第16話 ハンプティ・ダンプティ・エンプティ
Side: R
たまごがある。
ブルー、ピンク、グリーン、レモン、マーブル、水玉、しま模様……いろんなたまごがある。大きなかごに藁を敷いて、その上に刺繍のハンカチーフをしいて、その上にたくさんのたまごがある。
たまごはたくさんある。いろんな色といろんな模様がある。ちょっと割れてるのもある。かたむいて落ちそうなのもある。たまごたまごたまごたまご……。
屋敷のそとがさわがしい。窓から庭をみると、ひろい庭のあちこちに、たまごがぴょんぴょんはねていた。ころころ転がっているのもいた。じっと動かないのもいた。そこから笑い声が響いてきた。
客が来ている。きっとそうだ。毎年、そうだから。
姉さんはどこだろう。
Side: Ms.H
庭の楡の木は思ったより高くて、足をかけるには大変だった。やっとのことで石を積んだ塀の上に手をかけて、はびこった蔦に足をかけながら、その上に腰をおろした。新調したばかりのドレスだけれど、構わない。珊瑚色のモスリンは裾が長くて、襟や裾の白いアンティーク・レースが、生け垣のサンザシの小枝に引っかかってしまった。
腰かけた塀から下をみおろすと、とても高かった。こんなに高いところまで登ったのかと驚くほどだった。芝生に咲いていた雛菊は白い点に見え、ちいさなすみれはほとんど見えないくらいだった。代わりに下から見上げた時にはとても遠く思えた梢が、今はわたしを取り囲んでいる。春の淡い空が近い気がした。
ふと、足音が聞こえた。急くような軽やかな音は、芝生を走っているために音が吸われているのだろう。追いかけてきてくれるのね、と思った。その音が近付き、やがてそのあるじが小走りにこちらへ駆けてくるのが見える。彼は立ち止まって、塀の遥か下で叫んだ。
「危ないですよ、ミス・ヘリオトロープ!」
「わたしを愛しているというなら登ってきて頂戴、ジェレマイア・プランタジネット子爵」
孔雀の羽根のついた帽子をかぶっている若者にそう言えば、彼はため息をついて、塀を登りだした。ヒースの根に、尖った靴のつま先をかけ、裏にまわって木を使ったわたしよりも数段速く、器用に登ってくる。帽子は下に置いてきたようだった。彼でなければ華美すぎるであろう、明るい桜色のスカーフに、エメラルド・グリーンのベスト。一斉に春の生け垣が花開いたような、まばゆい四月の衣装。
「ミス・ヘリオトロープ、とても素敵な衣装をお召しですね」
いつの間にかわたしの隣まであがってきていた青年は、華やかに微笑み、若草色の瞳をすがめた。塀に軽やかに腰かけ、ドレスの裾に指先をふれた。「綺麗な色です」
仕立てたばかりなのに、麝香と古いリネンの薫りのする、復活祭のコーラル・ピンクのドレス。わたしの母からの贈り物で、袖や襟元のレースは、昔彼女が嫁入りのときに着ていたドレスを仕立て直したものだと、誇らしげにわたしに言って聞かせた。レースについた、ほんの小さな真珠が、春の日差しに輝いていた。
「そうかしら。わたしはあまり好きでないわ」すみれ色がいいの、とそっけなく返せば、「そうなのですか。それなら、今度僕があなたに服を贈るときは、夜菫のつゆで絹を染めなくてはなりませんね」と、彼は笑った。
「それと、ジェレマイアと呼ぶのはおやめくださいな。仰々しい、昔のように、ジェレミーと呼んでくださって結構ですと、何度も」
悪戯っぽく指を立て、青年は首をかしげた。わたしは返事をせず、ただ目の前の幼なじみの青年を見た。
聖書の名前を子につけたがる親は多い。わたしは彼の瞳から目を逸らし、彼が項で束ねている金の髪に目をやった。艶のあるマラカイト・グリーンのサテンリボンで束ねたそれが、鳥の尾羽のように見えた。
「ねえ、ミス・ヘリオトロープ。どうしてもだめなのですか」
唐突に問われ、わたしは一瞬なんのことだか解らなかったが、すぐに察して口ごもった。
「言っているでしょう。わたしにまだ結婚ははやいわ。貴族の娘でもないのに……」
彼の顔を見ないようにして、早口でつづける。「まだ十八ですもの。嫁入りの準備もできていないわ」
ラムケーキも得意でないし、砂糖煮もピクルスも味が淡白と指摘されてばかりだ。キルトを縫うのも、母や伯母ほど上手くない。今日の料理も、ほとんどは伯母と召使のつくってくれたものだ。母は、父と共にロンドンの住まいにいる。普段からそうなのだ。気管支ぜんそくのあるわたしと、からだの弱い弟が、このダービシャーの田舎の屋敷で養生しているだけで。
イングランドのダービシャーは素敵なところだ。殊に、この屋敷は。ヘリオトロープ一族代々が暮らしていた屋敷。弟の好きなブラッディ・メアリーの時代から。ヴィクトリア朝の家具がほとんど残り、目をみはるような細工がそこかしこにある、重厚な造りの屋敷だった。今は近くの離れに伯母だけが残り、作業を切り盛りしている。何人もの召使が出入りする、喧騒につつまれた明るい屋敷。
けれども、どこか空々しい。
庭の向こう側に目をやった。キャベツの苗でいっぱいのかごを、召使が運んでいる。赤っぽい梨のもようのドレスに白いエプロンをつけた十五くらいの娘。弟とそう変わらない年齢であるのに、彼女は日に焼けたばら色の頬をし、袖をまくった腕も健康的な太さ。ハーブ園で、ウイキョウを摘んでいるべつの娘と目が合って、おしゃべりを始めた。咎める気にはならなかった。でも、願わくは、その悩みのなさそうな笑顔を、わたしの弟にも分けてくれたらいいのに。
わたしの弟。三歳年下で、痩せて背の高い、ビアズレーの絵のような少年。四月のイースター、キリストの復活祭にまでも、部屋に閉じ込められていなければならない、わたしの弟。
わたしたちは、十年前に、家族でこの屋敷にやってきた。三年前に、両親がロンドンへ帰った。そしてそれから、わたしと彼は、この屋敷から出られずにいる。たった二人きりで。
Side: R
芝生のふちどりの水仙をつかんだ。それを引き抜いた。たまごが茎の先についていた。茶色くって、皮がはがれかけたたまご……たまごたまご……。
たまごを抱えたうさぎが騒ぎだす時期。……そう、もし、そうなら、羊追いをしなければならない。それが決まりだから。決まりだから。決まりだから。
ハーブ園のウイキョウの影にもいた。二本の長い耳。レモンバームとラベンダーの間にいた。レモンバームとラベンダーは嫌いだ。ふたつ並んでいるから。並んでいると、きつい香りが混ざり合って、ぐんにゃり、景色がゆがむ。
納屋の脇のベインベリーの茂み。小さなたまごが生っている。指先ほどの小さなたまご……。その隙間からうさぎの耳が見えた。たまごだ。たまごのせいなんだ。景色がゆがむのもたまごのせい。ぼくと姉さんがここにいるのもたまごのせい。この屋敷で、ずっと、永遠に、永遠に。くらがりには時代がひそんでいる。ぼくはその中に迷い込む。ふるい部屋を開けると、時々イングランドの王族のようなひとがいる。そのひとたちは蠟燭のようだ。そうだ……ヴィクトリア女王はメアリーを憎んでいる。憎んでいる。ブラッディ・メアリーじゃないメアリーを。マリアは悪魔だ。悪魔だ。マリアが悪魔だからメアリーを憎んでいる。閉ざされた庭だから。閉ざされた庭はマリアの象徴。閉ざされた屋敷はメアリーの象徴。メアリーは閉じ込められている。ぼくらも閉じ込められている。だからぼくはメアリーが好き。でも、ぼくが好きなのはメアリーじゃない。イエスはマリアを憎んでいる。イエスはメアリーを愛している。どうして。ぐるぐるする。
そうだ、合図を決めよう。合図。なんの? そう。たまご。ひとつめはたまごにしよう。ふたつめは? もちろんうさぎ。あとひとつ。魔法の言葉を合図に三つ唱えればいい。
魔法の言葉。
たまご。
うさぎ。
***。
復活祭のための魔法の言葉。三つあれば、きっとだいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。
なにが?
サンザシの生け垣の向こう、石塀のわきを流れる小川のもやがここまで流れてくる。それがぼくの目を覆う。覆う。たまごもうさぎもいなくなる。魔法の言葉だ。魔法の言葉をさがせばいい。
そういえば、姉さんはどこだろう。
Side: Ms.H
それにしても、本当に久方ぶりですね、と屈託なくジェレマイアが微笑んだ。「三年ぶり、ですか」わたしは頷く。三年前のジェレミーは今の弟と同じ年齢だったし、彼は今年、成人するはずだ。わたしと同い年。
両親や、他の人たちがよく出入りしていた三年前までは、彼もよく休暇に、祖先を辿れば同じ出自の家系のこの屋敷を訪れていた。学校の夏季休暇に。クリスマスの休暇に。そして、四月の
「ご無沙汰していてすみません。僕もそろそろ後を継ぐ準備をしなくてはならなくて」父も年ですし、兄は出奔してしまったものですから、と苦笑する彼の顔をまじまじと見た。三年前にはまだ、どこかまだ幼さを残していた顔立ちはすっかり大人びて、少し掠れていた声は、低い青年のそれに変わっていた。瞳は穏やかさを増し、見つめられていると、まるで同い年とは思えない。三年前まで、彼は名家の重圧に音を上げ、短い休暇のあいだに、ここに逃げてきて、やっと息をついているような、そんな少年だったのに。ここは子供にとって、森の中の秘密基地のような場所だったのだ。幼かったわたしも彼も、そして、弟も、「特別なところ」と信じていた。休暇の間だけ、病気を治す間だけいられる、魔法のところ。そう思っていた。わたしたちがここから帰るということが、計画に含まれていないことを知るまで。解けない魔法は色褪せた。時の止まった屋敷で、わたしたちはたった二人、取り残された。
ジェレマイアには、そんなことは起きなかった。ここはまだ、彼にとって休暇の間だけの特別な場所であるままだし、そこに暮らすわたしたち姉弟もまた、休暇の間だけしか逢えない、特別な親戚、特別な友人ととらえているのだろう。それが当然だ。
けれど、その関係を、彼は崩そうとしている。
プランタジネット家は長男が出奔したと聞く、それならば若すぎる継承も納得がいった。祖母の嫁入り先の英国貴族の家系は、ひどく体裁を重んじる。数年前にあいさつしたきりの当主、つまりジェレマイアの父は脳梗塞で倒れたと手紙がきた。代理、という形でも、彼の継承は妥当だと思われる。まだ学生だが、十八という年齢にしては賢く、学業の優秀な彼は、すぐに相応しい主人になるだろう。
しかし、婚姻には、まだ早すぎる年齢だ。
焦っているのかもしれない。早く一人前にならなければ、と。未熟ではいけない。たまごではいけない。雛から一刻もはやく飛べるようにならなければと。
貴族の跡目争いなどが、現代のイングランドでどれほど熾烈なのかはわたしは知らない。あるいはそれは既に形式的で、過去の遺物となっているのかもしれない。ずっとこの古い地方にこもっているわたしにはわからない。
昔、まだ一緒にマザーグースを歌う年齢の頃から、ジェレマイアはわたしに愛をささやいた。恥ずかしそうに、秘密めいて。その気持ちを、成人したいままで捨てずにいるとは驚きだった。もっと好いひとはいないのか、と思わざるを得なかった。
だが、恐らく彼には、時間がないのだろう。新しい相手を見つけ、関係性をはぐくむに十分な時間が。
彼の求婚はさておいて、わたしはジェレマイアのことをそう考察した。彼がわたしのことを愛しているというのは嘘ではないだろうけれど、わたしにそれを受け止める覚悟はないし、――そんな資格もないと思った。
彼は知らない。
知らないのだ。
わたしが黙っていることにも怒らず、ジェレマイアははるか下の風景を、眩しそうに見た。幼い頃の思い出を反芻しているのかもしれない。広い芝は、遊びたい盛りの子どもたちにとって格好の場所だった。彼を含めた、様々な客人や親戚――もちろん、両親も含む――が集まる季節が楽しみだったのは、ずっと昔のことだ。一緒に花をつんで、うさぎを追いかけて、わたしと、それと弟は、笑っていた。ただの姉弟として。わたしたちは確かに幸せだったと思うのだ。
ジェレマイアが、楡の幹をなでた。こぶに指をかけ、懐かしそうに目を細めた。
「こんなふうに塀に登ってみるのも、いつ以来でしょう。ダービシャーがすべて見渡せてしまうようです。相変わらず、伝統ある雰囲気で、あたたかくて、素敵ですね」
わたしは目を細めた。眼下の庭の景色が一瞬霞む。古くは荘園屋敷だった建物は広い芝生を隔てた向こう側にあり、焦げ茶の壁は這いまわる蔦に覆われて暗く沈んで見えた。春と祝祭の気配に浮足立つ庭、納屋やハーブ園、馬小屋には、普段はいない人の姿がちらほらする。皆、伯母の知り合いやヘリオトロープ家に連なる者なのだろう。どこかで茶会がひらかれている。……気分がすぐれないと、先にでてきておいて正解だった。ジェレマイアが追いかけてくることは、誤算だったけれど。賑やかな風景だ。……でも、夜には、皆いなくなる。わたしと、弟以外は。
それを知ってか知らずか、ジェレマイアは微笑を消し、わたしの方を向き直った。
「それで、少し気になることがあるんですが」
にわかに真剣な声音に、身が強張りかけた。何を言うのだろう。
彼の瞳が、深い色にきらめいた。
「あの子のことなんですけれども」
Side: R
いつからここにいるのだっけ。
おもいだせない。そう。たぶんずっとまえから。ぼくたちはここに閉じ込められている。パパとママがいなくなった。どこへいったの。姉さん。姉さんはぼくの隣をはなれないよね。はなれないでいてね。どうしてここにいるのだっけ。おもいだせない。
屋敷にはおおきな書斎がある。古い本がびっしりならんでいる。虫が巣食っている。文字だ。文字が虫なんだ。見ていると動きだしてぞわぞわぞわぞわ這いずりまわりだす。
昔は本を読むのがすきだった気がする。でもいまは嫌いだ。虫が動くから。ぼくは虫が嫌いだ。
姉さんは変わった。三年前から。パパとママが出ていった日。おもいだした。ぼくたちだけの屋敷。たくさんのひとが世話しにくる。じぶんたちもときどきくる。パパもママもそう言って、座り込んだ姉さんを抱きしめて、それからいなくなった。ひとはくる。毎日。けれど、階段の柱時計が八時を打つ頃、屋敷には秘密しかいなくなる。ぼくは知っている。ぼくは罪を犯している。だから神様は罰を与えた。ぼくは気が狂った。解っている。夜中に鏡を見るときに、ぼくを常におおうもやのような狂気がはがれた生身の少年を目にする。骸骨のような顔をしている。こうしてたまに正気に返ることもある。もっとも本当にこれが正気かはわからないけれど。狂っていないぼくはいろいろなことを知っている。父母がどうしてぼくたちを見捨てたのかも。すぐに迎えにくる
ああ。またもやが。意識が霧散してしまう。 もやだ。みえない。 このもやがぼくを狂わせているのだ。
たまご。 たまごがなんだって? おかしくなったぼくはなにを言っているんだ。 たまごが。 たまご? そう。たまごが。 たまごがなんだって? ねえさん。 姉さん? どこ。 姉さんは庭だ。決まってる。 ねえさん。どこ。 どこって、きっと庭だろう。 どこ。 いないのか。 どこ。 いい加減にしろ、お前はもうだめなんだ。姉さんはぼくといてはだめなんだ。 どこにいるの。 やめろ。さがすな。 やしきのなか? やめろ! 姉さんを縛るな! ねえさん。 ねえさん? ねえさん。 そうだ。ぼくをしばっているのがねえさんだ。そしてぼくはそれをのぞんでいる。
Side: Ms. H
わたしは不意に顔をあげた。驚いた風のジェレマイアにも構わず、思わず呟いた。
「ロビンだわ」
ジェレマイアの雰囲気が変わり、「ちょうどそのことを」と言いながら、わたしの視線をたどって庭に目を凝らした。「なにかあったんですか?」
「弟よ。わかるの。あの子、わたしを呼んでいるわ。今日は気候がいいから大丈夫と思ったのに」
弟は、雨が降ったり霧が濃かったりすると、きまって頭痛を訴える。部屋の重たいキルトに閉じこもり、蝋燭の明かりに過敏に反応する。おかしなことを口走って、手当たり次第にものを投げて、しまいには自分自身も傷つけてしまう。繊細な子なのだ。行かなくては。行って、抱きしめて、愛してるといってあげなくては。
焦ったわたしが塀から降りようとした。かなり高いけれど、そんなことに構っていられなかった。背後の楡の木に移る手間さえ惜しくて、積まれた石の隙間に足をかけようとすると、
「待って」
強い語調と共に、右手首を掴まれた。バランスを崩しそうになると、もう片方の腕で体を支えられた。
「離して頂戴、ジェレミー」
「離しませんよ」
ジェレマイアは強情にわたしの腕を捕えていた。もがくわたしに「落ち着いて」と低く囁き、無理にもういちど塀に座り直させた。
「ミス・ヘリオトロープ。いいえ、メアリー」
わたしのファースト・ネームを呼び、彼はわたしの顔を覗き込んだ。その表情が険しい。
「このところのロビンはおかしい。あなたもそう思うでしょう、メアリー」
わたしは口ごもった。たたみかけるようにジェレマイアは続ける。
「まったく話が通じない。おかしな行動をとる。いつもぼんやりとしている。幼なじみの僕のことも判らないようだ。三年前まではこんなことはなかった。普通の少年だったでしょう。病弱で、文学好きで、内気なただの少年だったでしょう」
そう。弟はからだが弱くて、古い文学が好きで、人と話すことが苦手で、とても優しい――可哀想な子。
ジェレマイアは、諭すようにわたしに向かって話し続けた。
「メアリー、あなたの弟は、病気なのです。このような田舎で養生してよくなるものではありません。――いえ、むしろ、この屋敷にずっと暮らしているからかもしれない。ちゃんとお医者様にかからないと」
隣に腰かけたジェレマイアが、膝の上で握りしめたわたしの手をとった。「チェルシーの近くにいい医者を知っています。きっとロビンもよくなるでしょう」
幼い頃から、弟の遊び相手になってくれていたジェレマイアが彼を呼ぶのを聴いて、わたしは彼の顔を見た。燃え立つような緑の瞳と、視線がかち合った。ひどく真剣な眼差し。射ぬかれるようで、わたしは思わず顔を伏せた。ジェレミーのわたしの手をつつむ指に、力がこもった。
「メアリー、あなたが僕の愛を拒むのは、彼のせいでしょう?」
わたしは顔を上げた。
「あなたがこのヘリオトロープ家、この屋敷にしばられているのは、彼が、あなたのかわいそうな弟がいるからでしょう?」
Side: R
頭が痛い。
もやのせいだ。庭にみちている小川のもやのせい。
ぼくは想像する。もやのなかでたまごがうごめいている。ぼくがうごけないのはたまごのせい。ぼくらは隔離されている。この時代が切り取られたダービシャーに。時間の澱んだ屋敷に。たまごがぼくらをおいつめる。ぼくらはいつもいっしょだ。ずっといっしょだ。夜になるとぼくら以外のすべてが闇にしずむ。ぼくらはたがいの熱のみで生きている。生きているために。ぼくは、あの熱をおもいだす。寝室の闇、蠟燭の火、あの熱。息の音。炎。魂。姉さん。姉さん。姉さん。ねえさん。ねえさん。
さむい。
身を抱く。川のほとりから霧がわいてる。足元がまるで綿にとらわれたようで、芝生はきえている。振り返ると白い中にぼうっと屋敷のシルエットがみえる。ああぼくをもどさないで。あのなかにひとりでもどさないで。それともねえさんはあそこなの? 苦しい。喉が苦しくなる。姉さんはいつも言う。好きなものをかんがえて。そうすると楽になるから。ぼくが夜においつめられると姉さんはいつもそう言ってくれる。そう。好きなものをならべよう。好きなものはブラッディ・メアリー、キルトのベッドカバー、ミレイの画集のオフェーリア、三つの魔法の言葉、そして姉さん。ねえさん。ぼくはねえさんがすきだ。
姉さんはどこだろう。
姉さん。
Side: Ms. H
気づいたら彼が倒れていた。サンザシの切り株の上、石の塀の下に、遠い地面に、仰向けに倒れていた。項で束ねていた金髪が芝生に流れ、開いた若草色の瞳はわたしを見ているようで、なにも見てはいなかった。その体はとても遠かった。わたしが我に返ったのは、その頭の下から、切り株と芝生のそれぞれに、ひとすじの血が流れてしみていくのを目にしてからだった。
わたしは叫び声をあげ、えにしだの枝をつかみ、棘にドレスの裾を裂きながら、楡の枝に飛び移った。切り出した石の隙間に足をかけて、ヒースの根と蔦をたぐって、楡の根本に飛び降りた。片方脱げた靴にも構わず、塀を回って、彼の元へ駆け寄った。
サンザシの切り株の上に横たわっている彼は、手足を投げ出して、首が少しおかしな方向をむいていた。サンザシの若芽の枝が、喉元に傷をつくって、そこと、あとは芝生に伸びた木の根に打ちつけた後頭部から、まだ温かい血がひとすじずつ、萌え出でた春のみどりを潤すように土に流れて染みこんでいた。
震える指で、肩を揺すった。
どうしたらいいのだろう。どうするべきなのだろう。
三つの言葉。
ふと思いついたそれがなぜ今でてきたのかはわからない。弟がよく言うことだ。三つの魔法の言葉を決めて、それを口にすれば、きっと、だいじょうぶ。
ああ、そんな空想がほんとうになったらなんていいことか! 魔法の言葉。なにを唱えればいいというの? イースターだもの、たまご、うさぎ、あとひとつは? くだらない。何を口にしてもどうしようもない。目の前の現実を認めたくなくて脳裏をよぎった冗談ごとを打ち消す。足が震えた。仰け反らせて、あらわになってる首筋に指を這わせる勇気はおきなかった。そんなことを確認しなくても、ジェレマイア・プランタジネットは死んでいる。高い塀の上から落ちて。わたしに落とされて。
まだ掌に熱の感触がのこっている。彼の肩を突き飛ばしたときの感覚が。シルクを通して、あたたかい体温が伝わった。目が合った気がする。あの萌えいずる若草色と。驚いたように見開かれたその双眸と。きらめいていた、春の日差しに。
わたしはその場に凍りついたように立ち尽くすしかできなかった。指先が瘧のように震え、冷え切っていた。
外に出たくないわけではなかった。
わたしのことを愛していると言ってくれるひとの手をとりたかった。
でも、無理なのだ。三年前に両親が去り、彼が来なくなってから、わたしたちは変わってしまった。わたしにあいしてると言ってくれるひとはたったひとりになってしまったし、わたしが愛してると言える相手もたったひとりになってしまった。解っている。それが怖ろしいことだというのは。彼は知らない。彼は知らなかった。知らないまま死んだ。この屋敷に隠れているおぞましい秘密を。ジェレマイアは死んでしまった。なにも知らないまま。なぜロビンがあんな風になったのかも、なにもかも。
胸元のロザリオを握りしめようとして、とうの昔にどこかへしまい込んでしまったことを思い出した。三年前。目につかないところに、逃げるように隠した。わたしは神にはすがれない。
わたしは罪をつぐなうべきなのだろう。
立ち尽くすわたしの足元の青年が、どうして、という風に、無垢に見開いた視線を投げかけている。弛緩した体はぴくりとも動かず、小説でよく表現されるような、眠っているような死体というのはありえないのだと思い知った。支える力のない関節が、外れてしまったように傾いていた。わたしは冷えた指先で彼にふれようとしたけれど、寸前でやめた。
ひとを呼ぶべきだと思った。もう彼に蘇生の見込みはないとしても、呼ばなければならない。そしてわたしは、彼らに、手首を差し出し、わたしがこの手で殺したということを告げ、そしてその理由も話さなければならない。
わたしはとうに信仰に背いたけれど、潔白のジェレマイアを殺した罪と、あのおぞましい暗がりの罪を、教会で懺悔するべきなのかもしれない。三年間、積み重ねてきた悪徳が、ジェレマイアを殺した。弁護人は事故を主張するだろう。その事故の裏地一面の、背徳の刺繍になど気づかないままに。わたしのしたことは、きっとイングランドの、いえ、社会の法では裁ききれない。聖書の罪はそれほどに重い。わたしはそれを知っている。ふと、目を落とした掌に残る熱が、汝人を殺すなかれという文章となって、震える体を苛んだ。鉤裂きのできたスカートを握りしめ、わたしは立ち尽くすことしかできなかった。動かなくては。ひとが来る前に。つよく握りしめすぎた関節が白くなっていた。わたしは早口で、声にならない声で呟き続けた。誰かに言わなくては。突き飛ばしてしまったと。口論になり、彼を思わず突き飛ばしたのだと。その裏に隠れた闇が明るみにでる前に。
まだあのことを隠そうとしているのかと、自嘲したい気持ちだった。けれど、あれだけは、決して知られてはならない。
あの罪に浸っているのは、わたしだけでなく、ロビンも同じなのだ。
わたしたち姉弟は、この屋敷から連れ出されて、改悛しなければならない。
けれどわたしは、わたしたちは、この屋敷から、出られないのだ。
ロビン・J・ヘリオトロープ。血を分けた、わたしの実の弟。わたしの愛。わたしの魂。
もしもわたしがすべてを告白したらどうなるだろう。恐らく、法的に罪に問われることはない。しかし、わたしたちは遠く引き離されるだろう。そして、彼は? ロビンは? わたしの愛する弟は、きっとひとりで、つめたい場所に入れられる。愛してるといってくれるひともいないところに。無論、わたしもだ。身の毛のよだつことをしたわたしを迎え入れるところなどありはしない。神なんていう紙の上の存在より、もっとおおきなことに背いたわたしは、わたしたちは、許されることはない。いいえ、弟は悪くない。悪いのは、彼を引き込んだ、姉のはずのわたしなのだ。
わたしはロビンのいないところで生きていく。わたしの愛するもののいないところで。
それならばわたしは、この澱にとらわれつづけることを望む。
ずっとこの屋敷で暮らすのだ。
ずっと、ふたりきりで。
Side: R
塀の上にたまごが並んでいる。
コーラル・ピンクに、白のレース模様。……細かな波におかれた白の絵の具が、真珠みたい。隣にもうひとつ? ……木陰になってみえない。たまご。たまご? ……なにか言い合いをしている。声がきこえる。たまごが揺れる。ぐらぐら……ぐらぐら……。
姉さん。どこ。きっとたまごのところ。きっとそう。ああぼんやりと、蠟燭のように見える、ひとのかたち、ああ、姉さんだ、メアリー姉さん。ここにいたの。ねえさん。さがしていた。ぼくのねえさん。
「来てはだめよ」
姉さんの悲鳴のような叫び声がきこえた。
気がつくと、塀の上にいたたまごがなかった。代わりに、塀の下に、姉さんが立っていた。たまごと同じ色の服を着てた。その隣にたまごが割れていた。サンザシの切り株の上に、淡いエメラルド色の殻。きらきらしてる欠片の中に、苺みたいないろ。ベリーのソースが飛び散っているよう。その傍らで、姉さんが必死な様子で言う。
「おねがい。黙っていて。あなたはいい子でしょう。ごめんなさい。ロビン、わたしのかわいい弟」
われて飛び散った孔雀色のたまごを見る。……金の糸飾りと、リボンのもよう。四月のいろ。
その傍をはなれて、姉さんはゆっくりとぼくに近づいてきた。サンザシのそばの芝生に落ちている殻をひとつ踏んで、それがかしゃりとかわいた音を立てた。見開いた瞳もちいさなくちびるもふるえていた。「愛していたの。愛していたのよ、だから仕方がなかったの」
選ぶなんてできなかった。離れるなんてできなかった。姉さんが泣きながら言うことはすべてぼくの耳を通り抜けていく。やっと逢えた。姉さんだ。メアリー・M・ヘリオトロープ。ぼくの三歳年上の姉さん。ぼくの愛。ぼくの魂。ぼくをあいしてくれるひと。
泣きじゃくる姉さんが、ゆっくりとぼくを抱きしめた。姉さんはうさぎみたいだ。薄茶色の髪で、ガラス玉みたいなきれいな瞳。小さくて白い手がぼくの頬をなでた。レースについた真珠がきらきらかがやいていた。ぼくよりすこし低い高さにある、ブルーのガラス玉の瞳が、楡の木のこもれびをとおして涙できらきらしていた。真珠みたいに。服とおんなじいろの小さなくちびるが、震えながらほほえんだ。
「大丈夫よ、大丈夫、ロビン。あなたをひとりになんてさせないわ」
だいじょうぶ。だいじょうぶ。なにがだいじょうぶなんだろう。ぼくはいつだってだいじょうぶだよ。ねえさんがいるから。またもやが目のまえにただよってくる。ああ、うっとうしい。姉さんの姿が見えなくなる。
「愛してるわ、愛してる、ロビン。わたしの魂」
あたたかい。姉さんのからだ。ああ、おんなじだ、いつもと、いつも夜に抱きあうときと。姉さんはいつも泣く。愛してると言いながら。姉さんが泣くのはぼくを愛してるから。おなじだ。ぼくたちはキルトの寝台で抱きあう。ぼくたちには互いしかいないのだから。ねえさん。ねえさんもさみしいんでしょう。だいじょうぶ。だいじょうぶだから。ねえさんは泣く。ああ、もやがじゃまだ。なみだがみえない。姉さん。
「わたしにはあなただけよ。あなたと離れるなんてできないわ、だってわたしは、わたしたちは、」
たまごがある。コーラル・ピンクのたまご。珊瑚色の殻。ぼやけた目の前にたまごがある。姉さんじゃない。たまご。たまごがなにかいってる。いってる。耳障りだ。きこえない。ねえさんのこえが。よくきこえない。
ぼくはそれに手をのばし、ぐしゃりと握りつぶした。やけにつぶしにくかった。つぶした感触もあんまりなかった。つぶしたというより、絞めたような。うさぎ。うさぎかもしれない。たまごでなくてうさぎ。ぼくはうさぎを絞めた。それともたまご。たまごだろうか。わからない。わからない。
姉さんの声が途切れた。どうしたんだろう。手の中をみた。てのひらを見たら、なにかが落ちた。芝生の上に。重そうな音。
芝生に殻が飛び散っていた。孔雀色と珊瑚色の、四月の野原のようなたまごの殻が、混ざり合ってぐしゃぐしゃになっていた。うさぎみたいないろをしていた。姉さんはどこ? どこへいってしまったの? さがさなくては。姉さんを。三つめを。ねえさんを。
魔法のことばをさがそう。
たまご、うさぎ、***。
三つめはまだみつからない。
だいじょうぶ、でもきっと、そう、なぜなら姉さんがいるから、そう。姉さんはぼくを抱きしめてくれる。抱きしめて耳元であいしてるとささやく。毎晩、毎晩、ぼくのへやの暗がりで。ぼくも姉さんにあいしてるという。そうしてぼくらはひとつになる。ずっとぼくはあいしてるという。そうすればきっとだいじょうぶだから。
ぼくたちはこの屋敷でふたりきりだ。ずっと永遠にふたりきりで。たまご、うさぎ、あいしてる、あいしてる、あいしてる……。
そういえば、ねえさんはどこだろう。
End.
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