パンドジナモスは平凡を嫌う。

井ノ下功

リアリズムとドガ はじまり

はじまり



「先生!」


 今日も弟子の怒号が響いた。彼の足元には衣服が散らばっている。ゲームが画面上で点滅し、食べかけのポテトチップスがカピカピになっている。


「どこに行ったのですか、先生!」


 弟子は何処とも構わず怒鳴りつけながら、カーテンをめくり上げた。誰もいない。絨毯の裾をひっくり返す。誰もいない。ソファの下を覗き込む。誰もいない。

 弟子はゆっくりと、深く深く息を吸った。止める。細く長く吐き出す。もう一度、今度は勢い良く吸い込んで、


「《I FOUND~つけた》!」


 と宣言した。

 瞬間、何か目に見えぬ力が空間を席巻して、彼の視界を金色と灰色の世界に変えた。魔力がある部分を金色に、無い部分を灰色に見せている。金色なのは、先生が作った魔法具か、そうでなければ先生本人であろう。

 果たして、彼の目は先生と思われる人物を捉えた。壁に掛けられた絵画。ドガのレプリカ。最近増えた先生のコレクションである。そのオーケストラボックスの中に、一人だけ魔力を纏った人がいる。バレリーナの方ばかりを見て、演奏が疎かになっているヴァイオリニストであった。

 弟子は躊躇なく、絵の中に手を突っ込んだ。ズブリ、と豆腐のような感触を味わいながら、彼の腕はずんずんと奥へ入っていった。

 肩口まで絵に埋まった頃、指先がようやく求める人物の襟首に届こうとした。

 その時である。

 ぐるり、とヴァイオリニストがこちらを向いて、弦を放り出した。そして、弟子の手首を掴んだ。


「あっ!」


 と言った時にはもう、彼は絵の中に引きずり込まれていた。





 ぐん、ぐん、ぐぅん、と、極彩色の中を落ちていく。一瞬が何千倍に引き延ばされたかのようであり、何千年が一瞬に圧縮されたかのようでもあった。奇妙な浮遊感と3D酔いに似た混乱。弟子は気持ち悪くなった。

 不意に、ポンッと放り出されて、彼は固い床に両手をついた。安定した場があるということが如何に幸福なことか、彼はこの時初めて知った。

 幸せをしばし噛み締めてから、ここはどこだろうと彼は思った。立ち上がる。

 辺りを見回すと、どうやら劇場であるらしいとは分かった。状況から鑑みて、絵の中のオペラホールに放り出されたのだろうとも推測できた。しかし、ホールはがらんどうで、人っ子一人いないのだった。バレリーナたちも楽員たちも、客もいない。だというのに、彼が独り立っている舞台には、明かりが点いているのである。それが余計に物寂しさを助長させていた。

 弟子は何度か唾を飲み込み、今すぐ帰りたい、と思った。

 ふと、カタンッ、という音が空洞に響いた。彼は両の肩を跳ね上げ、素早く振り返った。舞台袖の幕が、今まさに揺らされましたという体で蠢いていた。誰かがいたらしい。弟子は反射的に駆け出した。

 幕に手を掛け、舞台裏を覗き込む。と、すぐそこに、バレリーナの格好をした少女が立っていた。弟子は危うくぶつかりかけて、ギリギリのところで立ち止まった。

 少女はじっと弟子を見上げていた。


「あなた、魔法使いね?」

「いえ、僕は――」

「魔法使いの魂は美味しいのよ。知ってた?」

「――そうらしいですね」

「だから、あたし、魔法使いを食べちゃうの」

「僕は弟子です! まだ魔導師じゃありません」

「そうなの? それは――少しだけ、残念ね」


 そう言って少女はにこりと笑って、弟子へ手を伸ばした。


「《CANさわ NOT TOUCHない》!」

「きゃあ!」


 咄嗟に言い放った魔法が少女を弾き飛ばした。


「あぁ……酷い人。なんて酷い人なのかしら」


 不穏な調子で呟きながら、ゆらりと立ち上がった少女は、もう少女の姿をしていなかった。パリ、パリ、と聞こえるのは、鱗が次々に生えてくる音である。可愛らしいバレエの衣装は、鱗に押し上げられ千々に引き裂かれた。瞳孔が縦に裂け、真っ赤な光を怪しげに灯した。口が横に裂け、真っ赤な舌の先が二つに分かれた。やがて顔も鱗に覆い尽くされ、少女は完全に大蛇と化した。

 シュー、シュー、と大蛇が呼吸する。自分の胴体よりも二倍は太く、自分の身長よりも三倍は長い大蛇を前に、弟子は強い恐怖を覚えた。全身が固まり、動けない。それでも、


「うわっ!」


 飛びかかってきたのを、本能的に、間一髪で躱した。

 弟子はそのまま、舞台へ転がり出た。


 そして、目を疑った。思わず足が止まる。


 空白だったはずの劇場が上演を行っていた。オーケストラがこちらの不安を煽るような音楽を奏でている。バレリーナたちが弟子を取り囲み、円になって踊っている。席いっぱいの観客が、囃し立てるようにこちらを見ている。

 絃が冷たい音色を刻む。管が重たい拍動を打つ。シューベルトの『魔王』。子どもの魂が魔王に連れていかれる一幕。

 シュー、シュー、と蛇の吐息が、刃物を研ぐ音に聞こえた。弟子はその音にがんじがらめにされて、動けない。さっきから唾を飲み込もうと躍起になっているのに、いたずらに喉仏を上下させるだけで、まったく上手くいかない。

 立ち尽くす彼の首筋に、ぽたり、と蛇の冷たい唾液が落ちた。蛇はもうすぐ後ろにまで迫っていた。頭から丸呑みにされると思って、弟子は強く目を瞑った。

 ――その時、盛大な破砕音が鳴り響いた。

 打楽器奏者がシンバルを蹴倒したのだ。空気を読まない傍迷惑な騒音が演奏を中断させ、バレリーナたちを振り返らせた。強制的に生み出された沈黙に、がらんがらんがらん……、とシンバルが回って、止まる。

 弟子ははたと我に返り、走り出した。棒立ちになっているバレリーナを押しのけ、思い出したようにブーイングを始めた観客の合間を縫い、劇場の外へ踊り出る。





 限界まで走って、弟子は堪え切れず立ち止まった。膝を支えに両手をつき、肩を上下させる。無理やり深呼吸をして、息を落ち着ける。

 弟子が顔を上げると、そこは一面草原だった。小さな柵があり、その向こうで馬に乗った人々が悠々と闊歩している。柵の手前には見物人たちがたむろっていた。みな銘々に着飾っている。

 競馬場だろう、と弟子は思った。先生のコレクションの中にこんな絵があったことを思い出す。


「ねぇ、君」


 唐突に話しかけられて、弟子はびくりとした。

 自分より幾分か若い青年が、いつの間にか隣に立っていた。小奇麗なスーツを着ていて裕福そうである。しかしどこか皮肉げな顔付きをしていた。


「僕らに出来ることって、何があると思う?」

「――え?」

「僕らはいつだって非力だ。いつまでたっても惰弱だ。何かを出来たような気になっても、実際は何も出来ていない。出来るような気がしても、それは錯覚のことの方が多い」

「そんなことは……」

「ない、なんて言い切れないだろう」


 青年は唇の端を歪めて笑った。


「僕らはいつだって迷っている。いつまでたっても決められないでいる。決めてみたところで、本当に出来るのか、本当にこれでいいのかって、どこまでも醜く迷い続けている」

「……」

「可能性がたくさんある、って、悪いことだよね。それだけ、切り捨てなきゃいけないことが多くて、選び出すのが大変ってことなんだから。――迷った挙句、たった一つを選べなかった人間が、平凡になり下がるんだ」

「僕は――」

「僕は決めた。たった一つに決めた。まだ迷うけれど、でも決して止まりはしない」


 そう言いながら青年は一歩踏み出して、二歩目で消えた。

 取り残された弟子は、青年のように踏み出すことも出来ず、さりとて来た道を戻ることも出来ず、ただ馬が走るのを遠目に見ていた。青年の言葉が胸に突き刺さっていた。木のささくれが皮膚の下に潜り込んだ時のように、内側からじわじわと痛みが広がる。気にしなければ気にならない。気にすれば気になる。気にしても容易くは除けない。


「僕は、先生の弟子だ。だから、いつか、魔導師になるんだ」


 声に出して言ってみたが、なんとなくしっくりこなかった。その理由が分からなかった。

 その時一頭の馬が突然暴れ出して、騎手を振り落とした。そして柵を蹴破って、見物客を蹴散らして、一心に駆け出す。それがこちらへ向かっていることを知って弟子は大いに慌てた。しかし、もはや避けられない。魔法も間に合わない。弟子は目を瞑った。

 全身に衝撃がきて、意識が暗転した。





 暗闇を長らく揺蕩っていた。実際にはそう長くなかったかもしれないが、弟子には長く感じられた。それというのも、目覚めた時に、二度寝をした休日の午後と同じにおいを嗅いだからである。

 何度も瞬きをしながら、ゆっくり体を起こす。痛みはなく、怪我も見当たらない。弟子は辺りを見回す。狭くも広くもない均整のとれた部屋に、暖炉が暖かな光を灯している。その前のソファに人影が二つあった。片方が振り返って、こちらを見た。


「おぉ、おお、起きたかね」


 優しい声が漏れ出でた。白いひげを蓄えた壮年の男性は立ち上がって、ベッドの脇の簡素な椅子に腰かけた。


「いやはや、家の前に倒れていたものだから、驚いたよ」

「そんな行き倒れ、放っておけばよかろうものを」


 もう一人の男性が、振り返りもせずにそう言った。対照的に冷徹な口調だった。


「わざわざ拾ってやるのだから、お前は相変わらずお人好しだな」

「ふふふ、君に褒められると悪い気がしないね」

「……褒めたつもりはないんだが」

「おや、そうだったのかい。私はてっきり、君のいつもの照れ隠しかと」

「なんでもかんでも好意的に受け取るな。鬱陶しい」

「鬱陶しいとは酷いね。――ああ、気にしないでおくれ。彼はいつもああなんだ」


 男はそう言って穏やかに笑うと、弟子に杯を差し出した。水がたっぷり入った、銀の杯だった。ズシリと重たい。弟子はそれを受け取り、膝の上に捧げ持った。


「それで、君は何処から来たんだい?」

「ええと……何て言ったらいいのか……とにかく、こことは違う世界から来ました」

「どうやって来たんだい?」

「何か、分からないものに引きずり込まれて……気が付いたら、ここに」

「それじゃあ、何処へ行くんだい?」

「家に帰りたいのです。僕は、先生を見付けて、帰らなくては」


 弟子がそう言うと、男は小首を傾げた。


「私は、行き先を聞いたのだけれど……まだ、決めていないのかい?」

「あ……ええと……」

「それに、どうやって来たのかよく分かっていないのに、どうやって帰るつもりだい?」

「……」

「分からないのだね」

「いえ、きっと、何か――」

「だから言ったろう。そんな奴放っておくに限るとな」


 冷たい声が弟子を切り伏せた。


「覚悟のない奴は早々に立ち去れ。でないと魂を食われるぞ」

「立ち去れと言われましても――」


 帰り方が分からないのだ、と言いかけて、弟子は言葉を飲んだ。

 手首に、何か冷たいものが巻き付いてきたのだ。そのひやりとした触感は、固いようで柔らかく、冷たいのに明らかに生命を持っていた。

 弟子の心拍数は一気に跳ね上がった。手元を見たくない、そう思ったが、目は止めようもなく下を向いた。

 銀の杯から這い出た蛇が、手首に巻き付いていた。


「わぁああっ!」


 弟子はがむしゃらに手を振り回した。その拍子に放り投げてしまった杯が、男の顔に当たった。彼は額を押さえてうずくまった。


「おい、大丈夫かっ? なんてことをするんだ、お前!」


 もう一人の男が立ち上がって弟子を詰った。しかし、その時にはすでに、弟子は部屋を飛び出していた。


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