リアリズムとドガ おしまい
5
闇雲に走った弟子は、いつの間にやら街路に出ていた。パリのような街並みが広がっている。夕暮れ時の街角は人通りが激しく、ざわめきに満ちている。決して暖かい陽気ではないのに、カフェのテラス席は女たちに占領されていた。
弟子は人混みに紛れて、とぼとぼと歩いていた。刺さった棘が抜けないのだ。抜けないでいるのが気になるのだ。これは一体なんだろう、と思う。この棘は何で、あの蛇は何で、この世界は何で、どうやったら元に戻れるのだろう、と考えた。
「やだ! 本当にっ?」
女がふいに大声を上げたから、弟子はつい足を止めた。ちょうどすぐ隣にあった柱の陰に背を預け、何ともなしに聞き耳を立てる。
「クロエが駆け落ちって……どこの誰と?」
「レザンバサドゥールの楽士ですって。確か、コントラバスか何かの」
「それってまさか……アロイスじゃないでしょうね?」
「よく知ってるわね。そんな名前だったわ」
「嫌だ、最悪! 彼はあたしが狙ってたのに!」
「あら、そうだったの? それは残念だったわね」
「それもクロエですって? よりにもよってあんな性悪女に!」
「でも良かったわ」
「何が良かったって言うのよ」
「だって、クロエじゃなかったら、あなたがアロイスと駆け落ちしてたかもしれないでしょう? そうなったら、あたしはここで独りぼっちよ。寂しいわ」
「何よ、しおらしくしちゃって。――でも、そうね。心地いい場所を捨ててまで新しいところに行くなんて、馬鹿げてるわ」
「そうよ。あたしたちは、ここで気ままに遊んでればいいじゃない。一人に決めるなんて無理よ、無理。クロエだって、じきに音を上げて帰ってくるわ」
「ええ、あなたの言う通りだわ。それじゃあ……――そこで盗み聞きしてる色男さん?」
唐突に横から抱き締められて、弟子は飛び上がった。きついコロンが柔らかい腕と一緒に、蛇のように絡みついてきた。甘ったるい声とふくよかな胸が、弟子に押し付けられる。
「あたしと遊んでよ、ねぇ」
「えっ、いえっ、あのっ!」
「すぐに全部忘れて、気持ち良くなれるわよ。怖ぁい蛇もいないし」
「や、やめてくださいっ……」
「いいじゃない、おいでなさいな」
女は、白い手袋をはめた細い指を、弟子の頬に滑らせて引き寄せた。そして、ほとんど吐息に等しい囁きを、耳に吹きかける。
「怖いものは見ないのが一番よ。痛いのだって、すぐ治すに限るわ。疲れてるんなら休みなさいな、ね? あたしが癒してあげる」
弟子は、自分の中身がぐらりと揺らぐのを感じた。心の杯が傾いて、今にも女の方に倒れそうである。それで、女の方を向いた。
女は美しいブルネットの髪をしていた。瞳は青く、少し潤んでいた。淡い水色のドレスは生地が薄く、豊満な胸が直に感じられた。どことなく遊び慣れた風情だったが、縋りつくような目付きが弟子の心を奪った。
遊びたい、と弟子は思った。このまま、享楽に身を任せてしまいたい。そうすれば、傷付くことも、傷付けることもないのだ――と弟子は分かった――どこへも行けない、何にもなれない代わりに。
弟子は唾を飲み込んだ。
「で、でも、僕は――」
「あなたは、なぁに?」
「僕は、何も出来ない人間のまま、終わりたくない。何かになりたい――やっぱり、魔導師になりたいんです。だから――」
「そのために、あたしを捨てるの? あたしを傷付けるの? そこまでする意味があるの? ――そこまでして、なれなかったらどうするの?」
「っ……」
「ここでもいいじゃない。ここにもきっと、あなたを満足させるものはあるわよ。魔法使いだって、どうせ他人に引きずり込まれた世界なんだもの――捨てたって、誰も責めやしないわ」
「……」
「誰かが責めても、あたしだけはあなたの味方よ。だから、ね……?」
弟子は目を瞑った。息を吸う。強烈なにおいが肺を満たして、鼻の奥がつんとした。
そして、
「《
「きゃっ!」
本当は手放したくない温もりを、遠ざけた。
悲鳴を上げて尻餅をついた女性が、金切り声を上げる。
「絶対に後悔するわ! あなたは絶対に後悔する! どうして……どうしてあたしを捨てるのよ! どうしてみんな、あたしたちを切り捨てて行っちゃうのよ!」
弟子の心はまだ揺れ動いていた。揺れ動く心を抱えたまま、彼は一歩後退った。刺さりっぱなしだった棘の痛みがぶり返してきて、今すぐ彼女の胸の中に飛び込みたくなった。だというのに、その衝動が強くなればなるほど、彼の足は反対に後退っていった。
カフェに座っていたもう一人の女性が立ち上がって、尻餅をついたまま泣き出した女性の肩に手を置いた。
「大丈夫よ。きっと、彼もすぐまた戻ってくるわ。人間って、そんな強くはないもの」
黒髪の彼女は、弟子を見て微笑んだ。
「いつでも、おいでなさい。あたしたちはずっと、ここで待っていてあげるわ」
弟子は頷いた。そうして、パッと踵を返し、走り出した。街路を抜けて、滔々と広がる暗闇の中へ。
6
「《
弟子は暗闇の中で叫んだ。彼が先生に習い、ようやく使えるようになった、たった二つの魔法。《発見》と《防衛》。この二つが出来れば大抵の難は乗り越えられる、と先生は言ったのだった。
弟子は強く思い描いた。自分が行きたい場所を。自分がなりたい人間を。それは先生の工房で、それは先生のような魔導師だった。信じ、思いこみ、決め付ける。それが魔法の使い方だ、と先生は言ったのだった。
弟子の目の前に光が広がった。
気が付くと、彼は舞台の真ん中に立っていた。スポットライトが当てられている。音楽が鳴り響いている。シューベルトの『魔王』。魔王が子供の魂を連れ去ってしまう物語。バレリーナたちが弟子を取り囲むように、円を描いて踊っている。観客席は暗いが、見られていると肌で感じた。
シュー、シュー、と刃物を研ぐような音がして、氷のような息が首筋にかかった。
弟子は急いで振り返った。
大きな蛇がそこにいる。怪しげに光る真っ赤な瞳が、弟子をしっかと捉えている。二つに割れた舌先を脅すように見せつけて、大蛇はシュー、シュー、と唸りを上げる。
弟子は唾を飲み込んだ。無様に震える拳を握りしめて、今にも逃げ出しそうな膝を抑え込んだ。大蛇を睨みつける。
どうしようもない恐怖が、弟子の心を何度も殴りつけた。大蛇を倒す方法は無い。あったとしても、今の弟子には扱えない。本当に、どうしようもないのだ。その現実に何度も何度も殴られて、弟子は倒れてしまいそうになった。
しかし、弟子は両足でしっかりと踏ん張って、大きく息を吸った。信じ、思いこみ、決め付けろ、と自分に言い聞かせる。細く長く息を吐く。それから今度は勢いよく息を吸って――
「助けてください、先生っ!」
――と、叫んだ。
瞬間、『魔王』の演奏がぴたりと止んで、よく分からないポップなテーマが流れ出した。そして指揮者が振り返った。オーケストラボックスから弟子を見上げるその顔は、間違えようもない、彼の先生であった。
「よくぞ私を呼んだ、我が弟子よ! 覚悟は出来たのかっ?」
「はいっ!」
「あっはっは! この嘘つきめ!」
弟子の精一杯の虚勢を、先生はあっさりと看破した。弟子が気恥ずかしげに顔を俯ける。
「――だが、それでいい。人間は迷うものだ。まして未成熟の青年となれば尚更、迷って然るべき存在だ」
「……」
「大いに迷え! ただし立ち止まるな! 進むなら与えん、我が炎を! 要するに――邪魔なものは、燃やしてしまえ! 例えばそこの、大蛇とかな!」
先生は高々とそう言って、指揮棒を振り上げた。その瞬間、金色の光が辺りに散らばって、弟子の胸元に収束した。そしてその光の塊が、弟子の中に吸い込まれるように入っていった。すると、彼の頭の中に、唱えるべき文言が浮かび上がってきた。
弟子は大蛇を再び睨みつけた。足も手も震えているが、先程まで酷くはない。恐怖はあったが、逃げるつもりはなかった。
シュー、シュー、と大蛇が脅すように息をする。
弟子は手を振りかざし、吠えた。
「《
一瞬で火柱が上がり、その中で大蛇が唸りながらのたうち回った。煌々と燃え盛る炎に、弟子の視界まで焼かれていく。白く、白く、染め上げられていく視界の隅で、先生が笑ったのを弟子は見た。
「安心しろ。大人になるために必要なのは、切り捨てることじゃない」
7
弟子は目を覚ました。二度寝をした休日のにおいと、ポテトチップスのにおいがした。見慣れた天井がある。シューベルトの『魔王』が聴こえる。
「やあ、弟子よ。優雅な休日を過ごしたようだな」
「先生……」
弟子はソファの上で起き上がった。掛けられていたブランケットが床に落ちた。弟子はそれを拾いながら、テレビに向かっている先生の背中へ問いかけた。
「どちらに行っていたのですか?」
「ちょっとアイスが食べたくなって、コンビニに」
「はぁ……そうでしたか……」
「それで帰ってきたら、君がまんまと悪魔に引っ掛けられていて、正直笑い転げた」
「はっ?」
「あの絵に憑いていた悪魔はな、見る人間の精神の揺らぎに付け込み、魂を食らうんだ。私の精神は揺らぎようがないから、別に害はなかろうと放っておいたのだが、やっぱりお前は付け込まれたな! あっはっは!」
「はぁ……」
この先生を見ていると、弟子は何故だかとても焦った。服は脱ぎ散らかすし、お菓子は食べかけで放置するし、ゲームはやりっぱなし出しっぱなしで、突然ふらっと出かけてしまう。自由奔放で、傲岸不遜で――自信満々な、万能の魔導師。
「弟子よ」
「はい」
「魔法の使い方、三原則を言いたまえ」
「――信じること、思いこむこと、決め付けること」
「よろしい。それを忘れなければ、不可能は可能になる」
「……」
弟子はしばし、先生がプレイするゲーム画面を見つめた。『魔王』のテーマをバックに馬を走らせ、コインを集めていく。先生は慎重に、しかし大胆に、難関という難関を乗り越えて、ゲームをクリアに導いた。『魔王』が終わり、よく分からないポップなテーマが流れた。先生は子供のように、拳を振り上げた。
「よっしゃっ! クリア! うぇーいっ!」
「先生」
「ん? なんだい?」
上機嫌な先生に向かって、弟子はにっこりと笑いかけた。
「今度、脱いだ服を床に放置したら、そのゲームデータ燃やしますね」
「んなっ!」
先生は目を剥いた。
「なんって酷いことを! そんな非道な行いが許されると思ってるのかっ?」
「洗濯物を洗濯機に入れてくれれば済む話です」
「それが弟子のすることか!」
「先生が先生なら弟子も弟子、ですよ。人が嫌がることをするのは、得意でしょう?」
「――ふんっ。まぁね」
先生は鼻を鳴らした。弟子はソファから降りて、脱ぎ散らかされた衣服を拾い始めた。
おしまい
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