろうか。


人類はどうぶつの力でウイルスの蔓延する世界で生きのびた。だからどうぶつの力は、基本的に「善」であるはずだ。


 よく分からないのでしばしの沈黙。


「――その赤ん坊、なんて名前ですか」と、ナッツが訊ねて間をつないだ。ザドは、

「カナだ。生まれる前から名前を決めていた」と答えた。


「ちょっと、リクさんの時みたいに潜ってみよう。みんな俺につかまれ」

 全員でハチの手を握る。ハチは鋭く鼻をすんすんと鳴らした。


その直後、ぐにゃりと風景は溶けて暗転し、そこは無限の暗闇になった。


「――リクさんのときと、ずいぶん違うな」と、ハチはつぶやく。


「赤ん坊だからまだ自我がはっきりしてないんじゃないか。それに風景を覚えられるほどの知恵もまだついてないだろ」俺がそう答えたとき、暗闇の奥のほうから何かが這いずってくるのが見えた。


「あしが……ほしい。うでが……ほしい」

子供の声ですらない、邪悪な声が響いた。這いずってきたのは、赤ん坊の内的世界にいるにしてはあまりに不釣り合いに大きな、うねうねした生き物だった。人間ですらない。それはもしかしたら、赤ん坊のカナのすべてを乗っ取れるかと思えるほどの大きさで、そんなものが内的世界にいたら、そりゃあ――呪いを生み出してもおかしくなかろう。


「おい」師匠がその生き物に声をかけた。


「お前か? 街中の人たちから、手足や目玉を奪っているのは」


「あしが……ほしい。うでが……ほしい。もっと、……めだまが、ほしい。もっと、みみがほしい」


 返事はそれだけだった。そう思ったとき、ぐるんと世界が逆転した。


 そこには、ちぎれた手足や、もげた目や耳が、たくさん散らばっていた。


 その、壊れた人形でいっぱいのおもちゃ箱みたいな世界に、その生き物は座っていて、その姿がようやくはっきりとわかった。グネグネした生き物は、どう表現したらいいのか――とにかく不愉快な姿をしていて、存在しない腕を伸ばして空中を掴んだり、存在しない足をばたばたしたりしている。


「うでが、ほしい」


 するすると蔓のようなものが伸びてきて、師匠の腕をとらえた。腕がもがれる。師匠もそう思ったようで、蔓を引きちぎると、グネグネした生き物は「うでがほしい」とまた言って、今度はマリーに蔓を伸ばした。マリーはそれをかわすと、ねこねこ拳法の王道、前脚で抑え込んで後ろ足で蹴り飛ばすケリグルミ・ラッシュを放った。


「あしが、ほしい」ケリグルミ・ラッシュで勢いをそがれたグネグネは、少し小さくなったようだった。


「こいつ、技が通じる!」マリーが叫ぶ。各々技を展開し、その「わるいどうぶつの力」に、攻撃を始めた。


 ハチのテリブルマッドドッグが炸裂する。ハチはそのグネグネから肉をへじりとると、ぺっと吐き出して、そこに新技・アナホリホネカクスを浴びせた。グネグネはハチを追撃しようとするも、ハチは軽くジャンプしてそれをかわし、受け身をとって着地した。


 ナッツのローリング・エクスプレスからのマエバ・ホッチキスがグネグネを弾き飛ばす。無数の腕や足の中に飛び込んだグネグネは、ぞわぞわぞわぞわと影をつくり、その影が俺たちを絡めとろうとする。


 それをステップで回避する。これはナマケモノ拳法みたいな、受け潰す戦い方ではうまく戦えない相手かもしれない。しかしそれでも爪を繰り出し、デスクローからのクライミングツリーを放つ!


「ぼおおおおおおおお」


 わるいどうぶつの力は、体を真っ二つにちぎって、上半身だけで逃げだそうとした。切り落とされた下半身は次第に透明になって消えていく。


「逃がすかアァッ! サイレント・ウィング!」

 師匠が大きく腕を広げ、地面を軽く蹴った。師匠はふわりと浮かび上がり、空中から鋭い蹴りを放った。グネグネの頭部が割られて、グネグネは動かなくなった。


「――仕留めたか?」

 師匠がそうつぶやくと、グネグネの頭部からものすごい勢いで黒い光が放たれた。自爆する気だ。みなで伏せる。


 グネグネは、甲高い金属音を立てて、破裂した。


 体中にグネグネの汁を浴びて、俺たちは立ち上がった。とりあえず全員無事だ。グネグネの汁は、さぞかし嫌な臭いがするだろうと思ったら、赤ん坊特有の、あの甘いミルクの匂いがした。


 世界はまた、ぐるりと暗転した。


 ――モビールが見える。いろいろなどうぶつをかたどったパーツが、ぶらさげられてぐるぐる回っている。微かに、子守唄のようなメロディも聞こえる。


 ――そうか、赤ん坊でまだ自我がないから、その世界に入ろうとするとこういう風景と同化してしまうのか。


「たすけてくれてありがとう」

 という言葉が聞こえた。見上げると、さっきのグネグネと同じくらい巨大な赤ん坊が、まだ笑うなんて感情も知らないだろうに、にっこりと微笑んでいた。


「――あのグネグネは、お前のなんだ?」


 師匠がそう訊ねる。赤ん坊――カナ――は、

「わたしのなかにあった、わるいどうぶつのちから」と答えた。


「わるいどうぶつの力は、どこから来たんだ?」俺がそう訊ねると、

「わからない。でもわたしがうまれたとき、まわりのおとなはてあしがないってかなしんだ。それでわたしはてあしがほしくなった。それがふくらんで、あれになったんだとおもう」

 赤ん坊にしてはとても明瞭に、カナはそう説明した。


「――どうぶつのちからのうちがわでは、てあしをもてるのに」


 力の内側。予想外の言葉だった。力に内側と外側があるなんて、考えもしなかったことだ。


「うちがわは、あのわるいどうぶつのちからにのっとられていた。なにかをほしがることは、いけないこと。てにいれようのないものをほしがるのは、いけないこと」


「カナちゃん、それは違うわ。なにを欲しいと思うのも自由よ。自分の身の丈に合わないものだって欲しがっていいのよ。でもそれを羨んじゃだめなの」


 マリーがそう言い出した。なにを言いだすんだ、と思ったら、カナは興味深そうな顔で、マリーの話を聞いている。


「人が持ってるこれが欲しい。ここまではいいの。でも、その人がずるいって思っちゃだめなの。欲しい、っていうのは、人間ならだれでも持つ気持ちだから許される。でもそれを持っている人をずるいって思うのは、いけないことなの」


「じゃあ、わたしもてあし、ほしいっておもっていいの?」


「サイバネティック義肢を付けてもらうとか、あるいは手足がなくても動けるように鍛えるとか、方法はいっぱいある。あなたは可哀想な子なんかじゃない。あなたは、立派な一人の人間」


 カナは、にこりと、赤ん坊らしいやさしい笑顔で微笑んだ。

「わかった。ありがとう」カナがそう答えたところで、シンクロが切れて俺たちは現実に引き戻された。


「――どうした? なにがあったんだ?」ザドとその妻が、心配そうに俺らを見ていた。


「悪いものはやっつけた。すまんな、お前を疑ったりして」

 師匠はザドにそう答えた。その直後、ハチが驚きの声を上げる。


「指、元に戻ってる!」

 ハチの欠けていた指が、元通りに治っていた。


 ◇◇◇◇


 イツキシティに広がった、爪や指、手足や目、耳のもげる奇病はいつのまにか終息し、もげた体の部品はなぜか元通りに治った。治らなかった人はいなかった。


 師匠はこの話を秘密にしておこう、と言った。それでいいと俺らは納得した。このどうぶつ文明圏で、「わるいどうぶつの力」が存在すると分かったときのパニックを想像すると、黙っていたほうが賢明だと思ったからだ。


 稽古終わりにハイギョの骨せんべいをぽりぽりしていると、道場のドアがばんと開いた。


「たのもーう!」

 現れたのはザドだった。カナをおんぶ紐で背負っている。


「おー? 来たかザド。他流試合だっけ? 賞金稼ぎやってんじゃなかったのか?」

 師匠がニコニコしてそう答える。ザドは鼻を鳴らして、

「賞金稼ぎはやめることにした。師範に道場を継ぎたいっていったら近隣の道場をかたっぱしから約束したうえでやっつけてからにしろって言われてな。お前の道場が最後だ」とうれしそうに答えた。


「俺たちぜんぜん聞いてなかったんですけど」とナッツが師匠にツッコミをいれて殴られている。


 師匠はナッツを殴った上に質問に答えなかった。扱いが雑だ。

「よおし。相手してやるよ。あんときゃビビったがあたしもババアになったからな、腕がちぎれてまた生えてくるくらいじゃビビらんぞ」


「いや。いきなりお前に挑むんじゃなくて、門下生を全員倒してからにする」


「分かった。まずはレイジ、お前が相手しろ」


「え、お、俺ですか?!」俺は思わずびっくり声を上げた。師匠は、

「うちの門下生でいちばん成長がのろいのがお前だからな。負けんなよ」と、そう言ってキシシと笑った。


 悲しいが事実である。俺はナマケモノ拳法の構えをとった。

「カナちゃんは降ろさなくて大丈夫です?」と、マリーが心配した。ザドはハハハと笑うと、

「ずっと背負ってるって決めたんだ。カッコイイ父さんをいっぱい見せてやりたくてな」

 と、笑顔である。しかし師匠が、

「つまりそれで弱点の背後を防御したということか。相変わらず姑息だな」

 と、辛辣なセリフを発する。ザドは慌てて、

「そ、そんなつもりはない! 背中に逃げ傷を負わないための自分への戒めだ!」

 と答えた。しかしそれ、マリーが言う通り、単純に背中を防御したということじゃなかろうか。


「あうー」カナがそう声を発した。手足があればばたばたさせたりするんだろう。声を発したと思ったら、カナは大声で泣き始めた。慌ててザドが世話を始めた。


「そんなんじゃ試合すらできないなー」と、師匠が笑う。


 しかしそのあと俺はめっためたにやっつけられた。というか、師匠も含めて全員負けた。

 でももしかしたら師匠は負けてやったのかもしれない。ザドは道場を開けると喜んで帰っていった。

 その日の月も、――わずかに欠けていた。

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