崖っぷち

 ここ両国国技館では、本日最後の取組が行われようとしていた。東の番付は横綱鍋割山、対する西の番付は大関蛭ヶ岳の一戦である。

「大相撲春場所、いよいよ横綱、鍋割山の取組です。解説の大野山さん、鍋割山の調子はいかがでしょうか?」

「そうですねぇ、脚の怪我から復帰してそれなりの時間が経っていますが、どうも怪我以降、いまひとつ調子が出ていないように思われます。脚の調子は悪くないとは思うのですが、気持ちの面でもうひとつ気迫が感じられませんねぇ。

 この取組を落としてしまうと負け越しが確定してしまいます。引退の噂も囁かれてはおりますが、小柄ながらも魅力的な相撲を取る力士ですので、私としてはぜひまた以前の様に頑張って欲しいところですね」

「本日の鍋割山の相手は大関の蛭ヶ岳ですが、こちらはどうでしょうか?」

「蛭ヶ岳は絶好調ですね。非常に波に乗っており、三月場所は今のところ負けなしです。蛭ヶ岳の巨体を生かしたあの寄り切りに、多くの力士が成すすべもなく土俵を割ってしまっています。蛭ヶ岳は本日もそのような相撲を取るのではないでしょうか」

「なるほど。小柄な鍋割山としてはやりづらい相手と言う事ですね。

 ……どうやらそろそろ鍋割山と蛭ヶ岳の取り組みが始まるようです」

 実況アナウンサーの栗平が話を終えるのとほぼ同時に、土俵の上では横綱の鍋割山が塩をまいていた。鍋割山の塩は控えめで、鍋割山の手前にパラパラと塩が散らばる程度であった。

 一方、その後の蛭ヶ岳の塩まきは豪快であった。その巨漢に相応しい大きな手で大量の塩を手にし、それを天高く放った。塩は放物線を描きながら土俵上へと降り注ぐ。まるで花吹雪が起こったような光景で観客からは大きな歓声が上がった。

 塩まきにおいては蛭ヶ岳の圧勝であった。


 行司が正面を向いて軍配を返す。

「待ったありません!」

 行司がそう宣言すると、鍋割山と蛭ヶ岳は、互いの立ち合い線の手前で腰を下ろした。


『蛭ヶ岳か……。寄りにもよって分の悪い相手だ』

 鍋割山は自分の運の無さに嘆息した。鍋割山はこの三月場所で負け越しをしたならば、引退をしようと心に決めていた。

 鍋割山はかなり小柄な力士ではあったが、かつてはどんな巨漢相手であろうとも押し出し、投げ飛ばし、寄り切っていた。小柄な鍋割山が大柄な力士たちを翻弄する相撲は人々の心に強く響き、相撲ファンでなくとも魅了された。

 しかし、鍋割山は横綱になってすぐの事、取組中に不運にも脚の靱帯を損傷してしまう。脚は程なくして治ったものの、今ひとつ気持ちが戻って来なかった。取組にも全く集中できず、自分の相撲が取れない日々が続いた。

 これまではなんとか負け越しは避けられていたものの、この三月場所においては既に7敗を喫しており、9日目にして負け越しの危機という体たらくぶりであった。このように自分を見失っている状態では親方にも、自分を見に来てくれる観客にも、対戦相手にも申し訳なかった。そして何よりも自分が一番辛かった。


『今日で俺の相撲人生も終わりか……。あれだけ憧れた相撲が、こんな形で終わるなんてなぁ……』

 鍋割山と相撲の出会いは小学生の時であった。

 親がテレビで見ていた大相撲を、たまたま鍋割山は横で目にした。巨躯が激しくぶつかり合う光景はまさに衝撃だった。力士たちの戦う姿に魅せられ、自分もあの土俵の上で戦いたいと真剣に思い始めた。

 相撲人生が始まったのはそれからだった。親に頼み込んで遠くの相撲クラブまで通わせてもらい、毎日相撲漬けの生活となった。大人でも辛いと思うような稽古も進んでこなした。

 しかし鍋割山は小柄であったため、プロ力士には一抹の不安があった。プロ力士になるためには体格検査があり、身長167cm以上、体重67Kg以上でなくてはならないのだ。そのため、鍋割山は身体を大きくするための努力も怠らなかった。食事は楽しむものではなく稽古の一環と思って、毎日吐く寸前まで食べた。背が伸びると言われることは何でもやった。

 その甲斐あってか、プロの力士になる頃にはギリギリ167cmに達し、大相撲への道が開けたのである。

 もちろん力士になって終わりではなかった。先輩たちはもちろんの事、同年代の力士達でさえ自分よりはるかに体格が良く、そして強かった。自分がそこに追いつき、追い越すためには何倍もの努力が必要だった。鍋割山は無我夢中で前を向いて進んだ。先輩たちの稽古を見ては研究し、日々の稽古や食事、掃除当番が終わってから、ひとりで夜遅くまで稽古に励んだ。親方や先輩たちが付き合って稽古をつけてくれる時もあった。とてもつらい日々ではあったけれども、とても充実していて、とても楽しい時であった。

 それなのに今は……。横綱になってからの自分はと言えば……。怪我のせいではない事は良くわかっている。いや、怪我をしたのも元を正せば同じ理由なのだ。

 横綱になった途端、何かがプツリと自分の中で切れてしまったのだ。ひたすら上を目指そうとただがむしゃらにこれまでやって来た。それで十分だった。しかし横綱になった今、何を目指せばよいか、何を目標にすればよいのかがわからなくなってしまったのだ。こんな腑抜けた気持ちで勝てるわけがないのだ。このような気持ちで土俵の上に立ってはいけないのだ。

『……もう、引退だな……』

 鍋割山は諦めた様に、右手拳を土俵についた。

「ハッキョイ!!」

 鍋割山の立ち合いの合図とともに、行司の声が国技館に響きわたった。

 蛭ヶ岳の動きは速かった。鍋割山の拳が土俵につくと同時に一気に攻め入った。鍋割山も即座に対応をするが、蛭ヶ岳の方が速く、力強かった。蛭ヶ岳は鍋割山のまわしを即座に取るとそのまま土俵際に寄り切ろうとする。

「おーっと、蛭ヶ岳、良い所を掴みましたね。このまま寄り切るのでしょうか?」

「えぇ、これは鍋割山いけませんねぇ。完全に蛭ヶ岳の得意の形になっています。これはかなり苦しい。これでは鍋割山はこのまま寄り切られてしまうかもしれません」


 蛭ヶ岳は土俵際まで鍋割山を追い詰めようと力を入れる。

『どうした! 鍋割山! あんたの実力はこんなものか!? 以前のあんたなら身体の大小なんて関係なく、気持ちいいくらいに相手を投げ飛ばしていたじゃねぇか! それがなんだ!? 最近のあんたと言ったら……!』

 蛭ヶ岳は心の中で鍋割山に対して不平をぶちまけていた。

 かつて鍋割山と取組をした時、蛭ヶ岳は小柄な鍋割山の事を完全に見下していた。しかし、結果は鍋割山の勝利に終わっていた。蛭ヶ岳が優位と思われた取り組みは、土壇場での巻き返しにより鍋割山が勝利したのだった。敗れた蛭ヶ岳は茫然としながらも、喜びに打ち震えていた。自分の知らない相撲があることを、自分などはまだまだ鍛える余地が残されていることを教えてくれた鍋割山に尊敬の念を抱いたのだった。

 それなのにも拘わらず、ここ最近の鍋割山の不甲斐なさに蛭ヶ岳は腹を立てていた。あれだけ素晴らしかった鍋割山の相撲が、まるで、すの入った大根の様に中身が全く感じられなかった。

『俺に、相撲の本当の楽しさを教えてくれたのは、あんたじゃねぇか! それなのに! それなのになんだ!? その腑抜けた相撲は!』

 蛭ヶ岳は怒っていた。悲しかった。許せなかった。その思いが一段と彼の力を強くしていた。

『いいだろう……。あんたにその気が無いのなら。あんたの相撲を、俺が今日で終わりにさせてやる!』

 蛭ヶ岳は全身に力を入れ、一気に鍋割山を押し込んだ。

「!」

「あーっと! これは!」

「これはもう決まりそうですね」


『まずい!』

 鍋割山はついに土俵際まで追い詰められていた。鍋割山はギリギリの所で踏ん張り、何とか押し返そうともがくが、蛭ヶ岳の身体は微動だにもしない。

『くっ……、ここまでか』

 鍋割山はもはやどうにも出来ないことを悟り、諦めかけようとしたその時だった。

「鍋割山、がんばってーー!!」

 小さい声ではあったけど、鍋割山の耳に確かに聞こえた。小学生くらいの声だっただろうか。自分を懸命に応援してくれる声が確かに聞こえた。

 蛭ヶ岳越しに、大勢の観客とその歓声が聞こえた。鍋割山は自分が今、あんなに憧れていた国技館で相撲をしていることに今更ながらに気づいた。

 鍋割山の脳裏に、テレビを前に懸命に力士を応援している幼き日の自分が浮かんだ。あの日から、力士に憧れ、周囲の応援もあり、懸命にここまで駆け上がってきた。そしてついに横綱になった。

 しかし愚かにも、それがゴールだと思ってしまった……。

『横綱になって目標を失った? 目的がわからなくなった? こんな不甲斐ない自分を、こんな情けない自分を応援してくれる人々がいると言うのに!? 俺の試合を見て、胸を熱くし、相撲に憧れてくれる人たちがいると言うのに!?』

 鍋割山は自分に対する怒りで奥歯を強く噛みしめた。


「あ!?」

「お!!」

「!!!」

 アナウンサーと、解説者と、そして蛭ヶ岳が同時に声無き声を上げた。

 鍋割山が土俵を割る寸前で、ピタリと両者の動きが止まったのだ。

 蛭ヶ岳が力を緩めたのではない。むしろ今は先程より力を入れているにも拘らず、鍋割山の身体が全く動かないのだ。

『くそ! なんだこれは!?』

 押しても引いても鍋割山の身体がびくともしなかった。小柄な力士のはずなのに大きな山を相手にしているような錯覚を覚える。蛭ヶ岳は言いようの無い恐怖にかられた。


 これまでの色々な事が頭の中を駆け巡る中、鍋割山は幼い頃に相撲クラブの先生に言われた言葉を思い出していた。

― お前の相撲は、崖っぷちからが面白い ―

『そうでしたね、先生……』


 その時、土俵際に追い詰められているはずの鍋割山の顔に小さな笑みが浮かんだのを、蛭ヶ岳は確かに見たと言う。

 爆発するような大歓声が両国国技館全体に鳴り響いた。

 そしてこの取組は、後世まで語り継がれることになったと言う。

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