不器用な呪い おしまい
6
屋敷の扉には鍵がかかっていたが、パンドジナモスの弟子が難なくそれを《発見》したために、彼らは抉じ開けもせず中に入れたのだった。
内部もまた暗く、埃っぽかった。二人が、用意してきた懐中電灯を点けると、小さな虫がカサカサと音を立てて逃げていった。ヴラスティミアの魔導師が出ていってから、まだそれほど経っていないはずなのに、ひどく朽ち果てて見えた。死んだ家の腐敗は早い。
床を軋ませながら、二、三歩歩いたところで、エレオスの弟子はピアノの音が聞こえることに気が付いた。微かだが確かに、旋律を奏でている。それも、聞いたことのある――いや、弾いたことのある曲だ。
(ラフマニノフの前奏曲……)
通称『鐘』。シンプルな主旋律に、厳格な響きの和音が幾重にも連なって、蒼穹に轟く荘厳な鐘を幻視させるような曲だ――本来であれば。
今、エレオスの弟子の耳に届いているその曲は、本来の半分以下の迫力しか備えていない。
(これ、左手しか弾いてないな。その上、何だかタッチも弱い……)
音は二階から聞こえてくる。エレオスの弟子はそちらに足を向けた。パンドジナモスの弟子は黙って付いてくる。彼は足元を非常に気にしているようだった。
二階の一番奥の部屋が半開きになっている。それ以外の扉はすべてきっちりと閉ざされていて、ドアノブを回しても微動だにしなかった。仕方なしに、一番奥へと向かう。
ピアノの音が徐々に大きくなっていく。それを聞くにつれ、エレオスの弟子はだんだんと自分が落ち着きを失くしていくのを感じていた。聞き覚えがあった。曲だけでなく、その音色に。弾き方に。得体のしれない既視感を覚える。そしてそれは恐怖へと繋がっていた。これ以上掻いたら瘡蓋が剥がれると、分かっているのに手を止められない。痒くて痒くて堪らない。剥がれるのも怖いが、それ以上に、自分のことを自分でどうしようも出来ないことが、怖い。
エレオスの弟子は半開きのドアを掴み、乱暴に中へと踏み入った。
グランドピアノが部屋の中央に。奏者はこちらに背を向けて、鍵盤に向かっている。中に入った瞬間、演奏は止んだ。音の残滓が埃と一緒に床に降り落ちる。
奏者がよろけながら立ち上がり、振り返る。
エレオスの弟子は唇を噛む。
(――……なんとなく、予想は出来てたよ、くそっ)
ただ、予想以上に、その姿は痛々しく、みすぼらしく、苦しい――
「……あぁ、何だ、
そう言って皮肉っぽく微笑んだのは、他ならぬエレオスの弟子自身であった。十八歳の頃の自分。弟子入りする直前の、最も傷付いていた頃の自分。右腕を首から吊り下げ、右足を引き摺り、左腕は微かに震えている。入院着に隠れて見えない左足には、無数の切り傷が走っていることを、エレオスの弟子は知っている――その記憶は、自分の手で刻んだものだから。
彼は右足を引き摺りながら、よろよろとこちらに近付いてくる。
「まだ生きてたんだ」
「……」
「怪我、治ったんだね」
「……」
「でも、ピアノは弾いてないんだ。――なんで? 治ったなら弾けるでしょ。なのになんで、弾いてないの?」
「……」
「指も、腕も、足も、綺麗じゃないか。どこも悪くなさそうだね。すごいな、魔法って」
彼は目を細めて、エレオスの弟子の右手を取った。自分の右腕と見比べて、「こんな腕が、綺麗さっぱり元通りになるんだ。すごいな……」と呟く。
その顔の影が、ふっ、と濃くなった。
「……なんで弾かないの? 動くなら弾けよ! 弾かないんだったら、何のために治してもらったんだよ! ――弾かないんだったら、どうしてあの時、死ななかったんだよ……」
「……」
「それとも何? 結局
「っ、違っ」
「違わないね! 僕のことは、僕が一番よく分かってる! 昔からそうだ! 金とか名誉とか、そういうものを毛嫌いする振りして、本当は一番気にしてたくせに! 他人から高く評価される瞬間が、この世で一番好きだったくせに! なに都合よく忘れた振りしてんだよ! 魔導師の弟子になったのだって、世界に一人だけなら確実に評価してもらえるって分かってたからだろ!」
「っ――」
「ずるいよ。……そんなの、ずるだ。努力もしないで、傷付きもしないで、誰かに認めてもらおうだなんて……そんな人間、僕は嫌いだ。そんな人間になって生きていくくらいなら、僕は、このまま、死んだ方がマシだ!」
涙を滲ませて叫び、自分は自分に背を向けた。相変わらず覚束ない足取りで、よろよろとピアノの方に戻り――全開になっている大屋根に手を伸ばす。
グランドピアノの大屋根の重さは、物にもよるが、数十キロになる。子どもでは持ち上げられない重さだ。大人でも、両手で扱うことを推奨されている。腕を怪我している人間が支えられるようなものではない。もしあれに挟まれようものならひとたまりもない、とは、想像するにも及ばない。
彼が大屋根を少しだけ持ち上げると、ぱたん、と突っかえ棒が倒れる。大屋根の総重量がすべて彼の左腕にかかる。彼はその重力に恭順の意を示し、こうべを垂れた。
「やめろ!」
エレオスの弟子は慌てて走り出した。
大屋根が落ちる。
「《
――大屋根が落ちる。
魔法によって止められたエレオスの弟子の目の前で、彼は自らの頭でもって最悪の和音を奏でた。歪で邪悪な不協和音が、屋敷に響き渡る。余韻のように、首から下が小さく痙攣していた。それも徐々に収まって、やがてすべてが沈黙する。
「……どうして……」
「落ち着いて下さい、エレオスのお弟子さん」
「どうして僕を止めた! 君なら向こうを止められただろう!」
「落ち着いて下さい! あれはあなたじゃない、怪異です!」
「っ……」
「割り切って考えてください。あれは怪異です。僕らはあれを退治するために、ここへ来たんですよ」
エレオスの弟子の肩を掴んで、そう言い切った青年は、落ち着き払っていた。いかにもパンドジナモスらしい、徹底された合理主義。
「怪異自ら動けなくなってくれたんです。これはむしろ好都合ですよ。このまま燃やしてしまいましょう。――《
冷徹な宣言が炎を呼び起こし、ピアノもろとも怪異を包みこんだ。バチバチと爆ぜる音を立てて、黒く焼け焦げていく。
しかし、
「――あれ」
ふ、と、前触れなく炎が消えた。同時に、ピアノも怪異も消えてなくなる。そこにはだだっ広い部屋と、焦げたにおいだけが残っている。
パンドジナモスの弟子は、一人になって、部屋の中を見回した。
7
(過去の自分が死んだら、現在の自分はどうなるのだろう)
エレオスの弟子はそう思ったのだ。パンドジナモスの弟子が言った通り、あれは怪異で、正確には過去の自分ではないと知りながら。それでも――まるで火葬のように燃やされる自分を見て――そう思ったのだ。
それで、気が付いたら暗闇の中に浮かんでいた。
(あぁ……やっぱり、死ぬのか。過去の自分がいなくなれば、続きの未来も自動的に消滅する――当然のことだな)
なんとなく、惜しい、と思った。
怪我をして、命以外のすべてを失ったような気になった。そこから、先生を得て、新しい人生を得た。せっかく得た新しい命を、新しい過ごし方を、すべて無かったことにされてしまうというのは、なんとも勿体ない。
(時間と一緒に――先生と一緒に――歩いてきた、つもりだったんだけどな……僕は、何も進んでいなかったのか)
ゆっくりと目を瞑る。と、瞼に光が当たる感覚がした。
目を開けると、真正面には夕日。波が斜陽を反射して、きらきらと輝いている。網膜に突き刺さって痛い。涙が滲んできた。
エレオスの弟子の右腕は重く、左脇には松葉杖を抱えていた。彼は松葉杖を放り出して、自分の体を無理やり防波堤の上に押し上げた。夕日に背を向けて腰掛ける。首を捩じって海を見て、それからその下を見る。コンクリートの消波ブロックが並んでいる。波が砕けては散っていく。
彼は天上を仰ぎ見て、大きく息を吸った。潮の香りに満ちた、青臭い空気。俯いて、溜め息のように空気を吐き出す。
(――二度目の事故は、僕が望んだことだった)
今でも鮮明に思い出せる。事故が起きやすいことで有名な三叉路で、彼は確かに願ったのだった。
もう二度と立ち上がれないくらい、粉々に打ち砕いてほしい――と。
「可哀想」
自分に向かって呟く。ウミネコが騒ぎながら飛んでいく。
(名誉や金を嫌っておきながら、本当は欲しがっていた。治したい、元通りになりたい、と思いながら、本当は諦めたかった。……僕は、矛盾だらけだ。矛盾だらけで、不完全な人間だ)
「……でも、嫌いじゃないんだよね。悲しいことに」
エレオスの弟子は微笑んで、防波堤から飛び降りた。
歩道の上に着地した彼は、怪我など何処にもしていない、現在の姿になっている。
「自分には一生勝てない、か」
振り返ると、防波堤の上には、昔の自分が座っている。淀んだ目でこちらを見ている。彼の体は後ろに傾いて、今にも海の方へと倒れてしまいそうだった。
エレオスの弟子は目を細めた。
「そりゃ、勝てるわけがないさ。そもそも、自分自身とどうやって戦うんだよ。自分はどんな時でも、一人しかいないのに。――だから、自分は敵にはならない。味方にもならない。ただ、自分は自分として、ここに在るだけだ」
目を瞑る。夕日を反射する光の粒が、一筋の流星のように、頬を伝っていった。
「ここが、壊れた呪いの根本なら――治すよ。治せる」
鼻歌で不可思議な旋律を歌う。慣れ親しんだクラシック音楽とは似ても似つかない、調子っぱずれなリズムと不安定な音階。
今はそれが、彼の音楽だ。
8
瞼に光が当たって、エレオスの弟子は目を覚ました。
埃っぽい空気と、人気のない乾いたにおい。
四角い窓から朝日が射し込んできている。光の筋の中で、細かな埃がキラキラと舞い踊っている。
起き上がる。硬い床で寝ていた所為か、体のあちこちが軋んだ。
見回すと、少し離れた壁際で、パンドジナモスの弟子が眠っていた。
(怪我は……なさそうだね。良かった)
足元に落ちていた札を拾う。どうやらこれが、ヴラスティミアの魔導師が作った魔法具であるらしい。
(道理で、僕の工房に依頼が来たわけだ)
壊せば収まる呪いなら、エレオスに頼むのはお門違いだ。
この呪いが求めていたのは“慈悲”――救済され、治療され、元通りになることだった。
(呪いが慈悲を求めるようになるなんて、器用な失敗をしたな。――もっと早く、気が付けば良かった)
苦笑が漏れる。
(慈悲を求めて、やって来た人間の最もつらい記憶を引き出していた、っていうことか。許してもらうのを期待していたんだろうけど……廃人になるとか、自殺したくなるとか、納得だな)
窓を開け放つと、海風がザァと通り抜けていった。
屋敷からは海を見渡せた。波が朝日を反射して輝いている。
目を細める。
9
(……何だ、来ないじゃないか)
彼は溜め息をついた。
(治してやるって言ったのに。――まぁ、確かに、胡散臭かったし、信じてたわけじゃないけれど)
もう一度、溜め息。それから松葉杖を放り出す。防波堤の上によじ登る。怪我がかなり痛んだが、彼は無理やり自分の体を押し上げた。
夕日に背を向けて腰掛ける。首を捩じって海を見て、それからその下を見る。コンクリートの消波ブロックが並んでいる。波が砕けては散っていく。
(頭から落ちれば、この高さでも死ねるよね。下は硬そうだし)
そんなことを考えながら、ウミネコの鳴き声を聞いている。
だんだんと空は暗くなっていく。自分が見ている方角の空は、もう濃紺に変わっていた。一番星を見付ける。まだ色の薄い三日月を眺める。冷たい風が吹き抜ける。
不意に、涙が滲んできた。そのことに自分が一番驚く。自分が今どんな感情をしているのか、まったく、見当もつかなかった。涙がボロボロと、次から次へ流れ落ちていくのに、言葉は何も浮かんでこないのだった。
まっさらだった。頭の中も、心の中も。
声すら出ない。
――その歌が聞こえた時、辺りはもう真っ暗になっていた。遠くで街灯が明滅している。海の唸りが、闇夜に轟いていた。その隙間を縫うようにして、確かに、聞こえる。
セオリーを無視した、不安定で不可思議な音律。
聞く者の心をざわつかせるような、あるいは問答無用で黙らせるような、そんな底知れない威圧感をもった響き。
彼の体はじんわりと暖かくなっていった。反面、背筋が震えて、歯の根が合わなくなる。
一分も経っていなかったと思う。歌が終わった。ふわりと、レースのカーテンの内側から出てきたように、いつか出会った女性が現れる。
「あたしと一緒に来い。お前には、資格がある」
「資格……」
「来るなら早くしろ。あたしは、愚図な男と汚い女がこの世で一番嫌いなんだ」
そう言って踵を返した先生を追って、彼は防波堤を飛び下りた。
おしまい
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