八月一日と黒山羊 おしまい


 少年はしばらく、金色の笛を手のひらの上に乗せたまま考えていた。笛は小ささのわりに重たくて、手のひらにしっとりと吸い付くようだった。ほのかに光っているようにも見えたが、色の所為だろう。

 それから彼はおもむろに立ち上がる。この先へ進んで死ななければならない、と、まるで義務のように思った。

 森の中に踏み入る。靴底が踏んだ土の感触が酷く冷たい。おぼろげな知識が、森とはもっと柔らかいものである、と告げていたが、それを補強する証拠はない。少年の知識が書き換えられ、森とは冷たくて硬く、静かで暗い場所だ、と再定義する。

 静かである。どこまでも静かで、何も聞こえない。風ひとつなく、木の葉が擦れ合う音すらない。少年の足音さえ、立てた瞬間に消え去った。吸い込まれるようだ。音だけでなく、自分までも。彼は己の声だけでなく、周囲の音まで失った気分に陥った。眼球の奥がつんとした。

 整然と並ぶ糸杉が果てしなく続いている。前はもちろん、右を見ても、左を見ても、ひたすらに木の幹が並んでいる。頭上は、痩せ細った糸杉の枝が網のように行き交っていたが、その向こうにあるはずの空は見えなかった。ただ、暗闇が揺蕩っている。


 少年は歩く。右手に笛を握りしめ、冷たい土を踏む。


 それなりの距離を、少年は歩いたつもりだ。とはいえ、少年の歩幅ではいくらも進んでいない。体力のない少年は息を切らして、後ろを振り返った。入ってきた場所は見えなくなっていた。

 どこまで行けば死ねるのだろう、と少年は考えた。餓死するのは嫌だと思った。適当なところで首でも吊った方がいいのかもしれない。いや、木に登って、頭から落ちれば、もっと簡単に死ねるだろう。

 そう思った少年は、手近な木の幹に手を掛ける。木登りは得意だ。逃げるために得意にならざるを得なかった。彼は最初の枝に手を伸ばした。すると、その手が、誰か別の人間の指先に触れた。見上げれば、木の枝に腕が引っかかっている。


 力なく垂れるその腕には、肘から上が無かった。


「――っ!」


 少年は飛び退き、勢い余って尻餅をついた。目が釘付けになってしまって、見ていたくないのに離せないでいた。きっとあの腕はマネキンだ、と少年は思おうとした。だからあんなにも冷たくって、ちょっぴり柔らかくて、指先が腐ったように黒ずんでいて、断面から接合部が骨のように飛び出ていたんだ、と。考えれば考えるほど、やっぱりあれは本物の腕だったような気がしてきて、少年はますます目を離せなくなった。

 ずるずると後退する。腕を見たまま、地面を這うようにして、下がる。背中が何か硬いものに当たる。木の幹だ、と分かっていたが、反射的に振り返る。少年の目が腕から剥がれて、背後の木に到達する。到達した後に、来た道を戻って、先程見逃したものを改めて見る。

 糸杉と糸杉の隙間。ここよりもずっと奥。少年の進行方向とは少しずれた場所。そこに、一頭の山羊がいた。最初、少年は自分が見間違えたのだと思ったが、それは思い違いだった。

 黒い山羊は横を向いていた。鋭く尖った角が、ぐるりと小さな円を描き、捩じれながら天を指している。全身真っ黒で、夜になったらどこにいるのか分からなくなりそうだ。だというのに、これまた黒い目の位置は、はっきりと分かった。というのも、その山羊の目は、黒の中でも更に黒く、虚ろな闇を轟々と湛えていたからだ。

 山羊はのたのたと歩いていた。どうも少年には気付いていないようである。山羊は、どこか覚束ない足取りで、一本の糸杉の根元まで来ると、首を下げて何かをくわえた。

 静謐な空間に、ぽき、ごり、と何か硬いものを咀嚼する音が響き始める。クルミの殻を割る音に似ていた。少年は、どうしてだか、自分が殴られている時を思い出した。

 少年は目を凝らして、山羊の口元を見た。黒ばかりある空間に、白は目立った。白いのは山羊の歯であり、山羊のくわえる骨であった。骨は途中から肉を纏っていた。ところどころが朽ちているそれは、しかし確かに足の形をしていた。


 ――山羊が、人間の足を食っている。


 おぞましい光景を理解して、少年の産毛が逆立った。歯がカチカチと鳴る。息を吸うことも、吐くことも出来なくなって、行き場を失った酸素が口腔内を右往左往する。すぐにでも逃げ出したくなったが、その意思に反して足に力が入らない。

 その時、ふ、と、山羊がこちらを向いた。

 黒い目――あれを、目、と呼んでいいのかどうかは分からない。どちらかというと穴――が、少年の姿を捉える。

 少年と山羊は、寸の間、見つめ合った。


 次の瞬間、山羊の首がずるりと落ちた。


 少年の目の前で、糸で切られた粘土のように、滑らかに落ちた首は、ぼとりと土の上に転がった。それがどろりと腐敗し、溶ける。首を失った山羊の体は、しかしそのまま立っていた。そしてその、まっさらな断面から、蔦のような、木の枝のような、長くしなる触手が伸び上がる。


「っ―――――――!」


 少年に声があったなら、その絶叫は森の外にまで届いたに違いない。実際、音こそ出ないものの、彼の細い喉は張り裂けそうになった。ぐしゃり、と、心がひしゃげて潰れる音がした。死する覚悟など何処かに吹き飛んでしまっていた。あまりの恐怖に、彼は気を失いそうになった。

 そこで彼は、老人に渡された笛のことを思い出した。そして反射的に、何も考えず、それを思いきり吹き鳴らす。

 ピィーッ、と甲高い音が虚空に響き渡る。瞬間、それまでただ空中でうねっているだけだった触手が、ぴたりと動きを止めた。

 少年は嫌な予感を覚えた。山羊の蹄がこちらを向いて、一歩踏み出される。みし、と地面が振動した。


「っ……っ……!」


 あの怪物は目が見えていないのではないか、と少年は遅ればせながら思った。だとしたら、何を頼りに獲物を探す? ――におい、風、熱……それから、音、だ。

 少年は荒ぶる呼吸を必死に押さえ込んだ。震える手足に、少しずつ、少しずつ力を込めて、そっと立ち上がる。慎重に後退っていく。絶対に音を立てないように。次はっきりと気付かれたら終わりだ、と、本能的に感じ取っていた。


「っ!」


 不意に、少年の足が何かぬめるものを踏んづけた。それに足を取られて、彼はその場にひっくり返った。背中から地面に叩き付けられ、大きな音が鳴った。焦った少年は、慌てて立ち上がろうと手をついて、何かに触れた。それは、液体と固体の中間にあるような、スライム状の感触をしていた。彩度を極端に落とした赤紫色のような、形容しがたい色をしている。少年はそれを、テレビドラマの中で見たことがあった。どの部位か、までは分からない――分かりたくもない――が、内臓である。少年の呼吸が止まる。

 山羊が、耳を劈く声で嘶いた。

 もはや何も構っていられず、少年は転げ落ちるように走り出した。が、いくらも行かない内に、触手に足首を絡め取られて転倒する。


「っ! ぅっ! ぁぁっ!」


 触手のこの生理的な嫌悪感を煽り立てる触感もさることながら、何よりもその力強さである。少年の小柄な体躯は、呆気なく引き摺られる。土に爪を立てるが、僅かな抵抗にもならない。無茶苦茶に振り回した手が木の幹に掛かった。必死にしがみつこうとする。木の皮が皮膚に突き刺さる。しかし山羊の方が圧倒的に強く、少年の皮膚が裂けた。爪が剥がれ、遂に彼は引き剥がされる。

 初めて、少年は自分の人生を思った。涙が滲んだ。生まれなければ良かった、と、心底思った。こんな恐怖を味わうくらいなら、生まれないほうがマシだった、と。少年は目を固く閉じた。

 その時だった。

 パンッ、と手を打つ音が聞こえた。少年の足が解放され、地面に落ちる。


「っ!」

「よォ、間に合ったな。こンだけここにいて五体満足とはすげェじゃねェか」


 老人の声がしたので、少年はゆっくりと目を開けた。老人がすぐ傍にしゃがみ込み、少年の顔を覗き込んでいる。


「大丈夫か、小僧」

「――っ、――っ」


 少年は泣きじゃくりながら、差し出された手を必死に掴んだ。普通の人間の手にこれほど安心する日が来るとは、夢にも思っていなかった。


「よし、それじゃあ、行くとするか」

「あぁ、行け。あとは私に任せろ」

「いいのか、パンドジナモス」

「私を誰だと思っている? 万能の魔導師だぞ? 私に出来ないことなどない」


 万能の魔導師はニヤリと笑った。それからすぐにその笑みを消して、溜め息をひとつ。


「……代わりと言っては何だが、そこで正気を失っている我が不肖の弟子を、一緒に連れていってはくれないか」

「了解。任せな」

「悪いな」

「そりゃあこっちの台詞だぜ。――っと、やっこさん、来るぞ」

「分かっている。――《BLASTふきとべ》!」


 言葉が突風を呼び、轟音を撒き散らした。目を白黒させる少年を、老人はひょいと抱え上げた。それから、魂を抜かれたような顔で棒立ちになっている青年を、反対の腕に引っ掛ける。そうして、彼が不思議なリズムで右足、右足、左足、と踏み出し、踊るように一回転すると、少年たちの視界はぐるんと歪んだ。




 少年がひとつ瞬くと、そこはすでに森の外だった。最初に彼が老人と出会った場所である。

 老人は地面に二人を下ろした。青年はくたくたとへたり込んでしまった。


「無事か、イホス」

「おう、まァな。こいつらを見てやってくれねェか、エレオス」

「仕方ないな。にしても、万能のの弟子にしちゃあ、根性ないじゃないか。こっちの坊やの方が、ずっとしっかりしていやがる」


 吐き捨てるように言いながら、女性は少年の顔を覗き込んだ。少年は慌てて目の周りを擦った。


「さっきぶりだな、坊や」


 そう言われて、少年は声の主に思い至った。あの暗闇の中で会った人物だ。言葉遣いから想像するより、ずっと女性的で、綺麗な人である。


「掠り傷だな。その程度で済んで、何よりだ」


 彼女はにこりともせず一方的に言うと、青年の方に行ってしまった。彼女に付き従っている男性が、少年へ微笑みかけて、小さく頭を下げた。


「なァ、小僧」


 唐突に話掛けられて、少年は頭上を振り仰いだ。老人は、どこかに決意を秘めた声をしていた。


「お前に、帰る場所はねェ」

「っ……」

「居場所もなけりゃ、味方もいねェ。はっきり言って、地獄だろ、お前の世界は」

「……」

「だが……その……」


 老人は迷うように、髪を掻き毟りながら、しゃがんだ。少年と目線を合わせる。


「……イホスの工房は、俺や、お前みてェな連中と縁が良いらしい。つまり――お前みたいに喋らんねェとか……俺みてェに、聞こえねェとか」

「っ!」

「あァ、聞こえてねェンだよ、これ」


 と、老人は自分の耳を指差した。


「今は魔法で補ってるけどな」

「……」

「で、だ。つまりその……お前、俺の弟子になンねェか?」

「……?」


 少年は首を傾げた。話の繋がりがよく分からなかったのだ。老人は落ち着きなく首筋を擦った。


「お前には才能があると思うンだよ。イホスの魔法を扱う、な。さっきみてェな化け物もいれば、もっと怖い奴もいる世界だが――少なくとも、生きていくのに不自由はねェし、退屈もしねェよ」

「……」

「俺の弟子になれば、魔法を教えてやれる。世界の生き方を教えてやれる。元の世界には戻れねェが……どうだろうか?」

「……」

「元の世界に戻りたいならそうしてやる。そっちで当初の予定通り、自殺しようってンでも、止めねェよ。全部、お前が決めることだ」


 老人の目がしっかりと少年を見ていた。ところが、先程までのような居心地の悪さを、少年は感じなかった。

 彼はその小さな頭の中で大いに考えた。結論は案外、すぐに出た。

 少年は、弟子になりたい、と言った。当然、音は出ない。しかし、伝わるという確信があった。事実、その声は老人に届いたらしい。


「そうか。それじゃあ、これからよろしくな、小僧――いや、弟子よ」


 老人が穏やかに笑い、手を差し出す。少年は、その手が意味するところをよく理解した。そして、深く頷いて、その手を取った。



おしまい



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