指きりげんまん

「前田、どうだ? 気分は」

 宮崎さんが声をかけてきた。どうやら狭いコクピットの中でただ待ち続けることに飽きたようだ。

「気分は悪くないですが……。やっぱり少し緊張しますね」

「まぁ、それはしゃーねーわな。 何せ今回のミッションは、我が国初の有人月面探査だ。マスコミの注目も過去最高! ベテランの俺様だって、なんかこう、来るもんがあるからなぁ!」

 宮崎さんのガハハと笑う。インカム越しに聞いても相変わらず声が大きい。当然この声はMCC、つまりミッションコントロールセンターにも届いているので、オペレータは今ころ耳を押さえているはずだ。

 あと数分もすれば俺達の乗るH3-Bロケットは月に向けて発射される。漠然と描いていただけの宇宙飛行士への夢が、現実のものとして色を帯びたあの日から15年、いよいよ出発と思うと俺もこみ上げてくるものがあった。


『うん! わかった! 約束だよ、お兄ちゃん! 指きりげんまん、針千本、飲ーますっ!』


 今でもあの日の幸子の声が耳に残っている。



 幸子は俺より5歳下の妹で、生まれつき心臓に持病を持っていた。肌の血色は悪く、唇はいつも紫色をしていた。乳児の頃から入退院を繰り返し、医者からも10歳を迎えることは困難だろうと言われていた。

 それでも本人の頑張りと、親の甲斐甲斐しい介護のおかげで、この歳まで成長することが出来た。10歳の誕生日もいよいよ半年後に迫っていた。

「お兄ちゃん、今日、幸子、すごい調子いいんだ。お外にだって行けちゃいそう」

 病院のベッドで仰向けに寝ながら幸子は言った。数日前に幸子の体調が悪化し、幸子は急遽入院することになったのだ。

 俺は幸子の顔を覗き込んだ。確かにそう言われてみると、今日は少し顔色が良いように思えた。

「よーし、その調子だ、幸子。もっと元気になったら兄ちゃんと一緒に遊びに行こうな! ディズニーランドでも、ユニバーサルスタジオでも、兄ちゃん、どこだって連れてってやるぞ」

「ほんと!?」

「あぁ、ほんとさ。兄ちゃんは幸子との約束なら絶対守るぞ!」

「幸子との約束だけじゃなくて、約束は全部守らないといけないんだよぉ」

「そ、そんなことはわかってるよ。 言葉のアヤだよ、アヤ!」

「ふふっ」

 しどろもどろになって言い訳する俺に幸子は微笑む。

「……そうだなぁ、どこに連れて行ってもらおうかなぁ」

 楽しそうに思案する幸子は普通の女の子にしか見えず、とても生死かかわる重い病気を患っているようには見えなかった。しかし実際は、ディズニーランドやユニバーサルスタジオどころか、近所の遊園地ですら幸子は行ったことが無いのだ。

 幸子の病気が完全に快復することはおそらく無いであろうと言うことを、まだ中学生だった俺も薄々とは感じていた。その事は本人が一番わかっているのかもしれない。そう考えるとやり切れない気持ちになった。

「どこでもどんと来い、だ!」

 俺は右手で自分の胸を強く叩いてみせる。沈みかけた自分の気持ちを戒めるためでもあった。

 幸子はしばらく、うーん、と唸っていたが、俺の方を向くと急に眼を見開いた。どうやら何かを思いついたらしい。

「決めた! お兄ちゃん、あそこに連れて行って!」

 幸子は俺の背後に指をさす。つられて振り返った先には、窓越しに見える暮れ始めた冬の景色と、淡い光を放ちながらうっすらと浮かぶ月の姿があった。

「……月?」

「うん!」

 理解が追いついていない俺をよそに、幸子は嬉しそうに返事をする。

「お兄ちゃんの夢は宇宙飛行士になることだから、幸子、一緒に月に連れて行ってもらうことにする!」

「……へ?」

「そしたらお兄ちゃん、一緒にお月見しようねー! 月でお月見! あ、月から月は見えないのかな? だとすると地球見?」

 幸子が再びうーん、と唸り始める。

 幸子の突拍子もないお願いに自分の顔が少しひきつるのがわかる。

「そ、それはちょっと無理なんじゃないかなぁ……」

「えぇー?! さっきどこでも連れて行ってくれるって言ったじゃーん!」

「そ、それはそうだけど、そ、そもそも宇宙飛行士なんて子供の頃の夢だし……。なれるわけないし……」

「えぇーー!? お兄ちゃんの嘘つきー。さっきどこでもいいって言ったのにー! 宇宙飛行士になるって言ってたのにー!」

 幸子は嘘つき、嘘つきと何度も繰り返して口を尖らしている。

「わ、わかったよ、わかった! 連れてく、連れてくよ! 俺が幸子を月まで連れて行く!」

「ほんと!?」

「あ、あぁ、もちろん本当だ!」

 半ばやけっぱちに応える俺。

「やったぁ!」

「……その代わり! 幸子はそれまでに病気を治して、ちゃんと元気になっておくこと! いいね?」

「うん! わかった! 約束だよ、お兄ちゃん! 指きりげんまん、針千本、飲ーますっ!」

 幸子は俺の手を強引に取って乱暴に振り回す。そして最後に、指切ったっ! と言うと勢いよく俺の手を放り出して、ケラケラと笑っていた。

 その日の幸子は本当に楽しそうで、とても元気にはしゃいでいた。

 実はもう幸子の病気は治ったのではないかと、愚かな俺は思ったりしていた。



『発射60秒前』

 いよいよカウントダウンが始まった。

「……ところで、前田よ? 向こうに着いたらお前は何をするよ? せっかくの月面探査だ、楽しまない手はないぜ?」

「そうですね……」

 俺は宇宙服の中に忍び込ませたネックレスの事を想う。ネックレスに嵌め込まれた写真の中には、月に連れて行ってと俺にせがんだ9歳の少女が、本当に楽しそうに微笑んでいた。

「……そうですね、月に着いたら、お月見……と、地球見をしたいですね」

 宮崎さんは俺の応えに一瞬言葉を失うが、すぐに豪快に笑い出した。

「ハハハ、ちげぇねぇ!」

 あとは針千本……ですね、俺はそう続けたが、ガハハと大笑いをする宮崎さんにその声が届いたかはわからなかった。


『……3、2、1、H3-Bロケット2号機、リフトオフ』

 宮崎さんの笑い声と、あの日の約束を地上に残して、俺たちは空へと舞い上がった。

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