崩壊するは我にあり おしまい
4
限界まで走って、青年は立ち止まった。壁に手を突いて、頭を下げ、肩を上下させる。
それなりの距離を走ったはずだったのに、カタレフシの弟子の姿は一向に見えてこなかった。
(別に……あんな奴、どうなったっていい……)
そう思った。
洞窟はやはり薄暗く、果ては見えない。前にも後ろにも、まったく同じ道が延々と続いている。
青年は独りだった。
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。走った所為だろう。いや、独りだからかもしれない。呼吸の音は静寂の引き立て役だ。音を聞くほど、静寂が強く響く。
青年は途端に落ち着かなくなった。
(どうして離れてしまったんだろう……図星を指されたからと言って、今はそんなことを気にしていられる状況じゃないのに……どうにか協力して、帰る方法を探さなくちゃいけなかったのに……)
青年は壁に沿ってずるずると座り込んだ。体が、水を吸った布団のように重たい。
(彼女の言う通りだ……僕は、どうしてパンドジナモスの弟子でいられるのだろう……先生はどうして、僕を認めて――)
――いや、認めてなどいないのかもしれない。
その言葉を思いついた瞬間、青年は震えた。蛇が首を絞める。冷たくて、苦しい。
(そうだ、僕は、認められてなんかいないんだ。先生が僕のような平凡な人間を認めるはずがない。絶対にそうだ。万能の魔導師は、平凡であってはいけないんだから……)
青年は頭を抱え、膝に顔をうずめた。
その時だった。
(「おい!」)
「っ!」
頭の中に声が響いて、パンドジナモスの弟子は飛び上がった。
(「あぁ、ようやく繋がったか」)
その声は明らかに、彼の先生の声だった。
「先生……」
(「大丈夫か? 怪我はしていないな?」)
「あ、ええと、はい!」
青年は驚きながら、頷いた。先生に気遣われたことが、果たして今までにあっただろうか。
(「では、今から私が言うことを速やかに実行に移せ。いいな」)
「はい」
(「この場所は血を求めている。もう一人と合流して、彼女を殺せ」)
「え?」
(「そうすればお前は助かる。分かったか?」)
「え、あの、先生、それは……」
(「早くしないと、この空間は崩壊するぞ。そうなれば、二人とも共倒れだ」)
「で、ですが、先生!」
(「どうした? 私の言うことがきけないのか?」)
「っ……」
(「分かったら、さっさと動け!」)
それを最後に、声は聞こえなくなった。
青年は、しばらく呆然と中空を見つめていたが、やがてよろよろと立ち上がった。
大きく息を吸い、細く吐いて、次に思い切り吸い込む。
「《
宣言した瞬間、暗闇の向こうにカタレフシの弟子の姿が見えた。先程までと同じ岩場に腰を掛け、きょろきょろと辺りを見回している。
青年はゆっくりと瞬きをした。
歩き出す。
5
「あらあら。独りでの旅行を随分と楽しまれたご様子で」
「……」
「ひっどい顔色。そんなに、独りが恐ろしかったのかしら?」
「……カタレフシのお弟子さん」
青年は静かに声を出した。
「あなたは、自分さえ壊されなければそれでいい、とおっしゃいましたね」
「ええ、確かにそう言いましたわ。それが何か?」
「では、今ここで、僕を壊してください」
「はぁ?」
カタレフシの弟子は眉を大きく歪めた。
青年は言い募った。
「先程、先生から連絡が届きました。この場所は血を求めている、と――僕らの内どちらかが死ねば、もう一方は帰れると、そうおっしゃいました。だったら、死ぬべきは僕の方だ」
「――」
「あなたの言う通りです。僕はパンドジナモスの工房にいるには、あまりに未熟だ。どうしようもなく平凡だ。どうして先生が僕のような人間を弟子にしたのか、あなたは疑問に思われたようですが、それを知りたいのは僕の方です。僕にだって、先生のお考えは分からないんです。……分からないのが、もう、弟子として失格だと思うのです」
「――」
「だから……だから、僕は、戻れなくていい。パンドジナモスの弟子でいられないなら、ここで死んでも構わないんです。――あなたは、戻ってください、カタレフシのお弟子さん」
彼女は眉をひそめたまま、青年の言葉を吟味するように押し黙っていた。
どちらもピクリとも動かない。
しばらくして、カタレフシの弟子が、組んでいた足を戻した。
「……本当のことを言うわ。私はあの時、貴方が持っていた巻物を壊そうとしたの」
「え?」
「崩壊の魔法を使ったわ。意図的に。それで、貴方が破門されればいい、なんて思ったの。貴方が破門されたところで、私がカタレフシの工房から離れられるわけないのに。ただ、貴方のことが嫌いだから、って、それだけの理由で」
「……」
「それがまさかこんなことになるだなんて、思ってもみなかったわ。私まで巻き込まれて、本っ当にいい迷惑よ。だから、壊せと言うなら本当に壊すわよ。私、貴方の命なんて、先生以上にどうでもいいもの。むしろ一石二鳥だわ。嫌いな奴は消えて、私は元に戻れるんですもの」
言いながら、彼女はすらりと立ち上がった。そうして、美しく微笑む。
「ありがとう、パンドジナモスのお弟子さん。最期に私の役に立ってくれて。貴方のことなど、明日には忘れているでしょうけれど、ご容赦くださいね?」
青年は瞬間的に冷めた。つい一瞬前までは、確かに彼女を救おうと考えていた。それが自分の命の価値になるのではないか、と。しかし、心は翻った。こんな女のために自らを犠牲にする必要があるのか、心底疑問に思い――そして得た答えは、否、だった。
(やめた、馬鹿馬鹿しい。こんな女のために自分を犠牲にする必要など無い。殺してしまえばいいんだ! そうして自分が元の世界に戻ろう。いつか、絵本の国でやったように――)
――次からは激情に任せるのでなく、必要に応じて行動しろ。
――冷静に、効率的に、迅速に、最もよい結末となるよう、考えて動け。
先生の戒めが、ふっと浮かんできた。
「待ってください」
カタレフシの弟子が、青年に触れようと伸ばしていた手を止めた。
「あら、なぁに? 今更、命乞いかしら?」
「いえ……ちょっと、おかしいと思いまして」
「おかしい? 何が?」
青年は口元に手を当てて、深く思考に沈んだ。
(僕と繋がることが出来たなら、どうして先生は、
――さっき僕に話しかけてきたのは、先生ではなかった?
その可能性に思い至って、青年はバッと顔を上げた。思えば、おかしい点はいくつもあった。
(何よりおかしいのは、先生が真っ先に僕を気遣ったことだ!)
確信を得る。そして宣言する。
(この場所を支配しているモノを!)
「《
瞬間、視界が金色に輝いて、洞窟の壁が崩れ落ちた。
6
壁が完全に崩れてしまうと、そこは白い正方形の部屋になった。
「ちょっと、何よこれ!」
カタレフシの弟子が甲高く喚く。
パンドジナモスの弟子は、目を金色に輝かせて、そのモノを見ていた。
「あなたが、巻物の主ですか」
「あぁ、見つかるとは思わなかった」
ソレは部屋の中心に立っていた。人間の形をしていたが、パンドジナモスの弟子の目に映るその姿は、全身くまなく金色に光っていた。明らかに人間ではない。
「やれたらやり返す。やられる前にやる。それって自然なことだよね。だから君たちを引き込んだ。壊されそうになったから、逆に壊してやろうと思って。魔法使いの魂は美味しいし、一挙両得だ」
「どうしてわざわざ、僕に?」
ソレはニヤリと笑った。
「人間の揺らぎは美味しい。実に楽しかった。君が自分から命を差し出そうとした時は、久々に腹を抱えて笑ったね」
ふ、と、笑みを消す。
「――ま、その後の展開はご存知の通り、反吐が出るほどつまらないんだが」
言いながらソレは人間の形を崩した。輪郭がぼやけ、溶け、土塊になる。それが膨らんで、雲のように盛り上がったと思うと、そこから節のある足が飛び出した。一本、二本、三本――八本。計八本の足が、床に突き刺さり、それらの中心部分に、玉虫色に輝く複眼がある。
ソレは身の丈を遥かに超える、巨大な蜘蛛だった。
「嫌だわ、気持ち悪い」
カタレフシの弟子は、あまり真に受けていないような調子で言った。
「ねぇ、あまりよく分からないのだけど、要するに、アレがすべての元凶ってことでよろしくって?」
「ええと……おそらく」
「そう。なら話は早いわ。――アレを壊せば、おしまいね」
言うが早いか、彼女は無造作に、蜘蛛に向かって歩き始めた。
蜘蛛が、白い糸を、彼女に向かって吐き出す。
「《
パンドジナモスの弟子がその動きを阻む。
そうしているうちに、カタレフシの弟子は、迷いなく蜘蛛の足に触れた。
「
彼女の宣言は呪いのように響いて、蜘蛛の足に纏わりついた。そして、触れたそばからボロボロと劣化し崩れていく。分解されていく、と表現するのが正しいかもしれない。崩壊は連鎖し、蜘蛛の体中に広がっていく。蜘蛛は無事な足を滅茶苦茶に振り回し、糸を吐き出して、崩壊に、そして崩壊をもたらす者に、抗おうとした。けれど、それらすら彼女に触れた瞬間、タイムラグも無く崩れて塵と化す。
蜘蛛の巨体が、完全な灰となってしまうまで、そう時間はかからなかった。
かつて蜘蛛だった灰が、雪、あるいは花びらのごとく舞い散る。
彼女はつまらなそうな顔で立っている。
7
「《
今度の宣言は、きちんと出口を捉えた。部屋の一方の壁に、隠蔽されていた扉を発見する。パンドジナモスの弟子がそのドアノブをひねると、世界が反転した。ぐるん、と視界が上下左右に一回転して、気が付いた時には、元の場所に立っていた。
「あぁ、ようやく帰ってきたか」
「先生」
「遅かったな。何をのんびりしていたんだ」
その物言いに、青年は胸を撫で下ろした。もしここで気遣われでもしたら、もう一度先生のことを疑わなくてはならなかった。
向かいのソファで、カタレフシの魔導師がにこにこと微笑んでいる。
「おかえりー。うちのが迷惑かけなかったかなぁ?」
「あっ、いえ! 全然! 最後は、すべて任せてしまって……」
「そっかぁ。まぁ、自業自得だねぇ。まず、君が壊そうとしたのが悪いんだもん。ねぇ、僕のお弟子さん?」
と、カタレフシの魔導師はソファの裏側に向かって話しかけるのである。するとそちら側から、「うるさいですわ! 先生は黙っていてください!」という小さな声が返ってきた。
「それじゃあ、僕らはそろそろ帰ることにするよ。巻物、壊してしまってごめんねぇ」
「構わん。どうせ、正体がアレだったのだから、廃棄される運命だったんだ。直す手間が省けて助かったぐらいだ」
「協会への報告は僕がしておくよ」
「そうしてくれ」
「じゃあ」
カタレフシの魔導師は立ち上がると、「自衛の準備は出来た?」と言いながら、ソファの裏に手を伸ばした。
「っ――」
パンドジナモスの弟子は息を呑んだ。
カタレフシの魔導師が抱きかかえているのは、右足と右腕を付け根から失い、左足も、その半分以上を失った、彼の弟子だった。
カタレフシの魔導師は微笑する。
「崩壊は、平等に訪れるものだからねぇ」
その目が笑っていないことに――おそらく、笑えるような心がすでに崩壊していることに――青年は遅まきながら気が付いた。表面的にしか理解していなかった、“自分が崩壊する”という言葉の意味を、目の当たりにして、背筋が凍り付く。
「それじゃ、またねぇ」
8
青年は先生の指示で、コーヒーを淹れ直した。
先生はポテトチップスの袋を乱暴に破り開けて、二、三枚ずつ豪快に口に放り込んでいく。
青年は、キッチンの椅子に座った。先程見た、カタレフシの弟子の姿が、脳裏から離れない。それから、彼女が言った言葉を、丁寧に思い返す。彼女は、言葉以上に怯えていたのではないか。態度の裏に恐怖を隠していたのではないか。
(あぁ、僕はどうして、何も理解できていないのだろう……実際に見てみるまで、僕は、欠片も、彼女の実情を、想像することすらできなかった……)
「弟子」
唐突に、先生が背中越しに言った。
弟子はのろのろと顔を上げる。
「はい、何でしょう」
「お前はそれでいい。だから私の弟子なんだ。――精々悩み、苦しめ」
それだけ。
一方的に言い捨てると、パンドジナモスの魔導師は立ち上がって、部屋を出ていった。
残された弟子が、間抜け面を晒している。
おしまい
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