不器用な呪い はじまり

はじまり



 完璧な修復には構造の理解が必要不可欠だ。それは、建物だろうが置物だろうが、人物だろうが同じである。

 エレオスの弟子は、人間の目の構造を思い出しながら、パンドジナモスの弟子の両腕を押さえつけていた。エレオスの魔導師が、青年の頭を押さえつけ、彼の目に魔法をかけている。治療に際して痛みは無い。痛みを与えては“慈悲エレオス”から離れてしまう。だが、異常な早さで治っていく体には、発熱と強烈な違和感が生じる。その感覚は消せるものではない。大人しく耐えられるものでもない。むしろ痛みの方が、耐えようと思えば耐えられるだけ良いのかもしれない。

 パンドジナモスの弟子は苦しげに身を捩る。彼の体は綺麗だった。目立った外傷はなく、古い傷跡も無い。先日の一件で無数の怪我を負った、と噂で聞いていたが、どうやら彼の先生が治したようである。


(目は治せなかったのかな。――いや、治さなかったのか)


 エレオスの魔導師が、緩やかで不安定なアルペジオを歌う。青年の、意味を成さない呻きが部屋を満たす。


(治すのは壊すのと同等に苦しい……)


 それは、エレオスの弟子が最初に言われた言葉だった。





 彼がエレオスの工房に入ったのは、十年近く前のことである。当然ながら、それまで彼は普通の男性として、固有名詞を持ち、普通に暮らしていた。当時の彼は音楽科に通う高校生で、類まれなピアノのセンスを持ち、めきめきと頭角を現していた。いくつもの賞を貰い、誰もが彼を褒め称えた。友人、教師、もちろん親兄弟も、彼の才能を認めて両手を合わせた。

 その折に、事故に巻き込まれて、両腕の感覚を失ったのである。

 絶望、という言葉が生易しく聞こえた。そんなたったの二文字ではとても言い表せないほど、彼は打ちのめされた。

 それでも、どうにか立ち上がろうと、彼はリハビリに打ち込んだ。しかし、彼の手が元のように動くことはなかった。日常生活に支障が出ない程度にはなったものの、ピアノという繊細な作業は、不可能になった。

 そのことも充分に応えたが、何より彼の心を刺したのは、周りの人間たちの手の平返しである。友人、教師、果ては親兄弟までもが、彼を可哀想なものを見る目で見た。優しい言葉の裏に嘲りの笑みを隠していた。


『名誉になるはずだったのに』

『金になるはずだったのに』

『有名になれるはずだったのに』


 そんな言葉をどこからともなく聞くたびに、彼は耳を潰したくなった。


(認められていたのは僕の才能じゃない……そこから生まれる利益だ。褒められていたのは僕の音楽じゃない、その先に生まれる名声だ。……僕は、誰にも、認められてなんかいなかった。求められてなんかいなかった……)


 それでも、彼は足掻いたのだ。無駄だと言われて病院から連れ出されても、通っていた学校の音楽クラスから落とされても、ずっとリハビリを続け、治る瞬間を待ち望んだ。


 再び、事故に遭うまでは。


 目が覚めた時、右腕は完全に動かなくなっていた。それに加え、右足も不自由になった。

 友人は完全に彼を見放した。見舞いはおろか、メール一通すら寄越さなくなった。

 教師は完全に彼を見放した。休学の申請書の下に、自主退学の申請書が入っていた。

 家族は完全に彼を見放した。足手纏いより、才能ある五体満足の兄弟たちを優先した。

 自分は完全に世界から見放された――と、彼は深く感じた。他人を慈しみ、不遇を悲しむ、そんな心はこの世のどこにもないのだと、身をもって知った。

 ある程度動けるようになった時、病院を抜け出して、どこへともなく歩いた。死にたかったわけではない。ただ、ここではないどこかへ行きたい、と願っただけだった。怪我人の歩みでは大して進めないし、すぐに見つかってしまうだろう、と理解していた。見つかった後のことを考えると、また憂鬱になったが、すぐにどうでもよくなった。――どうせ、向こうも自分のことなどどうでもいいと思っているのだから。

 病院からは海が近かった。彼は海が好きだった。だからそちらへ向かった。

 コンクリートで固められた海岸線。シーズンでなかったらしく、釣り人の姿は無い。夕日が水平線に溶けていく。

 防波堤に頬杖を突き、夕日をぼんやりと眺める。自分の輪郭までもが溶けていくようだった。彼がオペラの一節を口ずさんでいたのは無意識の内のことである。


「『最期の願い』か」


 唐突な声に驚き、振り向くと、見知らぬ女性が防波堤に背を預けていた。女性は、長い黒髪を防波堤の向こうへ無造作に垂らし、そっくり返って空を仰いでいる。


「ヴェルディの『La Forza del Destino』だな。渋い選曲」

「はぁ……」

「にしても酷い怪我だな。体もそうだが、心が特に酷い」


 彼は瞬きをして、女性を見つめた。

 強い浜風が吹き抜けて、潮のかおりが鼻先を殴る。


「血のにおいが凄いぞ。鼻が曲がりそうだ。無理して動かすから、瘡蓋が出来ないで、血が流れるままになってやがる。ったく、なまじ強いとこうなるから厄介なんだよな。死ぬまで気付きもしないで」

「な、何がですか」

「さっきから言ってるだろ。心だ、心」


 女性は髪の毛を振り回すようにして姿勢を正し、彼の顔を覗き込んだ。


「心も体も同じだ。傷付いた時は休め。でないと死ぬぞ」

「……」

「まぁ、死ぬことも一つの救いであることは、否定しないが」


 そう言うが早いか、彼女はひらりと防波堤の上に飛び乗った。


「治すのは壊すのと同等に苦しいもんだ。いいか、治すんじゃなくて、治るのを待て。時間は何よりの名医だ、とは、よく言ったもんだよ。あたしなんかが手を出すよりよっぽど良い」

「……」

「どうしても時が経つのを待てないってんなら、もう一度ここへ来な。そん時はあたしが治してやるよ。じゃあな」


 と、彼女は防波堤の向こう側に飛び降りた。

 彼は驚き、松葉杖を放り捨てて向こう側を覗き込んだ。

 人工の岩場に、波が打ち寄せている。

 これが、普通の青年とエレオスの魔導師との出会いだった。





「弟子、検査しとけ」

「はい」


 パンドジナモスの弟子は横たわったまま、涙を滲ませた目を何度も瞬かせている。


「何か違和感はありますか」

「いえ……大丈夫です」

「見え方は以前と変わりありませんか」

「はい」

「では、こちらを見てください――」


 基本的な検査などもう慣れたものである。その背後で、エレオスの魔導師はソファで寝こけている人物を容赦なく蹴飛ばした。


「おい、終わったぞ、パンドジナモス」

「ん? あぁ、ようやくか」


 パンドジナモスの魔導師は、大きな欠伸をしながら起き上がる。呑気な涙が滲む。


「世話になったな。お代は」

「いらん」

「……一週間以内なら貸してやれるが」

「いや、明日までに終わるだろ。遅くとも明後日には返せる」

「そうか。死亡は自己責任、ただしそっちで負った怪我は経費としてお前らが治せよ。足が出たら請求してくれ。それでいいか」

「あぁ。話が早くて助かる」


 パンドジナモスの魔導師は、ふん、と鼻を鳴らして、立ち上がった。


「おい、弟子」

「はい」

「しばらくエレオスに協力しろ。それがお前の治療費だ」

「え――あ、はい。わかりました」

「無様な仕事はするなよ」

「はい。頑張ります!」


 弟子の言葉を背中で聞き、パンドジナモスの魔導師は出ていった。

 エレオスの弟子は小首を傾げる。


「先生? 何か、仕事があるのですか?」

 エレオスの魔導師は面倒くさそうに息を吐いて、ソファに腰を落とした。煙草に火をつけ、真っ白い煙を一塊、二塊と宙に放ってから、口を開く。


「仕事がブッキングした」

「ブッキングですか。珍しいですね」

「あぁ。片方は上からの依頼。もう一方は下からの依頼。上からのはあたしが行かないと無理だから、あたしが行く。下からのはお前に行ってもらう。内容は大したことないんだ。ちょっとした妖怪退治と、その復旧だけだからな。問題は、場所だ――」


 ――告げられた地名を聞き、エレオスの弟子は固まった。

 真っ白い塊が四つ、五つと天井を目指して漂う。


「お前の古巣だよ、弟子」

「……それは……」

「だから、パンドジナモスの弟子を借りた。――せっかく出来た瘡蓋、剥がすんじゃねぇぞ」

「……はい」


 自分でも情けなく思うほど、小さくて曖昧な返答だった。普段なら眉をひそめて叱責する先生が、何も言わずに煙草をふかす。そのことが一層、胸に迫る。





 目的地には電車で五時間ほどかかった。エレオスの弟子とパンドジナモスの弟子がその地に踏み入ったのは、もう夜も半ばに差し掛かった頃だった。

 パンドジナモスの弟子が、遠慮がちに口を開く。


「ここが、あなたの……生まれたところ、なんですね」

「うん、そうだよ」


 駅舎を出た途端、潮風に包まれるのも。この時間でも、ほとんどの店が開いているのも。どこからともなく、汽笛が聞こえてくるのも。この季節でも、すっかり寒いのも。エレオスの弟子の記憶の中にある通り、何一つとして変わっていなかった。強いて言うなら、少しコンビニの数が増えたような気がするくらいである。

 エレオスの弟子は記憶を辿るのをやめた。


「観測点はこっちだよ。行こう」

「はい」


 自ら辿ろうとしなくても、脳は自ずから記憶を再生する。

 そうだ、ここは坂道の多い街。自転車で移動するとかえって時間がかかるくらいに。数本の大通りがあって、それらの隙間を細い路地が埋めている。地図を見れば蜘蛛の巣のようだ。ほとんど路面電車と同等の位置を私鉄が走っていて、沿線で遊ぶと怒られた。どこにいても海の香りがして。この香りに包まれると、帰ってきた、という感じがして。


(懐かしい――……懐かしい?)


 エレオスの弟子は眉をひそめた。極端に街灯の少ない小路を、さらに暗い方へ折れる。徐々に街灯と街灯の間隔が広くなっていく。


(懐かしいって、何がだ? こんなところ――……いや、こんなところ、というのは、おかしいか。けれど……)


「あの、エレオスのお弟子さん」


 緊張したような声音で話しかけられ、エレオスの弟子は青年の方を見た。


「どうかした?」

「余計な真似かもしれませんが……大丈夫、ですか?」

「……僕かい?」

「はい」

「……」


 エレオスの弟子は返答に窮した。大丈夫なのか、大丈夫でないのか、そもそも何が取りざたされているのか、その段階からして分からない。隔靴掻痒。どことも知れぬどこかが痒い。


「大丈夫だよ。何も問題はない」


 かり、と爪で何かを引っ掻いたような音が聞こえた。





 坂道を一度上がり、二度下がって、突き当たりに足を止める。暗闇に飲み込まれて、隣の人の顔も曖昧だ。炒り過ぎた珈琲のような、苦い香りを帯びた空気が漂っている。


「この屋敷だね」


 幽霊屋敷、という呼称がこれ以上に似合う建物はなかなか見当たらないだろう。その地点で観測されたのは“怪異”と呼ばれる類のものである。いわゆる幽霊屋敷だとか、学校の七不思議だとか、その程度のもので、大抵は放っておいても何ら問題ない。時折愚かな人間が怪異の逆鱗に触れて死亡することもあるが、そんなところまで魔導師が面倒を見てやることはない。

 ただし、その“怪異”に魔導師が関わっているとなれば、話は別である。魔導師が発端となった怪異は、自然発生したものとは段違いに致死性が高いし、何より魔導師全体のプライドに関わる。というのも怪異とは――あえて発生させたのでない限りは――その魔導師が何らかの“失敗”を犯した時に発生するからだ。身内の恥は身内が雪ぐ。その程度の繋がりは有している。


「ここには、ヴラスティミアの魔導師がいたらしい」

「ヴラスティミア……呪い、ですか」

「うん。なんでも、身分を問わず、誰の依頼でも請け負って、呪いを代行していたらしいよ」

「よく懲罰対象になりませんね」


 エレオスの弟子は、上だって呪われるのが怖いんだろう、と思ったが、口に出しては言わなかった。


「怪異の内容はよく分かっていないんだけど、ネット上の噂では、入ったら呪われる、出られなくなる、廃人になる、自殺したくなる――何ていう風に広まっているね」

「ヴラスティミアの魔導師は、一体何を失敗したのでしょうか」

「さぁ。ともあれ彼は、この失敗が原因でここにいられなくなって、工房を移動させたということだよ。自分でも手に負えなくなったらしい」

「無責任な話ですね」

「まぁ、自分と最も相性が悪いのは自分だ、っていうからね。きっとそういうことなんだろう」

「……初めて聞きました。そうなんですね」


 パンドジナモスの弟子は、目を真ん丸くして、なぜかひどく納得したように、何度となく頷く。


「なんとなくですが、分かる気がします。自分にだけは、一生勝てない、と――はい、そう思います」


 彼の言葉のどこかに、エレオスの弟子は違和感を覚えた。けれど、それがどこなのかまでは分からず、あえて追及するのも面倒に感じて、


「それじゃあ、早速入ろうか。準備は良いかな」

「はい、大丈夫です」

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