英断 はじまり
はじまり
1
パンドジナモスの弟子が、弟子たちの部屋に入るのは、大抵落ち込んでいる時である。今日の彼は、先日ククラの弟子に後れを取ったことで、先生に大層叱られて、気分が沈み切っていた。
銀の鍵を差し込んで、くるりと回す。
中に入ると、本棚の前に、小さな人影が座っているのが見えた。耳の良い少年はパッと顔を上げて、弟子を見ると、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、イホスのお弟子さん。――何を、読んでいるんですか?」
かつて青年は、ここの本を読んでいた時に、そこから飛び出てきた魔物に襲われて死にかけたことがある。だから、やや警戒しながら少年に近付いた。
少年は、特に気にした様子もなく、膝の上に広げた絵本を青年の方に傾けた。どこか陰鬱な、しかし可愛らしい、綺麗な絵が画面を彩っている。それは、青年も読んだ記憶のある絵本だった。
「あぁ、『武装の国』ですね」
青年は中身を思い返した。
――あるところに、武装の国、と呼ばれる王国があった。そこの王様は暴君で、毎日毎日、戦争や喧嘩ばかりしていた。当然のように、彼の息子である王子も、負けず劣らず乱暴者で、誰にも手を付けられない。周りの人びとは、突然暴れ出す親子を、自然災害と同じように扱い、日々を凌ぐので精一杯だった。そんなある日。王子は、隣国の姫に恋をした。それを知った王様は、隣国を丸ごと手に入れようと、軍隊を差し向ける――
そこまで思い出して、彼は、それ以上思い出せないことを思い出す。
「その絵本、途中から終わりまで、破れてしまっているのですよね」
少年は残念そうに頷いた。ポケットからメモ帳と鉛筆を取り出す。
『続きが気になる』
「そうですね。――君は、どうなったと思いますか?」
青年が何気なく尋ねると、少年は存外真剣に考え始めた。青年は彼の横に座る。やがて、少年が鉛筆を走らせる。
『かえりうちにしたい。王子を』
「返り討ち、ですか」
「――」
「それも面白いですね」
『おにいさんは、どうなったと思う?』
「僕ですか? 僕は――」
そういえば考えたこともなかった、と思い、青年は天井を見やった。真っ白い天井に答えが書いてあるわけもないが、上を見れば、何か天啓を得られるような気分になるのである。
「――そうですね。最後には皆が、幸せになってくれれば、それでよいと思いますよ」
そう言った瞬間、水に落とした絵の具のように、二人の視界が歪んだ。
そして、支えを失った絵本が、床に落ちる。
2
絵の中に引きずり込まれる感覚は、青年にとっては二度目だが、少年にとっては初めてであった。青年は、いち早く正気を取り戻した。二度目ということもあるが、それ以上に、年長者としての責任のようなものが彼を動かした。そして、まだ呆然としている少年に声を掛ける。
「大丈夫ですか?」
「……っ――」
少年はしばらく、目を白黒させていたが、やがて頷いた。
「怪我はありませんね?」
「――」
「良かった。さて……」
青年はゆっくりと立ち上がった。辺りを見回す。大きな本棚がたくさん並んでいる。重厚な装丁の本がぎっしりと詰め込まれている。出入り口は、あるのだろうが、本棚の向こうに隠れて見えなかった。すぐ傍には机があり、机の上には本とペンが置かれている。その壁に窓がある。窓から外を見ると、眼下には町が広がっていて、この建物が石造りの大きなものであることが分かる。
「……まぁ、状況的に、絵本の中へ引きずり込まれたと考えるのが妥当かと思いますが」
そう呟くと、少年が目をぱちくりさせた。青年は困ったように微笑む。
「そういうこともあります。僕は以前、絵画の中へ引きずり込まれたこともありますよ」
「っ?」
「基本的に、何でもありうるのです。この世界は」
「……」
イホスの弟子は、納得して苦笑を浮かべた。
「とはいえ、これからどうしましょうか。ここが絵本の中だとしたら……ここは、どちらの国なんでしょうね? それによっても――っと」
不意に、ノックと呼ぶには乱暴すぎる調子で扉が叩かれたので、少年が飛び上がった。そのあまりに強すぎる音に、青年は察する。素早く少年の背を押し、机の下に潜らせる。
「隠れていてください。何があっても、出てきてはいけませんよ。いいですね?」
少年は混乱している様子だったが、青年の有無を言わせぬ口調に押され、頷いた。
それとほぼ時を同じくして、扉が蹴破られる。飛び込んできたのは、青年が予想した通りの声である。
「おい! 魔法使い! いるのだろう!」
その人物は、豪奢な鎧に身を包み、剣を帯び、真っ赤なマントを羽織っていた。一目で上位の人間であると分かる。そして、稀に見ない乱暴者であることも。間違いなく、武装の国の王子である。
王子は、立てる足音も猛々しく、パンドジナモスの弟子に詰め寄ると、いきなり彼の胸倉を掴んだ。そのまま、彼にたった一言の詠唱も許さず、本棚に向かって放り投げる。青年は軽く宙を舞って、背中から本棚に激突した。青年は床に倒れて咳き込む。その彼を、王子は容赦なく足蹴にしながら、怒鳴りつける。
「貴様、いつまで僕を待たせるつもりだ! 隣国の姫を手に入れるには、戦だけでは駄目だ! 姫を完全に支配するための魔法の薬は、まだ出来ないのか! このっ! このっ! 役立たずめが!」
青年は一方的な暴力にさらされ、わけもなく謝りたくなった。実際には、謝る隙間すら与えられずにいたのだが。
ひとしきり蹴った後、王子は青年の前髪を掴んで引っ張り上げた。
「何故、貴様のような非力で、脆弱で、無能な人間の、生を許していると思う? それは、かろうじて、貴様の技能が役に立っていたからだ。それすら役に立たなくなった今、貴様に何の価値がある? 何も無いだろう!」
そう言うや否や、彼は拳を振り上げた。パンドジナモスの弟子は、咄嗟に
「《
と叫んだ。が、叫ぶ瞬間、彼は自分の魔法を疑ってしまった。息の根までは止めないように、縄で縛って動きを止める、というイメージで放つ魔法を、
(この王子を縛るのは難しそうだな――)
と思ってしまったのである。
まずい、と思った時にはもう遅い。案の定、魔法は効力を失い、彼は殴られて気を失う。
3
先生に呼ばれたような気がして、青年は目を覚ました。しばらく、ぼんやりと横たわっていたが、やがて、染み込んでくる床の冷たさに気が付く。辺りが妙に暗い。骨まで凍るように底冷えしている。ここが地下牢だ、と分かる頃には、すっかり意識は明瞭になっている。
青年はゆっくりと仰向けになった。木製の鈍重な手枷が、手首に食い込む。殴られた顔が痛み、景色が歪む。視界がぼやけているのも傷の所為にして、彼は涙など滲んでいないことにした。
(イホスのお弟子さんは……大丈夫だろうか……)
虚ろに思う。
(嫌なものを見せたのだろうな……彼もまた、暴力を受けていないといいんだけれど……)
天井に吐いた息が、白く煙った。それほどに寒い。
ふと、小さな足音が聞こえた。どこか覚束ない、不安げな足取り。青年は、苦心して上半身を持ち上げた。鉄格子の向こうの床に、ほのかな灯りが揺れている。灯りは少しずつ、少しずつ大きくなっていく。近付いてきているらしい。
しばらくすると、牢屋の中へ、パッと射し込んできた灯りが、青年に目を瞑らせた。そう強い光ではないのに、暗闇に慣れた目は涙を散らした。恐る恐る、慎重に慣らしながら目を開ける。
「っ、イホスのお弟子さん! 無事だったのですね!」
「っ! っ!」
イホスの弟子は、目を潤ませながら、何度も首を縦に振った。それから、手にしていたランプを床に下ろし、鍵の束を掲げると、それをノックのように叩いた。そのリズムがあまりに不可思議だったので、パンドジナモスの弟子は首を傾げる。叩き終えると、束の中から一本の鍵が、ひとりでに少年の方へと浮かんだ。彼はそれを掴んで、鉄格子の鍵穴に差し込んだ。
錆びついた音を立て、格子戸が開く。
少年はランプと一緒に駆け込んでくる。ランプで青年の顔を照らし、殴られた痕に眉を顰めながらも、無事を確認して、ほっと息を吐く。息が白く凍る。
少年は、青年の隣に座り込んだ。
「今のは、魔法ですか?」
「――」
少年は頷いて、ポケットから紙とペンを取り出した。
『よびだす魔法。人でも、物でも、なんでもよびだせる』
「へぇ、それは凄いですね」
そう言って笑った青年の手に、重たげな枷が掛かっているのを、少年は見た。それで、ハッとしたように息を呑んで、俯く。
「どうかしましたか?」
「……」
少年は弱々しい手でペンを動かした。
『ごめんなさい。てじょうのこと、考えてなかった』
「あぁ、これのことですか? 大丈夫ですよ、この程度、僕の魔法で――」
青年が作った笑顔は不意に凍った。
(僕の魔法で――どうするっていうんだ? 燃やすのか? こんな冷え切った部屋で、こんなに分厚い木の板を、火種もないのに? 言葉一つで? ……駄目だ、疑ったら駄目だ。これでさっきも失敗したというのに……)
逃避していた現実に追いつかれて、青年は息を詰まらせる。蛇が首に絡み付き、刃物のような吐息を吹きかけてくる。青年は深く俯いて、自分の額と膝頭で手枷を挟む。石造りの牢屋の中では、木製というだけで、ほのかに温かみがあるように感じた。
(駄目だ……僕はもう、駄目だ。先生のようにはなれない。こんなんじゃパンドジナモスを名乗れない。魔法を――先生を疑った時点で、僕はもう失格なんだ。いや、待て、落ち着け、失格になんてなりたくない。僕はまだやれるはずなんだ。ただ、信じられないだけで……いや、それが一番の問題なんだ。魔法を、先生を、信じられないなんて。やっぱり駄目だ)
突然うずくまって微動だにしなくなった青年を前に、少年は狼狽えた。泣いているようにも見えて、さらに混乱する。何か言わなくては――正確には、書かなくては――と思うのに、どんな言葉も出てこない。本当は、他にも言いたいことがたくさんあるのに、頭の中を上手く書き出せないのが、ひどくもどかしかった。
少年はしばらく躊躇っていたが、やがて、ふと手を伸ばした。青年の左手を、左手で包む。びくりと動いた青年の手は、まるで氷のようだった。ひどい冷たさに、少年はちょっと肩を震わせた。少年は右手の人差し指を立て、決められた拍数で、自分の額と、繋いだ左手の甲を、交互に叩く。すると、金色の光が、冷たい空気の上にふわりと乗った。
次の瞬間、
(「あのね!」)
青年の頭の中に、誰かの声が響いた。青年は飛び上がった。
(「あ、ごめんなさい。声、大きかった?」)
青年は事態が飲み込めなくて、目を白黒させている。が、やがて、どうにか状況を嚥下した。
「もしかして、君の魔法ですか?」
(「そう! あのね、えっとね、その――僕が考えていることを、直接伝える魔法なんだけど、あの、大丈夫! 大丈夫だから!」)
「ええと? 何が、大丈夫なんですか?」
(「えーと、えーと、あの――僕が考えていることは、お兄さんに伝わるけど、お兄さんが考えていることは、僕には分からないから、だから、大丈夫」)
「……あぁ、なるほど。はい、分かりました」
青年はゆるりと頷いた。イホスの先生は、順当な魔法を授けたらしい、と思う。話せない少年に、誰かを呼ぶ手段と、自分の意思を伝える手段を。少年は良い先生に恵まれ、素直に学んでいっているようだ。その素直さが、そこはかとなく羨ましい。
(「あのね、その……ごめんなさい」)
「手錠のことなら、気にしなくても」
(「そうじゃなくて! いや、その、それもそうなんだけど、それじゃなくて――あの、その、さっき、殴られてる時――何もできなくて、ごめんなさい」)
「……」
(「きっと、どうにかできたのに。どうにもできなくても、僕は動かなきゃいけなかったのに――動けなかった。ごめんなさい」)
「……気にしないでください。君に害が及ばなくて良かったと、僕は思っていますよ」
青年はフォローしようとしたが、少年は頑なに首を振る。
(「違うの。違うんだ。確かに、僕は怖かった。けどね、知ってる。知ってるから、動かなくちゃいけなかったんだ。あのね、殴られるとね、痛くて、悲しくて、悔しくて、だけど、そうやって痛い内は、助けてって思っている内は、生きていられるんだ。――でもね、そのあと、痛くなくなったら、今度は死にたくなっちゃうんだ。助けて、って、何度も思ったのに、誰も助けてくれなかったから。独りは、寂しいから。全部、全部、僕を必要としない世界なんて、どうでもいいやって思っちゃって、世界を捨てたくなるんだ。――僕が、そうだった」)
「……」
(「もしも、もしもね。もしもだよ? もしも、だけど――もし、あの時、僕が独りじゃなかったら、殴られてる僕を助けてくれる、ううん、助けようとしてくれるだけで良かった。そんな人が、一人でもいたら、僕は、死のうとはしなかったんじゃないか、って――今になって、時々、そう思うんだ。僕は、死んだから助けてもらえたけれど、本当は、死ぬ前に助けてもらえたら、それが、本当の幸せだったんじゃないかって」)
「――」
(「あ、でもね! でも、僕は今幸せだから、いいんだ! 先生は本当に優しいし、こうやってお話しできるようになったし! 魔導師になるの、楽しいから!」)
そういって笑う少年に、どんな顔を向けたらいいのか、青年は見当もつかなかった。けれど、目を逸らすことだけはするまい、と、必死になって視線を固定していた。
(「だから、僕は助けたかったんだ。殴られてる人を、独りにしちゃいけなかった。ごめんなさい。……でも、どうか、お兄さんは死なないで。死にたいって、思わないで」)
少年の懇願を、青年は真正面から受け止めた。この歳でこんなことを言えてしまう彼の人生を思うと、心がぐっと締め付けられた。そして、こんなことを言わせてしまった自分の情けなさに、嫌気が差した。これ以上、醜態を晒してなるものか――そう思ったのは、ただの意地である。それでも、そう思える意地がまだ残っていることに、少しだけ安堵を覚えて、青年はニヤリと笑った。
「ありがとうございます、イホスのお弟子さん。おかげで、元気が出てきました」
(「そう、なの?」)
「はい」
(「そっか。良かったぁ」)
「君は本当に良い子ですね」
(「え?」)
「さて、それでは、こんなところからは早く脱出してしまいましょう。イホスのお弟子さん、君のこの魔法は、手を離したら効力を失ってしまうものですか?」
イホスの少年は首をふるふると横に振った。
(「繋げる時に触ってないといけないだけで、一度繋いじゃったら、しばらくは大丈夫だよ」)
「わかりました。では、少し、僕から離れていてください」
(「? うん」)
少年は顔中に疑問符を浮かべていたが、素直に指示に従った。青年から離れる。
(「何をするの?」)
「いえ、ただ――邪魔なものを取り除こうと思いまして」
この魔法を授かった時のことを思い出す。あの時も、自分は絵の中に取り込まれていた。一人ではどうにもできず、無様にも先生に助けを求めた。それでようやく、脱け出すことができた。その時、先生に言われたのだ――邪魔するものなど燃やしてしまえ、と。
(自分は小さい。あまりにも小さくて、弱い存在だ。だが、先生は違う。先生は偉大で、強いお方だ。己を信じることは出来なくても、先生を信じることは出来るだろう? なぜって、先生は、パンドジナモス――万能の魔導師なのだから)
青年は鮮烈なイメージを脳内に作りだした。一瞬にして手枷が灰になる様を。まざまざと思い描いた。そしてそれを現実に起こりうるものだと決め付けた。自分にはそれが出来ると言い聞かせ、思い込んだ。たった一言、その一言を放った瞬間、世界は自分のためだけに常識を塗り替えるのだと、信じ、思い込み、決め付けた。
(理由など無い――ただ、そうだと先生に教わったから、そうなるのだ!)
そして言い放つ。
「《
(「うわぁっ!」)
瞬間、深紅の炎が青年の両手を包み込むようにして立ち上り、一秒と経たずに消えた。ばらばらと床を打つのは、手枷であった物の燃え滓である。
青年は、自由になった手を床について、立ち上がった。少年に向かって、手を差し出す。先生のように不敵に、ニヤリと笑う。
「さぁ、行きましょう。この物語を、終わらせるんです。僕らで」
(「――うんっ!」)
少年は彼の手を取った。
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