体質
「やばい、寝過ごした!」
江藤達郎は目覚まし時計を見て飛び起きた。
目覚ましは6時30分を表示している。始業時間は8時30分なので、7時30分に家を出れば十分に間に合うはずであった。
しかし達郎には、とある事情があった。
達郎の体毛は濃い。かなり濃い。しかも全身にわたってまんべんなく濃い。熊と比べても遜色のないくらい濃い。まだ産毛の生え変わってないような尻の青い小熊など、達郎の姿を見たら己の未熟さに巣穴から出て来られなくなるくらい濃い。
実際、達郎が体毛の処理を忘れて山に入った時に、近くの住民に姿を見られ、本州にヒグマが出たと大騒ぎになったことがあるくらいだ。そして、達郎を始めとした人間たちは知る由もないが、その時に達郎の姿を見たツキノワグマ達は、自分たちと似て非なるその姿に畏れをなして、3日3晩巣穴から出る事が出来なかったと言う。
さらに、達郎の特異体質はそれだけではなかった。
体毛の成長速度が常人に比べて著しく速いのだ。特に今の夏の季節には、その傾向が顕著に表れた。そんな体毛の成長速度を目の当たりにした友人達の間では、達郎の体毛は夏の日差しと湿気で光合成を行っているのだと、まことしやかに囁かれていたりする。
そんな難儀な体質を持ち合わせている達郎は、毎朝5時に起き、2時間かけて全身の体毛を剃っている。そして外出する際は、体毛に日差しが直接当たらない様に、完全武装して出かけているのであった。
「どうしよう! 朝一で会議があるから遅刻できないし……。今からじゃ全部剃れないから、仕方ない、とりあえず目立つ所だけ剃って、服を着込もう!」
そうひとり呟く達郎の姿は、さながら黒い雪男である。
達郎は風呂場に駆け込み、顔、首、手足の体毛を剃り始める。
ここで、髪の毛も伸び放題になってしまうのでは? と疑問に思われる方もいるかもしれない。
だが不思議なことに、髪の毛に関しては何故か達郎の特異体質が発動していなかった。むしろ若者にしては少々淋しいくらいの装いである。
自分でもその事を若干気にしている達郎は、剃り落とした大量の体毛を頭に試しに乗せてみたりしたが、逆に心まで寂しくなったと後に述べている。
全く以って人生とはうまくいかないものである。
「……これくらいでいいか。よし、いそげ!」
1時間をかけてなんとか体毛の処理を終えた達郎は、体毛で排水が詰まり、黒い湿地と化した風呂場に後ろ髪を引かれながらも、取るものも取り敢えず家を飛び出した。
夏だと言うのに、長袖、長ズボン、手袋に目出し帽と言う出で立ちの達郎は、かなり奇異に映った。達郎がこの町に越してきた当初は、毎朝決まった道を通る目出し帽の男に近所の住民たちは震え上がり、町内会での防犯対策会議の最重要議題としてあげられたりした。しかし達郎の特異体質が知れ渡ると、いつしか達郎の家の玄関前に、『使ってください』と言うメモと共に、安全カミソリがそっと置かれるようになったと言う。
最寄り駅に到着すると、タイミングよく電車がホームに到着していた。達郎は幸運に感謝しつつ、電車に飛び乗った。が、乗った車両が悪かった。この路線で一番込み合う車両だったのである。線の細い者ならば、電車が出発する時の荷重でミンチになるほど既に混みあっていた。しかも更に運の悪いことに、なんとエアコンが故障していたのだ。
籠もりきった熱気に、全ての窓は結露し、座席は水を含んだスポンジの様になっていた。上から下まで完全武装している達郎にとって、この熱気は堪ったものでなかった。そもそも達郎は、体毛は余るほどあるが、体力はあまり無い方である。2駅を越えた辺りから意識が朦朧としてきた。
「べ、別の車両に行こう…」
達郎は薄れゆく意識の中でそう決心する。
達郎が意識を失う前に、かろうじて電車は次の駅へと到着した。
達郎は冷房の効いた車両に移るために電車から降りようとした。が、突然、ちゃんこ鍋がとてつもなく似合いそうなご婦人に、達郎は背後から強く押し出されてしまった。横綱の鍋割山も斯くやと言わんばかりの見事な押し出しである。
達郎はそのまま高校球児のごとくヘッドスライディングをホームに決めた。暑さと痛みで朦朧としながら達郎はなんとか立ち上がると、あろう事か、衣服の前面が大きく破けてしまっていた。胸や腹、両脚の腿から脛にかけて衣服が穴だらけである。股間の部分はかろうじて守られたのは不幸中の幸いであっただろう。達郎の姿はさながら乱暴された婦女子を彷彿させるようなあられもない姿であった。
そして不運にも、ホームには屋根もなく、燦燦と日差しが照り付けていた。車内で十二分に蓄えた水分と、清々しいほどの夏の日差しを存分に浴び、垣間見える達郎の肌に漆黒の若草がワサワサと芽吹き始めた。
「やばい!」
このままでは全身毛ダルマと化し、会議に間に合わなくなる事は必至である。達郎は焦った。
「どうされましたか!?」
そこへ無駄に責任感が強そうな駅員が駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫です。気にしないで下さい!」
「やや! 身体が黒ずんでいるじゃないですか! 怪我したのですね! 大変だ! ちょっと見せてください!」
「だ、大丈夫です! あ、だ、ダメです! これ以上、引っ張っちゃ駄目!」
怪我の様子を見ようと服を引っ張る駅員。それを阻止せんとする達郎。
「ほら、暴れないで! 大人しくして!」
「や、やめて!」
「いいかげん観念するんだ! 大人しく言う事を聞けば、悪いようにはしないから!」
「いやいや!」
この駅員、実は昨晩、オトナなDVDの、しかもちょっとハードなタイプを鑑賞していた。いまだその余韻覚めやらぬ状態であった。
「ほらほらほらほら!」
「ダメダメ~!」
達郎のリアクションに、駅員は鼻息を荒くして、そのリビドーを存分に高めてゆく。
「観念しぃや! オリャァ~!!」
「おかぁーさーーん!!」
≪ビリリリリッ!≫
かろうじて達郎を守っていた衣服の切れ端は、達郎の絶叫と共に盛大に破けた。
そして達郎に降り注ぐ、夏の日差しと好奇の視線。
その数秒後、その周辺にいた人々は阿鼻叫喚に包まれることになる。
「……あぁ」
周囲のモノ全てを絡めとりながら、爆発的に伸びる体毛を余所に、達郎の表情は何故だか恍惚としていた。
この日、某路線では異物除去作業のため大幅なダイヤ乱れが生じた。
結果として、達郎が出席するはずだった会議は延期されたという。
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