第5話 サーカス・ベツレヘム 《連作短篇集》

――おとめ座

 トラペーズ・ヴォロンと銘打たれた演目は、空中ぶらんこのことらしい。屑をあつめに駆け回るパリの街中で、いつしか覚えたアルファベットをひと綴りずつ読みながら、ミシェルは、昨今流行しているアール・ヌーヴォー風のポスターを眺めた。縁取る花がまるで花でないようだ。きっちり左右対称で、連続した模様の百合の花の列に、複雑にうねり、画面の右下から天へ伸びていくような野いばら。シルク・ド・ベツレヘムという文字に目を細めながら、六芒星のつらなったぶらんこに腰かける美しい女の人の絵に、屑拾いの少年は灰青色の目を細めた。

 演目は空中ぶらんこだけではない。ピエロや、コントーショニスト*、軽業とか――おや、バレエまでもがある――と、ミシェルが首を傾げたとき、通りから声がした。

 彼はポスターからさっと目を離し、怒鳴り声から離れるように走っていく。最後にちらりと振り返って、ベツレヘムなんて、変な名前だ、と思いながら、ちらちらと雪の舞う、ブルジョワと乞食の蔓延るパリの街へ駆けだした。


 指が腐り落ちてしまうほどの霜焼けに、じくじくと体液をにじませる足のつま先を見て、ミシェルは溜息をついた。橋の上の石畳に立って、泡立つ川面を見下ろせば、渦巻く濁流のおぞましさに飲み込まれそうになる。

 パリの水は汚い。川沿いの零細ななめし革工場や染色工場が、その排出物を垂れ流しているからだ。パリの人々は――その懐の余裕があればだが――ワインと果物で喉を潤す。ミシェルは、店からくすねた菓子や、通行人からひったくったたった十スー*ばかりの貨幣で、歯が欠けそうな黒パンの残りを買って食いつないでいた。穴があいて垢じみた大人の古着を何枚も着て、あかぎれだらけの手足で、パリを縦横無尽に駆け巡る、よくいる浮浪児のひとりだった。屑を拾い、地べたを這い、橋桁の下で半ば死んだような手足を抱えて眠りにつく。

 今日は運がなかった。壊れた荷車の下に這いつくばって雪と混じった泥をあさっても、一スーも見つけられなかった。カフェの店頭でかすめ取ったひときれの羽根のような菓子だけでは、到底朝までもたない。カルチェ・ラタンでも、パレ・ロワイヤルでも、道行く人は足早に、家路を急いでいた。その様子に、ああ、今日は一年に一度の、あの日なのだと気づいた。毎年、年の瀬に、家族や恋人が寄りそって天に祈る、あの儀式。

 生まれてこのかたまともな教育と呼べそうなものを受けたことのないミシェルは、その儀式の正しい意味を知らない。なんでも神だかなんだかの生誕祭だそうだが、それならどうしてこの哀れな子供一人に慈悲をくださらないのだろう。大方の幸福な市民――他人の生誕を祝う余裕のある奴らに配るだけで、その神の愛とやらは底をついてしまうほど、浅いものなのだろうか。

 夕暮れが近づいている。身を切るように冷たい風が、血を流す手足をいたぶった。薄茶けた金の蓬髪で耳を隠すように俯き、ミシェルは白い呼気を見つめた。……どうしよう。

 黒い木々がざわめいてこちらをとって食おうとするかのように見える。空腹がひどいときはいつもそうだ。空がぐるぐる回るような気がする。くらくらする。

 ふと、脳裏に、朝方みたポスターが思い浮かんだ。

 サーカスが公演するのなら、人が集まるはずだ。……露悪的な娯楽にはたく金を懐に隠し持った人間が。

 浮かれた酔っ払いや学生から、それなりの額をすれるかもしれない。

 もう選択肢は無かった。痺れた足で、来た道を戻って、貧乏人達が虫のように蠢く路地裏を抜けて通りに出る。広場。そこにテントがはられているはずだ。

 大仰な建物を回って広場に出ると、はたしてそこには、――深い深い夜の天幕がはられていた。

 一瞬、ミシェルは立ち尽くす。ただの布地を材木で特徴的なテントに仕立てたとは思えないような、濃いブルーの六角形に、塗料とは思えない銀の星が散らばっている。虫食いの穴から洩れだした光のようにも見える。

 そのテントの前に、少女が立っていた。

「お客さま?」

 少女はすみれいろの外套を羽織っていた。薄手で、つばめの羽根のような布地が少女の細い体にまといつき、彼女の白い頬は林檎のように真っ赤に染まっていた。室内履きのままのような小さな靴からのぞく貝殻のような白い両足の甲の、えぐれた大きな痕が目を引いた。外套の裾がその足をかくし、舞い上がる。端を縁どって刺繍された模様が、ミシェルの瞳に飛び込んできた。

 金の色の六芒星。シルク・ド・ベツレヘム――

「サーカス・ベツレヘムへようこそ!」少女ははにかむと、少しだけ歯を見せて笑った。「あ、違うんだわ。フランス語ではシルク・ド・ベツレヘムって言わないと。ねえ、あたし、フランス語上手でしょう。団長が教えてくれたのよ」

 屈託ない表情は、ミシェルとそう変わらない年頃のものだ。しかし、彼女の頬はやせ気味ではあるもののちゃんと丸みを帯び、薄手だが、美しい服をきて、長い髪をきれいに梳かしてあった。ああ、こいつは俺とは違う人種だ、と、頭蓋に皮膚が直接はりついたように痩せこけたミシェルは、ぎょろぎょろとそこばかり大きな瞳で彼女をねめつけた。

「今ね、買い物がてら、ちらしを配って戻ってきたところなの――開演はまだよ」腕にかかえた袋を少し揺らして、ふと中に小さな手を突っ込んで、買ったものを幾つか取り出した。食料品に混ざって、何に使うのかわからない雑多なものや、ミシェルの知らないようなものも含まれていた。

「フランスに来たのは初めてなの。パリっておしゃれなとこね! 石鹸の箱もこんなにきれいだなんて!」

 手に持った、すみれ色の厚紙の箱を眺める。石鹸。縁のない言葉だ。ブルジョワジィの贅沢品。食えやしない甘ったるい匂いの塊。

 フランスに来たのも初めてというのなら、どこの出身なのだろう。ミシェルの胡乱気なまなざしに気づいたのか、少女は微笑み

「あたしたち、みんなベツレヘムの子なのよ!」すみれいろの箱を持って、くしゃっと笑った。

「あなた、名前はなんていうの?」

 ミシェル、と口の中で呟いた名前を少女は耳ざとく聞き取り、花が咲くように笑みを浮かべた。「ミシェルっていうの? あたし、ミーシャよ。似ているわね!」

 そうだろうか、とぼんやり思いながら、視線は少女の手の袋に釘づけだった。彼女が石鹸の箱を取り出した拍子に見えた白パンの塊に、唾液が口の中に溜まった。

「食べる?」

 思考が散っていたミシェルは、一瞬少女―ミーシャが何を言ったのかわからず、その顔を見つめ返した。

 ミーシャは、パンを――大人の拳ほどの白パンを袋から取り出し、彼に差し出した。反射的に手を伸ばしそうになって、躊躇する。本当ならすぐにでも齧りつきたいところなのだけれども、そうもいかない。背後からひったくろうなどと考えていた先ほどまでの衝動はなりをひそめてしまっていて、簡単にとはいえ言葉を交わしてしまった少女から施しの形でパンを受け取ることに、抵抗を覚えていた――浮浪児の意地というものである。

 震えていたミシェルの冷えた指をとり、ミーシャは白パンを押し付けた。平気よ、とミーシャは目を細めた。あたしの分だもの、と。

 ミシェルは手渡されたやわらかいパンを見た。途端、少し千切ってとっておこうなどと思っていた理性は霧散し、無我夢中でそのパンにかぶりつき、瞬く間に食べつくしてしまう。服の裾についたわずかな屑ですら拾って口に入れてから、思い出して、ポケットを探った。……一番下に着ていたベストから、二スーが見つかった。何も買えないようなそれをせめて、と彼女に差し出す。目を見開いて首を振った少女に、無言で突きつけた。すりやかっぱらいはやるが、施しは受けない。それがミシェルの意地だった。

 なんともいえない表情で二スーを受け取ったミーシャは、その薄汚れた硬貨を手の中でもてあそびながら、しばし黙っていた。ミシェルは、もはやサーカス近辺で悪事をはたらく気にはなれず、踵を返そうとした。……そうしてから、ふと思い立って、振り返った。唇の動きだけで、――ありがとう、ミーシャ。と、社交辞令のように礼を伝える。それを目にした少女は瞬きして、そしてふと俯き、こう言った。

「あたしね、あたしの名前、みんなミーシャって言うけど、ほんとは違うのよ。M-i-c-h-a,ミーシャじゃなくってね、ミハっていうの」

 Chaでハ、と発音するものなのか、ミシェルにはわからない。けれどその名前が異国の響きをまとっていることはわかった。彼は彼女のことを、ミーシャと呼ぶべきか、ミハと呼ぶべきかで迷って彼女を見つめる。けぶる青のまたたきに訝しさを見てとったのか、ミーシャ、あるいはミハは俯いたまま続けた。

「あたしたち、ここに入るときね、みんな別の名前をもらうの。たいてい、前につかってた名前はろくでもない人が多くて、そもそも名前のない子だっているから。でもね、あたし、ミハって名前が、好きなのよ」

 小さな手を組み、ミーシャ―ミハは言う。「こんなこと言っていいのかしら――そうね、この街の中だけでなら大丈夫だわ。サーカス・テントに戻る頃には、なかったように忘れてしまえばいいんだもの。いい?」

 寸の間ミシェルは逡巡した。パンにはありつけたが、まだ今日の稼ぎ自体はゼロなのだ。だが、ここで首を横に振って去ってしまうのもどうだろうか。それに――もしかして、もう少し何かもらえるかもしれない。断っておくが、ミシェルのこの感情の動きは、彼が狡く打算的な小悪党だということを示すものではない――人生を冷たく湿った舗石の上で過ごせば、誰だってそうなるだろう。ミシェルは渋々、頷いた。

「あたし、ボヘミアで生まれたのよ――そう、ベツレヘムじゃなくってね」そう口火を切って、ミハは少し黙り込む。ミシェルの様子をうかがうように瞳だけちらりと動かし、また話しだした。「知ってる? ボヘミア。あたしもほんとにちっちゃい頃までしかいなかったんだけど――」

 ミシェルは首を振った。パリの外の話は知らない。聴いても、忘れる。パリで生まれ、パリで死ぬ。それが自分の人生だろうと思っている。この空っぽの頭に詰めるべきなのは、今日を生き抜く知恵のみだ。

「旅をしてたお父さんが、近くの村の娘だったお母さんと恋に落ちて――そんで、あたしが生まれたの」

 お父さんはそのまま旅を続けて、お母さんはあたしを産んだ一カ月後に熱病で死んだけど、と呟いたミハの瞳には、翳が落ちていた。

「あたしのお父さんはロマ人だったんだわ」

 ロマ人というものをミシェルは知らなかったが、彼女の口振りから、その人々があまり欧州で大手を振って歩ける民族ではないことを察した。人は弱者や少数派に厳しい。たった十数年の人生で、ミシェルはそのことを何よりもよくわかっていた。

「血ってね、とっても大切なものみたい。あたしにはわからなかったけど。少なくとも、あたし以外の人にとっては」

 ロマの人たちのこと、みんなはジプシーって呼んだわ。肌が浅黒くて、占いや踊りをして生活している旅人たちを。そう呼んで、差別したの。ミハはぽつぽつと語り続ける。あたしもロマの血を引いているの。だから。

「いくら肌が白くても、だめなのよ」

 その言葉に、ミシェルは目を細める。

「じゃあ、あんたはジプシーなのか」

 突然喋ったミシェルのしゃがれた声にミハは驚いたようだったが、すぐに首を振った。「違うわ。ううん、違うんじゃないけど……」少し目を伏せ、思案げな顔をしてから、ゆっくり呟いた。「ロマの人たちはね、ジプシーって言わないのよ、自分たちのこと。ロヴァリっていうの。ジプシーっていうのはね、エジプトの民って意味だから。そう、あたしたちはロヴァリなの」

 ミハの大きな潤んだ瞳はこちらを向いていたが、そこにはミシェルではない遠い何かが映っているようだった。

「団長はあたしが、ベツレヘムの子じゃなくってロヴァリだって言っても、なにも言わない。けど、悲しそうな目をするわ。団長の目って灰色なの――すごく深くって、静かで、月の晩みたいな。

 サーカス・ベツレヘムにはいろんな人がいるわ。イタリア語を喋れる人もいるし、雪深いロシアの街でいっしょになった子もいる。別のサーカスからきた子も――でも、みんな今はベツレヘムの住人なの。あたしも、あたしも――」

 きっとそうなのよ、と、夕暮れを遠く見上げて、ミハは呟いた。でもね、と、薔薇と紺青のグラデーションを見つめて続けた。

「時々、わかんなくなるのよ。あたしはサーカス・ベツレヘムの住人で――だけど、ぶらんこ乗りのあたしに、土地を持たないロヴァリの血が、あたしに羽根をくれてるのかもしれないって。あたしがぶらんこ乗りなのは、あたしのお父さんがロヴァリだったからなのかもって。

 サーカスは馬車にのって旅をするわ。ロヴァリとおんなじように。もしかしたらあたしはまだロヴァリの民なのかもしれない。ひとところに決してとどまらない、空中ぶらんこみたいに、あたしはずっと旅をしつづけるふうに生まれてきたのかも」

 ミハは空を見ている。パリの向こう、フランスの外、ずっと続くまぼろしの故郷までの空を。瞳に揺れる星が宿る。

「あたしは誰なのかしら」

 瞬く間もなく、少女の言葉は冷え切った空気に溶けて消えた。産声をあげることのない嬰児のように無垢な言葉が。

 それきり、少女は黙った。少年も黙っていた。二人の間には白い呼吸が交互に吐き出されて、それをいくつ数えた頃だろうか。ミシェルは唇を開いた。がさがさにひび割れた隙間から、老人のようにしわがれた声が零れた。

「あんたは天使さ。そうに違いねえ」

 ミシェルは、自分が浮かべている笑みの凄惨な荒み様に気づいていた。少女の話を聞いている間、胸に嵐の雲のように湧き上がってきた怖気の走るような思いが言葉に出てしまっていた。

 貧困のなんたるかを知らない、このいかにも無垢な少女を打ちのめしてやりたかった。生きることに直接関係のないことをつらつらと考えていられる、この少女を、お奇麗な外套を剥ぎ取って、娼婦の溜まる路地裏にでも放り込んでやろうかとすら、思った。

「自分が誰かなんてわかんねえのは、俺だっておんなじさ。俺はパリの舗石のうえで生まれて、橋弧のしたで眠る。屑を食って、ブルジョワジィの上っ面の垢をかすめ取ってなんとか飯を食ってんのさ。

 あんたがロヴァリの渡り鳥だってんなら、俺はパリの蛆虫だ。天使さまのように、自分が誰かなんて考える余裕もなく、腐肉に集って潰される、ちっぽけな生きものなんだよ」

 皮肉な微笑を浮かべたミシェルの煤けた頬に、ミハはそっと手を添えた。ゆっくりと、細い睫毛が上下する。

 瞳のなかに、すみれいろの夜があった。星が降る、一年で最も美しい――あと少しでやってくる夜が。

「あたし……あたし、あなたの方が、ずっと天使みたいっておもえるわ。

 あなたはパリの霧のなかからあらわれた。舗石の上から、ふいに、まるでまぼろしみたいに。空気がひとの形をとって、あらわれたみたいだった……。

 パリで生まれて、パリで死ぬ。ずうっと、おんなじところで生きるのね。あたしとは違う。どこで生まれて、どこで死ぬかもわからない、ぶらんこ乗りで、ロヴァリのあたしとは。サーカス・ベツレヘムの住人の、あたしとは。

 あなたはきっと、パリそのものなんだわ……」

 ミハは、何も知らない少女だった。けれど、その掌に、ミシェルは深奥の憎悪が、冬の呼気のようにとろけて消えていくのを感じた。……何も知らない。知る必要のない少女。自分を、天使と呼ぶ少女。自分とは何もかもすれ違う生き物。

 ああ、これが天使なのかもしれない、と思った。無垢の化身……ぶらんこからぶらんこへ、空を飛ぶ、故郷をもたない、ベツレヘムの星! 

 彼女がミシェルのことを天使と言ったわけを、その瞳を見て悟る。天使にはすべてが美しく見えるのだ。なぜなら天使もまた美しいから。そんなふうに考えて、ミシェルはゆっくりとミハの手を外す。

 澄んだ鐘の音がする。夕刻――陽が落ちる。パリの向こうに。聖なる夜に。ミハは立ち上がる。その裾の金の六芒星が、ミシェルの瞳の前を横切った。

「……サーカス・ベツレヘムへようこそ!」

 ばさり、翼が羽ばたく音を立てサーカス・テントの入口が開く。あらわれた内部に、ミシェルは言葉を失った。

 サーカス・テントのうちには、真冬の夜が広がっていた。すみれいろの、偽物の、きらきらした星の降る……ミハの瞳とおなじ、聖なる夜が!

 魅入られたように、ミシェルはそこへ足を踏み入れようとする――事実、一歩よろめいたふうに足を出した。

 しかし、そこで何かが足を止めさせた。

 俺は人間だ。パリで生まれてパリで死ぬ、人間だ。

 彼の逡巡が足先を絡めとる。入ってもいいのか。あれほど、あれほど美しい、聖なる夜のなかに。

 ミハは夜色の瞳でまっすぐにこちらを見て、ただ一度、はっきりと呼ばわった。

「ミシェル! ……パリの、天使!」

 すべてを浚う声だった。ミシェルを冬の広場に留めていた桎梏が不意に消え、彼はまろぶようにもう一歩、踏み出す。

 ミハの瞳がこちらを見る。夜が灰青と交わり、弾けてひとつの星になる。

一夜だけの、特別な夜。

ミシェルは、サーカス・ベツレヘムの中へ足を踏み入れた。


 コントーショニスト* 柔軟芸人のこと。

スー* フランスの通貨の単位。一スーは約五十円。



――ふたご座

 ゆら、ゆら……。

 ゆらり……。


 目を開けたら、ゆりかごが揺れていた。

 すぐ隣のディディエは、まだねてるみたいだった。寝息がきこえてきて、ぼくはちょっとだけ右をみた。ディディエのいないほう。

「ああ、起こしちまったか」

 メルが、ブランコみたいに天井からつられているゆりかごをゆらしていた。ゆら、ゆら……。ちょっとずつ、白い編まれた紐のゆれがおさまってくる。時計の、ふりこみたい。それに絡みついた、白いちっちゃなばらの実と、葉のかざりも、いっしょに、ちょっとずつゆれてた。まるくて、目の粗いかごは、タマゴの殻みたい。団長は、マユ、って言ってた。マユ。蛾のあかちゃんがねるところでしょう、って、ディディエが嬉しそうに言った。リュリューがいってた、って、ぼくのほっぺをつついた。ぼくははずかしくって下をむいてしまった。でも、団長はぼくとディディエの、両方の頭をなでてくれた。その、マユタマゴには、うすい、みどりいろの布がはられてて、わたがいっぱい詰まってて、とっても、やわらかい……。

 ぼくもディディエも、その、ゆりかごで、寝てる。ブランコがいいってだだをこねたディディエのために、メルが、用意してくれた。みどりのベッド。

「飯の時間だ。救世主のご生誕日だってのに、例によって上等なもんじゃねえが、食うかい?」

 メルは、真っ白い歯を見せて笑った。

 メルは、赤い髪の男の人で、膝からしたがすごく長い。長くて、すごく曲がってる。馬の脚みたいに。畸形なんだ。ぼくらとおんなじように。でも彼は、あえてその脚を目立たせるような膝丈の派手なズボンをはいて、燃え立つようなけしの花の色をしたベストを着て、あざやかないろのジャケットを羽織る。そうして、舞台のひかりのなかへ、胸をはって歩いていく。

 そういうときのメルは、とても、格好がいい。

「おはよう、メル」

 ディディエが目を覚まして、左手で目をこすりながらちょっと動いた。ぼくもつられてちょっと左に動いた。ディディエはメルのほうを見たそうにしてたから、ちょっと体をずらしてあげた。

「今日のごはんはなに?」

「目ざめるなり飯の話かよ。まあ俺もそれで起こしに来たんだけどな」

 メルは苦笑して、朝なのにもう舞台用の白い手袋をはめている指をたてた。

「蜜いりの黒パンとチーズ、杏のプディング、ミルク。それとサラド。残すなよ」

 杏のプディングのところでかがやいたディディエの目がしゅんとくもる。「露骨だなあ、おい」またメルは笑った。メルはぼくたちが何を言っても、たいてい笑う。杖を一回床に打ち鳴らすと、ディディエの頭をくりくりと撫でた。それから、ぼくの。

「ここいらはルケッタがよく生えてる。苦くってお前らにはきついだろうが、摘んできてくれたミハに感謝して、残さずいただきな」若葉の季節なら、まだ食えた葉っぱが採れたんだけどな、とメルは顎に指をあててつぶやいた。ルケッタってなんだろう。ハーブの仲間かな。薬草。団長がときどきつくる、へんなにおいのする、お茶……。ぼくたちの二倍くらい背の高い団長のてのひらはすごく大きくて、カップなんかすっぽりおさまっちゃうけど、その手が淹れてくれるお茶も、ごはんも、みんな、ときどき変わった味がするけど、おいしい。

「苦いの?」とディディエがざんねんそうにきいた。メルはにやにや笑いながら「そうとも」とうなずいた。ディディエは世にも悲しそうな顔をした。きっとぼくもおんなじ顔をした。

「もし残さず食べられたら、ごほうびに、街の砂糖菓子をちょっとだけやろう。いいか、ちょっとだけだぞ。俺も食べるんだからな」メルはこっそりと言って、ひひ、と笑った。「おさとう!」叫んだディディエに、「客からの差し入れだ」と種を明かす。「俺が買ってきたんじゃねえからな。量がすくねえんだ」

 ときどき、メルはこうやって、あまいものをぼくたちにくれる。団長は怒るけど、メルは、「鞭だけじゃ子供は手懐けられねえよ」と笑う。ちなみにぼくたちは手懐けられてるつもりはない。ないと思う。

「ちっとばかしミハにもやったからな。スラーヴァとヴァッツァのためにも、ひとりひとつ、だからな」

 ぼくたちの顔を指さして、ひとつ、と指を一本たてる。ぼくたちはうなずいた。メルだけじゃなく、このサーカス・ベツレヘムのみんなは、ぼくたちをふたりとして見てくれるから、うれしい。

 ぼくとディディエは、首から下がひとつになってる、シャム双生児だ。手足は二本、胴体はひとつ、頭はふたつ。どこへいくにも、なにをするにもいっしょ。ぼくが右、ディディエが左。

「ほら、そろそろベッドからでろよ、二人とも。日もすっかりのぼった。ミハもスラーヴァもとっくに起きたぞ」

 そうきいて、ディディエが起き上がろうとしたから、いっしょに手をつこうとしたけど、ちょっと手間取った。

 杖を一回ついて立ち上がると、急にメルが遠くなった。たたんでいた膝から下がとても長いから……みえにくくなった顔を、ぼくはそっと見上げた。とおい。窓から差し込む朝のひかりで、その表情はよくわからなかった。ふとメルがきびすを返して、扉のほうへむかっていった。背中がとおざかる。不安になって、急いで起き上がろうとしたけど、うまくいかなくてゆりかごが軋んだ。ディディエがバランスを崩して、もう一度ふたりでみどりいろの中に倒れこむ。ふわふわした綿がちょっとだけ、散った。

 メルは苦笑交じりにもう一度身をかがめて、「どうしたよ、お前ら」と帽子を直しながらぼくたちの顔を覗き込んだ。焦るなって、どこへも行きゃあしないから、と、ぼくたちが今度はちゃんと身を起こせるまで、そばにいてくれるように、片膝をついた。

 いつもより少しだけ時間がかかって、やっと起き上がると、メルはぼくたちの頭を両手で撫でると、力強く微笑んだ。

「しゃんとしな、ディディエ、リュリュー。今日も俺たちは仲間で、今日も俺たちは家族だ。胸はっていこうぜ」

 そう。ぼくたちは仲間。夕方になれば舞台がはじまる。サーカス・ベツレヘム。ぼくたちのサーカス。今日もぼくたちは仲間で、今日もぼくたちは家族。今日もぼくたちはいっしょ。それがつよく生きていくための、ぼくたちのあい言葉なんだ。




――しし座

 杖を鳴らすと、鸚鵡のパウロが一声啼いた。それに呼応するように、カラフルな異国情緒たっぷりの(あくまで西欧の地においては、ということだが)鳥たちが一斉に羽ばたき、啼きだす。混声何部合唱? 讃美歌でも流行りの歌でもない、今日は特に鸚哥のヤコブと小夜啼鳥のトマスがうるさい。テンションあげすぎるなよ、と注意しておく。

 体調の悪そうな動物はいない。機嫌の悪そうなのも。白孔雀のヨハネが優雅にそこらへんを歩き回っているのをよけ、一番奥へ足をむける。

 ライオンのシモン。俺の演目のトリを飾る、真打だ。

 檻は白い木製で、その気になれば シモンだって壊して逃げられるはずだった。それをしないのは俺たちの信頼関係あってこそだ。俺は檻のすきまから手を入れ、手触りのいい奴のたてがみを撫でる。今日も頼むよ、相棒。シモンだって、ベツレヘムの住人なのだ。

 俺は、よっと気合を入れて檻の前から立ち上がる。また、餌やりの時間にな、と友人たちのいる一角に手を振り、杖を打ち鳴らして歩き出す。別に俺は爺じゃない。まあ、若くてもステッキを持つのは紳士の嗜み? ってやつだろうが(あいにくと俺は昨今のファッションには詳しくないのだ)、俺はこれがないとバランスが取りづらいのだ。

 竹馬男、なんて時には言われる両脚を見下ろす。丸く出っ張った膝の遥か下に、尖がった靴先が見える。大きく後ろに湾曲した脛はまったく見えない。畸形だ。馬のような脚。獅子座のメルなんて通り名をなのっておいて、滑稽なことだ、と、たてがみのような赤毛をかき上げる。

 どたばたと、隣の馬車から騒がしい音がきこえてくる。ディディエとリュリューの双子が、またぞろ騒いでいるのだろう。主に騒ぐのはディディエの方であって、リュリューは大人しいもんだが。頭がふたつあるだけで、随分とかしましくなる。

 一九二一年、十二月二十五日、サーカス・ベツレヘム、パリの冬公演、千秋楽。聖なる夜に、低俗なサーカスなんぞを見に来る酔狂な客は意外と多い。休日に浮かれる酔っ払いの労働者や、多少の悪趣味を粋だと思っている女連れの若者、あるいは好奇心旺盛な子供をもった家族連れ――客層は多種多様な群れだ。

 俺たちは彼らが期待しているような、賤しくて婀娜っぽい、香水をぶちまけて悪趣味な畸形を見せつけるような奇天烈なまねはしない。拍子抜け、料金の無駄、好きなだけ言えばいい。俺たちはサーカス・ベツレヘムだ。

 天使が飛び、歌い、祝福する。何を? ――人間を。

 団員も少なく資金もない、支えあってという言葉だけでは表現しきれない辛酸をなめても尚、俺たちはベツレヘムであり続けようとする。俺たちの最後のよりどころ。俺たちの故郷。

 神の存在が信じられなくなれば、人間に残されたのは芸術しかない。

 先ほど、昼の点呼の際に、買い出しに行く連中に、ミハがついていきたいと言い出したので、団長へ許可を取りに行こうと歩き出す。俺が歩くと硬質な音が響いて、それをきいた団員は振り返り、俺に挨拶をする。三拍子の靴音が自己紹介代わりの俺は、笑って奴らにチャオ! と言う。

 杖を二回鳴らして、先頭の馬車のなかへ向かって呼ばわる。返事がない。だーんちょ。もう一度、ふざけた調子で声を上げてみたが、無答。諦めつつも少しだけ中を覗くと、すっかりなかは空だ。コートもステッキもないから、どこかへ出かけているのだろうか。珍しい。

 ぶらり、と、緩い弧を描いて停車している馬車の列に沿って歩けば、何人かの作業中の団員とすれ違う。声を掛け合い、笑顔で手を振って、自分の馬車へ戻る。獣の匂い。ああ、ここが落ち着く。

 まっ白な尾をたっぷりと引きずり、白孔雀のヨハネが寄ってくる――なァに、妙なツラしちゃって。

 呆れ半分、心配三割、その他二割の眼差しでこちらを見やるヨハネの隣に、溜息をついて座り込んだ。こいつは気取り屋だが、その実面倒見がいい。着飾り屋の女みたいで鼻につく態度のことが多いが、何かちっぽけな悩みに悶えてるときは、こいつの隣で愚痴る。

 今から一九二一年前の今日、キリスト様はベツレヘムの厩でお生まれになったんだとよ。

 ヨハネは興味なさそうに尾羽を上下させる。また俺はため息をついた。聖夜とか祈りとか、お前らには関係ないもんなあ。頭を撫でようとしたら、毛が乱れると言わんばかりに避けられた。

 救世主ねえ。吐息まじりの声が馬車のなかで消える。俺はろくな教育を受けずに育った――たぶんそれは大方の団員と同じだ。団長は知らねえけど。たまに聖書を読んでるくらいだし、きっとそれなりに読み書きもできるんだろう。あの人は何を考えているのかよくわからない。灰色の静かな瞳には、いつだって美しくて悲しい慈愛だけが見え隠れする。もし神の隣人愛ってものがあるのなら、それはこのサーカス・ベツレヘムの中にしか残っていないんじゃないか。そう思うくらいの世間を俺たちは経験してきたし、そのくらいの期間を一緒に過ごしてきた。俺たちの救世主はきっとこのサーカス・ベツレヘムにいて、そして俺たちはここ以外のどこへも行かない。俺たちが、サーカス・ベツレヘムだ。

 そうだそうだ、と同意しているのか、はたまた、何言ってんだ、と野次を飛ばしているのか、パウロとヤコブの半音ずれた二重奏に、トマスの二音高い旋律が混ぜこぜになる。何を考えているのかわからなくなってきた。他の動物たちも鳴き声を上げだし、俺をますます混乱させる。

 唸るような低音が腹に響き、振り返ると、稀少な宝石のような神秘な輝きと目があった。獅子のたてがみ、雄大な体のライン、俺の相棒のシモン。どうして獣の瞳はこうも美しいのだろう。

 あぐらをかいたときに余ってしまいうまく座れない自分の脚を見つめて、奇矯な湾曲に苦笑する。動物に似た脚を持っているのなら、俺の瞳もあんな風に美しければいいのに。

 動物たちの声が反響し、渦巻き、俺は嵐に飲み込まれそうになる――けれどそれは心地よい嵐だ。その濁流に身を委ね、瞳を開ければそこは舞台の上! 乙女座のミーシャが空を舞い、山羊座がそろって地に踊る。双子座はきっと裏方を縦横無尽に駆け回っている――獅子座の俺、メルは、獣を駆って、馬の脚で舞台へ歩み出るのだ。俺は観客に頭を下げ、動物は吠える――いや、俺が動物なのか? わからない。

 確実なのはただひとつ。今日は十二月二十五日で、俺たちはサーカス・ベツレヘム。ようこそ、今日は聖なる夜。俺たちのサーカスの始まりだ。





――やぎ座

 僕が目を覚ましたとき、朝靄はながれたあとだった。珍しく寝過ごしてしまったようだ。パリの東の空が淡いパープルに光っている。顔を洗って着替えなくては、と寝泊りする馬車からおりたところで、閉じたサーカス・テントのなかに、姿を消す人影を見た。ああ、ヴァッツァだ、と、一呼吸僕の体は止まる。明けはじめた空気がひとすじ頬にふれた。

 ヴァッツァ。

 彼は僕たちサーカス・ベツレヘムのたった一人のバレリーノだ。金の奴隷を踊り、薔薇の精を踊り、ペトリューシュカを踊る。東洋風の衣装を羽織って、まるで鳥のように舞台へ飛び出していく。その跳躍はまさに妖精のようで、バレエ・リュス――ロシア・バレエの流れを汲む、男性主体の演目を、ひとりで踊る。

 彼の着地は音がなく、そのつまさきが舞台に触れるか触れないか、その時にはすでに、次の跳躍の只中。

 青い鳥。上空への飛翔。

 僕の焦がれる翼だ。

 朝の空気を光ごと吸い込むと、ぶるりと体が震えた。早く、朝の報告をしに行かないと。

 木綿のシャツに黒い外套を羽織って、サーカス馬車の先頭の幌のなかへもぐり込むと、集まっていた何人もの視線が集まる。「おはよう、スラーヴァ」乙女座のミーシャ――ミハから声をかけられた。空中ぶらんこの乗り手たちは眠そうに目をこすっている。一番疲れる演目だからだと思う。肉体的にも、精神的にも。ひときわ年少のミハは、けれど空中ぶらんこの花形だ。足の甲には、何度もぶらんこの間を行き来してできた、バーでえぐれた傷が、消えない痕として残っている。

「我々のダンサーはまだ夢の中?」

 舞台では獅子座のメルと名乗る、猛獣使いのメルが冗談っぽく尋ねてくる。獅子のたてがみを模した帽子に、罌粟の花のような真っ赤なベスト。象牙のステッキをついた男の両脚は臑の骨が変形していて、まるで馬の脚のように湾曲している。訊かれている意味を察して、さっきのヴァッツァの姿を思い起こす。「練習は終わったみたいだけど」

 目を伏せながら答えると、メルは笑う。「そんならあと一時間もすれば、シャピトー*から出てくるな。俺も可愛い友人たちとリハーサルに入るとしよう」そう云って、彼の友人こと動物たちのいるテントの奥へ裾を翻して歩いていった。杖の音が遠ざかる。彼の動物たちは、この音を怖がらない。ほかの人の足音や物のぶつかる音には反応する。僕も体をほぐしておく必要があるから、簡単に団長に体調報告をすませると、馬車を出た。

 テントの入口から、布をまくり上げて中に入ると、高い天井の上のほうに、細い棒が二条のひもでふたつ、ぶら下がっている、円形の舞台とそれをとりまく簡素な客席が目に入る。舞台のうえには、誰もいなかった。さっきテントに入ったはずのヴァッツァはどこへ行ったのだろう。

 一度、寝所や更衣場所として定められている馬車へ戻ろうときびすをかえすと、テントの裏口のほうから、ひょっこりとふたつの頭のついたシルエットが覗いているのがみえた。なにか用があってきたのかと思い、歩み寄ると、ふたつの頭がこちらを見る。「スラーヴァ、ヴァッツァに衣装合わせにくるように言ってだって」マロニエの実に似た瞳に頷くと、ふたりは寄ってきた。「スラーヴァも新しい服になるんだよ」右側のディディエ――本人たちから見たら左側なんだけど――が、興味しんしんという様子で見つめる。ディディエに較べて少し内気な、左側のリュリューが「パーン、みたいだった」と小さく呟いた。「パーン?」ディディエが不思議そうに訊き返す。「うん。ほら……牧羊神の」ディディエは首を傾げる。栗色の髪が、リュリューの頬を撫ぜた。「なにそれ?」

「団長が読んでくれたじゃない。絵本……ギリシャ神話の、脚がヤギで、角が生えてる神さま」

 ディディエは思い出せないらしく、えー、と首を傾げていた。頬に髪がこすれて、リュリューがくすぐったそうに肩をよじった。パーンのような服。いったい、どんな服だろう。

 きっと、悪魔の脚をもつ動物*にふさわしい、滑稽な姿なのだろう。


 簡易的な幌馬車の楽屋は花で溢れかえっていた。薔薇がもっとも多かった。めくるめく色彩と芳香に、眩暈がする。開いたばかりの、濃いオレンジの花粉のついたままの紅色の百合が、目を射った。

 すべて、今公演の舞台で、ヴァッツァに捧げられたものだ。

 衣装合わせの件を伝えにきたのに、その花の香にあてられてくらりとした。目の前が花に覆われる――

 大きな姿見のまえの燭台に燈された蝋燭のろうが、ふっと溶けて落ちてくる。

「火を消してくれ」

 小さな声でヴァッツァが言った。そしてから囁くように付け加えた。「僕の魂が、垂れて流れていくようだ」

 言われたとおりに火を消した。

 ぼうっと、広く大きな鏡にうつるヴァッツァは、真っ青な紗を幾重にもかさねた衣装をまとっていた。引きずるほど長い袖のひだは、まるで渡り鳥のつばさだ。想像もつかないほど広い海をこえて、夏をつれてくる、孤独なうつくしい青い鳥。ヴァッツァは、真っ黒な髪をしたスラヴ系の青年――少年? なのに――なのに、今は、真っ青な羽根をまとった、幸福の鳥にしか見えない。

 唇を噛んで、俯いた。腕にかけた、白い簡素な布の衣が目に入る。僕は地を這う気味の悪い生き物にしかなれない。全身の関節を折りたたんで、客の好奇と蔑みの視線に晒されることくらいしかできない。……それで、僕は生きてるんだから!

 僕とヴァッツァは兄弟じゃない。僕は、泥のような黒褐色のひどい癖毛に、暗緑色の――濁った、冬の湿原のような――瞳を落ち着きなく、落ちくぼんだ眼窩の底で動かしてる、小柄で貧相な体つきの子供。ヴァッツァの、夜の運河のような真っ黒な巻き毛と、夜明けみたいに美しい黒い瞳をおもうたびに、顔を焼きつぶしてしまいたくなるし、彼の、ダンサーとして最も美しい完成された形の肢体が、宙に静止する一瞬、――僕は雷に打たれたように舞台袖で立ち竦むのだ。舞台の上をのたうち、耳に膝をつけ、足の間から顔をだし、醜く笑うコントーショニストの僕は。

 僕とヴァッツァは、四年前のロシアの西の隅の街で、サーカス・ベツレヘムに拾われた。巡業に来ていた彼らのテントに、拙い古風なフランス語で、果敢に自分を売り込んだヴァッツァの後ろで、僕はただ怯えていた。国土を巻き込む十月革命のさなか、僕たちは明日をもしれぬ命のなかで、この北の大地を出ようと思った。街の小さな劇場で、踊り子たちに混ざって客の下卑た野次をきく生活を捨てて、サーカス・ベツレヘムの住人になったのだ。

「ヴァッツァ。……」

 意識せずに、名前を呼んでしまった。慌てて口をふさぐが、言葉は戻らない。ゆっくりとヴァッツァが振り返った。黒く長い睫毛に縁どられた瞳が、緩慢に潤んで僕を見た。重そうに瞼を瞬かせた彼は、夢遊病患者のような声で「……スラーヴァ」と囁いた。

 踊っていないときのヴァッツァはいつでも夢の底にいるみたいだ。深い思索のふちに沈んでいる哲学者のようにも思えるし、夢をみる子供のようにも見える。つまりは彼は芸術家なのだ。


 夜空に星が瞬いていた。サーカス・テントの内側とはちがう、暗くて深い、底のない夜。東方の三人の賢者を導く星はどれだったのだろうか。厩のないパリの街にメシアはいない。故郷の十字が恋しかった。本来のキリスト教とは異なる、三本目の板がはられた八端十字……。サーカス・ベツレヘムに入って四年になるのに、未だに自分が異物であるような気がするのだ。厳寒の地に、僕だけが取り残されているような――いびつに笑ってどうにかこうにかそれを隠し通しているような。

 僕たちも含め、団員を家族のように扱う団長には、悪いと思っている。……けれど僕の濁った眼の奥の疑心は、彼の灰色の瞳に見透かされ、それは団長を悲しませる。強く目を閉じ、体ほぐしに集中しようと努めた。本番はすぐだ。

 柔軟体操を舞台裏の片隅で行う。衣装や小道具大道具がひしめき合う狭い空間で、一メートル四方の空間があれば僕の準備は十全だ。足を項の後ろで組む。壁に沿って羅針盤のように足を開き、回す。一辺が六十センチほどしかない箱を想像し、その中に全身を折りたたんで入れる。

 既に明るい舞台の方ではかすかなざわめきが聴こえる。もう少ししたら、団長があの光の中に歩み出て挨拶をして、そうしたら舞台がはじまる。サーカス・ベツレヘムの舞台が。

 隅から動くと、姿見に陰惨極まりない僕の姿が映る。羊飼いを思わせる白い貫頭衣と麻紐に、斑の、山羊に似た毛の房飾りのついた布を手足に巻きつける。もつれた髪には、ねじれた化石みたいな角。……牧羊神になりきれない、半獣の化け物。

 それと較べて、僕の何歩も先を、光のなかへ歩いていく彼の、昂然たる様子はどうだろう。

 青い鳥。

バレリーノのヴァッツァ、黒い天使、美しいつばさ、黒、完璧な肢体、揺るがないのが羨ましくて、僕は目を伏せる。

不意にヴァッツァが振り返り、身が竦んで立ち止まってしまった。黒い瞳が糾弾する色をもって僕を射る。ダンサーの瞳。

 苛立たしげに彼の足裏が床に打ちつけられた。

「どうして下を向く」

 震える唇の手前で言葉は泡みたいに消える。僕は、醜い人だから。

 石鹸のような肌ともつれた濁流のような髪が嫌だから、奇怪な見世物を繰り返していびつに骨の浮いた体が恥ずかしいからだと言いたかった。いや、そうじゃない。僕が、僕が本当に嫌なのは、

 ぐいっと、ヴァッツァは、自分のつけていた蔓のかんむりを僕の頭に載せた。

 額に、蔦の葉があたる。編まれた堅い蔓が肌を引っ掻き、髪に絡まった。思わず悲鳴をあげる。「痛いよ、ヴァッツァ」半ば押し込むような、乱暴にすら思える仕草だった。

「顔を上げろ」

 美しいギロチンが、僕の怯懦を断ち切った。黒い瞳が僕を射抜く。鼻先が触れ合いそうなほど近くで、ヴァッツァが呼吸し、語る。黒い瞳に宿った光が強かった。

「舞台にあって、人でいようとするな。お前の身体は美しい。……少年の繊やかさを失ってもいないし、ぶしつけな筋肉がついてもいない。……少年巡礼のようだ」

 舞踏のための逞しい身体よりも? 躍動する筋肉の美々しさ雄々しさよりも、彼が見つめるもの。

「顔を上げろ。前を向け。舞台へあがれ。お前の、お前自身の、舞台へ」

 ヴァッツァのこれほど強く、切なる瞳は初めて見た――僕が、彼のバレエを見るたびに向けていたであろう視線のような。

きっと僕は恵みと施しが降ってきた驚きのまなざしをしているだろう。髪に絡まる蔦が、天の庭のものである気すらしていた。僕が今、僕の焦がれる天使から受け取ったものは?

 澄んだ鐘の音がした。呼び声が聞こえる。出番だ。

「跳べ」

 ヴァッツァの黒い瞳が、まっすぐに僕を見た。

 僕は頷く。

 つま先で一度地を蹴り、獣のように背をしならせ、舞台へ躍り出る。目を射る光と、耳を聾する声。

 僕は跳ぶ。粗末な舞台の上が、牧羊神の庭になるように。嵐のただ中を裂く。天には星が満ちている。サーカス・テントの内側の空に。ベツレヘムの空に。

 僕たちは星だ。天を飛ぶものも、地を駆けるものも、誰もかれも、みな、僕たちは、ベツレヘムの星なのだ。






シャピトー* フランス語でサーカス・テント。

悪魔の脚を持つ動物* 悪魔は山羊の脚と角を持っているという。

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