おとり
「……内藤、大丈夫か?」
「あ、当たり前です! も、もちろん、だ、大丈夫です!」
精一杯の虚勢を張って、但馬さんに俺は応えた。でも本当は今すぐここから逃げ出したいくらい怖い。しかしそれが出来るくらいならば、今頃こんな思いはしていない。
「……そうか。上出来だ」
但馬さんはニィっと笑って、俺の肩を軽く叩いた。
近年、東京都内の高校生を中心とする若者の麻薬汚染は非常に深刻なものとなっていた。そのため警視庁は、銃器、薬物犯罪を主務とする組織犯罪対策第5課を中心とした特別対策本部を設置、麻薬販売ルートの解明及び撲滅に本格的に乗り出した。
まずは麻薬販売ルートの解明を行うべく、おとり捜査班を編成。犯罪組織の内部に侵入し、麻薬販売ルートの全てを掌握する作戦が発表された。通常は認められていないおとり捜査を実行することから、対策本部の本件に対する本気度が伺い知れると言うものだった。
そしてそのおとり捜査班には、まだ駆け出しだった俺と、俺の上司でありベテラン刑事でもある但馬さんペアが選抜された。
但馬さんと俺は、程なくして麻薬の売人経由で販売組織への接触に成功、麻薬販売組織の本拠地や販売ルート、今後の計画などを突き止めるに至った。しかし順調だったのはそこまでだった。俺のミスが原因で我々の身元が販売組織に知られてしまい、組織から追われる身となってしまう。応援を呼ぶために脱出を図るが、それもままならず、連絡手段も絶たれた状態で港の倉庫に身を隠す羽目になってしまったのだった。
対策本部は俺たちの状況を当然知らない。応援が来ることは無いだろう。但馬さんと俺が身を隠すこの倉庫が組織に見つかるのも時間の問題だった。
「心配するな、内藤。お前を死なせはせんよ」
但馬さんは再びニィっと笑って見せる。
「……まず俺が先に北側ゲートに出る。おとりになって奴等をひきつけるから、その隙にお前は東側ルートからここを脱出しろ」
「そんな!? それじゃ但馬さんが!」
「ばーか、何言ってんだよ。俺は犠牲になるつもりなんてないぜ? お前は脱出したら急いで応援を呼んで、俺のピンチを救うんだよ」
「でも!」
「でも、じゃない。やるんだ!」
まだ何か言おうとする俺を但馬さんは強く制した。そしてすぐにまた、あの笑いを見せる。
「……それじゃ、頼んだぜ、内藤! またあとでな!」
それだけ残して、但馬さんは倉庫から飛び出して行った。
どれくらい時間が経った頃だろうか。倉庫の外側から慌ただしい声が聞こえてきた。そして怒号とともに大勢がどこかへと走り去った気配を感じた。倉庫の周辺が静寂に包まれる。
まだ組織の一員が周囲にいるのではないかと不安が頭をもたげたが、俺は意を決して倉庫から出た。そしてわき目も振らず東側ゲートへと懸命に走った。こうなればもはや周囲の事などは気にしてはいられなかった。もしこの場で組織の一員に出くわしたら俺は終わりだっただろう。但馬さんが敵の目を引き付けてくれたからこそ、俺は何事もなく走り続けることが出来た。
俺は無事に東ゲートから港を脱出し、応援を呼ぶことに成功した。そして但馬さんを救うべく、駆け付けた応援とともに北側ゲートに急行し、但馬さんの行方を探した。
北側ゲートに突入した頃には既に辺りは静まり返っていた。チャプチャプと岸壁で遊ぶような波音がやけに耳についた。
慎重に歩を進めるとすぐに、ぼろきれのような塊が地面に転がっているのが見えた。身体中の血液が逆流する。そのぼろきれの色に俺は見覚えがあった。俺はゆっくりとその塊に近づく。近づくにつれ、その塊が人の形をしている事がわかってくる。その塊を中心に、コンクリートの地面には黒い水溜まりが広がっていた。
俺は駆け出して叫んだ。
「但馬さん! 但馬さん!!」
俺は何度も但馬さんの名前を叫んだ。しかし、但馬さんであったそれは、俺の呼びかけに応えることもなければ、再び笑うことも無かった。
「あれから20年か……」
俺はそう独り言ちる。今では俺もそれなりの場数を踏み、周囲からベテランと言われるくらいの年齢になっていた。
「……大丈夫か、岩崎?」
「も、もちろん、だ、大丈夫です!」
今の俺のパートナーである岩崎は、上ずった声で何とかそう応える。まるで20年前の俺がそこにいるようだった。自然と俺の口元が緩んだ。
……こんな気持ちだったのかな、但馬さんは……。
あの時の但馬さんの気持ちがほんの少しだけわかった気がした。
奇しくも、俺と岩崎は20年前のあの日と、同じ状況に陥っていた。
俺と岩崎は覚醒剤の販売ルートを撲滅するためにおとり捜査班に組み込まれていた。覚醒剤の密売経路を突き止めたまでは良かった。だが少し派手に動きすぎていた。覚醒剤の売買をシノギとしていた暴力団に目をつけられ、まんまと廃墟となっているビルに追い詰められてしまったのだ。
今もビルの外には俺たちの事を邪魔だと思っている若い連中がうろついていた。
「岩崎……、心配するな」
岩崎は何度も目を瞬かせて俺を見つめている。
「……俺がおとりになって奴等をなるべく遠くまでひきつける。もうしばらくしたら応援が来るはずだ。お前はそれまでここでじっとしていろ」
「でも、それじゃ、内藤さんが!」
岩崎の言葉に、俺は口角を上げてニィっと笑って見せる。
「……馬鹿野郎、俺は捨て石になるつもりなんてないぞ。応援が来たら、お前は俺を助けにくればそれでいい」
「でも!」
「いいな?、ここから絶対に動くんじゃないぞ!」
それだけ岩崎に言い残して、俺はビルの一室から飛び出した。
ビルの中には組織の一員はいないはずだった。やつらがいるのはビルの外だ。俺は慎重に1階まで降りるとビルの出口付近に身を潜めた。外の様子を伺うと、案の定、ガラの悪い輩が10数名たむろしている。
俺はそれを確認すると、ゆっくりとビルの外へと足を踏み出した。
俺の存在に気づいた下っ端連中は一瞬身を固くする。しかし、すぐに状況を理解し、次の行動へと移った。
「お疲れ様です!」
そう言って彼らは俺に対して慌てて深々と頭を垂れる。
俺はそんな連中を一瞥し、冷淡な声で告げた。
「……5Fの北側の部屋にひとりいる。相手はひとりだが、銃を持っているから用心しろ」
「わ、わかりました! おい、みんな行くぞ!」
下っ端連中は俺が先程までいたビルの1室へと駆け出してゆく。俺はその光景を横目で見ていたがすぐに興味をなくし、ビルを背に歩きだした。
「……但馬さん、アンタ立派だったよ」
誰に言うでもなく、俺は独り続ける。
「……だが、俺はアンタみたい立派な刑事にはなれそうもない。せいぜい、アンタにもらった命、大事に使わせてもらうよ。」
煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
それと同時に背後から銃声が鳴り響く。
岩崎の顔が脳裏に浮かび、俺はニィッと笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます