第15話 Le Cœur

 夢をみていた。

 青く灼けるような世界が広がっているなかに、億万の光が瞬いていた。銀や白ともつかない燐光がいちめんにきらめくなか、ひと際あかるい、赤い輝きがあった。

『ごらん、あれがさそり座の心臓だよ』

 鐘のなるような声がして、白い指がその赤を指した。呼応するように瞬きを始めたそれを見つめながら、何かが迫ってくる、と感じていた。漠然としていたが、項の産毛が逆立つような、血管に冷や水が流れ込んできたような確かな感覚がそれを告げていた。

 やってくる。項の産毛が逆立ち、怪物のぽっかりと開いた口のなかにすすんでいくような、無性にそんな恐ろしさを感じた。しかしその底に、冬を前にした裸の樹木に似た諦念が確かにあった。赤が瞬く。共鳴して、世界が輝いた。

 先ほどの声が溶けるように、顫えて澄んだ響きだけを残して、指先からすべり落ちて消えていった。


『僕たち、どこまで――…』


 ◇◆◇◆◇

 

 寮の部屋のプレートには、俺の苗字と、同室の友人の苗字が、味気のないゴシック体で印刷されている。小学生の頃よりのなじみである友人は、苗字を上原という。上原と書いて、カンバラと読む。ウエハラではない。出逢ってこの方、いつも読み間違えられては、笑って訂正する姿を見てきた。寮生に、苗字の始まりがカ行の生徒が他にいないので、奴とはこれで晴れて三年間同室ということになる。

 新しい寮の部屋は、中央に鏡を置いたように左右対称だった。これまでと同じだ。ただ違うのは、部屋の真ん中に寄せて置かれたふたつの勉強机の狭間、窓の外に見える松の枝だ。寮の部屋が二階に移り、少し世界が高くなる。針ねずみのような梢の向こうには、灰色がかった空が見えた。

 蝶番のきしむ音がして、振り返ると、半分ほど開いた戸の隙間から、「久しぶり」と片手だけが室内に差し込まれてひらひらと振られた。一拍遅れ、戸がきしんで開く。

 すっかりとこなれた学生服を脱いで、ワイシャツとズボンという出で立ちで、上原は現れた。高い位置のベルトや、墨を流したような無造作な分け方の黒い髪に、不思議と清涼感のただよう、やけに姿勢のいい痩せた体格の高校生。背負ったナップザックの簡素が目を惹いた。

「とうとう三年生だ。ナーヴァスになるね」

 歯を見せて笑う上原の目じりにかすかに皺が寄る。俺は頷いた。「実感がわかないな」

 背負っていたナップザックと学ランをベッドの上に放り投げ、上原は窓際へ歩み寄った。「へえ、世界が広く見えるね」

 窓ってさ、なんらかの出口のようなところがあるけども、ここから飛び去ったものはどこまで行けるだろう、と上原は俺のほうを見て言う。さあね、と返すと、上原は窓の近くの机に歩み寄って抽斗を開けたり色々と見分し始めた。「受験生になったからかなあ、なんだか机が豪華になったようだよ」

 それは俺も感じていたので、素直に頷く。「せいぜい勉学に励めってことだろう」

 ひええ、と頓狂な悲鳴と裏腹に、上原の表情は愉快そうだ。抽斗を開けては、その奥にひそむものを見つけ出そうとするかのように深く覗き込み、ゆっくりと閉じる。その繰り返しだ。上原はすべての事象に興味をもって観察する。連なる日々の、絶えず流れていく中から、輝く瞳を見開いて、彼にとって有意義なものをあまさず拾い集める。上原にしか見えないものを見るために、子供のように歩みが遅い上原の生態を、俺は常に先んじながらも、時たま振り返ってみているのが好きだった。そうして、ずっと、ここまでやって来たのだ。小学校の入学式、出席番号が前後していたために、こいつが振り返って話しかけてきて、それ以来何とはなしにつるんで六年間、三年間、同じ寮のある高校に進学して二年間。合計して十一年間にものぼる。そして今、十二年目にすら突入しようとしているのだ。

「俺たちも十八か」

 そう呟くと、教科書を机の上に並べだしていた上原がこちらの方を向いた。

「アイ・アム・セブンティーン、ゴーイング・オン・エイティーン」軽やかなメロディを口ずさみ、上原は低く息を吐く。真新しい教科書を抱え、瞑目して囁いた。「それこそ実感が湧かないものだね」

 十歳の僕と十八歳の僕はどう変わったろう、と言い、右から左へ、高さを揃えた本の背表紙を指でなぞる。こいつは誕生日がとりわけ早く、四月の初めだった。それこそ、going on eighteenのさなかだ。しかし、俺より多少低い、平均に若干満たない細身の体や、目の位置の低い顔を見ていても、年齢がひとつ違うことに明白な何かはないように思えた。

 俺自身も、昔と今の自分を比べて、何が変わったのか考えてみる。存外通り過ぎた一年一年はダムの底に沈んだように遠く感じ、印象的な出来事――たとえば入学や季節ごとの行事や卒業、そして次の入学――が、水底に揺らぐ建物のように思い起こされる。そこにいたときの自分は、何をどう感じ、どう過ごしていたのだろう。具体的にどう変わったかは良く判らなかったが、けして立ち止まっているという気はしない。

「階段を登ったとまでは言わないが、まあ前進しているって感じはするな」

 言葉を選んで口に出す。十八歳。微妙な年齢だ。日本国での成人まであと二年だと思えば、もうそんなになるのかと驚く反面、人生八十年の四分の一にも満たないと思えば、まだまだという気もする。自分自身としては、小学校から変わらない、友達と机を並べ、先生の言うことを聞く生活を送っているうちは発展途上、まだ到底、大人とは思えない。「子供の延長線上にいるような気分だ」

 端の擦り切れた文庫本を手に持った上原は、窓枠から身を乗り出した。

「延長線上から、ある日高さが変わるのかなあ」ねえ、そういう歌があったね、大人の階段のぼる、なんだっけ? 笑って振り返る上原の横顔を、黒い髪が隠した。

 階段をのぼる、なんて言ったって劇的に世界が変わるわけじゃない。気づけば、その連結点を通り過ぎている。車窓の景色が流れていくように、十代の日々は流れゆき、そして終着点。

 上原は窓から離れ、出逢った頃から変わらない微笑みを浮かべて、俺に向き直った。

「ともあれ、これからもよろしく」

 差し出された低い体温の掌を、ゆるりと握り返した。


 ◇◆◇◆◇


 深夜、目を醒ますと、いつのまにか椅子にもたれていた。青い布、…指先でなでると、天鵞絨に似た感触がした。勉強机の椅子はこんなに上質の布を張っていたろうか、と鈍い頭で考える。俯いて、学生服の自分の膝を見ている視線を持ち上げる。床の板に、四角く切り取られた月光が落ちて、水晶がまかれているように光っていた。自分の右側に光源、すなわち窓があることを不思議に思い、顔を右に振り向ける。寝る前に鍵をかけ、カーテンをしめたところまで確認したはずの部屋の窓が開け放たれ、見たこともないほど青い夜が広がっていた。その窓の前に置いてあった、ドロワーのついた勉強机はなくなり、青い椅子が窓に側面を向ける形で向かい合っていた。……ちょうど、列車内を思わせる。

 寮の部屋と同じくらいのその空間には、ベッドもクローゼットもなく、殺風景であった。向かい合った椅子の間に、卓がひとつあるきりで、あとは何もなかった。

 蝶番のきしむ音がした。ああ、昼と同じ音だ、と思って窓とは反対の方向を見ると、壁にたったひとつ付いている扉が開いて、そこには学生服を着た上原が立っていた。

 背中にナップザック、片手に大きな紙袋、もう片方の手には厚紙の箱、という出で立ちの上原に「両手のそれ、何だ」と訊くと、奴は少し首を傾げて、箱を机の上におくと、紙袋を傾けて、中身を机の上にぶちまけた。十字に割れかかっているざくろ、寮の裏に生えている蛇苺、近所の店で買ってきたようなダーク・チェリー……つやつやと光る果実の群れに俺は目を瞬かせた。

「新しいインクを買ったんだよ」

 言いながら、今度は厚紙の箱の蓋――言われてみれば、COLOR INKと書かれている――を、上原は持ち上げた。中にぎっしりと並んだインクの壜が目に入った。洒落たラベルのアルファベットが読めないので、勝手に、すみれ色、さくらんぼ色、と名前をつけて目で追っていく。厚いガラス越しに、とろりと液体が揺れた。

「カラー・インク。赤がね、殊に美しいんだ」

 ナップザックから取り出した、スカーフで束ねた色鉛筆をもてあそびながら、上原はそう言った。

「お前、絵なんて描くのか」

 俺がそう尋ねると、上原は目を細め「かもね」と含み笑った。スカーフの裾をつまみ、引くと、結び目がほどけて色鉛筆が机のうえにばらけた。先の丸まった、長さのまちまちなそれに、俺は首をひねる。上原に絵画の趣味はなかった。中学生の時分は、美術の課題があるたびに、進退窮まって、ある時など俺に代筆を頼んできたことさえあった。別に俺がとりたてて上手いわけではないのだが、溺れる者は藁をも掴む。とにかく上原は絵が苦手だったはずだ。

 しかし目の前の上原は、画材を所有し、カラー・インクを買ったという。一体どういうことだろうか。

 机の上でひっそりと青く照らされている果実に、上原は指を伸ばした。それをどうするのか、と、少し強張った声帯で訊くと、上原は真剣な眼差しで応えた。

「探しているんだ」

 何を、と訊いても、奴は答えなかった。注意深くさくろを取り上げ、ひとつひとつ果粒を見分し、蛇苺をてのひらのくぼみで転がす。じっくりと観察を終えると、それを机の端に寄せ、別の果物を手に取った。桃、いちじく、プラム、……紙袋に詰まっていた多くの実をひとつひとつ、大切に手のうちで包み、触れ、そして脇へ除ける。

 最後に上原が手に取ったのは、林檎だった。

両の手のひらで包み込める大きさのそれを手に取ったとき、上原の骨ばった肩が、微かに震えた。まるで生き物をつかんでいるような仕草で、それを胸の高さに掲げる。

 それをどうするんだ、と訊きたかった。ただ俺の手も舌も強張り、眼球も石膏で固定された人形みたいにただ黙って見ていた。熟した果皮の濃い赤が、上原の白い顔に照り映え、まるで火のついたランプを抱いているようにも見えた。いったい、上原のもっているものはなんだ。不意にわからなくなる。氷解した疑問がどろりと全身をめぐり、やっと思い描いていた疑問が口から滑り出た。

 目を閉じ、いつくしむようにその果実を抱いた上原は、たった一言こたえた。

「失くしに行くんだよ」


 ◇◆◇◆◇


 目覚まし時計が耳につく高音で鳴り響いていた。俺のベッドではない。上原のほうだ。俺は身を起こすと、知らないうちに止めていた自分の目覚ましのスヌーズ機能を解除してから、ベッドを出た。顔を洗って、歯を磨いて、戻ってきても、なおけたたましく上原のアラームが鳴り響いていたので、ベッドの脇に歩み寄り、いい加減見慣れた、眉のあたりまでかけ布団を引っかけて静かに眠る様子を眺めながら目覚ましを止める。そしてから上原を起こす。起きろ、と声をかけ、布団を三回叩くと、身じろぐ音がして、掠れた声がした。「寝台白布之を父母に受く。敢えて起床せざるは孝の始めなり……」

「何言ってんだ馬鹿」

 軽く布団の丘陵を蹴ってみると、うめき声と共に、その山がむくりと起き上った。伸びをして、「頭が痛いよ、雨が降るね」と首を回した。まくれ上がった寝間着の袖からのぞく白っぽい手首を見ながら、俺はふと、夢のなかの出来事を思い返して、訊いた。

「お前、絵って描いたっけ」

 眠たげな瞳を細め、上原は少し考えてから口を開いた。

「中学のときさ、動物愛護週間のポスター、授業で描いたろう。その学期の僕の美術の評価はね、電信柱だった」

 すなわち一である。記憶のとおりの体たらくに、そうだよな、と頷けば、上原は軽く肩を竦めた。

「まじめに描いたんだけどね」

 ほんの少しだけ眉宇を曇らせ、上原は笑った。

 上原は、他人からの評価が白黒はっきり分かれる人間だ。少し変わっていて、独特のものの受け答えをし、そしていつでも笑っている。俺が、英語におけるチェシャーの猫のような、という比喩を聞いたとき、真っ先に思いだしたのはこの友人だ。アルカイック・スマイル――笑っていなくても、微笑しているように見える顔立ち。目じりの切れ込みが深い、アーモンド形の瞳と、いつでもかすかに端の持ち上がった口許は、見る者の心によっていくらでも様相を変える。かつて、多くの人間が――恐らく、中学の時の美術教師も含めて――上原を疎んだのを、俺は見てきた。そのたびに、上原は、笑ったようなその顔で軽く肩を竦める。

 上原の表情を、嘲弄していると糾弾する奴は、きっと後ろめたいことがあるに違いない、と俺は思っている。

「どうしてまたそんなことを訊くんだい」

 布団の上であぐらをかいた上原は、冷えるらしいつま先をしきりに手でこすりながら問うてきた。夢で、と説明するのも馬鹿らしいので、何となくと答えると「きみは稀にだけれど、おかしなことをするよねえ」と首をひねった。お前ほどじゃねえ、と、昔からの型どおりに言うと上原は俯き加減にはは、と笑い声を洩らした。

「着替えろ、遅れるぞ」

 始業式に遅刻なんて洒落にもならん、と言えば、上原はもう一度猫のように身を伸ばし、やっとのそのそベッドから這い出て、ザックに入れっぱなしのワイシャツと椅子の背にかけっぱなしだった学生服――双方、クリーニングのタグがついている――を身に着け始めた。俺は息を吐いて、先に行くぞ、と呼気に混ぜて投げかけると、奴は頷いて無言で手を振った。


 始業式の最中に、上原が言った通り雨が降り出した。音もなく、景色に灰水色の紗をかけるような春雨だ。空気により存在感が増したような気がする。指の間にたまる湿気に、わずかな疎ましさを覚えながら、俯いて体育館の床を見つめている。そわそわと体育座りのつま先を遊ばせている生徒たちの興味はもっぱらクラス分けに向けられていて、壇上で滔々と喋る校長の話など雨音と同じようなものだった。いい加減背を丸めているのも疲れたので、少し膝の隙間から頭を上げ、周囲を目だけで見まわす。少し離れたクラスの前のほうに、ちょうど大きなあくびをした上原を見つけた。学生服の襟に少しかかるくらいの黒い髪が揺れ、白い項が覗いた。

 失くしに行くんだよ。

 不意に、昨晩の光景がよみがえった。単なる夢にしては妙に鮮明で、月並みだが、実際にあったことのように思いだせた。記憶をたどり、場面を呼び出してみても、しっかり覚えている場所とそうでない場所の違いなどがリアルだ。果実の種類は正確に覚えていなくても、上原が林檎を掲げたところだけは印象に残っている。その存外あやふやなところも、現実味があり、実際の体験のようだった。

 生徒たちの体の隙間から見える上原の姿を見ながら、どうしてあんなに奇妙な夢を見たのだろう、と考えて目を閉じると、瞼の裏に、あの林檎の赤がちらついた。

 夢に違いないはずのそれを、不思議と、どうしても、現実の上原と切り離して考えることはできなかった。

 上原は、なにを失くしに行こうとしているのだろうか。


 ◇◆◇◆◇


「いかがですか。こういう苹果はおはじめてでしょう。」向こうの席の灯台看守がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落とさないように両手で膝の上にかかえていました。

(中略)

 二人はりんごを大切にポケットにしまいました。

             宮澤賢治 『銀河鐡道の夜』


 ◇◆◇◆◇


こんなやみよののはらのなかをゆくときは

客車のまどはみんな水族館の窓になる

   (乾いたでんしんばしらの列が

    せはしく遷ってゐるらしい

    きしゃは銀河系の玲瓏レンズ

    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)

りんごのなかをはしってゐる

(後略)

               宮澤賢治 『青森挽歌』


 ◇◆◇◆◇


 尖ったペン先が、孤を描くつばめのように紙の上で円を形作った。その手慣れた仕草を見ながら、やはりこれは夢なのだな、と俺はひとり考える。机の上には白い月光の結晶がしずかに輝いている。今晩も、目を開けると青い天鵞絨に座っていて、向かいでは上原が絵を描いていた。白い画用紙の真ん中に、殊に美しいという赤で円。机の中央には、昨晩上原が大切そうに抱いていた林檎がぽつりと転がっていた。

「すこぶるどうでもいい話をするけどね」

 小指で、ペンを握る手を支えながら、上原は喋りだした。

「銀河鐡道の夜をよんだことがあるかい?」

 目は紅の円の上をすべりながら、語り掛けてくる。俺は「ずっと昔に」と答えた。本当に昔の話で、内容もほとんど覚えていない。宮澤賢治の童話だ。確か、少年がふたり出てきて、と記憶を浅く掘り返した時点で、上原と、お互いが小学生だった頃に行った図書館のイベントで、影絵の人形劇が上演されていたのを思いだした。橙や紅、淡黄の光が、星のように無数に流れていき、それが恐ろしかったのか珍しかったのか、とにかくその光ばかりが印象に残っている。そう、最後の場面だったか、川に、星のような灯りを流して、そして――……。

「賢治はさ、林檎が好きだったらしい。銀河鐡道の夜のなかで林檎がでてくるんだけどさ。賢治はね、林檎のことをこう書く」苹果、と紙の端に書いた。見覚えのない字だ。

「銀河鐡道のもとになったって言われてる青森挽歌でも、賢治の乗った列車はいつの間にか林檎の果肉の中を走ってるわけ」

 童話的な展開に、尺取虫が果肉の中を掘り進んでいるような雰囲気を思い浮かべたが、おそらく違うのだろう。そんな空想をしながら、この夢の光景のかすかな既視感に、そうか、と得心した。ここは銀河鐡道のなかに似ている、と、汽車も宇宙も知らないが、そう感じた。向かい合った座席、窓から這入り込む青い夜、そして林檎。

「賢治にとって林檎は宇宙のイメージにつながってる。つまり、宇宙全体は林檎のように丸い形をしてて、だから林檎を手にすることは、宇宙を掌のなかにつかむということになる」

 さらに言えば、と、上原はペン先をインクに浸しなおした。「こうして林檎を描くことは、宇宙を描くことになる」

 細かく線を重ねていくことで塗り拡げられるインクの赤が目に染みた。乾ききらず艶を放っている様子が青白い月光のなかで、果実の蜜のようにも、血のようにも見えた。

「万有引力――引き合う孤独の力――だって、アイザック・ニュートンが、林檎の木から落ちるところをみて発見したと言われてるだろう」

 本当かどうかは知らないけれどもね。上原は顔を少し上げた。林檎を、光が映り込む部分や、わずかな濃淡を残して、赤で塗りあげていく。赤のなかに散った紙の白が、星にみえた。

「今僕がこうして林檎の絵をかいていて、その向かいでは君がそれを見ている」

 なんだか世界を変える発見がありそうだね、と彼は笑う。


 ◇◆◇◆◇


 目覚めて俺は、無性に林檎が食べたくなっていることに気づいた。寝起きの乾いた口蓋を舌でなぞる。

 宇宙を食す、と呟いてみた。林檎を描くことが宇宙を描くことなら、それを食べることは当然、宇宙を食べることだ。銀河系も、何もかも、何億光年のかなたのすべてを、ひとくちで咀嚼。それは他愛もなくて、それなりに愉快な空想だった。だからかそのまぼろしは尾を引いて、始業前の自習時間になっても、瞼の裏に赤がちらつき、唾液が舌を潤した。俺は物理学のチャートを開いた。夢に影響されていないといえば嘘になった。万有引力――引き合う孤独の力。そんな詩があった。それを口にする上原の、青く月光にひかる表情の端正さを思った。

 上原は文系だから、俺とはクラスが離れている。今日も寝台白布云々となかなか起きなかったせいで、支度もしていないザックに教科書を詰め込んで、走って教室へ行った。

 教室中が静まり返っていた。紙に0.5mmの黒鉛がこすれる音、紙を繰る音を除外すれば、そこは完全なる静寂の世界だった。それは、夢の中のあの光景と似ていた。

 苹果、とルーズリーフの端に書いてみた。書き慣れない漢字はぎこちなかった。俺はそれを見ながら、ちいさくてまるい林檎がころがっていく空想をする。血のように真っ赤なそれは、よくみると心臓に似たかたちをしていて、つやつやと光っている。じゃくり、とそこにナイフをいれると、白くて瑞々しい果肉の代わりに、宇宙が広がっていた。銀河はたちまちのうちに溢れ出し、教室じゅうを飲み込み、俺たちはみな、星にまざってあたりを漂い始める。

 いつから俺はこんな夢想家になったのか、一度意識が宇宙空間へ飛びだしてしまうと五感も散漫になり、一向に集中できない。チャートを解く気になれず、腕を組んで机の上に突っ伏した。目を閉じて、夢のことを考える。

 どうして夢のなかで、上原は林檎の絵を描いているのだろう。

 夢というのは深層心理の顕れである、とフロイト博士はのたまったが、あいにく俺はその手の話には詳しくない。

 そもそも、どうして俺はこんな夢を見るのか。それを突き止めるため、試しにまず連想ゲームを始めた。上原が林檎の絵を描いている。俺はそれを見ている。林檎の絵を描くことは宇宙を描くこと。俺はそれを見ている。昔ふたりで見た童話。宇宙を旅するふたりの少年。林檎。銀河。宇宙。少年。モラトリアム。高校三年生。十八歳。

 連想は星雲のように渦を巻き、混沌としていく。混乱した俺はマクロコスモスに飲み込まれながら、意識のなかに体がめくれて内側に巻き込まれていくような感覚に陥る。

 自習時間終了の鐘の音を遠く聞いた。


「林檎?」

 休み時間、地図帳を借りにきた上原に、ふと「林檎ときいて何を思い浮かべるか」と訊いた。奴の口から、宮澤賢治だとか、そういう言葉が放たれたら、と考えるとき、俺の胸は不穏に脈打っていた。

「林檎……知恵の実……アダムとイヴ……」

 連想ゲームのように口ずさんでいた上原は不意に指を鳴らし、「そういえば、このまえ、聖書を読み直してみたんだけどね。知ってたかい、エデンの園の禁断の果実って、べつに林檎とは明言されてないんだよ」

 へえ、と曖昧に相槌を打った。聖書はよく知らないし、あまり興味もなかった。ともあれ、俺の夢とはなんら関係のない内容が口にされたことに、俺は少なからず安堵の念を抱いていた。上原は続ける。「いちじくという説もあるし、東欧では葡萄、東南アジアではバナナとも言われてるらしいよ。禁断の果実がバナナってしまらないね」

「バナナに謝れよ」

 まあでもアダムズ・アップルって言うくらいだし、林檎がやはり主流なのかな、と自己完結した上原は、「きみのせいで林檎が食べたくなったんだけど」と眉間にしわを寄せ、少し歯を剥いて抗議の意を表情で示した。「どうしても食べたけりゃ外で買ってこいよ」言うと、瞬きをして、そうだね、きみも一緒に食べないかい、と言われたので、反射的に、いやいい、と断っていた。ほぼ無意識の行動であり、戯れの多い上原の言動には妥当な返事のはずだった。

 上原は一瞬唇を閉じ、それから息を吸いこむだけの隙間をあけて数瞬、そして「じゃあ禁断の果実は僕だけでいただくよ。知恵がつかなくてもいいんだね」

 不吉なこと言うな、と額を叩くと、はは、と上原は笑って「じゃあそろそろ」と時計をちらりと見て、踵を返した。俺はその背を見送りながら、ふとある念にとらわれた。――けれど、俺は今朝あれほどまでに林檎を意識していたはずなのに。

 上原は変わらない。相変わらずどうでもいい知識を蓄えては、いつでも笑っているような瞳で披露する。そうしてどうでもいい軽口を叩いて、去っていく。

 夢の中の上原も、大層余分な知識を蓄えている。それを微笑みながら俺に向かって語るのも一緒だ。しかし、夢の中の上原と現実の上原には、何か埋めようのない差がある気がした。あるいはそれが、俺の思う上原の人物像と、実際の上原のそれの差異なのかもしれなかった。

 俺は上原のなにを知っているだろう。

 いつも静かに笑っていて、妙な知識をため込むのが好きなディレッタントで、俺と同じ、もうすぐ十八歳の、青年。

 あいつが何を求めて雑多に知識をあさっているのか、俺はわからない。意味なんてないのかもしれないし、それらを手に入れることで、何かを成そうとしているのかもしれなかった。目的か手段か。

 俺は上原のことを実はよく知らないのだ、と、当然のことを気づかされた。

 知っているというのはどういう状態なのか。感情を共有することは不可能だし、畢竟人間は誰とも本当にはわかり合えない。もしも相手が稀代の嘘つきであったなら、自分の知っていると思っていた事柄はすべてまぼろしなのだ。

 それでどうなるというのか。共に過ごしてきた十二年間で結局なにも掴むことができなかったとして、どうなるのか。そこまで考えが到ってしまうと、湧き上がる感情は悲しみや戸惑いではなかった。不意に廊下を歩く彼の背が、遠く、かすんで見えた。今まで過ごしてきた年月の軽重に関わらず、遠からず訪れるだろう別れが、その伸ばされた背に既にかすかに漂っているように思えた。

 友情がなくなるわけではない。けれどゆるやかにほどけていくだけなのだ。上原の世界も俺の世界もじわりと拡散していき、高校という枠を出ればきっと離散する。そのことは当然だし、それがわかっていてもこの関係はなんとなく続いてきた。俺はそれを意外とは思わなかったし、もしもこれからふたりが離れても、それも意外なことではない。誰だって、踏み出す世界は広がっていくんだろう。


 ◇◆◇◆◇


 夢は相変わらずだったが、その夜、俺はけして口を開こうとしなかった。ただ黙って、青い椅子に腰かけて、向かい合う上原の忙しなく動く手元を見つめていた。

 上原の画用紙には、林檎が無数に描かれていた。親指の爪ほどのもの、こぶしより大きなもの、赤い円がときに重なり、密集していた。見ていて、背筋に寒いものが走った。

 俯いて、無心にペンを走らせつづける上原の前髪が揺れている。ひとつ描き終えると、インクをつけ、また新しく円を描く。インクの赤は半分ほどに減っていた。

 凝視しているのもいたたまれず、俺はその紙上の赤から目を逸らした。そのまま、卓上の月光の道あとをたどり、窓の向こうへ目を向けた。

 窓の外には、無数の光に満ちた青い原が広がっている。夜空を平面に落とし込んだようなそのなかに、鼓膜にふれるかふれないか、そのくらいのさやかな澄んだ音を立て、星なのかあるいは花なのか、白や銀や、つめたい色であるのに灼けつくようにまばゆく揺れる瞬きがどこまでも続いている。これは銀河の野原なのだろうか。宇宙の地平? 見える世界に涯てはなく、ひたすらに青く深い闇ばかりが広がっている。純粋にその光景は美しかった。余計なものを一切合財取り除いて、ただ生まれる前の光景まで遡って、すべての美しさの根源がいちめんに輝いているようだった。その光に焼かれた目の奥にふと燃える星が降る。体に、その輝きが飛び火したようだ。言いあらわしづらい感覚だが、無理に言うのなら心臓がぎゅっとした。体の感覚が溶け落ちていって、視覚と、痛むほどの心臓だけが残る。

 視線を室内に戻すと、上原は窓には目もくれず、ただひたすらに林檎を描いている。その様子にどことなく苛立ちを覚えて、俺は眉根を寄せた。

「なんでそんなもの描いてるんだ」

 結局、少しの後、しびれを切らして、俺は問うた。

 上原は顔を上げた。

 髪も服も黒く、曇った象牙のような色をした小さな顔のなかで、双眸ばかりがしっとりと濡れ、黒く輝いていた。

 上原が唇を開くまでが、ひどく長い時間に思えた。色の薄い唇が開かれ、白い歯がわずかにのぞき、林檎のように赤い舌が目を射って、はっと息を飲む。

 僕のなかの宇宙を、失うまえに。と、聴こえた気がした。

 はっと我に返り、もう一度訊き直そうとした瞬間、窓から不意に吹き込んだ風が青い硝子の欠片のような光を叩きつけ、そのまばゆい網膜の痛みに俺はたまらず目をつぶる。銀河のような輝きが上原と俺の間の空間をさらい、瞬間なにも見えなくなる。

 ころり、と、目前に林檎が転がってきたところで、視界が暗転した。


 ◇◆◇◆◇


 視界の端に赤いものが映るだけで反射的に振り返るようになった。末期だ。林檎に取り憑かれている。

 教室から見える通りの信号に、林檎がはめ込まれてるみたいだ。黒板に視線を戻せば、赤いチョークで描かれた物理の公式が網膜に刺さる。何より恐ろしかったのは、緑色の教科書の表紙を見たあとで、ふと白いルーズリーフに目を移したら、補色の赤が一瞬ちらつき、机の上に突然林檎が転がってきたように感じたことだ。あまりにも動揺して筆箱を落としてしまい、近場のクラスメイトに心配された。

 二時間目の体育が持久走だというので、これは無理だと判断して、俺は保健室に向かった。明るくも少し無機質な、白い面積の多い空間には、俺の目を射る赤はとりあえず無くて、普段なら落ち着けない部屋でも、胸をなでおろした。

 しかし、優しい口調で、どうしたの、と訊いてくれた保健室の養護教諭の女性についうっかり、林檎が、などと口走ってしまったせいで、疲れているのでは、とか、受験のストレスが、とか、様々な質問を受けるはめになり、誤魔化すために、最近夢見が良くなくて、などと答えるうちに、とうとうカウンセリングをすすめられた。ストレス度をはかるチェックシートなるものに印をつけながら、俺は内心上原と林檎を呪った。

 カウンセリングのすすめは丁重にお断りして、二時間目終了のチャイムが鳴る頃、俺は保健室を出た。古ぼけた校舎の廊下のそこかしこに溜まる暗がりは、不思議と清潔で眩しい白よりほっとした。

 親切や気遣いが、嬉しくもこそばゆい、あるいは違和を感じてしまうのはなぜだろう、と考えることがある。それは恐らく相手と自分との意識の乖離だろうが、そんなものはすべての事象の合間に横たわっている。俺たちはけして他人がどう感じているかを正確に理解することはできない。それはお互いに全く異なるふたつの存在であるという絶対的に過ぎる事実のせいかもしれないし、あるいは、片方が大人で、片方が子供であるとかの、単純な差なのかもしれなかった。

 そういった非生産的なことに考えを巡らせていると、現実から感覚が遠くなる。頭上の蛍光灯がばち、と火花を散らして点滅した瞬間、ふと我に返り、受容器の情報が脳に滑り込んでくる。視覚が最初に甦り、俺は前を見た。

 人が廊下の奥に立っていた。立ち竦みそうになると、背筋を真っすぐに伸ばした学生服姿のその影はこちらを見た。ぱちりと時折はぜる蛍光灯に照らされたその顔はまぎれもなく上原で、俺は深く吐きそうになった息を飲み込んだ。薄暗い廊下を上原は俺の方へ歩み寄ってきて、向かい合ったところで立ち止まった。「もういいのかい」唐突に訊かれ、虚を突かれたが、俺はすぐに「ああ」と頷いた。それはよかった、上原の黒葡萄のような目が少し上向きの弧になる。

「地図帳を借りに行ったらさ、保健室へ行ったっていうから」

 また忘れたのか、と言うと、上原は微笑んだ。

「燃やしたんだ」

 一瞬、何を言われたかわからず、言葉に詰まった。「燃やした、って」声を奪われたように掠れた声が、かすかに闇をとどめている廊下の隅に降り落ちて消えた。

 上原は少し俯いて、ゆっくりと瞬きをした。

「どこへも行きたくなくて」

 上原の瞳は、夢と同じように黒く、底のない夜のようだった。笑みの消えた顔は蝋のように白く、蛍光灯の不透明な瞬きの下で、あの夜の、夢のなかのように鮮明に浮き立っていた。しかし、夢とただひとつ違う点は、その黒い瞳はぽっかりとくろぐろとした孔があり、目の奥がしんしんと痛むほどに怖ろしい虚無があった。俺は咄嗟に一歩後ずさった。上靴の踵のすれる音が響き、上原は瞬きをした。その途端コールサックのように真っ黒だった瞳に、本来の笑みを含んだような光が戻った。「冗談だよ。失くしたのさ」上原は片目を瞑ってみせる、しかし俺は、彼の放った「失くした」という言葉にぞくりと背筋を泡立たせた。

「きみ、次の授業は大丈夫かい? 無理はするなよ」僕は数学だから移動教室だ、と上原は微笑むが、俺は凍りついて何も言えなかった。上原は不思議そうな眼差しで首を傾げた。

 俺の知らないものを見た驚きと、恐ろしさが、俺の足をその場に縫い付けていた。心臓は不穏に脈打ち、こめかみの血管が膨れ上がっているような感覚があった。つまさきは冷え、動揺に瞳が揺れ動いた。

「きみ、本当に具合が悪そうだね、まだ休んでいったらどうだい」心配そうな表情をしながらも上原は踵を返し、去って行った。立ち尽くしたままの俺の耳に、かすかに割れた、予鈴の鐘の音が届いた。


 結局、今日は部屋に戻っても、ほとんど上原と口をきかなかった。もともと多弁な方ではないので、向こうもほとんど疑問に思った様子はないように見えた。上原は軽口を叩きながら、普段通りに行動し、普段通りに夜がやってきた。いくら夢が怖くても、寝ないわけにはいかない。時計の針は進み、やがて消灯時間に針が合う。窓の外の暗闇に、俺は暗澹たる気持ちになりながら、おやすみ、と布団にもぐった上原の声に、同じ言葉を返すことができなかった。

 俺は、上原の瞳をのぞくことなく、眠りについた。


 ◇◆◇◆◇


ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。

              宮澤賢治 『銀河鐡道の夜』


 ◇◆◇◆◇


 意識が引き寄せられる感覚があり、五感の起こりと共に、自分がそこに腰かけていることに気づく。目を開け、すぐに立ち上がった。机の上に俺の影が傾いで落ちる。

「上原」

 俺は呼びかけた。上原は応えず、椅子に腰かけたまま、すでに全面が赤に支配されつつある画用紙のわずかな余白に、新しい円を描いていた。「上原」もう一度、今度は大分に怒気を含んだ声音で呼ぶと、やっと上原は顔をあげた。途端、俺はその顔に怯み、言葉が出なくなった。表情の抜け落ちた顔のなかの、ぽっかりとした穴のような瞳に、すべてを見透かされて吸い込まれてしまったようだった。

 その指先からペンが落ちて、机の上に転がった。尖った先端から一滴、二滴、赤いしずくが滴り、木の板に黒々と染み込んだ。

「どこへも行きたくないよ」

 俯いて、上原はそう呟いた。その頬は白く凝る夜気をうけて死人のように蒼褪めていた。

 俺の今日の記憶が反映されたのか、などと思った瞬間、上原は血の気のない唇をもう一度開いた。

「失いたくない。……けれども、だめだ。

 僕は十八歳になる。近づいているんだ。そのときが。失う。僕は失うだろう。そのときが迫っている」

 上原は震える手で林檎をもつと、その球体にいとおしげに指を這わせる。大切にしないと壊れてしまうかのように、嵐のなかに置き去りにされたように、白い掌のなかに林檎をつつんだ。真っすぐだった背を丸め、凍えたように俯いていた。僕のなかの宇宙、と、あの声がもう一度聴こえた。その声は泣きだしそうに顫えていた。

 どうして失わなければならないのか、という疑念は不思議と浮かんでこなかった。俺もそのことをどこかで本能的に理解していた。それは避けられない未来であるということだけを、俺は知っている。いつ? どこで?

 上原は俺の前で顔を上げる。その黒曜石の瞳には、深く底のない悲しみと諦めが漂っていた。濡れたそれが真っすぐに俺をとらえた。その全身に、縋るような瞬きが込められていた。


「僕たち、どこまで一緒にいけるだろう」


 俺は答えられなかった。

 上原は目を閉じ、俯いてしまった。黒い髪もまた濡れたようにみえ、川で溺れた少年のように頼りないその薄い身体に、俺は息苦しさを覚えた。おりた沈黙の帳は重く、俺はこの青い夜からの逃げ道を探していた。

 そのとき、ふと、学生服のポケットに突っ込んだ手が、すっかり体温でぬるくなった硬いものに触れたことに気がついて、俺は恐る恐る、それをひそかに取り出して、机の下で確認した。

 俺の手には、ナイフが握られていた。


 ◇◆◇◆◇


 跳ね起きた拍子、スプリングの軋む音が、全身を支配する鼓動と共鳴し鼓膜を打つ。ベッドの上に溜まる青い闇、布団を振り払って平衡の狂った体で床に降り立ち、そのまま上原のいるはずの方へ片足を踏み出した。

 ベッドがもぬけの空なのではないか、どこかへ行ってしまったのではないか――という不安な衝動に突き動かされ、冷たい床をまろぶように走り、反対側の壁際まで走った。たった数歩の距離なのに、布団のふくらみの隅から額より上がのぞいて、その丘陵が呼吸のたびにかすかに上下していることを確認するまで、生きた心地もしなかった。奇跡的に上原がこの行動で起きることはなく、俺は慎重に、震える指先で、布団の表面だけをそっとなぞった。一気に湧いて出た安堵の感情に膝がくだけ、よろける。裸足の踵の骨が冷たい床にあたる音が妙に響いた。

 汗をかいていた。じっとりと、こもる熱量、貼りつく薄い布地に、徐々に心拍が落ち着いていくのを感じながら、俺は床に座った。

 現実と夢がつながっているなんて、馬鹿馬鹿しい空想だった。だが、座り込んだ床の冷たさと青い天鵞絨の感触が溶けあい、窓から洩れる月明かりが卓上の輝きと重なった。ゆるやかに二つが同化していくのを意識しながら、俺は手に触れたナイフの感触を思い出していた。

 不意に、上原が身じろいだ。寝姿を見つめる気まずさを覚えながら、寝返りを打ったらしい拍子に布団からのぞいた、上原の顔を見た。

 笑みを含んだような目も口も閉じられ、死んだように眠る彼の眉間に、ほんのかすかに、解けない強張りがあることに気づいた。なにかに悩んでいる徴、悪夢をみているのかと思った。悪夢。失いたくないものを失くしにいく旅の過程で、ひたすらに林檎を描きつづけるというのは、悪夢だろうか。肌に血の気はなく、息をしているかが不安になるほどの静かな、しかし苦しげな様子だった。

 その蒼褪めた頬を見つめながら、俺は自問した。

 俺は上原の、なにを知っていたというのだろう。

 それは数日前抱いた疑問とは違っていた。あのとき俺の胸中に広がっていた虚無とは、確かに異なる感情である。

 たいていの場合、不幸はひそかに隠されていて、もしかしたら隣人にひとことも話しかけない、背筋のいちばんまっすぐな人影こそ、癒しようのない深い絶望を引きずっているのかもしれない、という、昔に読んだ本の一節が浮かんだ。

 俺は昔から、上原の、背筋を伸ばした姿がいいと思っていた。何にも染まらず、動じない、飄然とした様子の上原の性質がそこにあらわれている気がして、その芯たる心根の強さを思い、きっと、上原はたったひとりで、その先へずっと進んでいくのだろうと、そう合点し、その笑みの裏に隠されたものを見ることを放棄していた。

 孤独なんて甘っちょろい、刃物を突き立てられた鋭い痛みが奔る。それは気づきの痛みだ。今、俺の胸には、生まれて初めて知った上原の苦しげな様子が焼き付いている。無数の瞬く燐光を見たときより、ずっと衝撃的で、ずっと悲しかった。

 どうして気づかなかったのだろう。

 手に触れた、ぬるいナイフの感触を思い返す。

 俺は上原の白い顔を見下ろして、目を閉じた。


◇◆◇◆◇



 林檎がひとつ、転がっている。

 髪もペンも赤いインクも、机の上にはもうなかった。それは上原が諦めてしまったからなのか、そうではないのか判断がつかなかったが、どちらでも構わなかった。

 上原はその林檎を、焦がれて仕方がないというような、眩しそうな瞳で見つめて、苦しそうに言った。

「林檎をかじると、完全な円が欠けてしまうんだ。幸福で完全な世界」

 完全だった。たとえばそれは傍から見ていびつだったとしても、僕にとっては完全だった。そうありたかった。

 上原の言葉が、涙がひとつぶひとつぶ落ちるように広がっていった。窓の外の燐光が、悲しみの代わりのようにひと際美しく、明るく瞬いた。このいちめんの光の裏には、どれだけの深い悲しみが隠れているのだろうと思った。

 もう紙もペンもインク壜もないが、机の上に、黒々としたインクの染みが、名残惜しく残っていた。木目に挟まれたそれを見ながら、上原はなにかを生み出そうとしていたのか、と考えた。

 高校三年生。

 周囲が手ぐすね引いて待ち構えていて、現実世界に連れ出されようとしている、モラトリアムの終末の年齢。

 この林檎に象徴される世界――上原のなかの宇宙は、きっと、多くの人間には――勿論俺も含めて――わからないものだし、もしかしたら本人にもわかっていないのかもしれない。上原のうちに眠る形のあいまいな感情が思いえがく何か、個人の奥底に眠る、得体のしれない、他と共有することも、言葉にすることもできない、絶対的なものが、横たわっている。

 それはモラトリアムの結晶であり、赤々と燃える、十八歳の青年の心臓だった。

 それを失くしに行くのだと言うお前の表情を、俺は真っすぐに見ればよかったのだ。いつも静かに笑っている上原の黒い瞳の奥に燃え立つ魂の、その林檎のような赤を、俺は見ることができた。

 上原はその輝きを残そうとしている。たとえなにも成せなくても、確かにここにいたんだぞと、真っ赤に心臓を燃やす高校三年生が、声を上げて叫んでいる。その証を――赤く燃える林檎を――もうすぐ失くすための最後の旅。

 俺たちは、どこまで一緒にいけるだろう。

 林檎は、俺たちの間でひっそりと孤独に輝いている。

 ふたつというのは、この世の中で最上の数だわ。古い映画の台詞がよぎる。ここにいるのはふたり。最上の数だ。しかし、林檎はたったひとつしかない。

 俺にとっては未知の林檎を、ふたつに割って分け合うことで、少しでもお前に近づけるのなら、俺はこのさいわいの果実に口をつけよう。不完全な円こそが現実世界であるのなら、お前とその先を分け合おう。

 俺はナイフをポケットから取り出す。上原は目を見開いて俺の行動を見ていた。俺は気づいた。だから、このナイフを持っていることができる。

 林檎を手に取り、その中央に、ナイフをゆっくりと入れる。この隙間から、宇宙がこぼれ落ちたとしても、俺はそれを甘んじて食そう。体の奥からモラトリアムの銀河があふれて、そのなかに飲み込まれてしまったとしても。

 赤に照らされる上原の瞳を見つめて、俺もまた、いつしか胸の中で鼓動する赤い存在に気づいている。けして悲しみではない感情に揺らぐ上原の目を真っすぐに見返す。これからもよろしく、と言ったのはお前だろう。ふたつにわかれた林檎の片方を、泣きだしそうな笑顔を浮かべる十八歳に差し出す。俺の手のなかには、そのもう片方がある。

 目覚めた先の上原と同じ表情をしている、目の前の十八歳に、微笑む。


「どこまでも一緒にいこう」





                       Fin.

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