ⅩⅠ 二度目も聞く羽目
寝室でハーブの腕の中でうとうとしていたら急にこう訊ねられた。
「ねぇシグレ、弟か妹ってほしい?」
まさかこの質問を人生において二度も聞く羽目になるとは思わなかった。
日本では再婚するか迷っていた父さんがおれにそう尋ねてきたっけ。
最近、どうやら家業の方の調子がいいようで二人目を作るかどうか悩んでいたのだろう。まぁ答えは決まっている。
「うん、欲しいっ!」
「そう。そうね、分かったわ」
日本では一人っ子だった。なんど家で寂しい思いをしたか数え切れない。
返答をきいてハーブは何度もうなずくと、やがて決心したようにベッドから抜け出した。
「ごめんね、ちょっと用ができた。戻ってくるまでに寝ててもいいからね」
おいおいおい。今からですか、即決すぎではありませんか? ハーブはそのまま扉を開けて階段を降りていった。たしかこの時間はリビングでクヤマが一杯やっているはずだ。
時間を空けて音を立てないようにゆっくり扉を開け、階段を降りていく。
聞こえてきた。なにが、とは言わない。どこの家庭にもあるプライバシーだ。ただ子供に聞いて即刻おっぱじめるのはやめて欲しいところだ。いたたまれない。
気づかれないように部屋へ戻って行った。
しかしそのまま眠れるはずもなく、羊を四桁まで数えていたところに息絶え絶えのハーブが戻ってきた。シャワーは浴びてきたらしくとても色っぽい。欲情はしないが。
「おかえりなさい、母さん」
「あら。まだ起きてたの、シグレ」
「なんだか眠れなくて」
あなたたちが原因なんですけどね。
「それは困ったわね。本でも読む?」
「聞かせて欲しいけど、家にある本はほとんど読み終わっちゃって」
「たしかにそうね」
小説はまだ早いし……と呟くハーブだったが、小説もすべて読み終わっている。なんなら退屈で三周したから内容もほとんど頭に入っている。図書館通いも合わさって、すでに読み書きはマスターしたと言ってもいい。
少なくともこれから先、困ることは無い。
「代わりに、馴れ初めを聞きたいな」
「馴れ初め?」
「母さんと父さんの」
四歳が使うような言葉ではないが、天才という括りででなんとかなっている。彼女は首を傾げると、考え込むように顔を伏せた。
クヤマはけっこうダメ人間だ。そこまでかっこよくもないし、失礼な話あまりクヤマとハーブが釣り合うとは思えない。どうやってクヤマが彼女を落としたのか気になった。
「いいけど、おもしろくもないよ?」
「ぼくが聞きたいだけだから」
分かったわ、とハーブは口を開いた。
よしよし。いつだって恋バナは楽しいものだ、彼女もどこか嬉しそうに声を弾ませている。ハーブの胸に背中を預けた。
「私はね、貧しい子供だったの」
暗い口調で語りはじめた彼女の目は、遠い過去を見つめていた。
貧しい子供。アフリカの難民や飢餓に苦しむ子供たちを思い出す。この世界にも貧民は当たり前のように存在するのだろう。
「貧しいって、どんな暮らしをしてたの?」
問うとハーブはごまかすようにおれの頭を撫でてきた。大人しく身を任せながら彼女の言葉に耳を傾ける。
「どんな風だろうねぇ」
「おしえて、母さん」
見上げながら懇願してみるが、願いごとは大抵どうにかしてくれたハーブにしては珍しく渋っていた。おれは両手を伸ばして彼女のほほを掴むと、ぐいーっと左右に伸ばした。
辛い話を子供にしたくないのだろうか。構わないから聞かせて欲しい、そんな思いをこめて頬をいじるとハーブは息をついた。
「裸足で街を走り回って商品を盗んでた。食べものがなくて、痩せ細った脚で追ってくる大人たちから必死に逃げてた」
窃盗か。
なるほど、だから聞かせたくなかったのか。当然のことだがストラスキュールにおいて窃盗は犯罪行為であり、刑罰はむしろ現代より重く奴隷に落とされるそうだ。
「奴隷にだけはなりたくなくて、でも体力の限界も迫ってて。そんなときに商人の父さんに会って助けてもらったの」
クヤマのやっていることも、犯罪者を匿っていることと違いない。結局のところふたりは悪行をしているだけだ。
けれども責める気にはなれない。貧乏で本当に困っていたときに物を盗むことでしか生き長らえることができないのなら、おれだって盗みはするだろう。
こんな考え方になったのは異世界の影響なのだろうか。
「いっしょに暮らしているうちにお互いが意識しあってね。気づいたら子供ができてて、じゃあ結婚しようってなって私が今まで盗んできたものの賠償をすべてしてくれたの」
男前じゃないかクヤマ。ハーブは身体を揺らしながら続けた。
「私がシグレを学び舎に行かせなくないのも未だにお金を持ってる人を妬んでいるからなの。ずるいじゃない、限られた人だけが教育を受けられる世の中なんて」
そのずるいを言い換えると“理不尽”になるのだろう。おれと同じく、彼女は理不尽が嫌いなんだ。そして自分を理不尽から救ってくれたクヤマが大切なのだろう。
仲間意識に似たなにかを抱いていると、頭上でハーブがおれを見下ろしていた。心配そうな表情をしている。
「幻滅した? 私のこと」
「うん、がっかりした」
ハーブの腕に覆われながら、まぶたを閉じてそっと笑みを浮かべる。
「おもしろくないなんて嘘だったじゃん。素敵な人だったんだね、父さんは」
彼女はぷるぷる震えた。それからおれの頬をつまんでは伸ばす。強ばっていて痛かったが、何も言わずにされるがままにしていた。
犯罪を犯す人は間違いなく悪い。しかしその状況を作った人間もそれ以上に悪い。
日本も異世界も関係ない。
理不尽のない世界を。そのための一歩としての、足がかりとしての奴隷解放だ。
自分の茶色の手を見る。ランプに当てられて掛け布団に浮かんだ影を消すように、ふっと息をふきかけた。
数ヶ月後の朝。ハーブは家業ということで外出しているため、クヤマと共に朝食を取っているときに彼が不躾に聞いてきた。
「シグレ、弟か妹が欲しいらしいな」
白パンを吹き出さなかったおれを褒めて欲しい。食事中にそういう話をされると味がよくわからなくなる。言葉の裏を読めるというのも考えものだ、気づかなくていいことに気づいてしまう。
ともかく、あざとい笑みを浮かべる。
「うん。できれば妹がいいな」
「どうしてだ?」
「母さんも男のぼくだけじゃなくて、女の子の子供がいたら嬉しいと思う」
「たしかにそうだな」
彼は言い残したきり何も言わずにハムエッグに似た食べ物を口に入れた。なにか変なことを言っただろうか。反芻してみるが見当たらない。クヤマは男が欲しいのか?
顔色を伺ってみると、なにやら考えているようだった。迷っているなら待とう。水を飲みほしながらそう決めた。
「シグレ」
皿のうえに何も残らなくなって、クヤマはおれを見つめていた。真剣そのものだ。姿勢を正して短く返事をする。
「おまえを学校には行かせられない」
あくまで可能性の話だが、と加える。べつに気にしてはいないが何かあったのだろうか。不思議に思っているとクヤマは両腕を机上において、顔を伏せる。
「産まれてくる子供がおまえのように賢くなかったとき、学び舎に行かせる必要がある」
なるほど。二人分の学費が確保できる自信はどこにもないということか。
「構わないよ。どっちでも良かったし」
不安定な家業なんだな。いや、この国キュムロで安定した収入を得られる職なんて貴族くらいしかないか。管理に手間のかかるものを扱っているらしいし、それなりに高価なものなら売れ行きもぶれやすいだろう。
クヤマは首をよこに振る。
「ちがうんだ。おまえに選択肢をやれなかった。自由にしてやれないことを恥じてる」
「いいよそんな。気にしてないし」
「本当に、すまない」
彼はひたいを机に当てた。優しいながら威厳のあったクヤマが、謝罪をした。背中がむず痒くなって慌ててやめてよと声をかける。
「もしぼくが学校に行きたくなったら、家業を引き継いで自分でお金を稼ぐから」
「いや、それは俺の金ではーー」
「家業を引き継ぐ時点で、送りものは充分もらってるよ」
おれの言葉を聞いてクヤマは頭を垂れた。分かってくれたようだ。
「家業を継いでくれることは嬉しいが、簡単な仕事じゃない。望まないなら構わない。おまえなら他の仕事だってすぐ見つかる」
「でも、継いで欲しいんでしょ?」
「それは俺の気持ちだ、って話だ」
「ぼくには特にやりたい仕事もないんだよ。そしたら父さんの気持ちを優先しても選択肢を無くすことにはならないんじゃない?」
クヤマはやけにおれに選択肢を多く与えることに拘っている。
商人として味わってきた幾多の苦労をおれにも味合わせたくは無い反面、仕事は継いで欲しい複雑な心境といったところか。
おれを大事に想ってくれている。
「それにぼくは頭がいいから、もしかしたらいっぱい稼げるかもしれないし。家業が無理でも、教師でもなんでもお金は稼げるよ」
日本での十七年間の知識は脅威だ。扱っているものによっては一攫千金も夢ではない。
「そろそろ、おまえにも俺の仕事を教える日が来るのか……。いや待て、早すぎるぞ。シグレいま四歳だろ?」
「もう少しで五歳だね」
「一般的に子供が働くのは早くても十二歳だ! 五歳はなにがなんでも早すぎる!」
「内は内、外は外。いつも言ってるしゃん」
「それとこれとは別問題だ!」
ちっ、騙されないか。なるべく早く働き始められればそれだけ金を稼げるのに。仕方がない、しばらくは教師としての内職で小銭を稼ぐことにするか。
落胆していると、クヤマがこっちを睨んでいるのに気づく。
「おまえ最近、何か企んでるだろ」
「もう、そんなことあるわけないじゃん」
「母さんから聞いたが算術に関してはもう問題ないそうだな。歴史も一般教養まで身につけ、俺の教えることもいよいよ少ない」
一応、ちょっと頭のいい四歳児を目指して振舞っていたがまったく無意味だったらしい。天才では片付けられなくなってきた。
ハーブには近頃かけ算を教えるようになったからかもしれない。そりゃ大の大人が目の前で二桁の筆算をなんども誤るのだ、口出しもしたくなる。クヤマはそれ以下というのだから驚きとしか言いようがない。
これでも二人が言うには、一般教養がこの水準だそうだ。間違いなく、この世界で最も遅れているのは教育と教養だ。
「最近、おまえが俺の子供かどうか疑問になってくるよ」
「いやだなぁ」
心臓が跳ね上がった。発汗をさとられないように席をたち皿を運ぶ。
いまだにその質問には罪悪感が募る。確信めいたことを突かれると肺が締め付けられる。話題を変えようと切り出した。
「そういえば母さんから馴れ初めの話を聞いたけれど、父さんはどうして盗人だった母さんを救ったの?」
クヤマは意外そうに、へぇと漏らした。
「母さん、そんなこと話したのか」
「どうしてもってお願いしたら話してくれたよ。父さんに感謝してたみたい」
クヤマはいきなりくすぐられたように身体を反って大笑いし始めた。なにが面白かっただろうか、なかなかやめない。
苦笑いを浮かべていると、ごめんごめんと目端に滴を溜めながら謝ってきた。
「母さんはなぁ、前はすごかったんだぞ」
「なにが?」
「口調と性格がだよ。おいシグレぇっ、なにやってんだよボケっとしてんなぁ! ケツ蹴るぞ豚のフンがよぉ、ゴミムシがぁっ!」
いきなり唾を飛ばして叫んだ。え、いまのが昔のハーブの真似? 嘘だろ?
「驚くよな。人変わってんだもん、子供が産まれてから。おまえが来てから特に物腰が柔らかくなってなぁ……」
すこし違和感を抱いたが、そうか、彼女は元ヤンだったのか。子供を産めば女は変わるとよく言われるが実例が身近にいたとは。
今、クヤマは質問に答えなかった。
並の四歳児どころか大人だって気づかなかったかもしれない。話の移行が滑らかで見逃すところだったが、話をそらすのは自分でも何度もやって専売特許になっていた。
『どうして母さんを救ったの?』
分かったんだ。答えたくないって。
無視すれば良かったのかもしれない。ただ小悪魔が背中を押して、尋ねてみようと踏み切られた。
「それで、どうして母さんを救ったの?」
明らかにクヤマは固まった。すぐに笑顔を取り戻したが、今度は並の四歳児でも分かるほど露骨だった。ごまかしきれていない。
彼はひたいに手を当てた。
「なぁ、シグレ」
「うん」
「例えばシグレが人殺しというとてつもなく大きな罪を背負ったら、もう小さな罪がいくらあっても同じだと考えないか?」
一瞬だ。ほんの瞬きするあいまだ。
クヤマの顔に翳りがさした。
暗雲なんかじゃ足りない、夜空でも届かない、触れたらそこから侵食されて消え去ってしまいそうな翳りが見えた。
「だれだって困ったら盗みはする。母さんは根っからの悪人じゃなかったから、助けてあげたかったんだよ」
その翳りを拭うようにクヤマは水をあおった。嘘ではないのだろうが、どうしても一瞬立ちこめた闇が頭から離れなかった。
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