魔女とシグレ

須々木 逡雪

前幕 あの映画が胸にある

Ⅰ 腑抜け 



 幼いときに父親から「これだけは」と、ある映画を見せられた。

 黒人の奴隷の映画だった。

 テレビのなかで黒人が理由もなく虐げられては家畜とおなじように働かされていた。風邪を引いてるとか体調が優れないとか関係なく、休みの日など与えられずに生きていた。

 辛くなって現実が嫌になっても知らしめるかのように朝がきた。

 その映画を初めて見たのが、初めて風邪を引いてすぐだったからよほど心を抉られた。こんなに体が重くて食べ物も食べられなくてもしかしたら死んじゃうのかもしれないのに、なんで休ませてもらえないんだろう。

 もんもんと足りない頭で考えては、答えがいっこうに出ずに眠れなかった。


「父さん、なんで奴隷ってあんなに辛い目に会わなきゃいけないの?」


 父親に聞いてみると、いつものヘラヘラした表情は消え去って真剣な面持ちで答えた。


「時雨が大きくなったら教えてやる」


 解答を後回しにされたようで不満を抱いたのを覚えている。頬を膨らませる俺の頭をがしがしと掻き乱した。その翌日、留守番をしていると電話がかかってきた。

 父親の訃報だった。

 父さんは果たしてその答えを知っていたのだろうか。俺とおなじく知らなかったのだろうか。はたまた探し続けていたのだろうか。

 今となっては、もう分からない。

 以来、ずっとそのことに脳を費やしては頭を捻ってきた。さまざまな本を読んで見識を広めてはますます分からなくなった。

 奴隷だけではなく、人種差別や戦争に関しても同様だった。なんで同じ人間なのに差別をするのだろう、罪のない人々が戦争に巻き込まれなければならないのだろう。

 今でも答えはでていない。

 しかしそれこそが答えなのではないか、と最近では考えるようになった。たしかに自分の中で腑に落ちた。分からないはずだ。

 理由なんてないのだから。

 十七歳になった俺なら、これに当てはまる名前を容易に見つけることが出来た。漢字といいこの熟語を名付けた人は天才だと思う。

 そして俺はなによりもこれが嫌いだ。


 理不尽が、嫌いだ。













 身体が重い。あたまが熱い。

 ああ、俺は寝ていたんだなと意識が覚醒していく。まぶたを開き顔をあげると、縮れた糸にも似た埃の奥に色とりどりの背表紙が本棚にしきつめられていた。

 図書室だ。

 課題をやってたんだっけ。目線を落とすとノートが開いたままだった。


『奴隷の起源

 ・古代ギリシアで戦争捕虜として奴隷を貿易に介入させたのが始まり。

 ・史上、初めての奴隷は黒人ではない。

 ・西サハラ海岸で拉致した男女をポルトガルに持っていき、奴隷として扱われるようになった。』


 こと細かく詳細が綴られたレポート用紙に目眩を起こして、額に手をあて宙を仰ぎみる。まったく、めんどうな課題だ。

 世界史の授業で奴隷について教わっていたときだ。白髪の年老いた先生が「奴隷は黒人から始まった」と言い張り、誤りを指摘したところ顔を真っ赤にして原稿用紙をわたされた。二十枚近いだろうか、反省の意もこめて提出しろと怒鳴られた。

 調べれば調べるほど、俺が合っていたという現実だけが記されていたが。

 そもそも俺が奴隷に関して間違えるはずもない。理不尽という答えを導くためによくよく調べたのだから。人種差別や戦争の歴史もひととおり目を通している。

 理不尽が嫌いだ。

 そう自覚してから、この世の理不尽を無くしたいと考えるようになった。職業として取り組められたら最高だ。だから今のうちにと勉学には必死に励んでいる。

 いつか将来、大きくなった俺がひとつでも多くの理不尽を無くすために。

 ただ、たち尽くさないために。


「あーきっつ」


 それにしても終わる気がしない。なんだ原稿用紙二十枚って、八千字埋めろってことかよ。加えて明日が期限とはふざけてる。

 これも一種の理不尽かもしれない。

 いっそ今現在で真実とされている奴隷の起源について綴って、抗議の意をありったけこめた文章を叩きつけてやろうか。ますます状況が悪化しそうな案を思いつくが、実行して単位が危うくなるのもよくはない。

 悶々と頭をひねっているところに、後ろから声をかけられた。


「時雨」


 椅子の背もたれに腕をかけて背後に視線をやる。茶がかった髪を垂らして、潰れた鼻をつけた青年が微笑みかけていた。


「なんだ草鍋、勉強中なんだが」

「まあまあ、これでも飲みな」


 草鍋は間の抜けた声を鳴らしながら、持っていたふたつの缶のうち一つを机のうえに置く。手のひらで缶コーヒーを握ってみると、ほどよい熱が押し寄せてきた。

 かるく振ってから封を開けると、軽快な音が図書室にひびく。


「ありがとう。金は払わないけど」

「払わなくていいわ」


 にこにこしながら自分の分の缶に口をつけてから、俺のとなりに腰かける。天を仰いでは一気にあおるようにして飲み干した。

 シャープペンシルをとりふたたび課題とにらめっこをする。憂鬱になりつつもたまにコーヒーで渇きを潤してペンを走らせる。

 ちょうど缶コーヒーを飲み終えてあたりを見回したら、横から草鍋がのぞきこんいるのに気づいた。


「それ世界史の先生に出された個別課題?」

「そうだよ」


 彼は呆れて方を落とした。


「まったくおまえは不器用だよな。はっきり“間違ってます”とかクラスのまえで言わなけりゃ課題なんてやらずに済んだのに」

「そういうのほっといたまま授業受けたくないんだよ」


 ああやだやだ、なんて融通が利かないやつなんだ。悪態をつく草鍋のわきばらに肘をおもいっきり突き刺す。

 うげえ、と悲鳴があがった。

 突かれたところに手をあて苦悶の表情をしていたが、彼はやれやれと首を振った。


「将来、気の合わない上司に歯向かってクビにされそうだな」

「それは草鍋の話か?」

「おまえのこと言ってんだよ」

「就職先の雰囲気とかはしっかり調べるから心配ないし、まださきのことだ」

「いやそういうこと言ってんじゃねーよ。言葉をそのまま鵜呑みにすんな」

「鵜呑みにする気がないから話を逸らしてんだよ」


 いつもこうして、こいつは俺にちょっかいをかけてくる。缶コーヒーをおごってくれたと思えば目の前で悪口を言ってくる、よく分からないやつだ。

 以前になにがしたいんだよと問うてみたところ暇つぶしと答えていた。

 俺を暇つぶしの相手に使うのはまあまあ腹立つが。この暇人が。


「そういうおまえは器用なのか?」聞いてみると草鍋は嘲笑する。

「おまえよりは百倍……いや正直、二倍くらいはうまく世渡りができる自信がるわ。内申点だってオール“5”のパーフェクト」

「頭悪いのによくそんなことできるよな。まさか脅しとかしてんの?」

「してるわけねーだろ。馬鹿にしてんのか」

「事実だろうが。すぐに怒んな」

「怒ってねーよ」


 口喧嘩にまで発展しそうな口論だがこれでも言い争いになったことは一度もない。彼が引き際を分かっているからだ。

 こういうところが世渡りのうまさだとか器用さだとか指摘されたら、なるほどそうなのだろう。俺にはできそうもない。


「しっかし、おまえが目的を失ったらどうなるんたろうな」


 なんのこともないように述べられたその言葉は、いままでで最も胸のうちを刺してくるものだった。

 考えたこともなかった。

 目的を失ったら? それは理不尽を無くすという目標に挫折するということだろうか。

 奴隷に対する答えを探し、目標を見つけ叶えるために俺は今日まで生きてきた。それが挫折してしまったらどうだ。俺の人生そのものが否定されたら、俺はどうなる?

 答えあぐねていると、ひとつの憶測が放られてきた。


「腑抜けになるんじゃねーの?」


 言うだけ言って缶コーヒーを飲み干してから彼は席を立った。

 空になった缶は机の上に置いたままだ。

 こちらを一瞥しては「缶ぐらいは捨てろよ、おごったんだから」と残して手をひらひらと振った。


「せいぜい腑抜けにはなるなよ。暇つぶしの相手が一人減る」


 自分勝手な奴だ。そう溢しつつ課題に目を戻した。



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