崩壊するは我にあり はじまり
はじまり
1
カタレフシの弟子のヒールが折れたのを契機に、彼らは立ち止まっていた。彼女は適当な岩場に腰を掛け、高かったのに、と散々毒づきながら、もう一方のヒールを根元から折る。ゴミとなった靴の一部を放り捨てる。
パンドジナモスの弟子は所在なさげに、少し距離を置いて、壁にもたれかかっている。
「ねぇ、どうして貴方のような、平凡極まりない無味無臭の男が、“
と、カタレフシの弟子が錐のような口調で言った。
問われた当の本人は答えに窮して、「それは……その……」などと口ごもっている。
その態度がまた彼女の火に油を注いだ。
「何よ、言いたいことがあるならはっきり言ったらどう? 貴方のそういうところ、私は大っ嫌い! 本当、どうして貴方がかの“万能”の魔導師に見初められて、この私が“崩壊”なんていう悪趣味な工房に属しているのかしら。まったく不思議でならないわ!」
「……ご自分の工房を、よく、悪趣味だなんて言えますね」
「だって事実ですもの。本当のことを言って、何が悪いの?」
あっけらかんとした顔は、その言葉が本心からのものであることを証明している。
パンドジナモスの弟子は、心の内で、
(あなたの言動はまさに“
と呟いた。当然、彼は声に出して言いたかったのだが、一を言えば百が返ってくるのが彼女である。だから控えた。その代わりに、
「では、そろそろ本当のことを言っていただけますか」
すると途端に彼女は唇を尖らせて、そっぽを向くのである。
今度は青年の目が、錐のように鋭く尖った。
「一体あの時、あなたは何をしたんです? 何をそんなに、頑なに隠しているのですか」
「――別に! はい、もう休憩はおしまい! 行くわよ!」
カタレフシの弟子は、爪先の小石を蹴飛ばして立ち上がり、毅然として歩き出した。
溜め息を隠さず、青年はその背についていく。
洞窟は薄暗く、果ては暗闇に沈んでいた。揃わない足音が歪に反響し、余韻がひたひたと押し寄せてくる。
2
どうしてこんなことになったのだったか、と、パンドジナモスの弟子は自問した。つい数時間前までは、普通に過ごしていたはずだったのだ。いつも通り、パンドジナモスの工房で、先生が散らかした跡を片付けたり、先生の脱いだ服を回収して回ったりしていた。
そこに、エレオスの二人が訪ねてきたのが、すべての始まりだったような気がする。
エレオスは古びた巻物を携えていた。触れたそばから崩れてしまいそうなほど激しい劣化と虫損は、積んできた歴史の重さを物語っていた。
「先日、出張先で押し付けられたんだ」
と、エレオスの魔導師は心底面倒くさそうに言ったのだ。
「処理しようにも、治癒が効かなくてな。イストリアに中身を読んでもらおうと思ったんだが、このボロさでは無理だとか言いやがった。だからここへ来た。お前ならどうにかできるだろ、パンドジナモス」
「エレオス、お前、私を便利屋か何かと勘違いしていないか」
「万能とはそういうことだろ。何でもできる」
「“できる”だけで“やる”とは言っていない」
「できるならやってくれ。正当な報酬が支給されるよう協会には話が通っている」
パンドジナモスの魔導師は眉をひそめた。
「そんなに重要なものなのか? だったら、どうしてヴィヴリオが出てこない」
エレオスはひょいと肩を竦めた。
「ヴィヴリオの魔導師は現在バチカンに出張中だとよ」
「……十数年前にも同じセリフを聞いた記憶があるんだが」
「あぁ、だいたいそれくらい経ったな、あいつが書庫に籠るようになってから。いい加減上もしびれを切らして、カタレフシを派遣しようかとまで言い出してるぜ」
「いや、それはマズいだろう。世界遺産を崩壊させる気か?」
「上が正気に戻ったら、お前にお鉢が回ってくるだろうな」
「それはそれで面倒だな」
パンドジナモスはソファにふんぞり返って、お茶を啜った。
「まぁ、事情は理解した。そこに置いていけ。直り次第連絡する」
「任せた」
そう言って立ち去ったエレオスと入れ違いに、カタレフシの二人が訪ねてきたのだ。その辺りから、雲行きが怪しくなった。
「なんだか今日は来客が多い日だな」
「そうなのー?」
「あぁ。で、お前はどんな用件だ?」
「えっとねぇ、今度の集会の件でねぇ――」
カタレフシの魔導師は間延びした口調で、おっとりと話し始めた。おもむろにコーヒーカップを手に取る。
「あ」
パキン、と小さな音が鳴って、持ち手が根元からぽっきりと折れた。テーブルの上を転がったカップがコーヒーを撒き散らす。それが、先程エレオスの置いていった巻物にかかりそうになって、パンドジナモスの弟子は咄嗟に、巻物を取り上げたのだ。
「ちょっと先生っ! 何をなさってますのっ!」
カタレフシの弟子が金切り声を上げたが、先生はどこ吹く風とばかりに「いやぁ、ごめんごめん」と、まったく反省の色を見せないで頭を掻いている。パンドジナモスの魔導師が溜め息をついて「《
「まぁ! さすがですわ、パンドジナモスの魔導師様!」
カタレフシの弟子が感極まったかのように両手を合わせた。それからパンドジナモスの弟子の方を見て、
「こちらの、何かしら、巻物? には、かかりませんでした?」
にっこりと笑い、手を伸ばした。
彼女の手が巻物に触れた瞬間のことを、パンドジナモスの弟子は鮮明に思い出した。あの時、金色の光がちらりと瞬いたのが、確かに見えたのである。彼女は明らかに魔法を使った。そうして、視界が真っ暗になり、気が付いた時には、この洞窟の中に倒れていたのである。
(出口も見つからなかったし……)
当然ながら、真っ先に彼は《発見》の魔法を用いた。しかし、出口は見当たらなかった。
(どうすれば帰れるんだろう……そもそも、僕らはどこにいるんだろう?)
「やだ! 最悪だわ!」
カタレフシの弟子が悲鳴のような声を上げた。
「どうしたのです?」
「あれを見なさいよ!」
「あれ、とは――」
彼女の指さす方を見て、青年は思わず絶句した。
そこには、彼女が放り捨てた靴の一部が転がっている。
3
カタレフシの弟子は地団太を踏んで、声高に罵った。
「もうっ! 本っ当に最悪! ループしてるだなんて、反則よっ! ふざけないでちょうだいっ! これじゃあ一生帰れないじゃないっ! もうっ、もうっ、もうっ!」
ヒステリックに叫ぶ彼女を、青年は刺激しないように傍観していた。
しかし、
「こうなったら――こんな洞窟、壊してやるしかないわね!」
「えっ、あの、それは待ってください!」
彼女が振り上げた手を掴む。
「何よ! 邪魔しないでいただけるっ? それとも貴方、こんな洞窟の中に死ぬまでいたいって言うのっ!」
「そうではありません! ですが、迂闊に壊すのは危険です! 僕らまで崩壊に巻き込まれたらどうするつもりなんですか!」
青年がそう言うと、カタレフシの弟子は大仰に眉根を寄せた。
「はぁ? 何を言ってらっしゃるのかしら、貴方?」
「何を、って」
「死ぬことが怖くて、魔導師なんかやれるもんですか! よくもそんな甘い覚悟で、弟子を名乗れましたわね!」
「っ……」
「私はとうの昔に、まともに死ぬことなど出来ないものと――」
唐突に、彼女は言葉を詰まらせた。それから、力なく俯いて、青年に掴まれた手首を振る。
「……放していただけます?」
「あ、はい。……すみません」
彼女は鼻から息を吐き出して、適当な岩場に腰掛けた。爪先で、先程放り投げたヒールをつつく。
「カタレフシの弟子はね、最初に、《崩壊を崩壊させる魔法》を授かるのよ」
「崩壊を、崩壊――」
「要するに、自衛の手段だわ。崩壊の魔法は制御が難しいの。魔導師ともなれば、どれだけ気を張っていても、壊れやすいものから壊してしまう。さっき、貴方も見たでしょう? コーヒーカップが壊れるのを」
「ええ、見ましたが……」
「それはね、別に、相手が人間でも同じなの。カタレフシの魔導師は、弟子を壊してしまう可能性を持っている。だから、真っ先に、自衛の魔法を授けるの。自分の方にやってくる“崩壊”から、自分の身を守るための魔法をね」
青年は、彼女の言葉と表情から、この独白のような語りが彼女にとって重要なものであることを悟った。と同時に、カタレフシの先生が辿るのであろう末路も推測できた。
「そうすると――ご存知の通り――先生は自衛手段を失うわ」
魔法とは授け、授かるもの。先生は、弟子が一定の水準に達したと判断した時、かけがえのない魔法を与える。その行為は常に一方通行であり、一つの魔法は一人にしか扱えない。
魔法の習得は、“複製”ではなく“譲渡”によって成立する。
「世界のあらゆるものを、無意識の内に壊してしまう先生が、自衛手段を失ったら、どうなるとお思いかしら? ――ええ、そうよ、最期には自分で自分を壊してしまう。あるいは」
私に壊されてしまうのよ――と、彼女はきっぱりと言った。
「そんなの嫌だわ!」
彼女の叫びが悲痛なものに聞こえ、青年は顔を歪めた。自分の成長のために先生を犠牲にする、そんな非合理的なことが許されるなど、まったくもって理不尽だ、と、そう思った。そして、そう思える情が彼女にもあるのだということを、どこか意外に思いつつも受け入れたのだ。
ところが、
「私は、私は絶対に誰にも壊されたくないの! このまま私が魔導師になったら、いずれ私も弟子を取らなくちゃならないわ……そうなったら、私は絶対に、自衛の魔法を手放せない! 手放したくない! 手放さないわ!」
「……え?」
「先生が壊れることなんてどうだっていいの! そんなこと心底どうでもいいわ! ただ、私は、私が壊れることだけは許せない! 私を壊さないためなら、私は世界だって壊してやるわ! それともあれかしら、そう思うこの感情すら、やがて壊れていくのかしら……嫌よ、絶対に嫌! あぁ、これだからカタレフシの工房は、悪趣味極まりないのよ!」
青年は言葉を失った。彼女の言葉が理解できなかった。理解してはいけない、とすら感じた。
呆然と立ち尽くしている青年を、カタレフシの弟子は鋭く睨んだ。
「あら、何よその顔」
「あなたは……あなたは、先生の命などどうでもいい、と?」
「えぇ、どうでもいいわ」
「どうして、そんな――」
「だって私の物じゃないもの。私が大切にできるのは、私が持っている物だけ。それって当然のことじゃなくって?」
「……」
青年は言い返したいと思った。どんな手を使ってでも、彼女の論を破りたいと、そう強く切望した。しかし、細かく裁断された文章は糸くずのように絡み合って、一向に頭の中から出てこないのである。それは彼に「違う」とか「間違っている」とかいうただの一言ですら、発することを困難にさせた。
カタレフシの弟子は、ふん、と鼻を鳴らして、足を組んだ。
「本当にどうして、貴方のような男が、パンドジナモスの弟子なんでしょうね。ご自分でも、不思議に思われない? ねぇ?」
俯いた青年の目が、蛇のそれと合った。無論、そこに蛇などいない。青年の幻視である。蛇が足に絡み付き、するすると上ってくる。そういう悪寒を感じる。
立ち尽くしている青年に向かって、カタレフシの弟子はわざとらしく嘆息した。
「あぁあ、本っ当に最悪だわ。もしここにパンドジナモスの魔導師様がいらっしゃったら――いいえ、貴方があとほんの少しでも、パンドジナモスらしかったら、こんなところあっという間に、脱け出してしまえたのでしょうに」
「っ!」
青年は身を切られたようにびくりと震えた。ごちゃごちゃに絡まっていた言葉が、一気に吹き飛ばされ、頭の中には何も無くなった。蛇が耳元にカミソリのような吐息を掛けた。青年はもはやいたたまれなくなって、踵を返し、駆け出した。カタレフシの弟子が馬鹿にした声音で、「あら、そっちに行っても、どうせここに戻ってくることになるのよ?」と囀る。それでも構わず、青年は走った。
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