ⅩⅡ それぞれの叫び①
一年ほど経った。
図書館にある本も三分の一が読み終わった。残りはまったく知らない異世界の言語で書かれたりするものもあって、さすがに読むのは断念した。
カンダチの本はまだ読んでない。お楽しみとしてトウカと一緒に読みたいからだ。
この一年で特筆すべきことと言えば……そうそう、妹が産まれた。かわいらしい妹でメアと名付けられた。全体的にハーブ似で、というかクヤマから何を受け継いだか疑問だった。不倫疑惑も浮上したが、メアの笑い方で払拭された。クヤマと瓜二つだった。
「ほらメア、お兄ちゃんだよ」
ぷにぷにの白い肌と水色の瞳がそれはそれは愛らしく、こうして必死にポイントを稼いでいる。メアはキャッキャ笑いながら両手を伸ばしておれの指を握ろうとした。
これはトウカ超えるんじゃないか?
自分も兄バカでハーブとクヤマのこと言えないなぁと実感するのだった。
それ以外に変わりはない。礼拝であの礼装の男カラツユとは顔を合わせるが、会話を交わすこともない。不気味な感じはするが無視だ、奴隷と関わるならあいつより大男のメジアの方がよっぽど良さそうだ。
あ、もうひとつだけ。
教師を始めた。休日に毎回教会のちかくで子供たちに学問を教えている。算術から地理学までさまざまだ。評判はかなりよく授業の準備をするのは大変だが楽しい。
毎日やりたいとは決して思わないが。
ひとり気になる子がいた。奴隷の首輪を首にして遠巻きにこちらを覗く、耳が中途半端に長い女の子。一度、手招きしてみたが断られた。遠くから見てるだけでいいと。
代わりに口頭でいくつか言葉を教えてあげると、レインは嬉しそうに微笑んだ。
彼女も奴隷には代わりないし、おれは本当の意味で彼女を助けたわけではない。まだまだやることは山積みで、変わらない。
「シグレ、ここおねがい」
メモ紙ていどの藁半紙とにらめっこしていたハーブの元へ寄る。羽根ペンで式が記されているが『=』にあたる記号の先が空白だ。計算して欲しい、ということだ。
二桁どうしの掛け算。なんてことは無くスラスラと答えを綴っていく。ハーブは筆算ができないため少し複雑な計算はおれが代わって担当している。師弟関係はすでにひっくり返っていた。
「はい、できたよ」
「たのむよ。間違ってたら困るんだから」
「人に任せといてよく言うよ」
「たしかにそうね。助かってる」
鼻歌を奏でながら紙を四つ折りにする。ハーブが歌っているのは民謡で『遥かな大地』というものだ。大地を創造した魔女ナジリを讃えて作られている。
天地を劃かちっ、遥かな大地をきぃずぅくと壮大なサビを演じながら紙を小包に入れ『請求書の計算ここに』と書いた。
息子を計算機代わりに使うな。
「筆算でも算盤でも覚えればいいのに」
「まえまでは計算のために業者にお金を払ってたけど、シグレがやってくれるからいいかなって思っちゃってね」
「ぼくがいなくなったらどうするの」
「いなくなるの? だめだよ」
彼女はこうなるとダメだ。子離れができていないために必死に行かないでと止めようとする。まだ五歳、どこに行く予定もない。
「行かないから安心して」
「どっか行ったら地の果てまで追うから」
うわぁ、冗談に全く聞こえない。こちらへ掛けてくる圧力が本気のそれだ。めんどくさい、とりあえず話を変えよう。
「そういや、最近よく仕事で家を空けることあるけど忙しいの?」
「うん、ちょっとね」
ハーブは表情を曇らせる。前まで二人揃って外出することはそうそうなかった。今は彼女が家にいるものの、昨晩からクヤマは帰ってきていない。さすがに心配になってくる。
商売が繁盛するのはありがたいが、メアの大事な時期に親がいないのは困り事だ。
「無理しないようにね」
彼女はおれの言葉に目を丸くすると「まぁたそういうこと言っちゃって」とからかってきた。大人ぶりたいお年頃と思われているらしい。そんな時期はとっくに過ぎた。
「シグレは立派に育ったねぇ」
「ぼくは元から立派だったよ」
あはは、と笑うハーブ。
「メアもお兄ちゃんみたいに育つんだよ」
綿の詰められた木の籠をのぞく彼女。ハーブとメアが親子しているところは非常に絵になる。カメラがないのが悔やまれる。
「メアはメアらしく育つべきだよ」
「それもそうね」
クスクスと口元に手をあてる。メアを産んでから誰の目からも分かるほど彼女の顔は輝いていた。元から輝いていたが、例えるなら間接照明の暖かい光から太陽のようにたまに熱いほどの日差しになった。
裏腹にクヤマはよく酒を飲むようになった。家業の時間も増えたが、幸せそうなのは変わらなかった。
もうすぐで六歳になるが、誕生日を迎えたら家業の手伝いを始めてもいいと言われている。やっとこのときが来たかとワクワクしている。教師の仕事は半分慈善活動みたいなもので稼ぎもクソもなかったからだ。
たまに頭に過ぎる。
ずっとこのまま幸せに過ごせばいいのではないかと。手の届く範囲の幸せで満足してもいいのではないかと。
そのたびにスラム街に立ち寄ることにしている。立ち寄るといっても遠目から見ているだけだが、陽の当たる街道と異なりひどい有様が広がっていた。
遠くから見てこれだ、実際に入っていけば何が待っているのか分からない。おかげでなんとか目的は見失わずに済んでいるが、それだけ今の生活が充実していた。
「母さん」
声をかける。ハーブは首をかしげた。
「なに? お腹空いた? いまからなにか作るけど、なに食べたい?」
「ありがとう」
「え、いきなりなによ」
彼女はわけが分からないという顔をしている。意に介さず繰り返した。
「メアを産んでくれて」
初めての妹だ。それもとてつもなく可愛らしい天使。泣けば家中が大変だと大騒ぎし、笑えば心が癒される。育ったら憎たらしくなってしまうのかもしれないが、クヤマとハーブの子だ、きっと仲良くやっていける。
聞かれたとはいえ、妹が欲しいと言ったのは他でもないおれなんだ。
「なによなによ」
「メアこんなに可愛いし。なーメア」
メアの頭をゆっくりと撫でる。目が眩んでしまいそうなほどの笑顔を浮かべている。目に入れてもきっと痛くない。
メアをかわいがっていると、震えた声が鳴った。
「……なによ」
ハーブを見る。彼女はポロポロと泣いていた。涙を隠そうともせず、呆然と立ち尽くして滴が床に落ちては溶けていく。
ぎょっとした。いきなりのことで慌てふためきながら、理由を尋ねてみる。
「どうしたの」
聞いてもハーブは答えない。仕方ないので泣き止むように彼女の頭も撫でてやる。もうつま先立ちをすれば届くようになった。おれも大きくなったものだ。
「……なんなのよぉ」
ハーブは崩れ落ちた。赤子が泣くように人目も気にせず、ありったけ泣き叫んでいる。つられてメアも泣き出す。突如として場がおかしなことになった。
戸惑いわたわたしていると、ハーブがおれの肩を掴んできた。痛い痛い。
「ごめんね」
何度も何度もハーブはその言葉を繰り返した。十回を超えても飽き足らず、塗り重ねるように積み重ねるように。
おれはなにも言えなかった。
「ねぇ、シグレ」
やっと謝ることをやめて、ハーブはおれを腫れた目でじっと見つめる。
「しんじて」
掠れた声を振り絞るように、なんとか紡ぎだして文字を繋ぐ。
辛うじて言葉と化した彼女の意図は、あまりにも受け入れられるものではなかった。
「わたしは、シグレを、あいしてるから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます