a note おしまい
4
歌い終えて、エレオスの弟子は目を開けた。すっかり傷が塞がった脇腹の中に、自分の指だけが取り残されている。彼はするりと指を抜いた。指の分の穴は存在していなかった。これで完全に、男の腹は元の形を取り戻したというわけだ。
男は嘆息した。
「あぁ~あ。綺麗になっちまってぇ……」
「治療されて恨み言を言うのは、君ぐらいのものだよ。――さ、もういいよ、イホスのお弟子さん」
声を掛けられて、少年はおずおずと顔を上げた。顔色が蒼い。
「大丈夫かい?」
「――」
「まー、森の黒山羊よか、ずっとマシだろーから、大丈夫だろーよ」
ククラの弟子の言葉に、少年は苦笑した。正直あの森でのことはあまり思い返したくない。けれど、確かにあれよりはマシだ、と彼自身そう思った。
男はひょいと立ち上がった。
「さぁて、それじゃあ、俺はそろそろ帰っかなー。先生もそろそろお戻りになる頃合いだしー」
「ククラの魔導師によろしくお伝えください」
「もっちろん」
男はくるりと振り返った。前髪に覆われた向こうの顔が、満面の笑みを浮かべている。
「エレオスの弟子に治してもらったー、って先生に言うんだー。そうしたらぁ、先生絶対に怒るよー。せっかく私がキレイにしてあげたのにーって。そしたらまた絶対に、先生は俺と遊んでくれる。さっきよりももっと深く、もっとしつこく、俺をいたぶってくれる。それが今から、楽しみさぁ」
心の底から幸せそうに、陶酔しきった表情を浮かべる男。エレオスの弟子は深く溜め息をついた。少年は理解が追い付かなくて、固まっている。
「ほどほどになさい。死んだら、治せないよ」
「いいよぉ。先生に殺されんなら、本望だしー。それじゃー」
男は颯爽と踵を返し、背中越しに手を振った。
「漢字の練習、たまにしとけよー」
「――!」
少年は慌てて頷いたのだが、彼は見向きもしないで扉の向こうに消えてしまった。
「困った人だ、相変わらず」
エレオスの弟子が誰にともなく言った。
少年は少し迷っていた。やがて、ソファから足を下ろすと、鉛筆を取った。
『ぎゃくたいされてるの?』
シンプルな質問に、エレオスの弟子はどう答えたものか困って、頭を掻いた。
「虐待……なんだろうね、傍から見れば」
『嬉しそうだった。なんで?』
「難しい漢字を書けるんだね。練習の成果かい?」
『さっきの人におしえてもらった』
「へぇ、ククラが。ああ見えて案外、世話好きなのかな」
男性は話を逸らすようにそっぽを向いた。しかし、頬に当たる少年の視線に、耐え兼ねたように口を開く。
「彼は、先生のことが大好きなんだ。先生から授かるものは、命より大事だと言って聞かない。どんな細かな物も、酷い言葉も――怪我すらも。彼は、先生を愛していて、先生から貰うすべてを愛しているんだ」
「……」
「この世にはいろんな人間がいるってことだよ」
少年には結局、ククラの弟子のことはよく分からなかった。けれど、エレオスの弟子が最後に言った言葉は理解できた。
『ククラの先生は、お弟子さんのこと、きらい?』
「……どうでしょうね。僕は、あまり会ったことがないから。集会や何かで見かける時は、ごく普通にしているけれどね」
『おにいさんは、先生となかよし?』
エレオスの弟子はふわりと微笑んだ。
「うん、もちろん」
『エレオスの先生は、どんな人?』
「口は悪いけど、好い人だよ。口は悪いけど」
にこやかに即答する。少年の頭には、エレオスの先生は口が悪い、という情報と、彼が本当に先生を慕っているらしい、という印象が残った。
それきり、少年は取り立てて聞きたいこともなく、鉛筆を止めた。エレオスの弟子はというと、彼の方も熱心に会話をする質ではないようである。しばらくは少年の方を見て、どこか気まずそうにしていたが、やがて持参していた本を開いた。
彼が本に集中し始めたのを見て、少年も状況を理解する。落書きを再開する。穏やかな沈黙が続く。
5
次に扉が開く音がした時、少年はすっかり寝入っていた。はたと気が付いて頭を上げると、エレオスの弟子が微笑してこちらを見ている。少年は少し恥ずかしくなって、口元を拭った。
「あら、エレオスの弟子じゃない。ご機嫌いかが?」
「こんにちは、カタレフシのお弟子さん。お久しぶりですね」
「そうね。いつ以来かしら。まぁどうでもいいけれど」
カタレフシの弟子は、少年の隣にどすんと座った。女性の弟子を初めて見たので、少年はなんだかどぎまぎしてしまった。彼女はじろりと少年を見、相好を崩した。
「あらぁ、可愛い子! どこのお弟子さんかしら?」
鼻が触れてしまいそうなほど近くまで顔を寄せられ、少年は大いにたじろいだ。甘い匂いが眼前に迫る。くるりとカールした毛先が頬を掠める。少年は魔法を掛けられたように動けなくなった。
「カタレフシ。彼は、イホスのお弟子さんですよ」
「ちょっと、エレオス! 私は彼に聞いたのよ? どうしてあなたが答えるのよ!」
「彼は生まれつき話せないんです」
「そうなのっ?」
彼女は目を見開いて、少年をぎゅうっと抱き締めた。少年は彫像と化した。豊満な胸の中に顔が埋まって、息が詰まる。
「あらまぁ可哀想に! でもそれなら、イホスの工房に入ったのも頷けるわね。イホスの魔導師は耳が不自由なんでしょう? こういうのを……何て言うんだったかしら。破れ鍋に綴じ蓋? だったかしら」
「言葉が悪いですよ」
「あら、どこが?」
彼女は本気で首を傾げた。エレオスの弟子は軽く溜め息をついて、諦める。
「いいえ、なんでもありません。それより、彼を放してやってくれませんか? 苦しそうですよ」
「あらあら、ごめんなさい!」
パッと放されて、少年は素早く彼女から離れた。顔が真っ赤なのは、恥ずかしさの所為でもあり、酸欠の所為でもある。床に座り込んで息を荒げる少年。それを見て、カタレフシの弟子はあっけらかんと言った。
「そんなに苦しかったのなら、言ってくれれば良かったのに」
「カタレフシ……僕の話を聞いていましたか?」
「なぁに? あなたの話って」
「ですから、彼は話せないのですよ。声を出せないのです」
「やだ! そういう重要なことは、ちゃんと言ってくれなくちゃ困るわ!」
「僕、言いましたよね……」
「私に聞こえていなかったら言ったことにはならないわよ」
「……おっしゃる通りで」
呆れかえった声で相槌を打って、エレオスの弟子は少年を手招きした。少年は招かれるまでもなく、密かに、エレオスの弟子の方へと移動していた。
「そんなことより聞いてくれる? またうちの先生が、私の大切にしていたぬいぐるみを壊したのよ!」
「そうなんですか」
「その上、反省の色は全くなし! もうっ、本っ当に酷いのよ!」
「そうですね」
エレオスの弟子はおざなりに頷きながら、さりげなくノートと鉛筆を引き寄せた。そしてさらりと書き込む。
『彼女の話は長くなりますので、適当に退出することをおすすめします』
少年はこくりと頷いた。
『ありがとう、エレオスのお弟子さん』
彼がそう書くと、エレオスの弟子はにっこりと笑った。
少年はノートを閉じた。鉛筆と一緒に抱え持って、ソファから降りる。
「あら、少年、もう帰っちゃうの?」
「先生が呼んでいるそうです」
「あらまぁ残念だわ。また会ったらたくさんお話ししましょうね!」
少年は苦笑しながら、彼女らに小さく手を振った。爪先立ちになる。ドアノブを捻り、重たい扉を開く。ガァガァと囀る音を、扉の向こうに閉じ込める。
先生のいない家は、やはり、静まり返っているのであった。
6
「ただいま」
イホスの魔導師は帰宅した。そして、いつもなら奥からパタパタと駆け出てくる小さな影が、一向に来ないことを訝しんだ。
「おーい、弟子? どっか行ってンのか?」
弟子の部屋に行ったのなら良い。外出したというなら、あまり褒められたものではないが、分かる。しかし、もし外出先で何かあったら――あるいは、偶然よく分からない魔法に巻き込まれていたら――そう思うと、イホスの先生は落ち着かなくなった。
だが、その心配は杞憂に終わった。
リビングに入る。ソファの上に、小さな影が丸まっている。
「なンだ、寝てンのか」
先生は安堵の息を吐いた。風邪をひかれては困る、と、毛布を取りに行く。
少年に毛布を被せてやってから、反対側のソファに腰をうずめる。そうしてふと、テーブルの上に、見慣れないノートがあることに気が付いた。
何の気もなしに手に取る。すぐに、魔法によって生み出された物だと分かった。中を見ると、子どもの字が脈絡なく書き込まれている。弟子の書いたものだろうと察せられた。彼が、弟子たちの部屋に行ったであろうことも。上手に描かれた絵が、彼が誰と出会ったのかを教えてくれる。
先生はノートを閉じ、そっとテーブルの上に戻した。ソファの背にもたれる。少年の寝息が、秋の夕暮れをひたひたと満たしていった。
おしまい
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