英断 おしまい


 二人は牢屋から脱け出した。牢屋はたくさんあり、そのほとんどに人が閉じ込められていたが、そのほとんどがピクリとも動かなかった。見張りはいなかった。

 階段を上りきる。窓から日が射し込んでいるのを見て、パンドジナモスの弟子はほっと息を吐いた。やはり、明るい方が良い。

 何やら、大勢の人々が、忙しげに走り回っていた。二人は手を繋いだまま、行きかう人々の隙間を縫って、歩いていく。


(「ねぇ、これから、どうするの? どうやったら出られるか、お兄さんには分かるの?」)

「分かりません。ですが、見つけます」

(「どうやって?」)


 少年の当然の問いに、しかし青年はニヤリと笑うだけで、答えないのであった。

 少年はちょっとだけ唇を尖らせ、青年の顔を横目に窺ったり、周りを見たりする。


(「何考えてるのか全然分からないや。ここが何処かも、いまいちよく分かってないし。あぁあ、早く先生のところに戻りたいな。あ、そういえば、漢字の練習、今日の分まだやってないんだっけ。帰ったらやらなくちゃ。……でも、帰れるのかな。先生、呼んだのに、来てくれなかったし……。でも、パン……パン、ジ、ドナス? だっけ? 忘れちゃったけど、万能の魔導師のお弟子さんなら、どうにかしてくれる……よね、たぶん。あ、でも、僕も頑張らないと! 魔導師の弟子なんだから! うーん、でも、僕に、何ができるのかな。呼び出すのと、考えを伝えるのと――あ」)


 そこで少年は、今自分が魔法を使っているということを思い出したらしい。慌てて青年の横顔を振り仰いだ。


(「今の、全部、聞こえてた?」)

「……えぇ、まぁ、はい」

(「ご、ごめんなさい」)

「いいえ、構いませんよ」


 青年は少年の手を強く握りしめた。少年の思考を綴る、か細い声が、彼の不安を如実に表していた。それを聞いて、青年の心の中には強い責任感と、使命感が湧き上がってきた。この少年を、必ずや無事に、先生のもとへ返さねばならない、と。そのために、自分は頑張らなくてはならないのだ、と。


「早く、帰りましょうね」

(「うん」)


 やがて彼らは、最初にいた部屋に着いた。そこに至るまでに、一度日が沈み、また昇って、着いた頃にはもう一度夜になっていた。時間の流れが違うのであろう、と青年は思った。


(「そういえば、僕がお兄さんを探している時も、こんな風だったよ。あっという間に一日が終わっちゃうから、すごく焦ったんだ」)


 と、少年が思い出したように語った。

 部屋の中は、青年の記憶にある通りの姿で、床に散らばった本までそのままだった。


「さて、ここにならあるでしょう」

(「何が?」)

「この物語の結末が、です。たとえば――」


 青年は、手近な本の背表紙に手を伸ばし、唱えた。


「この本の中に、とか。《I FOUNDつけた》!」


 ふわりと金色の光が漂って、すぐに空気に溶けた。そして青年が棚から引き出した本の表紙には、『武装の国』と書かれているのであった。


(「えっ? なんでっ? すごい! すごいすごいすごいっ!」)


 感嘆の声を爆発させる少年の思考に、少しだけ頭痛を感じ、青年は苦笑した。


「少し、落ち着いてくれますか?」

(「あっ、はいっ、ごめんなさい」)

「読んでみましょう」


 二人は床に腰を下ろし、弟子たちの部屋でそうしたように、膝の上で絵本を広げた。綺麗で可愛らしいのに、どこか陰鬱な絵が、物語を紡いでいく。

 二人の知らない部分は、このように続いていた。


 ――武装の国に攻撃された隣国、信仰の国は、国家を上げて抵抗する。戦争は何年間も続き、何百人、何千人もの人が傷付いた。王子は、姫がなかなか手に入らないことに苛立ち、益々暴虐の限りを尽くした。そんな中、武装の国の王様が死去し、王子は王様になる。すると、王になった彼は、国のすべての人を戦争に向かわせ、何としてでも姫を手に入れろと命じる。その非道な命令を知った隣国の姫は、自ら降伏し、これ以上戦争を続けないよう願い出る。しかし、王はこれを聞き入れず、投降してきた姫を塔に幽閉すると、隣国を蹂躙。完全に隣国を滅ぼした後、姫にも暴力を与え続ける。姫は絶望し、『武装の国に呪いあれ!』と叫びながら、塔から身を投げて自殺する。が、魔法使いではない姫の呪いは、効力を発揮することなく、姫の遺体は弔われることもなかった。そして、武装の国は繁栄を続けていったのだった。おしまい――


 読み終えて、二人は絶句した。

 ようよう絞り出した感想は、


「なんて……救いのない……」

(「ひどい……ひどすぎるよ、こんなの……っ!」)

「こんな絵本があっていいのでしょうか……胸糞悪い」


 青年は乱暴に絵本を閉じた。後半部分が破られていた理由が分かったような気がした。これでは、無駄なことだとしても、破りたくなるだろう。

 青年は一つ深呼吸をした。


「さて……結末は分かりましたが、どうしましょうか。ここから出るには、絵本の結末を見届けなくてはなりません。ですが――」

(「こんな終わり方嫌だ!」)

「――そうですよね。同感です」

(「ねぇ、何かないの? 結末を変える方法!」)

「あるかもしれませんが、変えた結果、僕たちが帰れなくなったら、困ります」

(「っ……それは……そうだけど……でも」)

「ええ。君の気持ちは分かります。どうにかして――」


 その時、扉が乱暴に開けられる音がして、二人はびくりと全身を震わせた。大きな足音が飛び込んでくる。この音が引き連れてくる恐怖を、二人は深く理解していた。青年は素早く少年の背を押した。


「隠れてください!」

(「っ、でもっ!」)

「いいから、早く!」

「おい! 魔法使いっ!」


 本棚を蹴飛ばしながら、王子が現れた。豪奢な鎧は、血と泥で汚れていた。彼は全身に怒気を纏って、歯を剥き出しにし、青年を睨みつけた。青年は気丈にその眼光を受け止めた。隠れられなかった少年が、彼の背中に貼り付いている。ここで引くわけにはいかない。

 王子は青年に人差し指を突き付ける。


「あの地下牢から脱獄した気概は褒めてくれよう。それに免じて、貴様にもう一度だけチャンスを与えてやる!」

「……チャンス、とは?」

「信仰の国を手っ取り早く滅ぼす魔法を編み出せ!」

「っ――」


 王子は地団太を踏みながら、言い募った。


「くそっ、アイツら、弱小国家のくせに、僕に歯向かいやがって! 雑魚のくせに、この僕の手を煩わせるだなんて、不敬にも程がある! 今すぐ殺し尽くしてやらねば到底気が済まない! だから魔法使いよ、奴らに最低の、最悪の、陰惨な死を与えるんだ! いいか、出来ないとは言わせないぞ! あぁ勿論、一人残らず殺してくれていい! あの女もだ!」

「あの、女?」

「そうだ! 僕のものにならない隣国の、馬鹿な女だ! あんな愚かな女、気に掛けてやっただけ損だった! 僕の言うことを聞かないんだ、死んで当然だろう!」


 青年は頭が真っ白になった。


(「なんってやつだ……最っ低……っ!」)


 少年の声が頭に響く。少年の声もまた、怒りに震えていた。


「おい、何を黙っているんだ、魔法使い! まさか、出来ないのかっ?」

「……」

「くそっ、この役立たずめ!」


 言葉と拳が同時に飛んできた。顔面を殴られて、青年は後ろによろけながら、膝を付いた。続けざまに蹴りが飛んでくる。顔を蹴られて唇が切れ、腹を蹴られて空嘔に喘ぐ。詠唱などしていられない。しかし、少年を庇うことだけは忘れなかった。飛び出そうとする少年を、後ろ手に押さえ込む。彼を再び、暴力の前に晒すことだけは避けなければならない、と、朦朧とする意識で思った。


(「お兄さんっ! お兄さんっっ! やめて、やめてよっ! やめろったら!」)


 頭に届く少年の叫びが、パンドジナモスの弟子の意識を繋ぎ止める。しかし、それもやがて遠退いて、彼は遂に、倒れ込んだ。

 と、


「ん? なんだこの子どもは」


 王子が少年を視界に収めた。少年は初めて、王子の顔をまともに見た。人を痛めつけることに何の罪悪感も抱いていない、平然とした顔。むしろそれを生き甲斐としているかのような、醜悪に歪んだ顔。それを見た瞬間、少年は竦んだ。彼に対して感じていたはずの怒りは鳴りを潜め、過去に植え付けられた痛みと恐れが、少年の体を支配した。


「どこから紛れ込んだ? 誰の子どもだ。おい、何とか言ったらどうだ!」

(「ひっ……う、あ……」)

「チッ、これだからガキは嫌いなんだ。弱くて馬鹿で役に立たん。こっちの言うことなど何も聞かず、我が儘で自分勝手だ。ただひたすら邪魔になるだけで、何の利益も寄越さない。ガキなんぞ生きている価値ないだろう!」

(「ご、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ、ごめんなさいっ!」)


 まだ何もされていないのに、少年の双眸からは涙が溢れ出す。それが王子の神経を逆撫でした。頭を押さえて蹲る少年に向かい、王子は足を振り上げる。


「この臆病者がっ! 死んでしまえ!」

「《STOPしね》」


 冷え切った声が落ちた瞬間、王子は電池を切られたように固まった。そして、一瞬の時を置いて、その場に崩れ落ちる。少年を害そうとした醜い顔のまま、王子の息は止まっていた。血に塗れた拳と、泥だらけの鎧は、もう二度と動かない。

 少年は呆然と、死体になった男を見ていた。

 青年は床に頬を付けたまま、自分が殺した男を見る。同じように倒れているのに、片方の目はもう何も映さないのだ。片方の口はもう何も紡がないのだ。他ならぬこの自分が、そのようにさせたのだ――青年は途端に、恐怖を覚えた。自分が命じたことの重さに、胸が潰れそうだった。

 窓の外で夜が明ける。日の光が射し込み、二人の生者と一つの死体を白く染める。暴君が死んだ日に相応しい、嘘くさいほど清々しい夜明けの色だった。

 やがて少年はふらふらと立ち上がる。死体を大きく迂回して、そして、青年の手を取る。


(「――あのね、その……ええと……」)

「……」

(「……ありがとう、お兄さん」)


 彼の言葉が届いたか否か。ぱたんと絵本を閉じるように、二人の意識は突然途切れた。





 青年は目を覚ました。ぼやける視界が徐々にクリアになっていく。見慣れた天井がある。雨が降る夜のにおいに、ポテトチップスのにおいが混ざっている。


「おう、起きたか」


 声を掛けられて、青年はゆっくりと上体を起こした。見れば、一人掛けのソファに、イホスの魔導師である老人が、その弟子を抱きかかえて座っている。イホスの弟子は泣き腫らした目で、すっかり眠っていた。すぐ傍のローテーブルには、『武装の国』と銘打たれた絵本が置かれている。


「話は聞いた。うちンのが迷惑かけたみてェだな」

「いえ、迷惑だなんて……」

「守ってくれてありがとよ。――俺が助けられンかった、昔のコイツのことも、助けてくれたみてェだしな」


 少年を起こしてしまわないよう、絞った声でしみじみと言われ、青年は返す言葉を見失った。それで、思い付いたことを聞く。


「――あの、先生は、どちらに?」

「ん? あァ、パンドジナモスの魔導師なら、三十分ほど前に、ちょっと出てくるっつって、それっきりだな」

「そう、ですか」


 青年は俯いた。ソファに座り直す。自分の手を見る。王子を殺したのは言葉なのに、なぜか手が赤く見えた。イホスの魔導師は、そんな青年の様子を、静かに見ていた。彼は、絵本の中で何が起きたかすべてを知っていた。知っていて、何も言わなかった。

 がちゃん、と玄関が開く音がした。怒っているような足音が、廊下をずんずんと進み、遂にリビングの扉を蹴破った。パンドジナモスの先生だ。彼は苛立ちを露わに、コンビニの袋を机上へ放り投げ、弟子の隣にどっかと座った。


「信じられるかっ? いや信じられないだろう!」

「……え、あの、何がですか?」

「警察だよ警察! あの凡愚ども、この私を捉まえて『坊や、こんな時間に何をしているんだい? おうちは何処かな?』などとぬかしやがった! この、私にだぞっ? 身の程知らずにも程がある!」

「あー……」

「腹が立ったから、そいつにはちょっとした悪夢を見せてやった! はっは、ざまぁみろ! 私を見た目で判断して、歯向かうからこうなるんだ! はっはっはっはっ!」


 高笑いする先生の言葉は、絵本の中の王子とさして変わらない内容だった。なのになぜか、腹が立たないのである。青年は不思議に思うと同時に、自分は自分の好みで人を殺したのか、と思って、再び深く俯いた。

 先生は豪快にポテトチップスの袋を開け、二、三枚一気に口へ放り込んだ。反対の手で『武装の国』をめくる。そして何気なく、


「この絵本の後半部分を破ったのは私だ」


 と言った。

 弟子は最初、何を言われたのか分からなかった。


「……え?」

「いや、昔な? 大昔――まだ、私が弟子だった頃の話だ。その頃の私には、気に入らない結末を変えるほどの力はなかったから、せめてもの嫌がらせというか、ストレス解消に、後ろから順番に破り捨ててやったんだ。半分ほど捨てたところで満足して、やめたんだが」

「え、あの、では――今回のこれは、先生の所為――」

「良い経験になっただろう? さすがは私だな!」


 先生は悪びれもせずそう言って、ポテトチップスを袋から直接口に流し込んだ。それをばりぼりと咀嚼して、飲み込む。それから、弟子の方を一瞥して、もう一袋、封を切る。そうして、絵本の最後のページを開く。破られていたはずの後半部分が、何故か綺麗に補われていた。


「最小限の犠牲で大多数を救う。最も効率的で、ほとんど全員が幸福になる道を選んだな」


 さらりと言われる。青年は斬られたような気分になった。


「先生、あの、僕……」

「次からは激情に任せるのでなく、必要に応じて行動しろ。今回は幸運にも、感情任せで上手くいったが、大抵、感情に任せれば失敗する。重要なことになればなるほどな。そもそも、どうせ殺すんだったら、最初に会った時に殺してしまえば良かったんだ。そうすれば、もう少し犠牲を減らせただろうに」


 なんとなく、先生ならこう言うだろうと思っていた通りのことを言われ、青年は唾を飲み込んだ。先生の徹底的な効率主義は、時折怖い。それはあまりに感情から切り離されすぎている。効率が悪いと判断されたら、躊躇わず捨てられるのが目に見える。それは、弟子である自分ですら例に漏れず。


「冷静に、効率的に、迅速に、最もよい結末となるよう、考えて動け。いいな」

「……はい」

「――だが、よくぞ。よくぞ結末を変えてくれたな。我が弟子よ」


 その時の先生の声がいつになく穏やかで、満足げなものだから、弟子は顔を上げた。

 先生は、柔らかい頬笑みを浮かべて絵本を眺めていた。その最終ページには、『めでたし、めでたし』と書かれている。


「やはり、物語はこうでなくてはな。――現実とは、違うのだから」



おしまい




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