プロローグ 目覚める力と師匠の影(下)

「師匠が出るまでもない! ハムハム拳法奥義、ローリング・エクスプレス!」


 ナッツが全速力で回転。それはあたかも真夜中のハムスターが、回し車を全速力で回すがごとき勢いである。一瞬ホンゴーが弾き飛ばされるが、ホンゴーは体をひるがえして、


「イーッ(イナゴ拳法奥義、ヒーローキック)!」と叫んでナッツを蹴り飛ばした。ナッツはあっさりと吹っ飛び、壁にぶち当たって気絶した。


 ――こいつら、やばいぞ。俺はその直感に震えた。しかしハチやマリーは、ぜんぜん恐怖と思っていないらしい。なるほど、それが目覚めたものの精神力。そのときはそう思った。


「さて、俺の相手はどいつだ?」と、ツボが手をバキバキと……でなくグネグネと動かす。ハチがギラリと犬歯を光らせて、

「いぬいぬ拳法二技、テリブルマッドドッグ!」

 と、ツボに飛びかかった。ツボはぬるりとそれをかわして、

「タコ拳法奥義、オクタキャノン!」と叫んだ。空気を切り裂いて一条の、墨のような「黒い光」が、ハチに殺到する。ハチは苦悶の表情を浮かべ、がっくりと膝をついた。


「わたしに任せて! ねこねこ拳法三技、ミートボールパンチ!」

 ピンク色の輝きと共に繰り出されるマリーのパンチは、アケチに確かに命中した。しかし、アケチはそれをダメージと感じていない。そしてその首を大きく振りかぶると、

「キリン拳法奥義、ヘッドハンマーホンノージ!」

 と、マリーに思いきり頭突きを喰らわせた。マリーは倒れた。


「お前ら……バカか! お前らでどうにかなる相手じゃないぞ!」


 師匠は必死に三人を守ろうとトバを睨んでいる。師匠は両腕を広げて、

「――ハシビロ拳法初技・ビッグビルウイング」と、初歩の形ともいえる基本技を繰り出した。びりり――と空気にしびれが走る。ツボとホンゴーとアケチは、それを受け身技で防御したが、しかしトバにはノーダメージで、へらへらと刺青だらけの顔で笑う。


「どうしたぁシズカちゃん。帰ってお風呂に入りたいかあ?」


「それは別のシズカちゃんだ。あたしじゃない。何が目的だ」


「そりゃあシズカ、お前に決まってる。俺はお前を傷めつけたい、お前を蹴り飛ばしたい、お前を屈伏させて好き放題したい」


 怖気の走る言葉だった。


 これはもう姉弟子を好きになるという範疇を超えている。もっと悪いものだ。人を暴力で支配し、思うがままにしたいというおぞましい考え方。


「下がってな、レイジ。こいつはあたしの業だ。こいつをぶちのめさないと、あたしは救われない」


「で、でも師匠……!」


「あたしがいなくなっても、きっちり鍛錬を積め、そして誰よりも大きい力に目覚めろ。ハシビロ拳法奥義、不動如山!」


 だだんっ。


 師匠はぴたりと静止した。呼吸すら停まっているように見える。これがハシビロ拳法の奥義。己のエネルギー出力をすべて停止させ、極限までエネルギーを蓄積し――相手に隙ができた瞬間、それをすべて放つ技。どうぶつ拳法の「形」の中でも、最も美しいと謳われる技だ。


「いつものやつか。お前の手のうちは見えてんだよシズカ! ウォンバット拳法奥義、ブリリアントキューブ!」


 トバの周囲に、輝く正六面体が無数に出現した。ウォンバットの糞はキューブ状と聞いた記憶がある。なるほどブリリアントキューブ。


 納得している場合ではない、正六面体はすさまじい勢いで師匠に殺到する。それを、師匠はハシビロ拳法奥義、不動如山で破壊するが、正六面体はそれで破壊できる分量を超えて、圧倒的な勢いで師匠を押し返していく。


「くそっ――まさに糞だな。レイジ、逃げろ!」


 師匠は完全に手負いになり、この場に戦力はひとつだってない。


「でも――俺は師匠や、仲間を捨ててなんていけません――」


「お前はまだどうぶつの力に目覚めてすらいないんだ! 無謀以外のなんでもない! 命を捨てるな!」


「俺は!」


 叫んだ。エネルギーが満ち満ちてくる。


「誰かを守るために!」


 エネルギーは俺のてっぺんまで満ちた。


「どうぶつ拳法の道を究めると、決めたんだ!」


 ドドドドドドドドドドド!

 空気が大きく揺れた。それは風ではない、圧倒的なエネルギーの奔流だった。大地に生きるもののエネルギーを、俺は全身で受け止めた。


「ナマケモノ拳法初技、デスクロー!」


 ざんっ、と鋭い爪でホンゴーの胴体を切り裂く。ホンゴーは「イーッ」と言って倒れた。ツボの表情が変わる。


「ナマケモノ拳法二技、クライミングツリー!」


 ツボを巨大な樹木が突き上げる。ツボは吹っ飛び、気絶した。


「こ、こやつ……!」アケチが青ざめ、「キリン拳法二技! ヒナワキック!」と、鋭い蹴りを放った。俺はそれをするすると回避し、

「ナマケモノ拳法三技、ライトニングサン!」と、俺は渾身の技を放つ。


 ナマケモノは哺乳類だが変温動物で、暖かいところで暮らすのに適している。つまり、道場を始める前に存分に浴びた太陽で、俺の体にはエネルギーが充填されていたのだ。


 光線が乱れ飛んでアケチに殺到する。アケチは「ぐはあー!」と叫んで吹っ飛んだ。


「こ……こいつ、御師様のナマケモノ拳法に目覚めやがった――!」


 トバが怯えた。俺は、体に滾るエネルギーを全力で燃やし、必殺の一撃を放つ。


「ナマケモノ拳法奥義、巌となりて苔の生すまで!」


 その技は、さきほど見た師匠のハシビロ拳法奥義、不動如山に似ている。


 しかし違うのは、この技が、すべての攻撃を受け流すことだ。トバが放つブリリアントキューブを、ぬるりんぬるりんと回避していく。そう、ナマケモノは体に苔、正確には藻が生えるほど動かない。その藻で体を覆うことにより、相手の攻撃はすべてぬるりと受け流すのだ。


「ちきしょう、技が通らねえ! トンズラするぞ! おい、起きろ!」


 トバは逃げだそうとした。俺は持てる力のすべてを、巌、つまりデカい岩に込めて、目の前に解き放った。


 巨大な岩が、トバにぶつかる。トバはどんな顔をしていたか、俺は覚えていない。


 ◇◇◇◇


 道場破りたちは、すべて警察に引き渡した。この街にも道場はいくつかあるのだが、街の条例で道場破りは基本的に禁止されている。


 まあこの街のゆるい警察である、それほど厳しい扱いではなかろう。師匠や兄弟弟子たちの怪我も治り、平穏が戻ってきた。


「まさかレイジ、あんたがナマケモノ拳法を引き継ぐとはね」と、師匠。


「引き継ぐ?」よく分からないが、どうやら師匠やトバたちを育てた大師匠の極めた技というのが、ナマケモノ拳法だったらしい。


 みんなでハイギョラーメンをすすりながら、師匠は俺を褒めてくれた。俺をバカにした兄弟弟子たちは、俺の力で助かったのだ、と。


「ごめんなレイジ、あんな扱いして。でもレイジ、なんですぐ力に目覚めたって気付かなかったんだ? どうぶつの力に目覚めたら、すぐわかるものだろ?」


 と、ナッツがハイギョの骨を前歯で齧りながら言う。


「そうなのか? なんか世界が早回しになって、木の葉っぱが旨そうに見えて――それだけだったから、力に目覚めたってわかんなかったな」


「へえー。ナマケモノの力ってそんな地味な気付き方なんだ。わたしは無性に魚を盗んで走りたくなったけど」


 マリーのねこねこ拳法はなかなかにクレイジーな目覚めだったようだ。


「俺はサイレン聞いたら遠吠えしたくなったな」と、ハチ。


「まあ力の出方は人それぞれだ。なんのどうぶつの力に覚醒するかも運だしな。たまたま、レイジはすごい力に覚醒しただけだ。でももしかしたらこの力、ものすごい伸びしろがあるかもしれないな」


「伸びしろですか」俺はそう訊ね返す。


「そうだ。初日で奥義まで到達したということは、まだまだ『真なる奥義』とか、『究極なる奥義』とかがあるかもしれない。あたしの師匠は、それを匂わせていた。それを極めるまで、どうぶつ拳法を極める戦いは続くんだ。あたしもそうだ、まだまだ極めることはたくさんある」


「師匠、俺には伸びしろ、ありますかね?」と、ナッツ。


「もちろんある。まあ、レイジみたいなのは例外だし、奥義まで極めればだいたいその先はないものだが、どうぶつというものには無限の力があるからな。もしかしたら、ハムハム拳法は戦うことより誰かに愛されるほうに使ったほうがいいかもしれない。力はどう使っても自由だ」


 師匠はラーメンに替え玉を入れてもらい、ずるずるやっている。


「愛される、ちから」ナッツは真面目な顔で拳を握り固めた。


「そうだ。マリーもハチも、力を使う方向をちゃんと考えてみな。戦うのに向いてる力と、そうでない力がある。どういう力にせよ、鍛えねば無意味なのは確かだが――しかし、レイジがあれだけ強力な戦い向けの力を発揮するのは、想定外だったな」


「師匠、でも俺、悪い奴らをやっつけたいっス」とハチ。


「はははー。犬のお巡りさんだな」師匠は笑う。師匠はハイギョラーメンの汁をズズズとすすり、その脂っぽい唇をぺろりと舐めて、


「お前らみたいな弟子に恵まれて、あたしゃ幸せだよ」と明るく笑った。


「師匠、わたし、師匠の仕事を手伝いたいです。もっと強くなって、もっと師匠のために働きたい」


「おーいい覚悟だねーマリー。じゃあきょうからお店手伝う? ドレス持ってる? 古い歌うたえる?」


「いや『十斗』でホステスやりたいということじゃなくて」


 マリーの言葉に師匠はアハハハーと笑う。その笑顔は、なにか陰惨な過去があったことを感じさせない。しかし師匠は、まぎれもなく悲惨な過去を持っていると、俺は思った。そうでもなければ、あのトバの一党が襲ってくることはないと思ったのだ。


 師匠と、その師匠の間にも、なにか問題がある。俺はそこまで考えていた。トバの一党の言いぶりを思い出すと、そうとしか思えないからだ。


 俺らが知らない、師匠の秘密がある。それを暴くべきではない。少なくとも、いまは。


 この、イツキシティの平和な暮らしを、俺は守りたいと思った。たとえばトバみたいな輩から。師匠や兄弟弟子たちが笑顔でいられるように。

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