八月一日と黒山羊 はじまり

はじまり



 少年は世界に絶望した。世界に絶望したということは、自分に絶望したということである。したがって彼は、世界を終わりにしようと決めた。世界を終わりにするということは、自分を終わりにするということである。

 すなわち自殺である。

 だから彼は、地元の一級河川に架かる大きな橋の上に立ち、時が満ちるのを待っていた。

 死ぬ日は自分の誕生日を選んだ。お誂え向きに、昨日は台風の影響を受けた土砂降りで、川は見事に増水していた。これなら確実に死ねるであろうと、素人考えでも確信できる濁流。

 八月一日まで、あと三分。その日になった瞬間、彼は橋桁の隙間から飛び降りる。

 彼は時計を見ながら、歩道の上をゆったりと歩いていく。車が一台、けたたましい音楽を流しながら通り過ぎていった。ハイビームのヘッドライトが、彼を切り裂くようにした。

 あと二分。少年の心は少しも揺らがなかった。揺らぐような余地は無かった。隙間なく詰め込まれた劣等感が、心の居場所を失わせていた。あと一分。少年の頭は何も思わなかった。思うような過去は無かった。積み重ねられた暴力の歴史は、日常的過ぎて特別性を失っていた。

 切れかけの外灯が明滅し、少年の顔をランダムチェックにする。光に蛾が集まっているのを、少年は緩慢な動作で見上げる。

 頭を下げ、勝手に持ち出した時計を見る。あと三十秒。そろそろだと思い、彼は足を止めた。欄干を乗り越え、橋桁の鉄柱の間に立つ。

 夏の夜の風が吹いた。湿り気を多分に含んだ重たい風。それは少年の髪の毛を乱した。

 最後に彼は、もう二度と生まれたくない、と思った。生まれ変わりがあるとしたら、確かにそれは呪いである、そこから逃れられるならば悟りを開くのも悪くないな、と、そう思った。そして宙に足を踏み出した。

 闇に落ちていく。





「――――っ!」


 彼は地面に叩き付けられ、息を詰まらせた。おかしい、明らかにダメージが少ない、と彼は混乱しながらも考えた。橋から水面までは優に十数メートルはあったはずである。それなのに何故。しかも何故、川の中でなく、地面の上にいるのか。

 少年は、混乱を極める頭をゆっくりと起こした。辺りは真っ暗であった。生易しい夜ではなく、本当の真っ暗闇。そのところどころに、薄ぼんやりとした灯りが灯っている。そこに人の影があるのが見えた。大抵が二人連れで、時折四人連れだった。彼らは、談笑をするような素振りを見せながら、灯りの下から闇の中へ、或いは闇の中から灯りの下へ、出たり入ったりしている。総じて前に向かって進んでいるようだった。

 少年は想定外が過ぎる事態に呆然として、座り込んでいた。自分が死んだかどうかすら怪しまれた。心臓は早鐘を打っていた。

 その時ふいに背中を蹴られて、少年はびくりと振り返った。


「おっと、失礼」

「どうした?」

「誰かを蹴ってしまったようです」


 穏やかな声が聞こえて、それがぐっと近付いた。蹴ってきた相手がしゃがみこんで、ようやく顔が見えた。眼鏡をかけた、優しそうな男性であった。


「ごめんよ、君。見ての通り真っ暗なものだから、気が付かなかった。怪我はないかな?」


 少年はぼんやりと頷いた。


「良かった。それにしても君、一人かい? 先生は?」

「……」

「はぐれてしまったのかな。まぁいいや、とりあえず、おいで。そこに座っていたら、また誰かに蹴られてしまうだろうから」


 男性は彼に向かって手を差し伸べた。少年は、その手の意味するところが理解できなくて、じっと固まっていた。

 男性は困ったように、反対の手で頭を掻いた。


「おい、迷子」


 男性と一緒にいたもう一人が、高慢な声で言った。女性の声だった。


「いいから、早く立て。でないと煮て潰して食っちまうぞ」

「先生」

「お前も、早く立たせろ。あたしは愚図な男と汚い女が嫌いなんだ。知ってるだろ」

「ええ、知っていますとも。さ、君、立ってくれ」


 男性は手を掴んでもらうのを諦めて、少年の細腕を取った。それは実に遠慮深く、気遣いに満ちた優しい手付きであった。しかし、少年は激しい嫌悪と恐怖に襲われた。男性の所為ではない。少年にとって、他人に触れられることは苦痛でしかなかった。彼の記憶がそう証言し、彼の体がそう断言している。だから、少年は無意識の内にその手を振り払っていた。

 少年はさっと立ち上がり、駆け出した。人々が向かっているのとは逆の方向へ走っていく。


「ちょ、ちょっと、君!」


 男性の声が聞こえたが、少年は止まらなかった。





 少年は随分と走って、ようやく足を止めた。死んでいるはずなのに、何故か息が上がっていた。生きていなければ息は上がらない、つまり自分は死んでいないということだろう、と少年は考えた。

 どういうわけだか、少しだけ暗闇が薄らいでいる。灯りがなくとも周りが見える程度には。

 向こう側に森がある。黒い糸杉が屹立する、どこか不吉な姿をしていた。少年の敏感な鼻は、不思議なにおいを感知していたが、それが硫黄によく似たにおいであると少年は知らなかった。

 少年は森を目指して歩き始めた。

 目的を決めて歩き出すと、少し気が紛れた。少年は歩きながらたくさん考えた。何故自分は死んでいないのだろうか。橋から飛び降りたのではなかったのか。さっきの人たちは何だったのか。そもそも此処は何処なのか。色んなことを考えたが、解答は一つとして得られなかった。算数だったら良かったのに、と少年は思った。それで、九九を頭の中で諳んじ始めた。

 それが六の段に差し掛かった頃、少年は森の入り口に辿り着いた。遠くから見ても不吉だった糸杉が、いよいよ不気味に、少年の旋毛を見下ろしている。


(六一が六、六二十二、六三十八)


 森には道が無かった。獣道の類も見られない。少年は一瞬だけ躊躇したが、すぐにまた歩き出そうとした。


(六四二十四、六五三じゅっ!)


 突然後ろ襟を掴まれて少年は爪先立ちになった。首だけでどうにか後ろを向く。

 怖い顔の老人が少年を見ていた。そして、


「おい、餓鬼」


 と言う。

 言われた当の餓鬼は、まさしく餓鬼らしい細い肢体をしていたし、それらしい目付きで老人を睨み付けた。


「どうしてこんなところにいやがる。先生はどうした? ン?」

「……」

「どこの工房の弟子だ。言ってみろ、ホレ」

「……」

「うんとかすんとか言ってみやがれってンだよ、コラ!」


 短気な老人は並々ならぬ気迫で少年を脅した。しかし彼は死すら覚悟した身である。一切動じなかった。

 老人は痺れを切らして、舌を打った。


「あァそうかい、だったらいいや、こっちにも手がある。こいつァ正当な理由だよな、生意気な餓鬼を先公ンとこに送り返してやるためなンだからよ」


 吐き捨てるように言って、彼は爪先を上げた。不可思議なリズムで地面を打つ。と、そこから金色の光の粒子が煙のように立ち上った。少年は息を飲んだ。その拍子に、なのか、元からそういう仕様だったのか、煙は彼の中に入り込んだ。何の味もにおいもしなかった。けれど、誰かに中身を覗かれているような、そんな僅かな不快感を覚えた。

 しばらくして、


「――そうか。そうだったのか」


 妙に憂いを帯びた声で老人は言った。それから、彼は少年の襟を放した。

 唐突に解放されて、少年は思わず尻餅をついた。その脇に老人が膝をつく。


「餓鬼なンつって悪かったな、小僧」


 少年は、態度を急変させた老人を、不審がる目で見た。


「お前、声出せねェンだな」

「っ!」


 少年はびくりと肩を震わせた。老人の言う通りであった。少年は生まれつき声が出せない。その所為で、あらゆる悪逆非道にも声を上げられず、俯くばかり。卑屈な態度は更なる悪意を呼び寄せ、少年を負の渦に巻き込んだのだった。

 何故分かったのだろうか、と目を剥く彼を、老人は真正面から見据えた。

 少年は酷くいたたまれない気持ちになった。どうしてだろうか、この老人に見られていると、落ち着かなかった。老人の、皺だらけで重たげな瞼の向こうにある瞳が、鋭く光っていた。それでいて、今まで少年が見てきたどの大人とも違って、そこに凶器の怖さが感じられないのである。


「まだ死にてェか、小僧」

「っ……」


 少年は一瞬だけ眉を歪めたが、しかしはっきりと頷いてみせた。


「そうか」


 老人は言葉少なに立ち上がった。少年の目は自然と彼を追っていた。

 節くれだった指が、森の奥を差す。


「だったら、この森に入れ。そしたら死ねる。楽じゃァねェだろうが……いや、上手く正気を失えれば、いっそ楽かもしれねェな」

「……」

「その代わり、こいつを持ってけ」


 老人はパチン、と指を鳴らした。金色の光が、彼の大きな手の中に集まる。彼が手を開くと、そこには金色の笛があった。

 老人はそれを、少年の腹の上に放り投げた。


「気が変わったらそいつを吹け。そしたら、まァ、なんとかしてやるよ」


 そう言って、老人は踵を返した。少年はそのしゃんとした背中を見つめたが、彼が振り返ることはなかった。そのまま、彼は闇の向こうに消えてしまう。


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