夕立

 僕が改札口を出た頃には、駅舎の外は既に土砂降りになっていた。

今日の天気予報は、終日晴れ。そんな日に当然僕は、傘なんて持ち合わせてはいない。もう少し早く帰れていれば、晴れている間に家に帰れたかもしれないのにと、少し先輩を恨む。帰り際に先輩に捕まったのが運の尽きだ。手伝えと言われ、1時間ほど残業したらこのざまだ。全く以ってツイていない。

 雨にはあまりいい思い出が無い僕は、雨が好きではなかった。


 駅の構内には、僕のような人々が大勢たむろしていた。

 電話で迎えを呼ぶ人。どうするべきかを思案する人。覚悟を決めて雨の中に飛び込んでゆく人。

 それぞれがそれぞれの事情を抱え、そして突然の雨に対処してゆく。夕立に足止めを食ったひとりひとりに、人生ドラマがあると思うと、なんだか少し感慨深い。僕は偉そうにそんなことを思ったりした。

 僕はと言えば、何をするでもなく、ただ茫然と、激しく降り続ける雨をぼぅっと見つめ、その場にただ、立ち尽くしているだけだった。

 雨は一段と激しさを増し、アスファルトの道路を激しく叩きつけている。地面からは水煙が蜃気楼のように、ゆらりと立ち上っていた。その光景はとても幻想的で、駅舎ではない、どこか違う別の場所に様な、そんな気持ちに僕をさせた。でも、その光景はただ美しいだけものでは決してなくて、小さな疼きも伴ってくるものだった。


「……コホンっ」

 少しわざとらしい咳払いが背後から聞こえた。一瞬、僕は、水煙の蜃気楼が連れてきた幻聴だと思った。

 もう一度、その人物が咳払いをした時、僕はそれが幻聴ではなく、現実のものであると気が付く。

 その声を、僕はとてもよく知っていて、いつも温かい何かで、僕の胸を包み込んでくれていた。そうかつては……。

 しかし、その当時の愚かな僕は、その声がこれから先もずっと共にあるのものだと、何の疑問も思わず、当たり前の様にそう思っていた。でも、「当たり前」なんてものはこの世には存在しておらず、「当たり前」と思っていたものは「特別」であり、「奇跡」だったのだと今になって気づく。

 その証拠に、今の僕はその声を聞くだけで、胸の奥がチリチリと焼けるような痛みを感じている。

「……久しぶり、だね」

 僕は努めて平静を装って、声の主へと振り返る。振り返った先には、あの頃より少し短くなった髪の、あの頃とはちっとも変わらない勝気な目をしている由香里がいた。

 気温が少し上がった気がした。

「……久しぶりね。元気だった?」

「まぁ、ぼちぼちかな。……そっちは?」

「……そうね、私も、ぼちぼち、元気よ」

 僕の言葉を真似て、由香里がそう応える。僕たちは互いの目を少しだけ交わらせ、そして、少しだけ笑った。

「雨宿りしてるの?」

「あぁ、凄い雨だからね。……まぁ、すぐに止むとは思うけど」

「……そうね」

 そこで僕たちの会話は止まった。

 横目で少し、由香里の様子を伺う。彼女は何の表情も浮かべずに、ただジィっと雨が降る様子を見つめていた。

 由香里ともっと話したい事や、話さなければならない事があったはずなのだけれども、何故だか今は何も思い浮かばなかった。昔ならば呼吸をするように「当たり前」に出来ていたことが、今は全く出来なくなっていることに僕は気づき、僕は改めて自分の愚かさを再認識した。

 雨の音がやたらと大きく僕の耳に響いた。



 由香里とは数年前にバイト先で知り合った。由香里と僕は、ちょうど同じ時期にバイトとして雇われ、同い年であることも手伝って、同じシフトに入るとよく会話をした。共通の話題や趣味、音楽の嗜好などが、お互い同じであることがわかると、僕たちはさらに互いの距離を短くしていった。

 当初は気が合う女友達程度にしか思っていなかった。でも、ふたりだけで遊びに出掛ける機会は多くなり、そしていつしか、そのまま自然と、僕達は付き合うようになっていた。

 初めの頃はただ楽しかった。何度もふたりで通ったライブハウス。強烈な銀杏の匂いに笑いながら歩いた銀杏並木。くだらない話を延々と続け、ドリンクバーだけで5時間も過ごしたファミリーレストラン。ふたりが初めてキスをした小さな公園にある電話ボックス。

 由香里と一緒にいるだけで僕の心は満たされた。由香里とならばいつまでも一緒にいられると思っていたし、当然、この日々が永遠に続くのだと思っていた。


 しかし付き合い始めてから数年が経ち、将来と言うものが僕の頭の片隅にチラつき始めた。

 この頃、既に由香里は大学を卒業し、希望していた職場に就職、毎日忙しく働いていた。

 かたや僕はと言うと、自分の夢を叶えるために、と、耳あたりの良い言葉を並べ立て、大学卒業後も就職をせずに、ただのっぺりとした、そんな日々を送っていた。

 週末に会う時も、由香里の口からは出てくるのは会社での出来事や仕事内容の話が多くなり、僕は自分勝手にも、嫉妬とも言えるような疎外感を抱くようになった。

 そして、由香里が時折触れる、僕たちの将来についての話が、いっそう僕の心を重くさせた。

 社会に出遅れていた当時の僕は、当然生活力なんてものは全く無かった。先に社会に出て、自分の足で歩き始めた由香里の姿に、僕は焦燥感を感じ、常に後ろ暗い気持ちだった。何の悪気もない由香里の言葉ひとつひとつを、僕は丁寧に拾い上げ、その言葉たちを自ら鋭く削り上げた。そして自分で自分の心の奥底へとゆっくりと刺していった。

 心に刺し込まれた言葉の棘は、すぐに僕を殺すようなことは無かったけれど、棘の隙間から少しずつ流れ出した僕の汚れきった赤黒い血液は、大事なものを少しずつ汚し始め、いつしか全てを黒く染め上げていた。


 そして激しい夕立が降ったあの日、僕たちは大喧嘩をした。

切っ掛けは些細な事だったと思う。しかし売り言葉に買い言葉で、僕も由香里もお互いに気持ちをエスカレートさせていった。最後に、僕は言ってはならない事を言った。

『それならば、他の男と付き合って、さっさと結婚でもすればいい!』と。

 その言葉を聞いた時の由香里の表情が今も忘れられない。スッと表情が消えたかと思うと、哀しい様な、困った様な、そんな表情をして由香里は笑った。

 そして土砂降りの中、由香里は僕のもとを去っていった。

 雨煙が揺らめく幻想的な光景の中を、びしょ濡れになりながら立ち去ってゆく由香里の後ろ姿を見て、綺麗だと、愚かな僕はそんな事を考えていた。



「会わなくなって、ちょうど2年くらいだね」

 唐突に由香里はそう言った。心の中を見透かされたようで、僕はドキリとした。

「……うん」

 あれから2年が経った。そう、2年の時が過ぎ去った。長い様で短い様な、そんな2年と言う時間。

 この2年間で僕を取り巻く環境は少しだけ変わっっていた。目標としていた道に進むとっかかりを僕は何とか掴め、今は見習いとして、給料を貰いながら働いている。

 由香里の2年間はどのような時間だったのだろう?

 仕事がツライと言っていたけど、今はもう大丈夫になっただろうか?

 ふたりで良くライブに行ったあのバンドを、由香里はまだ好きでいるのだろうか?

 匂いが嫌だと言って、いつも残していた椎茸を食べられるようになったのだろうか?

 初めての誕生日にあげたティーポットを由香里はまだ使ってくれているだろうか?

 ……もう彼女の隣には、僕の知らない誰かがいるのだろうか?

 胸が締め付けられると言う言葉は良く出来ているなと思った。僕の胸は今まさに、過去の自分が作り上げた有刺鉄線の様な感情で、きつく締め付けられ、悲鳴を上げている。それもこれも、すべては自分のせいであった。

 僕の心の中に今も燻り続けている、彼女に対する慙愧の念や後悔と言った感情、今では伝えることすら叶わない気持ちが昇華されるには、2年と言う時間はまだあまりにも短い。



「……そろそろ、私、行こうかな」

 由香里は僕の目を見ることもせずにそう言った。

「え?」

 もう少しこのままでいれば、きっと何かが起こるはずだと、相変わらず大きな勘違いしている僕は、間の抜けた声を出すのが精いっぱいだった。

「雨、止みそうもないから……」

「あ……。うん……」

 由香里が僕に顔を向ける。そして大きく息を吸い込んだかと思うと、少し大きな声で言った。

「こら、磯崎憲吾! もう、女の子を泣かしちゃダメだぞ!」

 そんな彼女は、困った様な、哀しい様な、そんな少し複雑な表情を浮かべて、微笑んでいた。

「あ……」

 由香里は、土砂降りの雨の中を駆け出して、振り返ることもなく、遠ざかってゆく。

 僕はそんな彼女に、サヨナラの声をかけることも出来ずに、ただ口を広げながら去り行く後ろ姿を眺めていた。

 あの日の様に、由香里は幻想的な光景の中を走り去ってゆく。由香里の姿は蜃気楼のように揺れ、まるで夢を見ているかのような錯覚を起こさせる。きっと、由香里は夕立が連れてきた幻で、夕立と共にまた消える運命なのだと。そして僕たちはもう2度と会うことは無くなるのだと。

「……ははっ。……はははは」

 自然と笑えて来た。隣で雨宿りをしていた人が奇異な視線を向けてくる。

 相変わらずの自分の莫迦さ加減に笑うしかない。

 蜃気楼? 夢? 幻? そんなバカなことがあるものか! 楽しくて、哀しくて、嬉しくて、切なかった、今までの僕たちの時間が、幻なんかであるはずがない。あの時間は確かに存在していて、だから今の僕が在って、今日また、僕たちは出会った。そして僕はまた、彼女に、困った様な、哀しい様な、そんな表情で微笑ませてしまった。これらはすべて実際の出来事なんだ。

 僕は降りしきる雨の中に飛び出していた。


 由香里の姿は既に霞んでいた。どんなに僕が追いかけようとも、手の届く事は無く、どこか遠い所へ行ってしまう気がした。

「由香里!!」

 僕はいつの間にか叫んでいた。指の隙間から、また大事なものが零れ落ちそうで、不安で、恐ろしくて、哀しくて、自分が腹立たしくて、僕は叫ばずにいられなかった。

「……責任とか、他人の人生を背負う重みとか、そんなものはまだ僕にはわからないけど……。

 でも、僕はもう君を失いたくない!」

 僕の声が由香里に届いたかどうかはわからない。

 それでも僕は、揺らめく影に向かって走り続ける。もう2度と、無くさないように。


 遠くの空に青空が広がっているのが見えた。

 夕立が止むのも、そう遠い時間ではないはずだ。

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