第17話 As

 温室は古い教会の脇にあって、西側の仄白い石塀に面していた。ジャスミンの糸のような蔓がたよりなくしがみついている塀には木戸がついていて、わたしはいつもそこを三回ノックして押しあける。返事がかえってくることを期待しているわけではなく、慣習だった。食前の祈りのような。踏みしだかれたまばらな草は色が抜けたようで、その先の、円形のドーム状につくられた小さな温室の白くくすんだガラスと呼応して、周囲の空気を現実味が希薄なものに見せていた。灰だらけの景色。

 校舎からすこし離れた旧い教会の建物は、月日の重みでか崩れ行こうとしていた。あきらかに傾いでいるわけでも、穴があいているわけでもないが、そこは既に死んだ場所だった。骸は朽ちるものだ。

 温室のなかは明るい。くすみの遮光幕を通したやわらかな日光がさしこんでいる。

 温室には先客――あるいは住人かもしれない――がいる。

 わたしは扉の把手に手をかけ、ゆっくりと息を吐く。指の付け根に力を込めると、さまざまな部品が小さく軋む音がして、温室の独特のかすかな香気が鼻孔に触れた。ほんの少し外界より質量を感じる空気が肌にまとわりついた。

「こんにちは」

 温室の奥から声がした。いつもと変わらなく、ひり、と冷たいさざ波のように空気を震わせる。垂れさがった卵型の葉の房をかき分け、わたしはかつ、と自分の革靴の音を聞きながら、まとわりつく透明な植物の匂いのなかをすすんでいく。無風の温室には、ほんの少し甘い香草の匂いや、図鑑で見るより少し色褪せ、小さな熱帯植物のかすかな葉ずれの音が漂う。

 水の流れる音がした。それはすぐにやむ。また流れる。一定の間隔をおいて、少しずつ水が注がれる音がする。足をすすめればその理由がわかる。

 今日も彼は温室にいた。

 通路の中央に、注ぎ口が白鳥の首のように細く長いじょうろを持って、立っている。黒いハイネックに細身のパンツ、ゴーストホワイトのショール。白に近い砂色の髪が印象的な細身の後姿は、初めて会ったときとなんら変わりのないものだ。

 数か月前、高等部に入学したわたしがこの温室に迷い込んだとき、今日と同じように、温室の奥でじょうろを傾けていた彼は、落ち着いた、さざ波のような声でアルセニーと名のった。彼からは、さぞ間抜けな表情をした学生に見えていたであろうわたしは、しばらくの間声もだせなかった。制服のタイに絡まっていたジャスミンの蔓を、彼の指がやんわりとのけて、その瞬間身のこわばりが解けた。……使用されているはずがないと思いこんでいた場所に人がいた衝撃は長いことわたしの心中から去らず、アルセニー氏が紅茶をいれ、わたしにガーデン・チェアをすすめてくれるまで、ぼうっとそこに立っていた。彼は、切れ長の灰緑色の瞳で、他人の目を見て、低く落ち着いた声でゆっくりと喋った。実験の手順をたどるように紅茶をいれていた、白い蝋に似た指先と、不透明な淡い雲母をはがしたような手入れの無造作な爪が印象に残っている。

 わたしの趣味は他人にあだ名をつけることである。無論、温室の彼にもすぐに相応しいものを選んだ。彼の名前は砒素。スラヴ系らしい名前と顔立ちと、しずかに研ぎ澄まされた彼のまとう印象にぴったりだった。とけた飴のようでいて尖りきった均衡、わたしたちは溶接された逆三角形の上で茶会を開いているような、火の消えたランプのガラスの覆いのなかで閑談しているような、そういった類の対面を繰り返していた。

 高等部の校舎から、この温室までは遠い。そもそも、その理由で、廃教会は放逐された。……崩落の危険があるため立ち入り禁止になっている。パズルのピースや樹の皮に似た剥がれた壁が散らばり、割れたステンドグラスが実際より複雑な輝きを以てして、神秘的なまでに教会内の粉塵をあざやかに洗い出す。無音の空間に金の靄がただよっている景色は端的に美しかった。もともとわたしは、それを見たくてこの区域に侵入し、この温室を見つけたのだ。

 水遣りを終えたらしい氏のもとに歩み寄り、こんにちは、と挨拶をすると、少し開けた場所に置かれた白いテーブルにつくようおだやかに勧められた。いつも通りの流れだ。わたしは好意に甘えて席に着く。すずらんとニガヨモギが、丸いガラスのティーポットに生けてあった。卓の花は見るたびに変わる。彼が手ずから摘んでいるようだ。テーブルの上では、サモワールがしゅんしゅんと湯気を立てている。回教寺院のような四つの尖塔の上に、陶器のティーポットがのっていた。丸く面積の大きくない卓の上にはひとつ皿が置かれており、その皿の上にはブラックベリーが盛られていた。温室のなかにベリーの灌木があったろうかと思案する間もなく「いただきました」と彼が言った。よろしければどうぞ、白い指先が皿を目の前に押しやる。ありがとうございます、と呟き、ひとつをつまむ。やわらかくて、潤んでいる。舌先にほんの少しの弾力と静かにはじける強い酸味と鼻に抜ける野性的な甘さ。視線だけでちらりと向かいの氏を見やると、彼はわたしの食べるさまを見ながら、かすかにかぶりを振った。

「甘いものは好きではないのです」

 アルセニー氏はゆっくりと紅茶をかき回す。ティースプーンをカップから離すとき、縁にあたってちりん、と音が鳴り、彼の眉宇がほんの少し曇った。とりたてて美々しくはないが、ときおりぞくりとする端正な顔立ちだ。彼はわたしより年上なのだろうか。十代の青年にも見えるし、二十も半ばを過ぎたようにも思える。学生ではないようだが、なにか世俗的な何かをこなしているようには見えなかった。彼はなぜここにいるのだろう。温室の管理人、あるいは庭師。学校の関係者であることは確かだが、もしかしたら隣接した廃教会とつながりがある可能性もあって、わからなかった。じょうろを持つ手の皮膚は乾燥していて、爪はいつでも無造作に短く切られている。紅茶を入れる手順は洗練されていて慣れた様子。それ以上のことは何も読み取れなかった。

 ぼうっと思考の淵に沈んでいたわたしの様子をどう受け取ったのか、アルセニー氏はふと声をかけた。

「……もし酸味がつよければ、砂糖をどうぞ」

 つまみが花の芽のかたちをしている小さな壺を指し示された。ありがたく、その硬貨くらいの大きさの蓋をもちあげ、なかの奇麗に均された白い砂糖にうまったスプーンを抜いて、白い粉砂糖をブラックベリーの上に降りかける。使い古されてはいるが、雪のようだ、と喩えてみた。

「甘いもの、お好きなんですね」

 果実をなかば隠すほどに降りかけられた粉雪をみて、アルセニー氏は目を細めて言った。わたしは身を竦めてしまい、小さな声で肯定する。甘いものが好きだということが、妙に気恥ずかしかった。それに、少しぼうっとして、砂糖をかけすぎてしまった。戻すこともできないので、ひと粒つまんで口に運ぶ。濃厚な酸味と、痺れるような甘味。ふたつが混ざり合う味蕾をすっきりとした味の紅茶で洗い流しながら、周囲の草木類を見渡す。ガラスの外では生きていけない植物たちは、水を葉に受けて瑞々しく生い茂っていた。

 ここに、わたし以外に客人はあるのだろうか。ふと気になった。くすみ、錆びているが埃は積もっていない把手、ぬるく、空気が循環している、取り残された廃墟のようでありながら静かに何かが息づいている室内……。

その疑問は口に出して尋ねた。アルセニー氏は少し目を細め、小さく頷いた。

「ええ。ごくたまにですが、温室の建物の修理や点検の方などが」

 答えながらまばたきした瞳に、ふと曇りの隙から差し込む陽光がひらめくと、驚くほど美しい緑がみられる。その彩を見つめながら、わたしは相槌を打って、その裏でひそかにこう考えていた。――ならば、しかし、このブラックベリーは、誰にもらったのだろう。

 氏がカップを傾ける。彼は飲み干すのも早く、二杯目はいれない。楽しむための時というより、必要最低限の休息に似た行為でもある。本来ティータイムの習慣がないところを、わたしがやってくるものだから、無理に時間を割いてくれているのかもしれない。その考えに至り、少し胸が苦しくなった。

「特に誰も来ることはありませんよ。めずらしいものもありませんし」

 周囲を取り囲む植物の匂いが濃く、頭蓋の奥までしっとりと満ちていくように感じられる。……白い蝋のような指先が、つと空中に伸ばされる。

「ここの植物は、研究や授業用ではありませんので」

 淡い黄色の、園芸品種のようなジャスミンの蔓の先に指を絡める。アール・ヌーヴォーの装飾を思わせる風景だった。わたしもつられて周囲を見渡した。名を知る品種は少ない。特徴的な花や葉をつけていれば判るが、多くは、ひっそりと茂る佇まいに見覚えのある草も名前を思いだすには至らず、薄衣越しに記憶の奥を刺激するようだった。ひとつ、名の判る、ジギタリスの葉をつまむ。花が咲いていなければ、園芸として楽しむには少々地味な植物だ。ガラスに這っている蔓は朝顔の一種だろうか、氏が以前、温室を支配されたくなくば彼らを蔓延らせてはならないと言い、大きな鋏で蔓を切り落としていた。わたしの視線に気づき、アルセニー氏は「私の趣味です」とほんの少し苦笑した。なるほどここの植物の管理を一任されているらしい彼は、己が好きなように植え替えているらしかった。華美なダリアや薔薇のない、一見薬草園のような質実とした佇まいはそれによるものかもしれない。

 ベリーを時折つまみながら、途切れ途切れに植物に関わる話をし、やっと紅茶を飲み終わり、わたしはもう少しここに留まりたかった。だが、あまり長居をしては彼の迷惑になる。わたしが帰ると言えば、彼はけして引き留めない。さようなら、と灰色がかった髪を揺らして一礼する。本当は少し後ろ髪引かれる思いで、あたりの草木を眺めながら温室の入口へ向かう。背後からはまた、じょうろで水を遣る音が聞こえてきていた。……扉を出る前に少し足を止めて、その音を聞きながらゆっくりと、何の気なしに足元に目をやり、そこで私は動きを止めた。

 見知らぬネクタイピンが落ちていた。


          ◇◆◇◆◇


 喧騒と賑わいとの間に常に一枚、ヴェールが垂らされている気がする。天蓋のある寝台の外と内のように、吹く風は薄衣を揺らし、外の景色も見える。人々が動き回り、言葉を交わす。それでもそこには確かな境界があるのだ。

 絶え間ない人々の囁きは高く低く、生徒、あるいは教師も混ざり、くるくると講堂内の空気をかき回す。温室よりも開けているはずなのに、なぜだか逃げ場のない空気が天井近くで惑ったように循環しているように思えた。新しいステンドグラスや、荘厳な印象の内装がそう感じさせるのだろうか。わたしは長椅子に腰掛けたまま、ぼうっと空を見つめていた。級友の話しかける声もどこ吹く風で、わたしの耳には切れ切れの木枯らしほどにしか届いていなかった。

 静寂を求める、少々厳しい声が宙を裂く。はっと声の止んだ講堂にはまだかすかに余韻が漂っていて、しかしそれもすぐに消え失せた。静まり返った空間に靴音が響く。それなりの恰幅の、グレイのスリーピースが似合う校長が登壇する。……長い話が始まる。善について、勉学について、朗々とした声が空虚な伽藍に響く、わたしは自分の靴先に目を落としながらこう考える。――ここに植物があればどんなにいいか。

「エインズワース」

 苗字を呼ばれ、顔を上げると、眼鏡をかけた灰色の瞳と視線がかち合った、……教師のひとりだ。名はなんといったか――背が高く、鉛筆のように痩せ、剃刀のような目と高い鼻梁、眉間に渓谷を持つ、整っているのかもしれないが陰険な容貌の男。

「前を向きなさい」

 声も陰険そうだ、と思いながら、わたしは俯けていた顔を少しあげた。視界の向こうに校長の姿、話はまだ続いている。昔の話。過ぎ去り、今に何をもたらすこともない退屈な話。

 わたしに声をかけた教師が、また去っていこうとする。その姿に視線を投げかける。彼が踵を返そうとした時、濃いグレイのネクタイに、真新しいピンがついているのが見えた。


          ◇◆◇◆◇


「あなたはよく来てくださいますね」

 伏せた睫毛がほのかに震え、ことん、とティーポットを置いた。わたしは目の前に置かれた紅茶――濃いめの紅色が奇麗に透けている――のカップを手に取りながら彼の目を見た。

「学校は面白いですか」

 彼から話題を投げかけてくることはあまりない。わたしは考え、小さく頷くにとどめておいた。本当はあまり学校に興味はない。好まざることを話題にのぼらせて、空気を濁らせるのは好きでなかった。それに、……どうにも気にかかることがあった。

 温室の入口に落ちていたネクタイピン。確か、銀色で、翡翠のような小さな石がついていた――今日見たときは既になくなっていた品。持ち主が回収したのか、それともアルセニー氏が拾ったのか。

 氏がネクタイをしているのは見たことがない。濃い色のハイネックに、淡色の下、そして、靄のようなゴーストホワイトのショール。少しずつ色合いこそ変わるものの、ほとんど同じ衣装だ。それが彼の存在の現実感を希薄に見せている。

 ピンのことを口にしようとして、ふと迷って口を噤んだ。あまりにも直截的な質問すぎて、憚られたのだ。わたしはまた、来訪者についての問を口にした。

「こんなところにわざわざやってくる物好きはいませんよ」

 その物好きが目の前にいるのだが、と少々非難がましそうに返してみると、彼は苦笑する。

「花が好きな…人、とか」

 敢えて、生徒とは限定しなかった。学生はリボンタイだ。個人でネクタイピンを所有しているとは考えにくい。作業員とて、まさかスーツで来るわけはないだろう。別の誰かなのだ。

 アルセニー氏はわたしの瞳をまっすぐに見て、……ほんの一瞬、火花のようにあざやかなエメラルド・グリーンと視線が絡まり、すぐに彼は目を伏せて、ゆっくりとかぶりを振った。

「……いいえ。誰も」

 伏せた瞼に落ちる影は仄青かった。砒素、ここで彼につけたあだ名を思いだす――ナポレオンを弑した猛毒でありながら、その化合物は目の覚めるような美しいエメラルド・グリーンを示し、画家を虜にしたという物質――それを隠すような眼差し。わたしの未だ胡乱げな視線にふともう一度彼はまばたきし、少し口角を持ち上げて思案気に呟いた。

「私も、ここで暮らしているわけではありませんから。……知らないうちに、偶然みつけた誰かが入った、ということはあるやもしれませんね」

 恐らく、ここを訪れる中では――わたし以外にこの温室にやってくる者がいればの話だが――わたしの来訪頻度が最も高い。そして、そのすべての場合で、氏は温室にいる。まだ日が金色に透ける朝方でも、ガラスが深い薔薇色に沈む夕刻でも、彼がいることを期待していない時間帯であっても、アルセニー氏は常に温室にいた。彼がいないうちに、誰かがここへ来ることなどありえるのだろうか。盗人? 犯罪者? それとも――

 怪しまれることも承知で、わたしはこう尋ねた。

「……やってきた人が、落としものをしていったりはしないんですか」

 アルセニー氏がわたしの目を見た。意図を探るようなその視線に、わたしは深呼吸し、真意を悟られても構わない、むしろ彼が隠しているであろう何かに触れ、それを引き出せることができれば、という気持ちで、残りを続けた。

「たとえば――ネクタイピンとか」

 彼がまばたきをした一刹那、瞳の奥底まで光が差し込み、そのおそろしく美しいエメラルドが一瞬閃いた。ガラスのように透けた瞳の深潭からは何も読み取ることはできなかった。ゆっくりと瞼がおろされ、あがるまでの一瞬で、わたしは彼の何をも理解することはできなかったし、彼はわたしの真意まで見通してしまったように感じられた。

 そうしてから、やはり、彼はゆっくりとかぶりを振った。

「いいえ。何も」


          ◇◆◇◆◇


 起床の鐘ではなく、どこか浮足立った様子の同室の友人に起こされたのは、午後五時半頃だった。起き上がると同時に、何かあったらしい、と急いた口調で伝えられ、訝しく思う。

 朝から休講となり、寮での待機を命じられた。しかし大人しく自室にこもっている生徒などおらず、ほとんどが廊下や交流室などで、耳の早い生徒を中心に、ひそめた声で熱心に事の次第について話していた。

 エヴァンズ先生が亡くなられたって。本当に? 本当。今朝、部屋で。どうして? 病気? なんでも、自殺らしい。そんなばかな。ばかなものか。毒を飲んで。どうして。さあ。

 飛び交う流言だけでも充分に情報は拾えた。エヴァンズ、はてどの教師だろう、と傍らの友人に問うと、生物の教師だ、と言われた。きみは化学選択だからな、知らなくても無理はない、とつづけたところで、友人は片方の眉をあげてみせた。おや、そういえばこの間の集会で、きみに注意した教師、あれはエヴァンズ先生ではなかったかな。

 わたしは目を見開いた。あの、長身痩躯の教師。灰色の眼差し、陰気な気配、真新しいネクタイピン。

 自殺か、大罪だ、と目立つ声がした。部屋が一瞬静まり、またすぐにざわつく。そうだ。聖書における罪だ。よくできたものだね、そんなこと。まあ教師にもいろいろあるんだろうさ。うるさい生徒とか、嫌な上司とか。まあね、何もかも嫌になることなんてそりゃたくさんあるだろうしね。それにしても急だな。もともと元気そうな人ではなかったけど。元気じゃないというか、快活じゃない、だな。そうそう。生真面目で、厳格で。趣味は絵画。いつもひとりで、冗談も通じない――

 書籍の頁がばらばらに破られ、ばらまかれるようだ。断片的な情報、事実、推測、嘘が舞い飛び、人物像を歪めて、霞ませていく。まるで温室のガラス越しの景色のように。

 ねえ、知っているか、ふと級友のひとりが、わたしと傍らの友人に語り掛けてきた。口元に手を添え、わざとらしいほどひそめた声で続ける。エヴァンズは、自殺なんかよりもっと大きな罪を抱えていたって。わたしは少し眉をひそめてみせただけだったが、友人はその餌に食いついた。何なんだい、それは。級友は意味深長ににやにやと笑い、罪は罪さ、主よ、我罪を犯せり! と言い残し、また別の方へ行ってしまった。ああいった手合いはよくいるものだ。自分がカードを持っていることだけ誇示しておいて、その中身はもったいぶってなかなか見せない。大方の場合において、その中身は大したことではないし、確たる証拠があるものでもない。そんなくだらないことよりも、わたしは、温室へはいつ行けるのだろうかということばかりが気にかかっていた。

 しきりに罪の正体を気にかけていた友人が、別の集団に呼ばれてわたしの傍らを去る。ひとりになり、ぼうっと廊下の窓際で外を眺めていたわたしの隣に、ふと先程の級友が声をかけてきた。

 あの男の罪を教えてあげようか、なおも言う級友に、不快な表情を隠しもせず見せる。気づいているにも関わらず厚顔に彼は続けた。おぞましい聖書にうたわれる罪の数々、淫蕩な快楽が伴う堕落の営みが虎視眈々とあたり一面に音もなく咢を開くなか、あの教師がはたして何にとり憑かれたか。きみも知っているだろう、朽ちた教会の傍ら、鳥籠のような空間、あの背徳の蔓延る楽園。


          ◇◆◇◆◇


 ブラックベリーに砂糖をかけていく。できるだけ普段通りに。出逢った日から変わらないように、ひとさじ、ひとさじ、降り積もる砂糖が黒く輝く果実の表面を覆っていく過程を見つめていながら、頭は別のことで支配されていた。紅茶に口をつけるのに長く時間がかかったことに、彼は違和感を抱いたろうか。上顎の内側が痺れるほどに甘い。砂糖をいれすぎたようだ。

 視界の端でジギタリスの葉がぼんやりと濡れて光っている。温室は拍子抜けするほど何も変わらない。満ちる植物の匂い、じょうろの水音、佇む彼の姿。

 先ほど入ってきたとき、こんにちは、といういつもどおりのさざ波に、わたしはいつも通りに返せなかった。強張った声が奥まで届き切らず、ほとりと温室の床に落ちてしまった気がした。

 氏はいつもどおり、自分の紅茶を、緩慢な動作で時計回りにかき回す。砂糖はいれない。いつもそうだ。けれどもどうしてか、ゆっくりと、儀式めいた仕草でかき回す。

 氏の様子からは、何も変わったことは読み取れなかった。学内で起きたことを知っているはずだとも思えたし、この静かな温室にあんな忌まわしい出来事が這入りこむ隙なんてあるはずがないとも思えた。それはわたし次第ともいえたのだ。胸先におさめていることもできたし、そうするべきとも言えた。剣を抜けばもう戻れなかった。

 卓の上ですずらんとニガヨモギが揺れている。昨日より幾分か萎れているようだった。ひとくち紅茶を飲んだきり何も口をきかないわたしを、氏が視線をあげて見た。その灰緑の瞳を目にして、わたしは急に迷いだした。言うべきでない、このまま鞘におさめておこうというのは本当に正しいのだろうか。いいや、あんな話は嘘に違いない。口を噤め、と命ずる意志が混ざり合い、怪しまれないようにひとつを齧ったブラックベリーの味もよくわからなかった。砂糖が砂粒のように舌の上を転がっていく。無風の温室には植物の匂いが満ちている。吸う空気で肺胞まで緑に染められるように。変わらない。ここはなにひとつ変わらない。こうして過ごすわずかな時間さえも。

 わたしだけはいつも通りでいられなかった。沈黙の重みに耐えられず、何か言うべきことを探した。わたしの気配の変化を感じ取ってか、アルセニー氏がカップに注いでいた視線をまたあげる。その目を見据えてわたしは口を開いた。

「そういえば」

 わたしは愚かにも、このひとときを邪魔する無粋なことを自ら口にした。

「……教師が、死んだとか」

 彼は顔色ひとつ変えず、紅茶をかき回している。あまりに物騒な言葉にもなんら動揺したふうは見せない。そうですか、それはまた、と平素と変わらない口調で言った。知らなかったのですか、と問えば、ええ、と頷く。私は滅多にあちらへは伺いませんので。滅多に、という言い回しが引っかかった。

「毒物、と」

 自ら毒を飲んだ形跡があったらしい。情報が洩れ、回るのは早いものだ。どれだけ醜聞に蓋をしようとしても、人の口に戸は立てられない。あっという間に、渡り鳥のように噂は遠くまで広がっていく。

「自死と思われているようですけれど」

 夜半、ひとりで毒の入った紅茶を呷いだという。毒を飲むためだけにわざわざ紅茶を淹れるというのも多少妙な話だが、自殺をしようという人間の思考回路など考えてみたところで仕方がない、という意見が大半を占めるなか、わたしはこう考えていた。紅茶を淹れるのはどんなときか。

 客をもてなすときではないのか。

 喉がからからに乾き、舌が忙しなく唇を舐めた。緊張に凍りついた声帯で、彼に語り掛ける。

「以前、ここの植物は好きで植えていらっしゃると聞きました」

 周りを取り囲む植物を目でたどり、最後に、こちらを真っすぐに見ている氏の緑の瞳を見返す。

「……変わった、ご趣味ですね」

 崩したくはなかった。今まで通りの邂逅を期待していた。だが自身の疑心までもは誤魔化しきれない。

 ここはただの静かなうつくしい温室ではなかった。緑の住人すべてが毒を持つ、死の楽園。

 ジギタリス、ダチュラ、わかるかぎりの植物の名前を調べて愕然とした。……卓の上のすずらんやニガヨモギですらそうだった。毒草の代表格、トリカブトになかなか気づかなかったのは、あの特徴的な花をつけていなかったからだった。

 香草の先端をつまみ、離した指先を顔に近くに持っていくと、強く植物が匂う。これは毒なのだろうか。膝の上で握りしめた片手が震えている。言ってしまった。投げられた賽の重みを、初めて知った。

 ゆっくりとアルセニー氏が立ち上がった。椅子を引く音に身が跳ねる。氏はカップ以外の茶器を載せた盆を持ち、少し離れた水道まで行くと、水を出してそれらを洗い始めた。ちょうどわたしに背を向ける格好になるため、その表情はわからない。

「植物自体に毒があったところで、抽出や様々な過程を経ていなければ、毒物としての利用はできないでしょう。できたとしても、私はその方法を知りません。私が知っているのは、育て方」

 淡々とした声に身が冷えた。脊髄にそって冷水が駆け上がる――殺人者と疑われて不快感を覚えない人間などいない。彼はどのように感じたろう。瞋恚、屈辱、悲憤、それとも。平常と変わらない声音、仕草は激情を抑えているからか。膝の上で拳を握りしめた。背に圧し掛かる今更の後悔の念に自然と頭が垂れ、謝罪を絞り出した。ついで、まだ告げていないことも言う。

「……毒は、砒素だったそうです」

 植物毒だったから疑っていたわけではない、ということを白状する。ただの、偏見だ。彼の瞳。わたしの抱いた印象。根拠のない疑念を蔓延らせる温床。わたしは自分を恥じていた。項垂れた首をそのまま切り落としてほしいとすら思うほどに。

 氏はティーポットを洗っている。丹念に、水をたっぷり使って、濯いでいる。理不尽に疑われた怒りを鎮めているのだろうか。ティーポットを洗い終わると、ブラックベリーの入っていたボウルを洗い始めた。絶え間ない水音が鼓膜から神経を苛み、頭蓋で心臓が鼓動していると錯覚するほどに心音が膨れ上がった。

「ナイフを持つ者は、いつしか持つのみでは飽き足らずにそれを使いたくなる、そういうことでしょう。解りますよ。誰しも、この植物たちをみれば私を疑うでしょうね」

 背を向けているせいで表情まではわからない。だが、声は普段と同じ、低く落ち着いたものだった。その声に余計不安を募らせる。彼の真意が知りたかった。

 アルセニー氏は蛇口をひねって水を止めると、ふと傍らの鉢に手を伸ばした。

「たとえばこれ」

 言いながらつまんだジャスミンの蔓の先に指を絡め、横顔の目を細める。「ジャスミンに見えるでしょう」

 わたしは弾かれたように頷いた。「ちがうんですか」出た声は情けなく強張っていて、やはり床に落ちていった。

「ええ、カロライナ・ジャスミンという名前ですよ。ですが、本当は違うのです。ジャスミンはモクセイ科、これはゲルセミウム科。カロライナ・ジャスミンは、人を殺せる毒をもっています」

 わたしは植物に詳しくない。彼が摘まんでいるものは本当のジャスミンとそっくりだが、科が違うと言われればそうなのか、と、多少の驚きはあるが受け入れるしかない。

「誤ってジャスミン・ティーにする中毒事故なら、ありえそうですね」

 言いながら、向かいの椅子に座る。思わず紅茶に目をやったわたしに、少し意地悪そうな表情で微笑む。「ご心配なく、ダージリンです」香りから判ってはいたが、やはりそう掌で踊らされるような反応を返したことが気恥ずかしく「アッサムも入ってるでしょう」と余計に一言付け加えてしまった。アルセニー氏はわたしの見栄などお見通しという微笑で「ええ」と頷く。

「ジギタリスは全草に猛毒が、すずらんは活けた水すら危ない……育てている以上、私に責任がありますから。扱い方は心得ていますよ」

 周囲の葉に少しずつ触れ、愛撫するような手つきで一輪、淡い黄色のカロライナ・ジャスミンを摘み取り、テーブルに置いた。

「さすがに、砒素を生産する毒草はないでしょうね」

 灰色がかった緑がわたしに向けられ、頬が高潮するのを自覚しながら小さく頷いた。恥ずかしい。とんだ言いがかりだ。それに怒るでもなく対応してくれた氏に深く痛み入るとともに、自分を恥じた。どうして彼を疑ったりしたのだろう。噂話に踊らされ、彼の言葉を信じることができなかった。物言いの端々にいちいち裏を探していた。ベリーなど誰がくれてもおかしくはないし、ネクタイピンも、ネクタイをしめない人間が持っていない、と決めつけることはない。あのネクタイピン――アルセニー氏の瞳と揃いの石がついた――が氏のものでないとどうして固執したのだろう。何も不安になることはない。この温室に不吉が忍び寄ることはないのだ。

 俯いていたわたしに、アルセニー氏がかすかに笑って「そう気に病まないで」とカロライナ・ジャスミンの花を差し出した。触れても問題はありませんよ、と言われ、それを受け取る。星型の小さな花は愛らしかった。毒草とは思えない可憐な見かけだ。わたしはそれをソーサーの傍らに置き、紅茶をもう一口啜った。やはり甘い。次からは砂糖を減らそう、と思う。

 ふと、アルセニー氏は、ブラックベリーの皿に目をとめた。ひと粒しか減っていない、砂糖衣のかけられた果実に目を細める。石膏のような指先がそれをひとつ摘まみ、かろくもてあそぶように転がした。砂糖が卓の上に落ちていく。口に含むことなく、ソーサーの上にそれを置いた氏は、ふと口火を切った。

「もしも、――もしも私が砒素をだれかに飲ませたければ、そうですね」

 氏の瞳が卓の上を丹念にたどり、やがて一点に行きつく。

「砂糖壺」

 私は自分の前に置かれた、白い雪をかぶったようなブラックベリーを見た。

 酸味を覆い隠す、口蓋が痺れるほどの甘味。砂糖壺のなかの白い海を乱してすくった、スプーンの回数は。

 そのエメラルド・グリーンの瞳で、アルセニー氏は私を見た。


「甘いもの、お好きでしたよね」

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